「姐さん、元気―?」
 夕方、店が開く前に葵は橘がいると聞いた部屋に顔を出した。
「葵」
 ベッドに座っていた彼女は葵の来訪を笑顔で迎えてくれた。その手には、茶色い塊がある。もぞもぞと手の中で動くそれに彼女は愛おしげに視線をやり、その毛並みを指先で撫でていた。
「面倒見てくれてありがと」
 葵はあのハムスターを彼女に預けていた。思惑通り、その小動物にいくらか心が癒されているらしく、彼女の表情は徐々に柔らかくなっている。
「いいのよ、葵は色々忙しいでしょ」
 彼女はどこまで知っているのか、葵があちこち歩き回っていることは知っている。そこでまたこのハムスターをなくしてしまったら、翔にあわせる顔がない。多分彼は許してくれるだろうけれど。
 一応餌の向日葵の種だけは葵が彼女に差し入れていた。
「で、さ……姐さん?」
「なぁに?」
「明日……ちょこっと時間あったりしないかな?」
「明日?どうして」
 顔を上げた彼女に、葵は口を再び開いた。
「カケルに、会って欲しいんだけど……」
 返事は無言だった。
 彼女は再び手の中で動くハムスターに目を落とし、逡巡し、そして。
「別に、良いけど」
 静かな答えに葵はほっとしていた。
「良かった。なら、その時で良いからそいつカケルに返してくれないかな?」
「え……この子、あの子のなの?」
 初めて聞かされたことに橘は驚いて手の中の毛玉と葵を交互に見る。それに葵は頷いた。
「言ってなかったっけ?俺がカケルから預かってたものだったんだ」
「そう、なの……」
 言われてみれば、この茶色は彼の髪の色に似ているような気がする、と的外れな事を思ってしまい、橘は小さく笑う。
「明日が、最後になるかもしれないし……」
「姐さん?」
 聞き取れなかった葵は怪訝な顔をしたが、それに誤魔化すように微笑み、橘は小さく息を吸った。
 小さな唇から流れ始めたのは、静かな調子の歌だった。葵はあまり聞き覚えの無いメロディだったが、初めて聴いたにしては妙に心が落ち着き、耳に優しい歌だ。言語はこの国のものではないが、それが余計に気分を落ち着つかせる。
 彼女のように歌える女性はこのヨシワラには多い。元々、戦争で疲れた人間を癒すために自分達はいる。歌もその手段の一つだった。凱歌や軍歌も歌えるが、子守唄やわらべ歌、哀歌などを望まれる事が多い。
 ゆったりと流れる歌に葵も身を任せ、歌い続ける彼女を見つめた。
「……余力あったら、カケルにも歌ってあげて」
 肯定なのか、彼女はしばらく小さく歌い続けていた。
 


 さっさと着替えて寮に帰ろう。
 夕日が沈みかけていた空を見上げ、翔は肩を落とした。
「今日も、収穫はなし、か……」
 この間ツナギをしたが、今日は彼らから連絡はなかった。ここまで静かだとなんだか反対に不安になる。これから、何かとんでもない事が起こりそうで。
 けれど、川辺の情報を高遠から貰えたのは幸運だった。薬関係に彼は関係ない。しかし、他の理由で彼は生徒会から追われているらしい。それは、一体どんな……。
「翔」
 その時、女性の落ち着いた声が背から聞こえ、思わず振り返っていた。
「……え」
 しかし、そこには誰もいない。白い壁が紅く染まった人気の無い校舎がそこにあるだけだ。幻聴かとも思うが、再び自分を呼ぶ声が聞こえた。今度は校舎の中から。
「翔」
 間違いない、この声は。
「姉さん……?」
「翔、こっち」
 いや、姉であるはずがないのだ。姉ではないとしたら、彼女しかいない。
「……橘さん、か……?」
 怪訝な目で薄暗い校舎の中を探ってみるが、彼女らしき姿はどこにもない。それでも、声は聞こえてくる。自分を、導いている。
「翔、こっちよ」
 薄暗い建物の中を反響するその声に、翔は警戒しつつも足を踏み出した。
 罠かも知れない。この間彼らは姉の幻影を見せてきた。どうやら、相手には自分の弱点を知られているらしい。
「翔、こっち」
 その声は校舎の奥のほうへと翔を誘い、どこかへと連れて行こうとしていた。早足でその声に誘われるがままに階段を登り、廊下を歩いた。聞こえるのは、自分の足音と彼女の声だけ。
