怖いんだ。目を閉じたら二度と光を見れない気がして。
 怖いんだ。目を閉じたら誰かに殺されてしまう気がして。
 誰か助けて誰か助けて、このままじゃ俺は。
 あの人は俺を助けてくれる?
 今落ち着くことが出来る場所は、あの人の、腕の、中……?

 もう何度も見直した文章を眼で追って、魚住はそのノートを閉じた。
 これが最後のページで、これ以上はもう何も書いていないノート。もうこれの持ち主はこの世に居ないのだと暗に示しているのが悲しかった。
 薄っぺらいノートに書かれた彼の深い恐怖を自分は一体どれほど理解出来ているのか解からないけれど。
 けれど、今は彼と自分はほぼ同じ状況に立たされている。そのうち理解出来るかも知れない。そんな予感に小さく微笑みながらノートの表紙をそっと撫でた。
「優史」
 伊原優史とは幼馴染で、従兄弟同士だった。家が近く、兄弟のように育った彼は、弓道も共にやっていて、従兄弟幼馴染、そして親友とも言える相手だった。
 今日、篠田正紀に「いずるは関係無い」と言われ釘を刺され、思わず大笑いをしたくなった。
 彼らと自分達の関係は似ている、と思っていた。だからこそ、弓道でライバルともいえる矢吹いずるとその幼馴染にちょっかいを出したのかも知れない。幼馴染を失った自分から見て、彼らの事が羨ましくなかったとは言い切れない。それに、篠田正紀の方は、あの薬を使っている。
 このまま行けば、自分達のようにあの二人の関係は壊れてしまうと思った。壊してしまいたかったのかは解からない。
 だけど、彼らと話すたびに、彼らが自分達とは違っていることに気付かされる。
 自分達の方が、従兄弟、幼馴染、そして親友、とカテゴリは多かったはずなのに。
 助けて、と言われたのに、自分は助けてやれなかった。
 でも、あの二人はどちらが助けて、と言えば共に命がけで相手を助けるのだろう。そんな予感が容易に出来ることが、羨ましくて、悔しくて。
「俺が、弱かったのかな。なぁ、優史」

 自分が強ければ、君を殺さずに済んだんだろうか。

 そう人知れず呟いて、魚住はそのノートを閉じた。



「かっけるー!」
「うわ、出たな……!」
 川辺のところに服を借りに行き、次は学科の授業なので女装でサボっていようかと考えながら歩いていた時、いきなり背中に飛びついてくる者がいた。心当たりがある相手だったからまだいいが、毎度毎度どうしてこう気配を感じさせずに飛びついてこれるのか不思議だ。一応自分だって武術の嗜みがあり、人の気配には敏感な方なはずなのに。
「葵……お前、今学校授業中だぞ?どっから入って来たんだよ」
「企業秘密。ねぇね、その紙袋なーに?」
 彼は背中から離れることなく、翔が持っていた紙袋の中を覗き込んだ。見るな、と咎めたところで彼は見るだろう。予想通り彼は断わりもなくその中に手を突っ込み、そして中の物に目を見開いた。
「女子制服じゃん!」
 そしてそれを取り出し、広げたその拍子に裾がひらりと揺れる。周りに人の気配もなかったので、彼の行動をとめる事無く翔も力なく笑った。
「借りもんだけどな」
「えー、もしかして、カケルってそういう趣味だったのか?」
「違ぇっつの」
 からかい混じりの彼の言葉を適当に否定すると、それは予想されていたのか、葵はすぐに口を開いた。
「じゃ、コウガの趣味?」
「ぶ……それお前本人の目の前で言ったら撃ち殺されるぞ」
 あのどう見ても女性には見えないルームメイトの仏頂面を思い出し、彼が女装趣味なんてあったらどうしようと本気で悩みそうになった。いや、無いだろうが。
 けれど、葵の言いたいことはそういう意味ではなかったらしい。彼は眉間を寄せ、腰に手を当てて顔を近づけてくる。
