いずるとはその後すぐに別れ、正紀は一人中庭の芝生に寝転がり、蒼い空に雲が流れていく様を眺めていた。今日の午前中は殆ど学科の授業だからサボっても大して支障がない。
 それに、今あまり知り合いに会いたくなかった。今知り合いに会っても、普段どおりに笑っていられる自信がない。
 生徒会に狙われているかもしれないという可能性を突きつけられ、何だか気が重かった。結局は彼らを殺したのは乱用者ではなく、生徒会だという事実にも。心のどこかで、生徒会はそうした乱用者を、見つけたら保護し治療してくれるところだと思っていたのだ。遠也の言うとおり軍が何かの実験をしていて、データを取り終えた後の隠蔽の為に彼らが処分されたとしたら、やり切れない。
 ……これから、どうする?
 急に目の前の道が無くなってしまったような気がした。本当に下手に動けば生徒会に目をつけられてしまう。魚住の言うように、すでに目を付けられているのかも知れないけれど。
 しかし、何故彼はそこまで今回の事件に詳しかったのだろう。それに、あの松長という生徒。自分を睨みつけてきたあの視線には覚えがあった。
 ここ数日、背に感じていたあの視線と似ている。
「アイツは、誰だ……?」
 彼の顔の特徴を思い出し、過去に出会った人間と照らし合わせてみたが、全く覚えの無い人間だった。赤いネクタイということは、二年生だが、あの感情を剥き出しにした鋭い眼と出会ったのは初めてのはずだ。
 眉間を寄せた、その時だ。
 ざざ、と木々が風に揺れたと思った瞬間、人工的な木々のざわめきがそれに混ざり、正紀はそれを素早く察知し反射的に飛び起きた。後ろで人の気配がし、それに無防備な背を向けてはいけないと、すぐに地面についていた片足のみで振り返り、目を見開く。
 おいおい、嘘だろ?
 思わず心の中で呟きたくなるほど、嫌な場面がそこにあった。今までぼんやりと考えていた相手がそこにいたのだ。手には、鋭く銀色に光る大きめのナイフを持って。
 不意打ちを狙ったが、避けられてしまった相手は悔しげに眉間を寄せたが、すぐに体勢を整え、正紀の懐に飛び込んできた。その速さは流石二年生というべきだろう。けれど、その刃を避けられる正紀も、流石元不良頭だった。
 攻撃を二度も避けられた松長は、相手がそれなりに出来ると察したようで、手に持っていたナイフを扱いやすいよう素早く逆手に持ち変える。その隙を狙い、正紀は口を開いた。
「何なんだ、お前!何で俺を狙う!」
「……お前が邪魔だからだ」
 松長は低い声で簡潔に答え、それだけでは詳しい理由を探れず正紀は舌打ちするしかない。ナイフ、と自分の腰元を探ったが、今日は授業が終わったら早々に鞄にしまったのを忘れていた。元々、重い物を腰にぶら下げるのは好きではない。腰にぶら下げるのはキーチェーンくらいで充分だ。
「それじゃ、理由になんねーっしょ、先輩」
 挑発するように笑み、密かに拳を握る。背筋を伸ばし、体を斜めにして踏み出しやすくするのは現役の時の癖だ。だが、漂う緊張感の意味は全く違う。あの頃はただの殴り合いだったが、今は殺し合いだ。肌に刺さる殺気に正直困惑する。厳密に言えば、これが初めての戦闘となるのだ。最初で最後とならなければ良いが。
 慣れない殺気に手の傷が鈍く痛んだような気がした。それが戦いたくないと訴えているようで、手の平に爪を立ててその痛みを誤魔化す。
 目の前の相手は本気だ。やらなければ、やられる。
 覚悟を決めた正紀の眼に、相手は苛立ちを覚えたようで頬をひく付かせて感情のままにナイフを横に振り、空気を切り裂いた。
「お前をこれ以上生かしていたら、犠牲者が出るかも知れないからだ……!」
「……は?」
 何のことだと叫んでやりたかったが、残念ながら反論するには心当たりが有りすぎた。
「どうして、知っている……」
 思わず唖然として聞き返したが、答えはすぐに見つかった。彼が生徒会、それに関連した委員会に在籍していれば自分のことなどすぐに知れる。
 もう、すでに目を付けられているかも知れないな、という魚住の声が脳裡に蘇り、愕然とした。その様子に松長は強く正紀を睨み付けた。忌々しいと言いたげに。
「自覚があるなら何故自ら命を絶たない。お前が狂えばすぐ隣りにいる矢吹いずるが真っ先に犠牲になるんだぞ!」
 戦慄を覚えた。
 自分が、いずるを殺す?
