大丈夫、俺が貴方を守るから。

 あの真摯な目がどうしても忘れられない。
 今まで、何度も寝物語のように「好きだ」とか「愛している」という言葉を聞かされてきた。その所為か、それらの言葉に対して特別な感情を覚えることはなかった。一夜の恋、という知り合いもいるけれど、これが人間の言う恋ならなんて陳腐な感情なのだろうと心の底から思った。
 でも、そんな冷めた感情を持ち、人間に嫌悪感を募らせる日々にある日突然終止符が打たれた。
「君が、橘?」
 今日の相手と部屋に来た紳士は、軍の男達よりずっと物腰が柔らかく、自分を抱く手も優しかった。
「君は良く似ている」
 そう呟いた彼の言葉に橘は顔を上げた。
「……私のオリジナルを知ってるの?」
 その問いに彼はただ曖昧に微笑み、彼女の頭を一撫でするだけ。
 瞬間、胸を過ぎったのは鈍い痛みだった。
 きっと、自分は彼が恋焦がれる相手のクローンなのだろう、とこの時察した。そして、それと同時に自分が彼に恋をしていることも。
 この感情は、嫉妬なのか。
「……私、人間は嫌いよ」
 嫌いなはずなのに、どうしてこんなに苦しいのか。
「人間は、嫌い?」
 彼は静かに問い、ただ泣く彼女を抱き締めた。
「私は、君を助けたい」
 そう言ってくれた人間は初めてだった。こんなに優しく抱き締めてくれる人間は初めてだった。
 彼は、他の人間とは違う。彼は、自分を乱暴に抱かない。欲望のままの交わりを行わない。
 だから、彼に全てを託したのだ。
 ……なのに。
 なぜだろう。
 あの翔という少年の眼を見ていると、今まで与えられてきた愛が偽物だったのではないかと思う。
 誰も、あんなに真っ直ぐ自分を見てはくれなかった。
 誰も、あんなに真っ直ぐ自分を思ってはくれなかった。
 彼も、あんなに真剣な眼で自分を見たことがあっただろうか?

 自分は何か、間違いを犯してしまっているのではないか?

 あの人に会いたい。
 会って、「間違いじゃない」と言って欲しい。
「あ、橘姐さん、もういいの?」
 早足で歩いていた橘の歩みを止めたのは同僚の桜という少女だった。可愛らしい彼女が横から突然飛びついてきたので、手に持っていた用紙を思わず取り落としてしまう。5枚くらいのその紙は廊下をすべり、一面に散り落ちる。
「姐さん、ごめんなさい!」
「いいのよ、気にしないで」
「なぁに、これ……地図?」
 彼女はそれを手早く拾い集め、橘に手渡した。文字の読めない彼女にはこれが何か解からなかったようだが、それが幸いした。
「うん、ちょっとね」
「橘姐さん、お客さんよ」
 そんな時、廊下の向こうからそんな声が聞こえ、橘は眉を寄せる。
 こんな時に一体誰が。
「何?今は仕事の時間じゃ……」
「やぁ橘」
 その声に橘は目を見開いた。
「貴方……!」
 そこにはこの国では珍しい金髪にサングラスをかけた如何にも怪しげなスーツ姿の男が馴れ馴れしく手を上げて立っていた。仲間である少女は怪訝な顔で彼を見ていたが、橘には覚えのあるその姿に慌ててその腕を引いて近くの部屋に突き飛ばし、自分もその中に入った。
「随分と積極的じゃないか」
 男は橘の焦りも知らずにへらりと笑う。それに流石の彼女も苛立ちに思わず声を荒げた。
「ふざけたこと言わないで!なんなの、その格好……目立つじゃない!」
「目立つからこそ、正体がバレない……って方法もあるんですよ」
 彼はサングラスを外し、隠れていた空色の目を彼女に晒した。その金色の髪もその眼の色が本来の色で、普段は二つとも黒く染められていることは橘も知っていた。だが、その人物の詳しい身元は知らない。ただ、自分が一番信頼している相手が仲間だと紹介してきた、それだけの相手だった。
 思わず、腕組みをして足で床を叩いていた。
「私に、何か用?」
 苛立ちを露わにした彼女に男は苦笑する。こんなに女性に手酷く扱われたのは初めてだとぼやいたが、彼女はそれでも素っ気無い。眼でさっさと帰れと言われていた。
「川辺教官と最近共にいる女生徒がいることは聞いているかな?」