「そーじゃなくて、コレ、コウガにカケルが着せられてるのかって言ってんの」
 男子用の制服と同じモスグリーンの短いスカートをひらりと揺らして、葵はどこか不機嫌そうに眉を寄せた。けれど、翔の方は言われている意味が解からない。
「……なんで、俺が克己にそれ着せられないといけねぇんだ?」
 どう考えてもそんな状況に陥る過程が想像出来ず、首を傾げるしかないが、そんな翔に葵は更に続ける。
「だってアイツなんか変な性癖ありそうじゃん!」
「せいへきってお前」
 性を売るヨシワラで働いている葵が自信満々に言うという辺りが、何だか信憑性があって困るのだが。いや、克己に限ってそんなものあるわけがない。
「んなもんねぇよ。人の友達で変な想像すんな、返せ」
 葵の手にあるスカートを奪い取ろうと伸ばした手はあっさりと避けられてしまう。葵の意外と軽い身のこなしに驚くしかない。
「何で無いって言い切れるのさ。カケル、まさかコウガと……!」
 大袈裟に目を見開いてみせた葵に、再び翔は手を伸ばした。
「あほ!お前こそ変な想像してんな!大体、克己には彼女いるっつの!」
 しかしそれもひょいっと避けながら、葵は目を輝かせる。
「え!マジでマジで?それ、ちょっと詳しく聞きたいかも!コウガの情報って高く売れるんだよねー女の子に。後、シノダマサキとかヤブキイズルも良い値段になるから話聞かせてよ」
「人の友人ネタにして商売すんな!」
「まーま。それより、着てみてよ?」
 さっきまで翔に取られまいとひょいひょい避けていたのに、突然それを満面の笑みで目の前に差し出され、翔は思わず「はあ?」と声を上げていた。
 確かに、着るつもりだったから持っていたのだが、何で彼の前でわざわざ着ないといけないのだ。
「……嫌だ」
「えー?なんでなんで?見た感じカケルにぴったりなサイズだし。つか、これなんで持ってたの?」
 う。
 答えにくい問いに翔は押し黙り、いくつか言い訳を考えようとしてみたものの、この状況を納得してもらえるようなものは思いつけなかった。こういう時、遠也や克己ほどの学力が欲しいと切に思う。
「授業で……着る」
 理由は誤魔化したものの、自分が着用するという事実は誤魔化せず、渋々そういうと葵も納得したようだった。納得というか、勝ち誇った笑みを浮かべている。
「ほらほらぁ、カケルが着るんじゃん!着てみせてよー俺、見たいなぁ。あ、何ならカケルの欲しい情報と交換ってのも有りだよ!またコウガの情報なんかあげようか?」
 パッと見た感じでは、葵は藤色の着流し一枚しか着ていないように見えるのに、一体どこからそんなに情報が出てくるのか謎だ。恐らくはその頭の中に入っているのだろうが、メモも何も見ずに言う彼が真実を語っているのかたまに疑わしい。
 だから、というわけではないが、翔は首を横に振った。
「いや、いらない」
「何で?俺の情報は信憑性高いって評判だよ」
 葵は大袈裟に驚いて見せるが、彼の情報が真実か否かなど今はどうでもいいことだ。
「そうじゃない。そういうの、気になったことは本人に直接聞くからいいよ」
「でも、話してくれないことだってあるだろ?」
やんわりと断わったが、何故か葵は食い下がってきた。それに疑問を抱く事無く翔はもう一度首を横に振る。
「話したくないなら、尚更アイツの知らないところで知るわけにいかない。友達なんだよ。俺達は、普通にな」
 単純な好奇心はもう克己相手にはあまり湧かなかった。それは多分、聞けば答えて貰える、聞かれたら答えられる、そんな関係になりつつあるからかもしれない。まだまだ、知りたいと思うことはあるが、大して急ぐ必要も焦る必要もない。