 そんな事があるわけがない、あっていいはずがない。
「俺は、殺さない!」
 その悲鳴のような叫びが、自分でも懇願の色を含んでいると気付き、悔しさに奥歯を噛み締める。
 しかし、松長はその手のナイフで正紀の言葉と空気を切り裂いた。
「理性はそう思っていても、薬でやられた頭じゃ正常な判断は出来ない!俺はそういう人間を沢山見てきた!」
 保健委員である彼は、もしかしたら例の薬で狂った相手をその手にかけてきたのかもしれない。あまりにも真実味がある言葉だった。
「殺さない、俺は……佐木だって協力してくれてる!そんなことにはならない!」
 必死に首を横に振って否定する。そうだ、自分には佐木遠也という協力者もいるのだ。彼がいれば大丈夫、きっといつかこの地獄から救われる。そう思ったら少し希望が見えた気がした。
 しかし、松長は佐木という名に眉を上げた。
「佐木?佐木遠也のことか?別にお前のために動いているわけじゃないだろう」
「……何だって?」
「あの佐木遠也の科学科の知り合いというのは、その薬を作った張本人だ。アイツらはここを実験場か何かと勘違いしているからな……貴重な検体を失うような馬鹿な真似、奴らはしない」
 乾いた笑いを漏らした後、再び強く睨みつけてきた松長の顔を思わず凝視してしまう。彼の眼は、任務遂行のために真直ぐだった。その眼に貫かれ、正紀は不意に自分の足元がぐらついたような気がした。
「科学科の検体というなら余計見過ごせない。お前の存在は条約違反だ。ここで討ち取り、詰問の対象にする」
 心臓が重く鳴るのがわかる。あの佐木遠也が自分をだましているとでも言うのだろうか、彼は。
 自分は、科学科の実験体になっていたのだろうか。また、あの薬以上の効果を持つ薬品を作るためのデータ集めの為に。
 そんな。
 一気に体の力が抜けていく。自分は彼らをどうにかしようと躍起になっていたはずなのに、反対に利用されていたのか。あの佐木遠也もその一因を担っていたと?