 そして、誘われるがままに曲がり角を曲がり、後悔した。突然腕を引かれ、背を壁に叩きつけられる。
「な……!」
「よぉ、こんな時間に一人でうろうろしてたら危険だぞ?」
 ……今日は厄日か。
 翔は目の前の状況に頭痛を感じずにはいられなかった。高遠と別れ、今日はもう帰ろうと思っていた矢先だったのに。
「なにか?」
 冷たく二人を見上げれば、彼らは一瞬目を細めたが、すぐに気味の悪い笑みを浮かべた。
「寮まで送ってやろうって言ってるんだよ」
「そーそ。俺達親切だからさ」
 何で女装をしているとこう、男に絡まれてしまうのだろう。やはり川辺の相手となると他人の興味も引いてしまうのだろうか。
 そして、今日は相手が悪い。クラスメイトの榎木と明石が翔を壁に追い詰めていたのだ。
 榎木と明石といえば、記憶に新しい調理実習のときに酷い目にあわされた相手だ。それに、クラス中に言い触らされ、自分が女装をして、しかも川辺と付き合っていたなんてことを知られるのは単純に嫌だ。
「あの、困ります……」
 心なしか顔を見られないように俯きながら訴えたが、まったく意味がない。いっそ殴り倒してやろうかとも思うが、それで何か気付かれても困る。
 あの声も気付けば聞こえなくなっていて、突然の邪魔に心の中で舌打ちするしかなかった。
 単純に逃げるしかないかと壁伝いに歩いていたら、その壁に終わりが来て、自分を捕らえていた腕に逃げる隙間が出来た。それに相手に気付かれるより早くそこに体を滑り込ませ、逃げた。
「あ、おい待て!」
「いって!!」
 しかし相手も反射的に目の前を流れた黒髪を掴んだ。頭皮に走った痛みに翔は思わず立ち止まってしまう。カツラは簡単に外れないようにしっかりとピンで留められていたのだ。
「さ、最低だ……!」
 翔が立ち止まったのにしたり顔で寄って来た二人を強く睨みつけるしかない。女性の髪を掴んだ上に引っ張るなんてどういう神経構造になっているのだろう、最低としか言いようがない。
「逃げるお前が悪い」
 いや、普通逃げるだろう、誰だってこんな状況になったら。
 髪を掴んだ明石が気味の悪い笑みで近寄ってきたのに、思わず物怖じせず睨みつけると、そこで二人が歩みを止める。
 その行動に翔は怪訝な目を向ける、と。
「やっぱりホラ、似てんぞ」
「うわ、本当だ……確かに日向に似てる」
 げ。
 彼らの言葉に思わず背を固めてしまってもしょうがないだろう。別に馬鹿だと思っていたわけでもないが、聡いと思っていたわけでもない。まさか、そう思われていたとは。
「だ、誰……その人」
 まさか気付かれてはいないだろうな、と探りを入れつつ問うと、彼らは舌打ちをする。
「俺らそいつの事すっげー嫌いなわけ」
「だから、アンタに何したいか解かるだろ?」
 ……あまり解かりたくないが、恐らく八つ当たりの相手になれ……ということだろう。
 いや、本人なんですけど。
 なんて、言える訳も無く。
「男相手だとやれねーけど、女だったらやれるしな。まぁ、橘相手に鬱憤晴らししてもいいんだけど」
「流石に鬱憤晴らしの為に大金使うのは嫌だしな」
 橘。
 その名に思わず肩を揺らしてしまう。それをどう捉えたのか、二人の視線が好奇に染まり、背筋に悪寒が走った。
 自分の所為で彼女を酷い目に合わせることだけは耐えられない。
「あの人に近寄るな」
 先程まで怯えるだけだった少女が突然凛とした声を上げたのだから、何も知らない二人の笑い声が止まってもしょうがない。
 相変わらず校舎の中は人気がなく、誰かが来る様子はない。目の前には自分より体格のいい男が二人。それでも物怖じする事無く少女は背筋を伸ばす。
 彼女を守る為なら、どんな相手の前でも立ちはだかってみせる。
 鋭く二人を睨み付けると、その意志の強い目に何の志を持たない少年はたじろいだ。すでに気迫負けしているというのに、それでも引かせないのは彼らのプライドだろう。
「何だ、お前。その目」
 苛立ちに口元を引き攣らせた明石は少女の首元を掴み上げたが、それにも屈せず彼女はただ目の前の相手を真直ぐに射抜き、その眼は相手の威嚇の奥に隠された怯えを見抜いた。