 思えば、大分仲良くなったよなと、思わずにへらっと笑っていたが、それに葵は機嫌が悪くなっていた。
「……なんか、気にいんない」
 ぼそりと小さく呟いた、その瞬間
「それに、葵に聞きたいのは橘さんのことだし!」
 そう、翔にとっては今の最優先事項は橘だ。近くにいてすぐに話しかけられる友人より、あまり会えない彼女の近況の方が葵に聞きたい事だった。
「橘さんって、何か好きなモノとかあるのかな。てか、橘さん元気?何か酷い目とかあってたりしてないのか?」
「カケル……」
 葵の小さな嫉妬にも気付く事無く、翔はただ彼女の事を問う。今の彼の中に、あの気に喰わない彼の友人はいない。それは小気味いいが、自分もまた不在だろう。
「……明日、昼間だったら客もいないし、多分姐さんも時間あると思う」
 それでも、何となく嬉しいのは、翔が葵と同類の彼女を気にかけているからだろう。思わず葵は穏やかに微笑んでいた。
「明日、俺を訪ねておいで。そしたら、姐さんに会わせてあげる」
「本当か!?」
 思ったとおり、翔の表情は輝いたが、それを咎めるように葵は彼の両肩を掴んだ。その手の力の強さに、翔は息を呑む。
「……葵?」
 彼は笑みを消し、真剣な瞳で翔の目を覗き込んだ。
「二つ、約束して。一人では絶対に姐さんに会わない。それと、絶対に俺と一緒に会うこと」
 肩を掴む手に力が加わり、有無を言わせない空気に頷くしかない。
「あ、ああ……わかった」
「それだったら、お金もいらないし、ね?」
 再びにこりと葵は微笑み理由をつけてきたが、それ以外に何か理由があるように聞こえてしょうがない。もしかしたら、彼は何か知っているのではないかと翔はそれを口にしようとした、その時。
「んじゃ、報酬はカケルの女装写真ってことで!服は俺が用意するからな!」
「……へ?ちょ、お前!」
 話が別な方向にいきなり飛んだことに声を上げたが、葵は構いもせずに口角を上げる。
「フッフーン。楽しみだなー、どんなのにしようかな……ビラビラにしようか、それとも超ミニが良いかなー?」
「おい、葵!」
 だが、これはいつもの葵の手だと、何となく解かってきた。この奇妙なテンションで何度か場をはぐらかされている翔が厳しい声でそれを指摘すると、もうこの手は使えないかと、葵も観念したようで肩を竦めていた。そして
「ごめん」
「……葵?」
「俺、カケルには優しくしたいけど、これはカケルにも言えないことだから駄目なんだ。やっぱさ、俺達とカケル達の間には、塞ぎようの無い溝があるんだよ」
「そんなの、俺は」
 自分はそんな溝を作っていないと言いたげな翔に、葵は首をゆっくりと横に振る。
「人間は何も感じて無いかもしれない。でも、俺達は感じてる。俺達と人間の、格差に」
 人間も無意識のうちに溝を作っているはずだ。自分達は意識的にその溝を作り、憎しみと羨望をそこに黒く揺らめかせている。恐る恐るその間に橋をかけても、必ず人間側から壊されていき、その度溝は深まっていた。
「だから、俺はあまり勧められない。俺達は外面では人間に優しい事を言っても、それはそうしないといけないからしてるだけで、根底では皆人間を恨んでるし、憎んでる。だからカケル、橘姐は外見は君のお姉さんでも、中身は別人なんだ。橘姐は、君の頭を撫でてくれないよ。その事、忘れないで」
 そっと手に持っていたスカートを翔の手に渡しながら、どこか淋しげに葵は微笑む。葵のテンションはいまいち掴みにくい。けれど、普段のあのどこか茶化したような態度がたまに作り物なのだということは翔にも分かった。
 そして、彼らと自分達の間にある闇が、思っていた以上に濃いことも。
「……分かった」
 神妙に頷くと、葵はほっとしたように肩の力を抜く。