 そんな事って。
 スッと背筋に冷たいものが流れたのが分かる。
「死ね」
 冷たい声が聞こえ、ハッと顔を上げればすぐそこに松長の持つ刃が迫っていた。
 あ、死ぬ。
 そう思った瞬間、耳元で透明な鈴の音が聞こえた。
 その次に聞こえたのは、自分の体が壊れる音でも松長の嘲笑でもなく、飛び立つ鳥の羽音だった。
 視界を埋めたのは、自分より少し低い背の色素の薄い髪。それがふわりと風に揺れたのを見てようやく正紀は我に返る。
「何だ、お前……!」
 松長は突然の介入者に即座に間合いを取り、再びナイフを構え直す。そんな相手に、目の前の少年は静かに口を開いた。
「黙れ」
 この声には聞き覚えがあり、正紀は目を見張る。彼の後姿など今まであまり見たことがなかったので、すぐには気付けなかったのだが。
「……い、ずみ?」
 間違いない、彼はあまり良い印象を持っていなかったクラスメイトだ。彼はこちらを振り返ることなく、松長の方を向いている。
「悪いが俺もコイツに用がある。後にしてくれ」
 淡々とした和泉の言葉に、松長は驚いたようだったがすぐに眉間を寄せていた。それはそうだろう、先に対峙していたのは松長の方なのだ。それに思わぬ邪魔者が入り、松長の怒りは計り知れない。しかも、任務達成の寸前に横槍を入れられたのだから、彼は目の前の介入者を強く睨み付けた。
「ふざけるな!1年が……!俺の邪魔をす」
 りん。
 食って掛かろうとした松長の目の前に素早く差し出されたのは蒼と白銀で装飾された守り刀だった。その冑金に蒼い紐でぶら下げられたこれまた蒼い龍の鈴が細く鳴く。不思議な音色だった。よく聞く鈴の甲高く耳を刺すそれとは違い、細く高くけれど耳に心地いい音だ。
 それが鳴ると同時に松長は動きを止め、視線をその鈴に留める。まるで彼の中だけで時間が止まってしまったかのようだった。
「去れ」
 短く和泉がそう命令すると、彼は素直に踵を返し、言葉どおりどこかへと去って行く。あまりにもあっさりと、覚束ない足取りで。
 どうやら災難は去ったらしいが……。
「何で」
 思わず呟いてしまった正紀を和泉は振り返った。そして、何とも詰まらなさそうに口を開く。
「用があると言ったはずだ。用が無ければお前なんかに声をかけない」
 それは本当だったのか、と思わず和泉を見つめてしまう。単純に助けてくれたのかと少し感動したのだが、どうやらそれは見当違いだったようだ。
「そうじゃなければ、お前の死に様を見物していた」
「……随分と悪趣味で」
 ああ、腹立つ。
 その一言で感謝の気持ちが失墜し、ふい、と顔を背けた正紀から少し離れたところに和泉は腰を下した。それに、何か話があると彼が言っていたので、仕方無しに彼を振り返る。助けてもらった以上、話を聞かないわけにはいかない。
 和泉が自分に、一体どんな。
 今まで全く接点が無かった相手に怪訝な目を向けると、それに気付いたのか彼もこちらを振り返った。眼鏡の向こうの茶色い瞳を捉えたところで風が吹き、異質な匂いが正紀の鼻を掠める。和泉が風上に座っていることにその時ようやく気付いた。
 香の香りだ、しかも高級な部類の。少し高めの旅館の部屋の匂いに近い。
「日向がこの間、例の薬をバラ撒いている人間と接触したぞ。そしてその後、薬を手に入れるためのツナギをした」
 耳を通り抜ける和泉の不思議な声に正紀は顔を上げた。この間、というのはもしかして和泉が付いて行った時の事か。
「日向から目を離すな。次のツナギがいつ来るかは分からない。当人同士しか解からない方法で行われるだろうが、日向より早くそのツナギを見つければ、お前が目的の相手と対面出来るぞ」
 和泉の言葉を頭の中に急いで記憶していたおかげで口を挟む余裕は無かった。それを怪訝に思ったのか、和泉は目を上げ
「……随分と静かに聴くものだ」
 少し感心したように呟く和泉に正紀は口元を上げてみせる。だが、すぐにその口元を引き締めた。