「……噂でなら。何、川辺の仲間なの?」
「さぁ、どうだろうね。でも、今まで君達は川辺に散々邪魔をされていたそうじゃないか。彼は、その女の子を始末して欲しいそうだよ、君に。名前は佐藤ひな。長い黒髪の、可愛い子だ」
 彼はぐしゃぐしゃになったルーズリーフを彼女に渡し、それを受け取り橘はそこに書かれていた名前を見た。このやり方は、間違いなくいつものツナギだ。
「……薬漬けにすればいいの?」
「ああ。なるべく早く。彼女が君の最後の客だ。それが終わったら、それを使えば良い」
 彼にそれ、と示された地図を彼女は胸に抱き、ゆっくりと頷いた。
「わかった。いつ?」
「それはまだ決まってない。近いうち、いつもの方法でツナギをするから、待っていて欲しいとのことだ。それと君に会える日を楽しみにしている、と」
 彼の最後の伝言に彼女は切なげに眉を下げ、もう一度その地図を胸に強く抱いた。
「もう、会えないかと思ってたの……」
 死にかけた時に思ったのは、彼の事だった。もう二度と会えずに終わるのかと思ったが、思いがけず命を繋ぐ事が出来た。それは、翔のおかげなのだが。
 そんな少女の切ない声を聞きながら、男はポケットから小さなスプレー缶を取り出し、中身を片手に取ってムース状のそれを髪に無造作に塗り始めた。一体どういう仕組みなのか解からないが、淡い灰色のそれを塗ると自分の髪は真っ黒になり、洗髪剤を使用しない限り落ちない。変身の七つ道具の一種だ。ついでに黒のカラーコンタクトも装着し、準備は万端だった。そんな姿を見て、どうしてここに目立つ姿で来たんだと橘は彼に眼で問う。すると、彼は胸ポケットにサングラスをしまいながら、口角を上げた。
「昨夜ここに泊まらせて貰ったんだよ。さっきまでこの隣りの部屋で寝ていたんだ」
 流石に、馬鹿真面目で頼りないお人好し教師がこんなところに来るわけにはいかない。
 サングラスの代わりに、誠実さを更に高めてみせるアイテム伊達眼鏡をつけてにこりと人の良い笑みを浮かべて見せると彼女のうんざりしたような視線が刺さる。
「生徒会に目を付けられても知らないわよ」
「心配ない……っと……」
 その時ベッドに腰を下した彼は枕の下に手を伸ばし、何かを取り出した。白い真珠が一つくっ付いたピアスだ。誰かの忘れ物だろうか。
「ちょっと?み」
 そんなものをジロジロと見ている彼に、橘が怪訝な顔をすると、彼は彼女の唇に人差し指をあて、喋るな、と暗に示す。それに戸惑った彼女の唇は男に奪われ、しばらく部屋の中にはその触れ合いの濃密な音が響いた。
 男の突然の行動に橘は混乱していたが、ようやく彼が離れ、にこりと笑った。そして、詫びのつもりで彼女の耳元で囁いた。
「可愛いな、橘」
 耳の中に直接吹き込まれたその声に彼女は肩を揺らした。この男本人の声ならここまで反応しない。今の声は、愛しい愛しい、彼の声。
 この男の特技を思い出し、彼女は相手を強く睨み付けたが、それを相手は一笑し、手の中のピアスを握った。
「誰かの忘れ物でしょう。私がカウンターに届けておきます。さ、私はこれで失礼します。急がないと時間が、ね?」
 声を戻し、素早くそのピアスを胸ポケットの中に入れ、彼は窓枠に足を掛けた。普段の姿になってしまった今、ヨシワラの人間に見られるわけにはいかない。伝えることは伝えたのだから、彼女が呼び止めるのも聞かずに彼は人がいないのを確かめてから窓から飛び降りた。この窓がそこら辺にある防犯カメラの視界になっていることは調査済みだ。
「今日も良い天気だな」
 朝の強い日差しを手で遮りながら、彼は眩しげに空を見上げた。その手の甲には大きくガーゼが貼り付けてあった。自分の怪我を目ざとく見つけた昨夜の相手が甲斐甲斐しく手当てをしてくれたのだ。
 一、二歩歩いてから思い出したように彼は小さなピアスを取り出した。真珠が一粒くっついたシンプルなそれを眺めてから、口元に持っていき、そして
「おはよう、川辺君」
