「これ、例のリストです。特権法を使用してきた生徒のリストと、今年に入ってからの一般利用者名簿です」
 遠也から渡された、特権法を使った生徒のリストは8枚程度で済んでいたが、今年に入ってからの一般利用者名簿は辞書並みの厚さで正紀は思わず戦慄いた。これを全て確認するのは至難の業だ。救いを求めるように遠也を見ると、彼は小さく息を吐く。
「ビンゴでしたよ。今まで殺されたのは、あの戦争の前後に特権法を使ってヨシワラを使用した人間です」
 どことなく遠也のその眼に力がないのは、恐らく時間をかけてこのリストを確認していたからだろう。
「それと、一般利用者の方ですが、気になることが一つあるんです」
「何だ?」
「魚住、確か橘と恋仲という話でしたよね?」
 魚住の名前に正紀は目を細めて頷く。彼が橘と間違えて翔に迫ったのはこの間の事。だが
「名簿に、魚住の名前が無いんです」
「はぁ?」
 遠也のその言葉に驚き、正紀もその辞書のような名簿を開き、適当にめくるが確かにそれらしい名前はどこにもなかった。
 一体、これはどういうことなのだろう。ここでないのなら、彼らはどこで出会ったというのだ。
「それと、もう一つ」
 特権法の方のリストを手に、遠也は一つの名前を指差した。そこには伊原優史と書かれていた。その名前は何度かそのリストに登場している。
 聞き覚えのない名前に、次に狙われる生徒かと正紀は思うが、それに遠也は首を横に振った。
「彼はもう死んでいます」
「……でも、新聞には載ってないよな?」
 正紀が取り出したメモにはその名前は載っていない。このメモは、過去の新聞で発表された被害者のリストだ。
「載りませんでしたが、他の人達とほぼ同じ死に方です。この人と、魚住は知り合いだったそうですよ」
「魚住先輩と?……あ、でも、このリストに載ってない被害者もいるぞ?」
 特権法を利用した生徒のリストに載っていない被害者の名前が正紀のメモには書かれている。しかし、その被害者達の名前の横には、皆赤いペンでバツ印がついていた。それは、彼らが例の戦争に行っていないという意味で正紀が自分で付けた印だ。
 それを説明して遠也にそのメモを見せると、彼は眉間を寄せた。
「その人達、一定の時期に死んでいますね。彼らが戦争から帰ってきた翌日から、一週間後にかけて……それ以降はみんな戦争に行ってきたメンバーになっている」
 それがどういった意味を示しているのか、遠也は考え始めたが、その時リストを眺めていた正紀がどこか感慨深げに息を吐く。どうかしたか、と遠也が首をかしげると、彼は苦笑した。
「いや。春川の名前は無いから」
 元クラスメイトの名前を口にした彼の言いたい事を何となく察して、遠也は目を伏せる。あの一件はすでにクラスの中では口にすることはタブーになっていた。
「ま、だろうとは思ったけど……佐木、あいつ好きなヤツいたの知ってたか?」
「いえ……俺は、あの人とは口もきいた事ないです」
「そか。始まったばかりだったもんな……。あいつ、甲賀の事好きだったんだぞ」
「そうだったんですか」
「甲賀の方は全然つれなかったらしいけど……でも、甲賀は日向には優しいよな。昨日ちょっとびっくりした」
 暗闇だったけれど、優しげに、愛おしげに彼を見る横顔には驚かされた。春川を撃ったあの時の冷酷な横顔と同一人物だとは思えない程だ。
 しかし、あんな顔を出来る人間なのだから、根は悪くないヤツなのだと改めて思う。それと同時に、思い出したことがあった。
「例のことがあった日に、言われたんだ」
 春川の一件があった夜、なんとなくいずると話していて、言われた事。
「撃つのは少しやりすぎだよな、って俺が言ったら、いずるがはっきり言ったんだ」
 もしあの銃口が正紀に向けられていたら、俺は甲賀と同じ事をした。
 そう言われて、はっとした。恐らくは自分もそうだと。もしあの銃口がいずるに向けられていたら、考えるより早く自分も彼に発砲していた。
 そう、いずるに言ったら苦笑された。
 お前は、相手を撃つんじゃなくて自分の身を挺して俺を庇ったと思うけど。
 どこか哀しげないずるの笑みに、ちりっとした痛みが脳と傷が残る手に走った。それが、どういった意味を持つのか解からないけれど。
「早く、仲直りしたらいいと思いますよ」
 難しい顔をして手の傷を眺めていた正紀に遠也は声をかける。それに正紀は苦笑を返し、その手を太陽に透かした。
「この傷、いずる庇った時に出来たんだ」
「庇った?」
 自分が篠田鷹紀の息子だと相手に知られ、“H”に体を侵され監禁されていると知ったいずるが助けに来た時のことは今でも鮮明に思い出せる。ナイフを持って襲い掛かってきた彼からいずるを守った時の傷なのだ。それから―――
 それから?