「何で、俺がそれを調べてる事を知っているんだ?」
 何の関係もないと思っていた和泉の突然の介入には驚くしかない。だが、その問いに和泉は目を伏せる。
「……お前は、篠田鷹紀の息子だから」
「父さんを知っているのか?」
 その答えも驚きだった。まさか彼が自分の父を知っているなんて。
「勇猛な方だった」
 しかも、褒めるなんて。
「日向はお前たちにはこの事は言わないだろう。一人で突っ走ったところで目的は達成出来ない。無駄死にするだけだ。だからお前に言った。佐木にはお前から言え」
「……何か、変だ」
 思わず正紀はぽかんとした顔のまま呟いた。それに和泉は目を上げ、正紀はそれに促されるままに言葉を続けた。
「それ、何か、日向のこと心配してるように聞こえる」
 今度は和泉が目を大きくする番だった。
 しばし二人の間に沈黙が流れ、遠くから小鳥の囀りが響き、それにカラスの鳴き声が割り入ったところでようやく和泉が動いた。
「そんなんじゃない。俺の話はそれだけだ」
 刀を片手に立ち上がると、その柄先についている鈴が再び不思議な音色で鳴いた。耳に心地いい音色で、正紀の中の和泉のイメージとはかけ離れていたが、彼がそんなものを持っているという事には少し好奇心が湧いた。
「それ」
「……なんだ」
「その鈴、何かキレイな色してるな」
 一匹の龍が、丸い宝珠を見立てた鈴を守るように身をくねらせているその鈴の色は音と同じく不思議な色だった。角度によっては緑にも見え、薄い青にも見え、また、白く輝いているようにも見える。正紀が指差したものに和泉も手を伸ばし、意外なことに壊れ物に触れるような手付きでそれに触れていた。
 そっと細められた眼も、どこか優しい気がしたのは気のせいだろうか。
「……秘色」
「ん?」
「この色は、秘色という」
 りん、と鈴を鳴かせて和泉は答えてくれた。少し意外ではあった。まさか、彼が自分の言った事に答えてくれるなんて。
 しかし、正紀はそれだけでは言葉の漢字を想像出来ず、思わず首を傾げた。
「……ひそく?」
「秘密の色と書いて秘色だ」
「ああ!成程、お前の秘密の色な訳だ。はは、ポエマー……」
 自分の調子を取り戻すために笑ってみたは良いものの、無言の和泉の視線に堪えられなくなり、尻すぼみになっていく自分の声は何とも情けなかった。
「……秘色は青磁色ともいう。元は中国の秘色窯で焼かれたから、その色が神秘的だからという理由で付けられたとも言われている。それくらい知らないのか、この浅学者が」
「いや、普通知らねぇと思うけどな……」
 そんな色の名前自体知っている16歳が一体この世に何人いるのだろう。恐らくこの学校では和泉だけなのでは?と思い、自分の友人達の顔を思い浮かべたが、克己遠也いずる、と学識の幅が広い友人の顔が浮かんだ瞬間その考えを改めるしかなかった。
 いや、彼らが特殊なだけで、けして自分が無学なわけではないはず。
「無知は罪じゃねーんだぞ」
 悔し紛れにそう呟いてみせれば、和泉が鼻で笑う。
「だが、無知を理由に許しを請う人間は単なる馬鹿だ。自ら知ろうとしない人間もな」
 さらりと付け足された言葉には思わず顔を上げてしまった。彼が何を思ってそう言ったのかは解からないが、さくりと胸に突き刺さった。
「……知らないほうが幸せな場合だって、あるだろ。俺の父さんは余計な事を知った所為で殺されたぞ」
 思わずそう口走ってしまい、それに和泉が目を大きくしたのを目の当たりにしてから失敗したと思う。
「お前、そんな風に思っていたのか」
「……思っちゃいない。でも、もし……と考えなかったといえば嘘になる。俺だって、いつ殺されるか解からない身になっちまったんだ。知らない事で幸せになれるなら、それで良いと……馬鹿でも良いと、俺は思う」
 いずるの怯えた顔が忘れられない。何かを知られるのを彼はとても怖がっていた。だから自分が知らない事をあの親友が望むなら、それで良いと思う。