「……何、お前怖いの?」
 あえてそれを口にし、相手の目が大きく見開かれた瞬間に首元を掴んでいた手を捻り上げた。油断していた腕はあっさりと外れ、彼が悲鳴を上げるより早く駆け出す。先程まで夕焼け色になっていた廊下はすでに薄暗くなっていた。
「てめ……!待て!」
「橘に手ぇ出してもいいっつーんだな!」
 階段を駆け下りようとしたその時、榎木の張り上げた声に翔は足を止める。どうして彼が自分に対してその名を叫んできたかは解からないが、悔しげに振り向けば彼らは少し驚いたような顔を見せ、そして嗤った。
「橘の名前を出せばこっちが有利って話はマジだったのか」
 その呟きに翔は目を細める。
「……何だ、それ。どういう……」
「ちょっとしたツテで、俺達がやらせて欲しいっつえば、橘相手に一晩過ごせるんだよ。勿論、殴ろうが蹴ろうがこっちの勝手だ」
 相手は少女がどんな言葉に過剰に反応するか察したらしい。わざとそんな乱暴な単語を選び口にすれば、少女はハッとした様に顔を上げ、眉を寄せる。
 主導権は彼らに移った。
「でも、お前が相手してくれるっつーなら別に橘必要ねーんだよ」
「……最低だな」
 奥歯を噛み締め、どうにか小さな声で彼らを詰る。しかし、ここで彼らに屈服しても彼らが目的を果たそうとすれば自分が男だと気付かれる。いや、正体も気付かれるだろう。そこで彼らが橘の方が良いと……絶対に言い出すに違いない。いや、でも彼らが怒りをぶつけたいのが自分であれば、その自分を好きに殴らせれば何とかなるのだろうか。
 癪だが、自分の正体をばらしてしまった方が良い。
 そう覚悟を決めて顔を上げた時、丁度自分に向かって明石が手を伸ばしてきていたのが視界の端に入り、それを素っ気無く叩き落としてやろうと思ったが、鼻に僅かに触れた香りに、反射的に後退していた。
 ひ、と引き攣った声が喉から僅かに零れたが、それがその香りに対する恐怖の声だったのか、宙に浮く感覚に対しての声だったのか彼らには解からなかったが、翔自身は自分が何に最も恐怖を抱いているか良く解かっていた。
 バランスを崩しゆっくりと体が傾いていくのが解かるが、重力というものに身を任すしか術はない。だが、この感覚には覚えが有る。昔も、似たようなことがあった。あの時自分の目の前に立っていたのは、あの男だったが。
 夕刻で、すでに薄暗かったのが悪かった。あの薄暗い家の階段が脳裡に過ぎり、いつの間にか目の前の画面がそれとすり替わっていた。勿論、目の前にいたのは、クラスメイトではなく、あの男。
 それを知覚してから急激に息苦しくなったが、殺意に染まった頭はそれを隅へ追いやり、ただ目の前の相手に憎しみを込めて手を伸ばさせる。
 せめて、道連れに。
 けれど時はすでに遅く、自分の短い手は彼には届かなかった。それを知り、小さな子どもが絶望の表情になった時、あの男は嗤った。
 嘲笑ったのだ、自分を。
 それに翔が感じたのは、もう嫌悪でも憎悪でもなく、果ての無い恐怖だった。
 誰か助けて、と無意識のうちに心の中で叫んでも、次に翔を待ち構えていたのは激痛だった。その瞬間は今でも覚えている。
あれをまた感じるのか。
そう思うとまた恐怖を覚えたが、今度は助けを求める言葉は押し殺した。どうせ叫んだところで、誰かが助けに来てくれるわけもないのだから。いつもそうだった。これからも、そうだろう。
 嘆く気力も無く、諦めに身を任せようとした時、感じた衝撃に目を強く閉じる。だが、それは予感していたそれよりもずっと小さな衝撃だった。衝撃はあったが、全く痛みなど無い。
 まさかまだ宙に浮いているのかとも思うが、不快な浮遊感はない。まさか、自分はエスパーで危険事態に力が目覚め、空中浮遊が出来ましたとか、そんなオチも多分無い。
 そっと目を開けたが、暗くなった廊下では自分の状況がよく解からない。恐る恐る目蓋を上げれば、誰かの横顔と、それを少し隠した真直ぐな黒髪が見えた。
「お前ら、何、している……!」
 は、と荒い息を吐きながら彼は階段の上にいる明石たちを強く睨み上げている。誰だ、なんて考える程馬鹿ではない。良く知る人物なのだから。