「それと、女装の約束も忘れないでね」
「……はいはい」
 それくらいはしょうがないかと翔ももう諦めていた。そう頷いた途端、葵の表情が輝いたのを見て、そんな顔で笑って貰えるのならその馬鹿らしい願いを叶えてやっても良いかという気分になる。
 そんな約束を交わして葵は翔と別れ、一人学内を歩いていた。本当ならあまりこの時間に学内には入って来ないのだ。ヨシワラの人間がいると変な男に絡まれたり、生徒会にも風紀が乱れると怒られるのだ。それでも今日歩いているのは、ちょっとした目的があった為。
「秀穂」
 人通りの無い中庭の木の上に、その目的を発見し、声をかけた。彼も自分にすぐに気付き、その木から飛び降りてくる。普通ならその衝撃で葉や枝が揺れる音がするのだが、そんな素人のような音は立てずに着地をする彼は凄いとたまに思う。
 和泉は呼んでもいないのに自分の前に姿を見せた葵に内心驚きつつも、素っ気無く「何だ」という言葉で迎えた。そんな態度に引っ掛かりを覚える事無く、葵は笑う。
「情報、あげようかと思って。タダで」
「タダ?」
 金にがめつい葵にしては珍しい、と和泉は単純に驚いたが、すぐに警戒心を抱いた。昔からよく言う、タダより高いものはないという言葉が脳裡をよぎる。そんな和泉に葵は苦笑した。
「ほんとにタダだからそんな警戒すんなよ」
「……で、なんだ」
 ちらりと腕時計を見ながら和泉は問う。少々時間が無かったからか、その急かす声はどこか早口だ。そんな和泉に、葵は今まで浮かべていた笑みを消した。
「今日の19時、テレビでもラジオでも、国営放送をつけてみるといい。久々に、蒼龍の声が聴けるよ」
「……何?」
 蒼龍がテレビに出ることはそう珍しいことではない。何か行事があればテレビに映るのだが、今日はそんな行事を行う日であったかと和泉は考え始めたが、
「お姫さんが顔を出すよ、蒼龍と一緒に」
 その意味がどれ程深いものか、恐らく知るものは王宮に身を置いている人間だけだ。
 蒼龍に子どもが出来た。それを知ったのはつい先日だった。だから、それを聞いて衝撃を受ける必要はどこにも無かったはずだ。はずなのだが……。
 硬直した和泉の心境を悟ったのか、葵は眉を下げる。
「子どもが出来たって噂は本当だったんだな」
「……俺もそれは、聞いていた。だが、まさか……」
 目に見えて困惑している和泉は忙しなく目線を動かしている。そんな彼が考えていたことなど容易に知れた。
「本当にそれが蒼龍の子どもだとは、思ってなかったんだ?」
 口には出さなかったが、どこかそう確信していた考えを言い当てられて和泉は視線を上げた。
 今まで、何度かあったのだ。何度か蒼龍の子どもを孕んだという側妃がいたが、どれも蒼龍の血は持たない子どもで、不義密通で追放されていった。正妃のいない彼の子ども、特に男子を孕めば、側妃から正妃へとなれる。そんな権力欲にまみれた報告だったのに、蒼龍はその都度嬉しげに笑い、落胆していた。
 けれど、今回正式に国民に対して側妃が顔を出すということは、彼の本当の子どもだと解かったということになる。そして恐らくは待望の男子。まだ妊娠のことは伏せておくにしても、これで蒼龍に決まった相手が出来たと国民に暗に示すことになる。彼女が、将来蒼龍の隣りに立つ人物であることも。今まで側妃が顔を出したことは一度も無かったのだから、今回のそれがどれほど重要な意味合いを持っているのか和泉にはすぐに解かった。
 だが、まだ納得出来ない何かがあるのは自分がそうであればいいと願っているからなのだろうか。
「……疑っては、いた」
 また一人姫が宮から追放される、それだけのことだと思っていた。だが、和泉は小さく息を吐き、口元を上げた。それをどう解釈したのか、目出度い報告であるはずなのに葵は眉を寄せた。