 不意に記憶が途絶え、正紀は眉間を寄せた。このもどかしい感覚が、妙に不安を煽る。
 そういえば、いずるにナイフをむけたのは、誰だったっけ……?
「篠田?」
 頭のどこを探っても出てこない記憶に正紀が険しい表情になったのを、遠也が心配そうに覗き込む。それにはっとして、慌てて笑顔を取り繕った。
「なんでもねぇよ。俺、魚住先輩んとこ行ってくるわ」
「それなら、俺も。俺も貴方に話しておきたい事、が……」
 一人では危ないと遠也も足を踏み出そうとしたが、その額を正紀は軽く小突いた。
「少しは休んどけよ、天才君。足を使った調査は将来有望名探偵篠田様に任せとけ」
 にん、と笑う正紀に、小突かれた額を片手で押さえた遠也はどこか批難するような目を向ける。その目に正紀は手を振ってその場から去った。ここからなら、魚住がいるだろう弓道場は近い。
 そんな背を見送る遠也の目が少し哀しげだったことなど、正紀は気付きもしなかった。また、言えなかったと遠也が一人後悔して、小さくため息を吐いていたことも。気付く余地すらなかったのは、正紀自身余裕がなかったからだろう。
「すいませーん。魚住先輩いますか?」
 いずるの事を考えていると、何だか最近妙に焦るのだ。
 だから、探偵の物まねをして気をそらしている自分は2年前と同じ。あれからまったく成長出来ていない自分には呆れるしかなかった。
 魚住目当てに弓道場を覗くと、何故か中は真っ暗で、どうやら珍しく道場内にカーテンを引いているらしい。自分が昔通っていた道場は外だったけれど、この道場は雨天用か射撃場のような作りで的も室内におさまっている。最近は仮想道場とかいうものも開発されていると聞くが、いずるは身にならないと一笑に付していたのを何となく思い出した。
 暗闇で確認出来たのは、二つの影。魚住らしき人間ともう一人の影がゆらりと動く。
「先輩?」
「……では、僕はこれで」
 見知らぬ人物は魚住に一礼し、正紀の方に歩み寄ってきた。単にこちらが出口だからだと思うが、何故かすれ違い際に物凄い眼でにらまれたような気がする。
 その殺気には覚えがあった。
「ああ、松長、気を付けろよ」
 魚住はそう彼に言って見送っている。
「……こんな暗がりの中で、何をしていたんですか?」
 動揺を誤魔化すために、ちょっとからかうように魚住に聞くと彼は穏やかな笑みを浮かべる。
 もうその必要の無くなった布を窓から取り払うと眩しいばかりの太陽光が道場内を照らした。光が入ると少し気分が軽くなる。そこで、正紀は思いきって口を開いた。
「先輩、単刀直入に聞きますけど、永井を殺したのは先輩なんですか?」
 その不躾ともとれる問いに、カーテンを開けていた魚住は手を止めた。
「……どうして?」
「彼、先輩と付き合っていたんでしょう?」
 あの日、部屋に入ってきたときの彼の言葉から考えるとそうとしか思えない。しかし、魚住は付き合うという単語を嘲笑した。
「付き合う、か……一度二度抱いたら恋人か?」
 思いがけない彼の態度に正紀は目を見開く。魚住はどちらかといえば、橘へのあの態度を思い出すと恋愛感情を大切にするタイプだと思っていた。だが、荒みきったその空気に、あれが演技だったらという可能性が生まれ、一気に警戒心が高まった。