 そして、明石たちにとってもよく知るかは知らないが、顔見知りの相手だ。
「お前には関係ないだろ、甲賀。その女、こっちに寄こせ」
 彼らは内心自分達がつき落としたようにも見える彼女が無事だったことに安堵していたが、その安心感が彼らに横柄な態度をとらせた。命令じみた言葉に克己は眉を寄せる。今、彼と克己の階級的な力関係は彼の方が上だった。それを彼もきっと知っていて言っているのだろう。
「橘のこと、良いのかよ」
 そして今度は翔を追い詰める一言を告げ、それに思わず身を揺らす。
 駄目だ、行かないと。
 身を起こそうとしたが、それを阻んだのは自分の体を支えてくれている克己の腕だった。強い力が入ったその手に止められ、驚いて彼の顔を見上げたが、克己は階段の上の敵を睨みつけている。
「あまり、いい気にならない方がいいと思うが」
 そしてその冷たい一言に階段の上の二人の表情が強張る。
「この間、お前らが頼りにしていた和泉が翔に負けたな。これ以上、クラスで肩身の狭い思いをしたくなければ、引け。橘にも手を出すな」
 そして二人の弱みを的確についた言葉を吐いた克己を二人は悔しげに見て、呟く。
「……話が違う」
 意味深な言葉を残し、二人は廊下を駆け出した。その足音が小さくなるまで、身動きが出来なかった。
「大丈夫か」
 そして、克己から声を掛けられようやく我に返る事が出来る。
「大丈夫……ありがと」
 助けられてしまった。
 その稀有な状況にただ茫然としてしまっていた。いや、克己にはいつも助けられているわけだが、自分にとって今日の状況はまた違う意味を持つ。
「翔?どこか痛むか」
 呆けている翔にそう聞いてくるが、何だか現実味が無い。もしかしたら、本当は階段から落ちて、打ち所が悪くてそのまま逝ったとか、そんな展開ではないのか。でもまさか、自分が死んで克己までついでに引っ張ってくるわけがない。あの時道連れにと手を伸ばしたのは、あの男で克己じゃない。
 一瞬殺意に染まった自分の手を茫然と見つめていれば、それが細かく震えているのが解かる。手だけではなく、全身が震えているということにはなかなか翔は気付けなかったが、克己は気付いていた。何となくその手に触れれば、夏も近いというのに氷のように冷たい。
「……怖かったのか」
 何で、そんな優しく言ってくるんだ。
 弱く折れそうになる心を相手の所為にしてしまいたくてそう内で呟いたが、多分、今自分が女の姿をしているから優しくされているのだと気付いて少し気が楽になる。克己から見れば今の自分は、男二人に乱暴されそうになるのを逃げ出そうとしていたか弱い女なのだろう。
 それならそう演じないと。
 無言で震えている手で彼のシャツを掴み、顔を彼の肩口に乗せるが拒否される事は無かった。
 何だコレ、泣いても許されそうな状況だな。
 思わず咽び泣いてしまいそうだったが、ギリギリのプライドがそれを堪えさせた。いくら女に変装しているとしても、友人の前で泣けるものか。
 しかし、確かに恐怖を感じていたのもあり、その反動で今の状況が嬉しすぎるのもあり、本当に泣く寸前だった。
「……助けてくれて、ありがとう」
 その証拠に、礼を口にした声は情けないほど震えていた。

「大丈夫か」
 あれからどれくらいの時間が経ったのだろう。あまり経っていないような気がするし、大分時間が経ったような気もする。
 声を掛けられ、ようやく震えがおさまった体に安堵の息を吐き、翔は身を起こした。校舎内はすっかり暗くなっていて、人の気配は全く無い。
 結局涙を流す事はなかったのだが、心なしか目尻が痛み、頭も何だか泣いた後のようにぼんやりとしていた。その所為でなかなか返事をすることが出来なかったのだが、ぼうっとしている翔の虚ろな表情に克己は何を思ったのか手を伸ばした。
「翔?大丈夫か?」
その手の冷たさにようやく我に返り、自分の今の状況に翔はぎょっとしてしまう。
「うわぁ!ご、ごめん……!大丈夫だ!じゃなくて、だ、大丈夫ですわよ!……ってアレ?」
 慌てて女言葉に語尾を直してから翔は瞬きをくり返した。聞き間違いであって欲しいが、今彼は自分の名前を口にしなかったか?