「久々の祝い事だからな。第二皇子の死からずっと自粛していたからか、婚儀は盛大に行うようだ」
「ああ……久々の祝い事が蒼龍様の婚儀とあれば、千草様もきっとお喜びだろう」
 数年前、第二皇子の千草が病気で他界してからずっと王室は祝い事を行う事を避けていた。だが、第一皇子の婚儀となれば盛大に行わないわけにはいかない。これでようやく、王室の追悼の暗い空気が払拭されるだろう。
「いいのか、秀穂」
 小さく笑う和泉に、葵はどこか責めるように問う。
「いいも悪いも……御子の誕生は俺にとっても朗報だ。あの方の血筋が次も王座につくんだからな」
 そう、今日の情報は狼司からこの間聞いたそれよりも朗報だった。昔から感情の起伏が見えにくいと言われたが、今もあまり嬉しげにしない和泉に葵は疑わしげな目を向けてくる。
 しょうがないだろう、そういう性分なのだから。
 一応朗報なのだから、嬉しい事は嬉しいのだ。ただ、表情に出さないだけで。そんな自分の態度が彼らに誤解を与えていることは自覚している。だからこそ、ため息が出た。
「それとも何か。お前は、俺が蒼龍様に浅ましい想いを抱いていて、他の女に触るな子どもを作るなと考えているとでも?」
 呆れたようなその口調に、何となく和泉に申し訳ない気分になり、葵は恐る恐る口を開く。
「……違う、のか?」
 瞬間、和泉が待ち構えていたように盛大なため息をついた。
「俺にとって、蒼龍様は神にも等しい存在だ。お前、神に恋が出来るか?」
 そう目を上げて問うと、葵の無様に空きっぱなしになっていた口が閉じる。
 一番自分と蒼龍の関係が解かりやすい説明だと、言っていて自分でも思ってしまう。蒼龍は確かに自分にとって神のような存在なのだ。尊敬、敬愛を寄せている唯一の相手で、恐らくどこかで自分にとっての聖域にしている。そんな相手を尊敬は出来るが、恋など出来るわけがない。
 明確な説明をされてしまい、一瞬葵は言葉を詰まらせるが、すぐにまた身を乗り出した。
「それは、そうだけど、でも良いのか?このままお前ここにいて蒼龍が結婚して子ども生まれて、忘れられるかもしれないぞ?お前こんなに尽くしたのに!」
 思わず口調を荒くしてしまったのは、それが葵も良く知る状況だった所為だ。自分達は人間のために必死に尽くしているが、彼らはそれを知ることも無く自分達の存在を忘れていく。忘れられて泣くのは自分達の方だった。うっかり人間を好きになってしまい、それを知らない人間に忘れられて泣いていた仲間を葵は陰から何度も見ていた。憤りも感じていた。
 そんな理由を知っているのか知らないのか、和泉は興奮する葵の様子を眺めてから、目を伏せる。
「俺は蒼龍様のために誰かを殺せるが、どうあがいてもあの方の為に命を創る事は出来ない」
 今蒼龍にとって必要なのは、彼の子どもを産める相手だった。子どもの存在は良い武器になる。彼の地位を確固たるものとするだろうし、それが精神的にも安定させる。そして、心の拠り所となる奥方も手に入る。その存在が彼の唯一になればいい。今まで、博愛を望まれた彼の周りにはそんな特別な存在はいなかったはずだ。
 対して、彼のために命を捨てよう、戦おうとする人間は多い。名目上であればこの軍もそうだ。国家や王室を守る為に存在すると、上層部は声高らかに言っているのだから。
「近くにいなくても護る事が出来る相手で、助かる」
 葵はそんな和泉の自嘲めいた笑いに眉を下げる。
「なんだよ、お前……人間の癖に。もっと人間らしく厚かましく生きろよ」
「……何だ、それは」
「お前らがそんなんだから、俺は人間を嫌いきれないんじゃねぇか」