「では、永井に薬を渡していたのは、貴方なんですか?」
 遠也に髪の毛を渡す為に入った彼の部屋からはあの薬の臭いがした。調べなくても解かっていたことだけれど、遠也には何も言わなかった。
 薬、と言った瞬間に静かに魚住が眼を開ける。その眼はすべての感情を覆い隠している闇の色だった。それは、どこかで見たことがある。どこ、だったか。……思い出せない。
 そんな余計な事に思考を飛ばしている場合ではないと、正紀は目の前の相手を睨みつける。
「貴方からはあの薬の臭いがした。永井もだ」
「常人は気付かなくても、お仲間の君だから解かった、ってことか」
くすりと静かに笑う魚住はゆっくりと正紀を見上げた。
「君も薬が欲しくて、今まで調べていたのか。そろそろ、持ち込んだ薬が無くなってくる頃だろ」
「……まぁ」
 いまだに、薬は抜けていなかった。遠也にはああ言ったが、そうそう抜けるものでもない。薬が切れかかると、奇妙な気分になってくる。
 血が見たい、という奇妙な気分に。
 その気分が怖くて、正紀はずっと薬を少量ずつ取っていた。たまに、ぐっとその気分を堪えた時もあった。あまり薬を飲みすぎると、更に不味いことになるから。しかし、そうすると激しい頭痛に襲われる。
 眉間を寄せた正紀を、魚住は嘲笑った。
「皮肉だな。父親を殺した犯人を見付ける為に自ら薬に手を出して、その薬に溺れかけているなんて」
「……知っていたのか」
「知らなかったら、君にちょっかいを出さなかっただろうな」
 魚住は再び視線を正紀から外し、ただぼんやりと道場内を見つめている。正紀からはそう見えたけれど、彼の視線の先には、ある名前があったのだけれど、それに気付くことは出来なかった。
「あまり下手に動かない方が良い。生徒会に眼を付けられる。君もあの薬を飲んでいるのなら、自粛しなさい」
 静かに窘めるようなその言い方に正紀は首を横に振った。
「それは出来ない。貴方に薬の出所を聞くまでは何度もここに来ますよ」
 頑として引こうとしない正紀の態度はあまりにも軽率で、魚住は小さくため息を吐いた。
「……そんなに、あの薬が欲し」
「違う!」
 淡々とした態度を保つ魚住の襟元を掴み上げ、正紀は彼の眼を睨みつける。薬の使用で濁った眼は恐らくもう二度と澄むことは無い。自分もそうだと自覚しているからこそこんなに焦っている。
「俺は、薬の出所が知りたいんだ」
「……どういうことだ?」
 出所を突き止め、目的のものを手に入れるつもりなのかと魚住は目を細めたが、それに正紀は首を横に振った。
「俺はあの時、あの男……父さんを殺したアイツを警察に引き渡した。けど、警察はあいつらの方の味方だったみたいだな。新聞には禁固100年になったと書いてあったが、実際のところアイツは、特に罰せられるわけでもなく、元いた職場に戻されただけだった!それが!」
 ぐっと手に力を込め、首元が苦しくなっただろうに魚住は大して表情も変えずに自分を見つめている。いっそどこか、哀れんだ眼で。
 何だろう、その眼に何か既視感を覚える。どこかで見ている、彼は誰かに似ている。誰だ、誰だ、誰だ?