 恐る恐る克己を見上げると、彼は不思議そうに少し首を傾げ、そして
「どうした、翔」
 あっさりと名前を呼んでくれた。
「……だ、誰のことでしょうか……」
 自分でも往生際が悪いとは思うが、視線を逸らしながら誤魔化そうとしたが、克己は何を思ったか、まだ自分の胸元をしっかりと掴んでいた手をやんわりと外し、眉を上げる。その意味が解からず、翔が目を大きくしたその時。
「この手の傷、この間切ったやつだ」
 彼の言うとおり、きちんと絆創膏が張られているその指は、この間克己と料理をしながら話していた時に出来た傷だ。
 言い逃れはもう出来ない。
 そう自覚して、思わず視線を下げて自分の今の姿を見直してしまう。ニーソックスと短いスカートから覗く生足に、作った胸、長い髪。そんな格好で、友人の膝に鎮座している自分。
「……ぅわぁぁぁぁ!!」
 突然激しい羞恥心に駆られ、翔は悲鳴を上げながらどうにか足を隠そうとそこを両手で覆っていた。驚いたのは克己だ。突然校舎に響き渡るくらいの悲鳴を上げられたのだから。
「ちょ、おい……翔?」
「こっち見んな!」
 グキッと音がしそうなほどに強い力で無理矢理顔を横に向けさせられ、克己は首の筋が引き攣ったような痛みに低く呻いた。それに翔も我に返り、慌てて手を離す。
「わ、悪ィ!克己ごめん!」
「……取り合えず、落ち着け」
 何だかパニックに陥りそうだった友人の細い肩を叩いて、どうにか落ち着かせた。まださっきの事を引きずっているからこんな反応になるのだろう。
 両肩に手を置かれ、その重さに持ち上がっていた肩が下がり、それと同時に翔の気分も落ち着いていったらしい。は、と小さく息を吐いてから、翔は項垂れた。
「ごめん……」
「一体どうしたんだ……」
 まだ痛む首を擦る彼の動作には本当に申し訳ない気持ちになり、もう本当に穴があったら入りたい気分だ。
「……克己には、見られたくなかったんだよ。こんな、情けない格好」
 本格的に情けなさに泣きたくなってきたのだが、そんな翔の心情など知らずに克己は少し驚いたようだった。
「どうして」
「アホか!誰が友達に好き好んでこんな……いって!」
 身を乗り出した瞬間、足首に鋭い痛みが走った。その時悪寒が背筋に駆け上がったが、アキレス腱辺りのソックスが赤く滲んでいるのに、どうやら階段で擦ったらしいと知りほっとする。この程度の怪我ならいつもの事で済ませられるレベルだ。
「怪我したのか」
「これくらい大丈夫だ」
 その時、克己が翔の肩を抱き寄せ、何かと思えば背後に気配を感じた。誰かが来たのだろう。
 何となく、そこを振り返ってしまったのが悪かった。
 暗がりの中、そこに立っていたのは生徒ではなく大人。その立ち方、顔の角度、相手の顔をはっきりとは見せない陰影に、目を剥いた。
 これは、夢だ。そうだろう?
 克己とその彼が何やら会話をしているのがぼんやりと聞こえたが、重く鳴る心臓の鼓動に邪魔されてよく聞こえなかった。
 夢夢夢夢、これは夢だ。あの男は死んだ、もうこの世界にはいない。どこにもいない。
 ……何だか息苦しい。
「……翔?」
 通りがかった人物と会話を終わらせ……会話の内容は大したことないものだった。彼は、雨が降りそうだから早めに帰りなさい、とだけ言い去っていった。軍人ではない空気を持っていたので大して警戒せずに克己も見送った。彼ももう帰るところだったのだろう、その手には黒い傘が握られていた。
 その足音を聞いてから、翔に視線を落とせば寝入ってしまったのか意識がない。こんな短時間で?という疑問もあったが、取り合えず雨が降る前に帰るのが先決だとその体を抱え上げた。







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