 ぼすり、と軽く和泉の肩を小突いて葵はため息を吐いた。その軽い言い掛かりにため息を吐きたいのは和泉の方だったが。
「俺は行くぞ。授業がある」
 時計を見ればもう授業開始時間5分前だ。和泉の言葉に葵は目を上げ、驚いたように首を傾げる。
「あれ?次、学科じゃねぇの?」
 まともに出ているのかという彼の驚愕の視線に、和泉はバツの悪い顔になる。学科に真面目に出ているようなタイプだとは思われていなかったのだろう。まぁ、正解だが。
「英語だからな……」
 舌打ちしたい気持ちを堪え、更に不思議そうな顔になった葵と別れるしか出来ない。
 和泉のいなくなった中庭に一人立ち竦みながら、葵は高らかに授業の開始を告げるベルが鳴ったのを聞いた。今日は婚約発表におあつらえ向きの快晴だ。夜からは雨が降ると天気予報では言っていたが。
「……でも」
 そんな天を見上げ、葵は小さく口を開いた。
「神、ってのは全知全能の存在で、普通は人が神に守られたり助けられたりする立場なんだろ?」
 太陽に手を翳し、その強い光から目を守りつつもその光の源を眺める。この光と熱の塊も、太古神と呼ばれた存在だったと聞く。その存在が消えるなんて考えたこともないだろう。
 蒼龍もそうだ。
 何も知らず彼を崇拝する人間は、彼に救済を求め、彼を絶対の存在として認めている。彼が消えることなど、夢にも思っていないだろう。例え消えたとしても、彼の血筋があればそれが代替となり、神が失われることはない。国民性か、この国の人々はそういう神を受け入れることが出来る。
 だが、彼はそんな神を護ると言った。
 短い言葉だったが、それがどれほど矛盾したものか、気付いているのだろうか。
「……お前、蒼龍は神じゃないって、本当は知ってんだろ」
 木漏れ日の中に先程去った和泉の残像を追い、葵は目を細めた。


 流暢な英語が響く教室は静まり返っていて、生徒は半数しか着席していなかったが、いつもこのようなものだ。むしろ、全員揃ってやかましくされるより有り難い。
 生徒の顔はいつもほぼ同じで、前の授業がハードだったのか、舟をこいでいる生徒も何人かいた。そんな彼らを咎めることなく、御巫は朗読を続けた。
 けれど、今日は珍しい顔が一人いる。その顔がこっちを振り返ることは無かったが。
 詰まらなさそうに頬杖を突いて窓の外を見ている横顔を何度か盗み見て、御巫は教科書で隠れた口元を僅かに歪めた。まさか、こんなにあっさりと顔を出してくるとは思わなかった。それならもう少しきちんとした授業態度で臨んで欲しいところだが、まぁ、多くは望むまい。
 御巫もいつものように教科書を読み、適当に生徒を当てる。そして、適当なところで黒板消しを落としたりチョークを折ったり、躓いて見せたりと、気弱で頼りない教師を演じた。教室に忍び笑いが起こっても、和泉はこちらに視線をやることはなかった。
 そんな彼を物珍しい目で見ているのは自分だけではなかったらしい。後ろの方の席に座っている日向翔も、彼へ視線を向けていた。何か物思いに耽っているようなその視線の意味は解からないが、心には留めておく。
 そういえば、この間のツナギの時二人で来ていたからな。
 仲が良いのだろうか、あの二人は。それなら少し意外だった。
 ツナギの回収は主にこの学校内で自由に動ける自分たちに任されていた。この間は宇佐木があの和泉に術を返されたらしく使い物にならなかったので、自分が行ったがそれでよかったと思う。おかげで貴重な話を聞いた。和泉の過去は大分興味深いものだ。蒼龍を生かす薬を作る為に造られた、人間。恐らく彼はこの国の王室に恨みを抱いているに違いない。
 それを、上手く利用出来れば。