 霧の向こうにいるその人物の存在が探れず、苛立ちが募る。
「それが、ここの隣りの科学科だ」
 そう、それを突き止めたから自分はこの学校に入学する事を心に決めたのだ、と入学当初の決意を正紀は再び心に呼び戻していた。
「……へぇ」
 魚住の方は自分にも関係のある話にも関わらず、大して興味がないと言いたげだ。彼はもう全てを諦めてしまったのか。それが妙に哀しかった。悔しかった。そんな諦めの感情も、あの薬によるものに違いないだろうから。
「アイツは今でも、この薬をばら撒いている。あの薬は、国家ぐるみの何かの実験だった。親父はそれを突き止めるか突き止めそうになってそれで殺された。今回も、きっとそうだ。アンタだって、その実験のラットの一匹にしか過ぎないんだぞ?」
 どうにかこの眼に光を戻せないものかと首元を掴む手に力をこめたが、魚住は目を伏せるだけだった。
「それで、どうするんだ?その男を殺す?止めといた方が良い。陸の人間があっちの人間に手を出すと、つまらないいざこざが始まってしまうし、君は確実に銃殺刑だ」
「……知ってる。それにアイツだって組織の末端の人間にしか過ぎない。アイツを殺したところで薬の流出が止まるわけでもない、それでも!」
 この治まらない怒りを、どこに向けろというんだ。
 突き飛ばす形で彼の首元から手を離すと、魚住はその首に手をやり、ようやくの自由に小さく咳き込んでいた。
「……なら、その流出を止める側の人間になるか?」
 引き攣った声だったけれど、どこか馬鹿にしたような声色に正紀は眉間を寄せる。
「何?」
「生徒会、今の生徒会長は科学科の人間に自分のところの人間がそういう風に扱われるのが嫌で取り締まりに厳しい人だ。科学科は、おかげで今まで使えていた実験場が使えなくなって四苦八苦している」
 魚住はただ淡々と告げるが、正紀の中でちょっとした希望が生まれた。今の生徒会がそんなに薬の取締りを強化していると思わなかった。けれど
「まだ、気付いていないのか?」
 魚住の笑いはどこか悲しげで、その感情がどこから来ているのかはこの時は解からなかったが
「さっき、言ったろう。生徒会に眼を付けられるな、と」
「それが」
 それがどうしたというんだ。
 強く睨みあげれば、彼は静かに口を開く。
「時々見つかる死体、俺が知るところで12人の内3人は確かに乱用者が殺人を犯した。血が薬に犯されていない死体は、純粋な被害者だ。心臓2ヵ所、腹部3ヵ所、後は適当にメッタ刺し。そうした暗示をかけられていた乱用者達のな」
「3、人……それだけか?」
 正紀は戦争に行っていない人間のバツ印を思いだした。そのバツも確かそれくらいの数だったはず。
 怪訝な表情になった正紀に、魚住は静かに口元を歪めた。そして
「残りは生徒会だ」
「な……?」
「重度の薬物使用者を確認して危険だと判断したら彼らは生徒会によって抹殺される。手段を真似て、周りには同じ犯人がやったものだと思わせて。そうして根絶していく方法を、選んだ」
「何でそんな」
「薬に頼らないといけない弱い人間は、軍には必要ない。それに、彼らに第三者を殺されるのは困る。世間にそんな薬が校内で流行っていると知られるのは不味い。理由は沢山ある。気をつけろよ、篠田君。君も、もしかしたら」
 恐怖かそれともただ茫然とするしかなかったのか、正紀の手にもう力は無い。
 彼の手を払い、その苦悶の表情に笑みを向けてやる。
「もう眼をつけられているかも知れないな」
 ここは、どうやら自分が思っているよりもずっと、怖いところだったらしい。