「……それはただの逃げだ」
「和泉は厳しいな」
「無知は罪にもなりうることを、覚えておいた方が良い。取り返しのつかないことになる前にな」
 取り返しのつかない事になら、もうとっくの昔になっているのかもしれない。もし、自分がいずるが恐れている事を知れたとしても、自分はどうやらそれを忘れるらしい。恐らくはあの薬の所為だ。
 いずるが覚悟を決め、それを告白し、自分がそれを受け入れてもこの頭は次の日にはそれを忘れている。そして、またそれを繰り返す。自分はあの親友に無限の苦しみを与えているのかも知れない、と今気付かされた。
「俺は、お前ほど強くはなれないんだ」
 項垂れ弱い声でそう呟いた正紀の茶色い頭を一瞥し、和泉はこの場から立ち去ろうとしたが、その時感じた新たな気配に足に力を入れた。
「和泉っ?」
「誰だ!」
 素早く石を二つ拾い上げ、続けざまに茂みに向かって投げつけた。一つはガサリと葉音を鳴らしただけだったが、もう一つはコンという軽い音と共に「うわ!」という軽い悲鳴が飛んでくる。どうやら人がいたらしい。そんなところに容赦なく石を投げつけるのは流石和泉というか。
 しかし茂みの中から顔を出した顔に、正紀は硬直する。
「いたたた……見つかったか……」
 苦笑しながら石が当たったらしい額を撫でるのは、川辺だった。少し悔しげに和泉を見上げたその目に、和泉は僅かに表情を引き攣らせる。が、それに気付かず正紀は慌てた。
「だ、大丈夫ですか、教官!すいません!ちょ、てか和泉お前も謝れ!上官だぞ!」
「気配だけで階級が区別出来るか阿呆」
 和泉の素っ気無い態度に川辺は苦笑し、慌てる正紀を手で制した。
「良い。潜んでいた俺も悪いんだ。なぁ?そうだろう、和泉」
 何やら意味あり気な視線を送られ、和泉は先日の事を思い出し、まだ塞がらない傷が痛んだような気がした。無意識にギリッと石を握りこんでいた拳に力を入れていたが、正紀がそれに気付く事はなかった。
「でも、どうしてこんなところに一人で」
 茂みに潜むなんて珍しい事をやっていた上官に問うと、彼は少し気まずそうに視線を逸らす。そんな彼の態度を和泉は鼻で笑った。
「誰かさんが心配だったんだろう。下らん。俺は帰る」
「おい、和泉……」
 止める間もなく、和泉の姿が一瞬にして消えてしまった事に正紀は茫然とする。まさに消えたのだ。まさか、そこに落とし穴があったとかそんなことではないだろうなと、地面を見たがそんなものはなかった。
「……怪我はないか」
 そんな時だった。川辺がぐしゃりと正紀の頭を撫で、和泉を追おうとするのを止めたのは。
 それに正紀は一瞬で大人しくなり、視線を芝生の上に留めたまま「ないです」と小声で答えた。それに相手が笑ったのが空気で分かる。
「気になるか」
 その自分の心情を見透かしたような一言にすぐ顔を上げた。その正直な反応に川辺は笑うが、大人の狡さを口にする。
「佐木のことだ」
 正紀が本当に聞きたがっていたこととは違う方向へと誘導すると、あからさまにがっかりしたような反応を見せ、それから眉を寄せた。
「そりゃあ……」
 彼が自分を利用しているかもしれないという可能性を思い出し、思わず眉間を寄せていた。
 彼には科学科に知り合いがいることは正紀も知っている。だが、まさかこの薬を作った張本人だとは思わなかった。いや、それが正しい情報だとは決まったわけではないのだが。
 けれどもし、彼が自分に何か薬を渡してくるような事があったら?その中身を本当に信用してもいいのだろうか。
「……そうだろうな」
 その川辺の言葉が、どことなく残念そうに聞こえるのは気のせいだろうか。
 いいや、そんなことより。
「貴方は何で俺を気に掛けてくれてる?」
 正確には自分といずるを、だ。
 こうして正面から向き合ってみても、やっぱり川辺の顔は知らない顔だ。声も違う。けれど、どこか懐かしい。
 縋るような正紀の目に川辺は一瞬困惑したように目を細める。どんな答えを求められているのかは、彼も気が付いていた。しかし