 返事は無かったが、これは間違いなく盗聴器だった。カメラが無いのは幸運だった、自分にとっても彼女にとっても。そしてそれは勝因でもある。彼女の名前も、自分の名前も、この盗聴相手には聞かれなかったのだ。
「驚いたかな?まぁ、私も感心した。随分と大胆なことをする。感心したから、この盗聴のことは彼らに黙っておいてあげよう。私は彼らの仲間ではないから、言う必要もないんだけれどね。罠ではないから安心して良いよ。信じる信じないは君の自由だが。でも、彼女は間違いなく日向君を殺しに行く」
 彼から返事来るような仕掛けにはなっていないようだが、川辺が息を呑んだのが何となく想像出来、忍び笑う。
「私と彼女が誰か、だって?残念ながらそれは秘密だ。秘密は多い方が面白いだろう?では……」
 ピアスを握っていた手に力を込めるとパキリといとも簡単にそれは壊れ、粉々になった。本物の真珠であればありえないことだ。その鉄くずと貸したアクセサリーを地に落とし、彼は今の言葉を聞いていただろう相手の顔を思い浮かべ、口元を歪めた。
 例えこの声で自分を探そうとしても、無理だ。先ほど橘との会話で使っていた声も、川辺に語りかけた声も本来の自分の声とは違うのだから。そして、普段彼らの前に晒している声も。
橘にはそんな芸当は出来ないから、彼女の身元はすぐにばれるだろうが。
「Good luck」
 この国ではなかなかにお目にかかれないだろう本場の英語発音で呟き、御巫は歩き出した。先ほどまで浮かべていた人の悪い笑みから一変し、どことなく自信の無さそうな表情で、歩き方もどこか頼りなく。
 南寮の近くに差し掛かった時、まだ早朝だというのに壁近くの木の幹に座っている人影を見つけた。その覚えのある顔に、御巫はああ、と心の中で声を上げたが、自分は彼の事を忘れたことになっている事を思い出し、それを心の中に留めた。そして、鼻に感じる覚えのある匂いに足を速めた。
「君はまだ未成年だよ。煙草はいけないな」
 そしてその木の下で立ち止まり、先ほどまでとは違う声で真面目な教師を演じると、彼も突然誰かに声をかけられたことに驚いたのか、幹から背を剥がしていた。その傍らには、見覚えのある白い豹が尾を揺らしている。
「……あんた」
 御巫の顔を確認した瞬間、不機嫌そうに眉間を寄せたその顔には眼鏡がかけられていなかった。
「どこのクラスかな?2年生?」
 制服も着ていなかったし、この問いが妥当だろう。まさか、御巫がそんなことを計算していることも知らず、和泉は舌打ちしていた。
「1年」
 ぶっきらぼうに答えられた事に、御巫は大袈裟に驚いてみせる。
「1年?あれ……?何組かな……ごめんね、1年生は大体みんな覚えてたつもりなんだけど」
「……俺もあんたを知らん」
 御巫が自分の事を覚えていないことに安堵したからか、彼の返事は思いのほか優しかった。しかし、言葉の内容は酷い。
「君、もしかして僕の授業出たことないの」
 大袈裟に眉を下げて見せると、彼は視線を逸らした。何と分かりやすい肯定だろう。
「とにかく、1年生なら尚更ダメだよ、煙草は。健康に悪いんだから。飴あげるから止めなさい」
「……飴?あんた、俺の事馬鹿にしてんのか」
 その時、木の上から御巫に向かって煙草の箱とライターが飛んできた。どうにかそれを受け取ると、木の上では和泉が立ち上がり、御巫を見下していた。その口には煙草が一本咥えられている。
「その煙草もだよ……君、名前とクラスは?」
 はぁ、とため息を吐きながら問うと、和泉は少し逡巡したようだが、「和泉興、E」とあっさり答えた。
「担任に言ったところで無駄だぞ」
 しかし、どこか小馬鹿にしたその態度に御巫は肩を落とす。
「だろうね。だから、ペナルティ。僕の授業に次の時間必ず出るっていうのはどうかな……」
「は?」
「来なかったら、生徒会に君が無許可で動物を連れ込んでいる事を言うよ」
 御巫が和泉の膝にいる白い豹を視線で示してすぐ、木の上に居る彼は思い切り不快気に眉間を寄せた。自分を脅すのか、と言いたげな眼だったが何か後ろめたいものもあるのか、反論せず口から煙草を取り幹で捻り消していた。
「華紬、部屋に戻ってろ」