 正紀の甘い考えを彼は哀れんでくる。いけ好かない相手にそんな眼で見られいっそ殺されるなら、目的を無理にでも果たしてやろうという気になったが、銃殺刑と死を闇に葬られるのとでは訳が違う。今回彼が言うとおりなら、生徒会に始末された生徒は皆殉職とされている、殉職は名誉、銃殺刑は不名誉。自分の家族の今後の生活も関わってくる。
 けれど、だからと言ってただ殺されるのを待つのか。
 自分は以前に確かに間違っていた方法かも知れないけれど、目的は達成した。その代償に多くのものを失った。自分の体にも、多大な爪あとを残した。
 でもそれでも、後悔したくはない。
「……それでも、仕方が無い。その時が来るまで、俺は走る」
 父も同じだったはず。自分の危険もかえりみず、調査を続けていた。その結果、彼は殺されてしまったが。その瞬間彼がどんなことを考えていたのか今の自分なら理解出来るような気がする。
「アンタが何を思って俺に声をかけてきたのかは知らないけど、俺の昔の事はいずるとは関係無いからな」
 一応釘を刺しておくと魚住はちょっと驚いたような顔をしてから苦笑した。その意味は解からなかったけれど。
 何故、魚住はそこまで知っているのだろう。そういえば、彼も例の戦争に出向いていないイレギュラーな存在だ。橘と同じく。ただ薬を使っていただけなら、そこまで調べていない。彼が薬を撒いていた人間の仲間だとしても、何かが奇妙だ。
「君は俺と同類だと思ったのに、あの薬使ってて眼の濁ってないヤツ久々に見たよ」
 突然魚住は今までとは打って変わった明るい声で話しかけてきた。何か吹っ切れたようなその態度に、正紀は顔を上げる。
「先輩?」
「……弱かったのは、俺の方だったのか」
 魚住が何かをぼそりと呟いてから、く、と嗚咽を噛み殺すような声を上げる。
 何か事情があるというのは前々から薄々気が付いていたことだけれど、強く追求しようとしていた相手にそんな態度に出られると動揺してしまっても仕方が無い。
 けれど、彼に聞きたいことは沢山ある。
「先輩は、どうして俺に諌矢さんの話をしたんですか」
 薬の出所もだけれど、まず聞きたかったのはこれだった。いずるが、何故怒ったのかその理由も探れるかも知れないから。
 額を押さえて項垂れていた魚住はその質問にぱっと顔を上げて、少し驚いたように正紀の顔を見上げてくる。
「……俺は、大分前から君達と久川諌矢の事を知っていたんだ」
 思わぬ言葉に、目を見開けば、魚住は小さく笑う。
「気付いてなかったのか。君は早々に辞めてしまったが、久川兄弟は弓道界では有名だった。俺も久川には憧れた。矢吹にも、だ」
「……そうだったんですか」
 どこか懐かしげに語る彼の口調に恐らく嘘は無い。
「彼の活躍は楽しみにしていた。だが、唐突に久川諌矢は弓道界から姿を消し、矢吹いずるも去年の大会を欠場。皆、茫然としたな」
 憧れの人物が何の前触れも無く大会から姿を消したのだから。
 そう続ける魚住の言葉に、正紀は一瞬何を言われているのか解からなかった。
「……欠場?」
 そんな話、いずるからは聞いていない。
 正紀の驚愕した表情に魚住も怪訝な表情になる。
「知らなかったのか?」
「……そんなの、聞いてねぇっすよ」
「俺は、てっきり」
 そこまで言って魚住は言葉を止め、少し困ったように眉を下げる。
 その先を促すように目で言うと、彼は小さくため息を吐いた。
「久川諌矢が死んでいるだろ」
「それはいずるから聞きました」
 病気で死んだと。それ以外詳しいことは何も聞けなかった。
「彼は、殺された」
 けれど、いずるからの情報と全く違う魚住の言葉に驚愕と同時に重く心臓が高鳴った。
 既視感に似ているこの感覚は、何だろう。
「殺された……?どうして」
 どうして、何て聞かなくても自分はそれを知っている。知っているような感じがする。