 その姦計が脳裡によぎった瞬間、無意識のうちに手に力が入ったのだろう、黒板につき立てたチョークの先が折れて零れた。
 この国を内部から崩す事も可能だろう。彼の中にある王室への憎しみを最高潮まで高めた時、彼の腕ならもしかしたら王や皇子達を討ち取る事も可能だ。そして、それは軍もしくは彼自身の恨みによる犯行となり、他国である自分たちには何の疑いもかけられない。最高のシナリオだ。
 元々蒼龍は病弱だと聞いている。そして、数年前に彼の弟であるもう一人の皇子も死んでいる。後に残るは幼い少女と老いた男だ。国民の信頼を得ている蒼龍の死、そして蒼龍の血筋は残っていないことに意味がある。
 しかし、問題は彼とどうやって親しくなるかだ。こんな頼りない一教師のままでは、絶対に彼に信用して貰えない。あの、あまり他人と関わろうとしない空気を思い出し、悩む。
 女相手だったら口説きまくるところだが、相手は男、しかも少年だ。少年というと尊敬させ、傾倒させるのが一番なのだが、どうも今の自分のキャラ設定だとそれも難しい。
 自分も宇佐木のように生徒に慕われるキャラにしておけば良かった、と今更ながら後悔した。
 それでも
「13行目、和泉君訳してくれるかな……?」
 びくびくと声を震わせながら言うと、ようやく彼はゆっくりと視線をこちらに流した。それを今度は机の上に置いていた教科書に落とし、口を開く。
「私は、貴方を気に掛けている」
 何とも直訳だと思いつつも間違いではない。あの声で静かに告げられ、「ありがとう」と御巫が言うが早いか彼はまた窓の外へと視線を投げた。
 気に、なるんだよなぁ。
 授業を続行しつつも和泉に気付かれない程度に視線を向けていた。
「和泉君!」
 その授業が終わり、早々に教室の外に出て行った彼を慌てて追うと、相変わらず面倒臭そうに振り返った彼の眼が突き刺さる。
「何。授業には出た」
 素っ気無く言われ、御巫は人の良い笑みを浮かべ、頷く。
「うん、まさか本当に出てくれると思わなかったから……お礼が言いたくて。あ、そうだ、もし良かったらこれ……」
 ポケットからなにやら取り出した御巫が差し出してきたのは包装された飴玉だった。それを見て和泉はため息を吐く。今朝貰った飴玉の味を思い出したのだ。
「結構です」
「……甘いのは嫌いかな?」
「……もう良いか」
 苛立ちが募ってきたのか、段々和泉の機嫌が悪くなっていくのが分かる。
「えと……そうだね、授業忙しいよな。ごめんね、引き止めちゃって。次の授業も出てくれると嬉しいな」
「……その手」
 その時、御巫の手に白い包帯が巻かれていることに気付いた和泉は目を細めた。彼の術から逃れるためにつけられたその傷に御巫は「ああ」と声を上げた。
「昨日、放課後生徒同士の喧嘩に巻き込まれたんだ。ナイフ取り出してたから流石に止めないとって思って」
 人の良い笑みに和泉も納得したのかそれ以上突っ込まなかった。それを一瞥するだけで背を向けた相手に、御巫は無意識のうちにため息を吐く。あまりにも、和泉の態度は自分に対して無関心すぎた。
 道のりは険しい。が、彼の過去を考えれば無理ではないはずだ。
「先生」
 その時、後ろから伺うように声をかけられ、人のいい笑みを意識しつつ振り替えれば、少し戸惑ったような顔をした翔が立っていた。
「日向くん」
「……和泉と、仲良いんですか?」
 探るようなその問いに、翔が何を思ってそれを聞いて来たのかは解からなかったが、曖昧な笑みを浮かべて見せた。
「そう見えたなら僕も嬉しいけど、多分和泉君は否定するだろうなぁ」
「……そう、ですか」