「……俺は君が欲しがっている答えはあげられない」
 それは、否定なのかただの拒否なのか。
 どちらにしても、もし彼の正体が自分の願うとおりだとすれば、残酷な返答だ。しかし
「貴方は俺が望む答えを御存知ですか」
 そう問えば、彼の表情が一瞬硬直した。何とも分かりやすい反応をしてくれる。その反応を根拠に正紀は更に口を開いた。
「貴方は、何を御存知ですか?」
「……駆け引き上手は誰に似たんだか……」
 全てを諦めたような彼の呟きは、暗に正紀の両親を知っていると言っていた。探偵だった父と、結婚詐欺師だった母。父はともかく、母が元結婚詐欺師だということを知る人間は少ない。彼が自分達のことをよく知る人間であることは間違いなかった。
「……誰だ?」
「それは秘密」
「素性を秘密にしないといけないってことは、俺が知っている人間ってことですか」
「……だから、どうしてここまで変に駆け引き上手になってしまったんだ、君は」
 即座に逃げ道を塞いでいく正紀に嘆くようにため息を吐いた。それに正紀は片眉を上げる。
「それは、俺が篠田鷹紀と篠田夏帆の息子だからですよ」
 自信満々に、そしてどこか誇らしげに、挑戦的な色を秘めた目で見上げられ、川辺はもう苦笑するしかなかった。
「それは何とも性質が悪いな」
 




「あ?」
 松長がハッとした時、何故か演習場を歩いていた。そこは銃器を取り扱う時に使用されることが多い演習場で、自分の目線の向こうには穴が開いた的が並べられていた。
 何故自分がこんなところを歩いているのかは思い出せないが、取り合えず今がこの演習場使用中でなくて本当に良かったと思うとぞっとする。的ではなくて自分の体が穴だらけになっていたに違いない。
 思わず両肩を掴んで震え上がったその時だ。
「こんなところで、何しているの……?」
「ギャーッ!!」
 突然背後から震えた声がし、思わず松長は絶叫していた。気配がなかったところから突然ホラー映画の背景から聞こえてきそうな少女の声が背を舐めたのだ。これで驚くなという方が無理だ。
「あ、な、何だ……磯良部さんか……お、驚かせないで下さいよ!」
 ぜはぜはと息を荒くし、跳ね上がる心臓を撫でる松長に磯良部詩野は眉間を寄せる。
「詩野も驚いちゃった……松長君が大きな声上げるから……」
 哀しげな表情になった詩野の両手には薙刀の柄を少し短くしたような武器が一本ずつ握られている。それが暗器であることを松長も知ってはいるが、知っているからこそ背に冷たいものが流れた。
「ねぇ、琳。貴方も驚いたでしょう……?」
 彼女の長い髪の中からぬっと顔を出し、細い肩に姿を現したのは、小さな黒猫だった。子猫と呼んでもいいくらいの大きさのそれが、もう何年もその大きさなのは松長も知っている。
「松長君、何、してたの?」
「え……?」
「さっき、誰かと喧嘩してたから……あの人、誰……?」
 段々と彼女の変わらない表情が恐ろしくなっていっているのはきっと気の所為では無い。誰、と問われるということは、保健委員が相手にする相手ではないと暗に注意されているという事だ。当然だ、実際のところ、篠田正紀は保健委員が始末をする対象に選ばれてはいない。
 気付かれた。
 そう察し、血の気が下がるのが分かる。
「虎様の悲しむような事は、詩野が許さないもの……」
 その小さな体に似合わない闘気を背に、彼女は自分の武器を持つ手に力を入れた。彼女は彼女の婚約者である一登瀬が保健委員長だから、副委員長に選ばれたわけではない。それなりの実力があるから、その役に選ばれているのだ。勿論、ただのヒラ委員でしかない松長が敵う相手ではない。
「ちょ、ま……!待ってください!!副委員長!!言います、言いますからーっ!!」
 




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