「彼も、俺達と同じ薬を服用していた。俺の知っている話によると、彼は重い病にかかっていてその苦痛から逃れるために手を出したらしい」
 魚住の話はどこかで聞いたことのあるような話で意外性は全く無くすんなりと正紀の頭の中に入っていく。欠如したところを埋めるような、そんな感覚さえあった。けれどどんどん嫌な感覚が体中に広がっていく。
 自分は、確かにそれを知っていた。
「そして、君があの店をマスコミにばらし警察にも届けたその日に、彼は死体であの店の中で発見された。誰かに撃たれて」
 銃で撃たれた。
 それも、知っている。
 その銃がどういう銃だったのかも、その銃声も、硝煙の臭いも。
 撃たれた時の、彼の哀しげな微笑みも。
 頭の奥が、鈍く痛んだ。
「兄がそんな死に方をして、ショックで大会を欠場したんじゃないかと思っていたんだが……丁度大会も重なっていたし……篠田君?」
 顔色がどんどん悪くなって行く正紀の様子に魚住が声をかけたけれど。その声は彼の耳には届かなかった。
 すでに治ったはずの手の傷が熱い。
「俺、か?」
 いずるが何故怒ったのか、ようやく解かった気がした。
 きっと、自分が彼の兄を、諌矢を殺してしまったのだ。この手で、自分が。そしていずるはそれを見ていた。
 そう思ってすぐに諌矢の死に顔が鮮明に蘇ってきた。記憶がその通りだと訴えてきたのだろうか。
 間違いない。自分が、この手で彼を殺して、だから自分はその事を忘れていた。
「俺なのか……?」
 視線を落とし、恐る恐る持ち上げた自分の手が赤く濡れているように見えた。
「俺が、諌矢さんを殺したのか」
 だからいずるはそれをひた隠しにしてきたのか。
 彼の兄を殺してしまった自分を、助ける為に。
「何をしているんです!」
 その時、道場内に厳しいいずるの声が響き正紀ははっとして振り返った。
 厳しい表情のいずるは、諌矢に似ていて何だか目の奥が熱くなった。流石兄弟だと思う暇も無くいずるは正紀と魚住の間に割って入った。
「どういうことですか。正紀には近付くなと言ったはずですが」
 厳しい声で魚住を詰問したが、答えなどいらないとでもいうようにすぐに正紀をいずるは振り返った。
「いずる」
「正紀、来い」
 魚住と話をすることもなくいずるは正紀の腕を掴み、そのまま道場の外へと連れ出した。いずると顔を突き合わすのも話をするのも久し振りだ。そんなことをのん気に考えてみたけれど、あの奇妙な不安感は消えることはない。
「俺なのか」
 だから、前を歩く幼馴染にそれを聞いてみた。
 きっと、彼はすべてを知っている。そんな確信があった。知っているからこそ、彼は何も言わないのだ。
 歩みを止めた彼はくるりと振り返り、平静な眼で「何が」と聞いて来た。
「俺なのか、諌矢さんを、殺したのは俺か?」
「……兄さんは病気で死んだと言ったはずだ」
「嘘を吐くな!だってお前、中学最後の大会欠場したって……その大会って、あの大会だろ!?お前なら、出るだろ?」
 中学最後の大会というと、その事で久々にいずると言葉を交わしたことは正紀もよく覚えていた。諌矢が病気で大会には出られなくなったから、自分はどの大会も休まずに出る。彼の為に優勝を掻っ攫ってくると、笑顔でいずる自身が言っていたのだ。
 例え、諌矢本人が大会に出られなくとも、弟である自分が出れば、兄の名前を忘れられる事はないと、そう言っていたのに。
 あの大会、と指した正紀の目は必死で、いずるは思わず眉間を寄せていた。
「魚住に何を言われたのか知らないが、俺よりアイツを信じるのか」
「それは……けど、この事に関してはお前は」
 他のことなら、いずるは常に自分の疑問にあっさりと答えてくれる。