 そう、白豹に指示をすると良く躾けられている動物はひらりとその木のすぐ横で窓が開いていた部屋に戻る。どうやらそこが和泉の部屋だったらしい。思わずそれを見送っていた所為で、和泉が自分に向かって飛び降りてきたことに即座に対処出来なかった。
「うわ……!」
 間抜けな声を上げて背中から倒れた御巫が目を開けた時、すぐ目の前には和泉の不機嫌そうな顔があった。
「い、和泉君……?」
「妙に強気だな。学科教員のくせに」
 片眉を上げながら和泉は彼の手から先ほど投げつけた煙草の箱とライターを取り上げ、一本口に咥え。火をつけようとする。それに御巫は慌てて手を伸ばした。
「学科でも、教師は教師だよ!脅すのは悪かったけど、なるべく多くの生徒に出て欲しいから、僕は……とにかく、煙草はダメだよ!!」
「……っな!」
 身を起こし、和泉の口から煙草を取り上げ、不意を突かれて驚く和泉がバランスを崩し、反射的にそれを助けようと手を伸ばしたのが不味かった。片腕だけでは青年になりかけている少年の体重を支えきれず、御巫の体も巻き込まれてしまう。
 どさり、という音と全体重を乗せる羽目になった両肘が痛んだのはほぼ同時で、それには思わず目を強く閉じてしまった。暗闇で感じたのは、肘の痺れるような痛みと、あの香り。それと
「……重い」
 あの声が耳元で聞こえ、弾かれたように肘が痛むのにも構わず腕で身を起こした。
「わ、ご、ごめんね!!」
「そう思うならさっさと退け」
 男に押し倒されたのにも関わらず、和泉は平静な表情を保っていた。恐らく、自分など彼にとっては取るに足りない存在なのだろうとこの時確信する。
 こっちはわざわざこの間の一件を忘れた振りをしているというのに、彼は本当に忘れているのかもしれない。自分は彼の存在を心に留めたのに。この違いが何故か無性に悔しかった。
「……おい?」
 いつまでもどかずに自分の上に居座っている相手に和泉は眉間を寄せる。その時
「やっぱり……駄目だ」
 囁くように彼はそう言った。
「駄目だ。煙草なんかで、その声が汚れるなんて」
 目を上げると自分をじっと見つめている御巫の目と視線が合い、その瞬間訳の解からない感覚が和泉の背を駆け抜けた。悪寒と似ていて、恐怖にも酷似している。
「はやく、離れろ」
 どうして学科教員程度にそんな感覚を覚えなければいけないのか、困惑しつつも冷静にそう忠告した。
「離れないと、そこの窓で待機している白豹がお前の喉に喰い付くぞ」
 先ほどから呻き声を上げていた華紬を止めていたのは、和泉の手だった。自分の背の向こうで少年の手が上げられていたとは気付かなかった御巫はその手に目をやってからゆっくりと視線を上げ、硬直した。
 二階の窓枠に、今すぐにでも飛び掛ってこれるような体勢で白豹が構えている。恐らく、和泉がこの手を下した瞬間が最後だ。
 それに慌てて和泉の手にポケットから取り出した飴を握らせ、立ち上がる。そこで、朝日に照らされた御巫の顔を見て和泉は、一瞬目を大きくしたが、すぐに軽く笑った。
「センセ」
「え?」
「煙草は駄目でも、女は、いーのか?」
 半月型の唇を自分の指で意味深になぞる和泉の行動に、御巫は目を見開いて自分の口を覆う。
「と、とにかく……授業には出ること、いいですね!」
 そう言って逃げていく御巫を見送った和泉は、手に握らされた飴に視線を落とし、更に失笑した。
 木を伝い、自室に戻ると華紬が足に擦寄ってくる。その頭を撫でながら、和泉は先ほどの飴を眺めた。
 その飴には白地にピンク色の丸い文字で、また来てねヨシワラと書かれている。
「あんな甲斐性の無さそうな男でも性欲はあるもんなんだな、華紬」
 うっかり感心してしまい、何となくその飴を袋から開けて食べてみたら、苺ミルク味。何となく卑猥な気がするのは、何故だろう。その飴の色は、御巫の唇に付着していた薄ピンク色の口紅と似ていた。
「……不味い」
  



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