 翔はその答えに小さく息を吐き、意識は和泉のほうへと飛ばしていた。その手には例の女装用の制服を入れた紙袋が入っている。いちいち着終わったら川辺に返しているようだから、朝授業が始まる前にでも取りに行ったのだろう。そして、今のような長めの休み時間にはそれを着てフラフラする、と。
「じゃ、せんせ、俺ちょっと」
 何か覚悟を決めたように和泉の背を追おうと駆け出そうとした彼に、御巫は反射的に手を伸ばしていた。
「ちょっと待ってひゅう、がく……!」
「へ……のぅあ!」
 がくりとバランスを崩した御巫に巻き込まれ、翔も廊下に顔面からすっ転んでしまい、手に持っていた荷物も廊下にぶちまけていた。それは御巫も同じで、彼が使っていたボールペンが虚しく廊下を転がる。
「……いてててて……」
 思い切り打ってしまった額を撫でながら身を起こすと、すでに起き上がっていた御巫が「ごめんねごめんね!」と謝りながら翔がぶちまけた荷物を紙袋に慌てて戻してくれていた。
「あー大丈夫ですんで……」
 ついていない自分に翔はため息をつくしかない。今から追いかけたところで和泉にはきっと追いつかないだろう。彼は行動が早い。
 諦めて立ち上がろうとした、その時だ。
「何をしている」
 不機嫌なその声がすぐ耳元で聞こえたと思えば、一瞬の浮遊感の後すぐに足が地についた。誰かに抱え起こされ、後方を見上げれば後頭部が彼の肩に乗っかった。
「克己」
「お前、何しているんだ」
「何って、見て解かるだろー。こけてたんだよ」
「……注意力散漫は死に繋がるぞ」
 べしっと廊下に打ち付けて赤くなった額を叩かれ、翔は小さく呻くしかない。
 そんな友人二人の様子を微笑ましく眺める教師を演じていれば、さり気無く克己に強く睨みつけられ、思わず笑みを引き攣らせた。けれど、眼が合ってしまったので何か話しかけないことには。
「こ、甲賀くん僕のさっきの授業には出てくれなかったみたいだけど」
「翔、行くぞ」
 無視か!
 思わずそう叫びそうだったが、御巫はそれを心の中で留めておいた。自分は大人で、相手は青い反抗真っ最中の子どもなのだ。大人の対応を出来るか自分は試されている。
「本当にごめんね、日向くん……赤くなって」
 翔の額は強く打ち付けてしまったらしく赤くなってしまっていた。それに申し訳なく思い手を伸ばせば、横からその手を叩かれる。
「触るな」
 大人の対応を出来るか自分は試されている。
「おい、克己?ちょ……あ、じゃ、じゃーな、せんせ!」
 腕を掴まれ教室へと連れて行かれ、その克己の珍しく強硬な態度に少し驚いた。それは御巫もだったらしく、自分たちを茫然とした顔で見送っていた。
 教室に入り、彼の姿が見えなくなったところで、克己が口を開いた。
「あの教師には少し気をつけろ」
「へ……?何で」
「お前がわざと転ばされたように俺には見えた」
「……えぇ?」
 真剣な克己には悪いが、それは絶対に無いと御巫の顔を思い出しながら心の中で呟いた。あの教師はいつも忙しなく、いい人なのだけれど落ち着きがない所為で他人に迷惑をかけるタイプだ。さっきも、自分を引きとめようとして、だったのだろう。恐らくそう見えただけで、実際はそうではないはず。
「考えすぎだって。まず、そうする理由がないだろ」
「それは、そうだが……」
 まだ納得できないと言いたげな克己の肩を軽く叩き、翔は胸を張って見せた。
「それにあの人はそんな人じゃねえよ。俺、人を見る目はあるんだぞ」
「それは無いな」
「ってオイ。何を根拠に」
 自信満々に言った事をあっさりと否定され、翔は少々怒りを滲ませた声で問うが、克己はため息一つ吐き、そして。
「根拠は、俺だ」



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