 けれど、この事に関しては彼は口が重い。それなら他人である魚住の方が答えてくれるし、何より嘘を吐く理由が無い。
「俺が、諌矢さんを殺したからお前は俺に本当の事を言えないんじゃないのか」
「……違う。正紀、この話はもう止めにしないか。無駄だ」
「無駄って、何が」
「こんな話をしていたところで兄さんが生き返るわけでもない。ここから出て、兄さんの墓に行くことだって出来ない。過去を振り返ってみたところで、変わることは何も無い」
「でもいずる」
「それに!」
 正紀が何か言う前にいずるは強い口調でそれを止めさせた。
いずるが今までどんな思いで自分にそのことを隠してきたのか、正紀は知らなかった。知らないという事が、どれだけ彼を傷つけて来たのかこの時初めて知ることになる。
 思わず言葉を失ってしまったのは、あのいずるが泣きそうな顔をしていたから。どんなに成長してもその表情だけはあの頃と何も変わっていない。
「お前は、忘れるじゃないか……」
「いずる」
「何度説明しても、何度答えても、お前はいつも忘れて、また同じことを聞いてくる!ああ、解かってる。お前が悪いわけじゃない、でも!」
「いずる……ごめんな」
 幼馴染の悲痛な声に耐え切れなくなり、思わず謝罪の言葉を口にしていた。他にどうすればいいのか解からなかったから。多分いずるが欲しいのはそんな言葉では無い事は解かっていたけれど。
「どうしてお前が謝るんだ」
「何も知らないから」
「無知は罪じゃないんだぞ」
「でも、何も知らないから俺はお前に言える良い言葉が見つからない。ガキん時からお前慰めるのは俺の役目だったのに」
「……反対だろ」
「いーや。俺が慰めてた」
「反対だ。大体、泣いてた回数が多かったのはお前の方だ」
「そんなことねぇよ。泣きそうな面してたのはお前の方が多い」
「お前だ」
「いずるだろ」
「……話にならないな」
 ちょっと言い合いをしたおかげで少し気分が晴れたのか、いずるがいつもの笑みを漏らす。その様子に安堵して、正紀もほっと肩の力を抜いて笑い返す。
「正紀、これだけは信じてくれ。お前は兄さんを殺していない」
「本当に?」
「ああ。お前は兄さんを殺したりなんかしていない」
きっぱりといずるは否定し、その眼にほっとした。彼の眼は嘘を言っていない。魚住の情報もきっと、偽の情報だったのだろう。
「そ、か……よかった」
 心から安堵した正紀のその笑顔が眩しすぎて、いずるの心に影を造る。
 本当のことを言わないで済むのならそれがいい。逃げかも知れないけれど、そうしたかった。
 そうだろう、なぁ兄さん。
 密かに今はもうこの世に居ない兄に同意を求めたが、当然のように返事は来なかった。
「……兄さんを殺したのは、正紀じゃないんだ」
 そう、正紀ではない。
 再びいずるが言ったこの言葉に正紀は「わかった」と苦笑する。何度も念を押されたと解釈したのだろう。正紀は何も知らない事に苛立ちを感じているようだったが、いずるは何も知らない正紀でいて欲しかった。
 何をそんなに怯えている?とあの小さな天才に問われたのを思い出し、いずるは奥歯を噛み締めていた。
 一番怖いのは、今目の前にいる親友が、二度と自分の前で笑ってくれなくなることだ。
 心の中で遠也に答えを返し、今はまだ確かにここある正紀と自分の信頼関係と、それが危ういところで築き上げられている事に、小さくため息を吐かずにはいられなかった。

「正紀ではないから、な」 



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うーん……後で書き直すかも知れませんが一応こんな感じです。どうですかね?