翔が克己と2人、波乱の弁当作りは結局林檎を剥いてそれを食べるだけに終わり、部屋に戻ってみれば、何故か腰にバスタオルを巻き、克己のベッドに腰掛けペットボトルの水を一気飲みしていた。
「……あれ?篠田?」
 その寛ぎっぷりに一瞬、部屋を間違えたかとネームカードを確認しようとしたが、それを克己の手が止める。
「お。お帰りー、遅かったな。今日はお世話になります!」
 正紀は水を飲み干してから良い笑顔で迎えてくれる。あまりにも爽やかで彼がここにいることに納得しそうになったが、何度も瞬きをする翔に克己が後ろで「悪い」と小さな声で謝った。
「俺が呼んだ」
「克己が?」
 それは少し意外な言葉だった。あの克己がまさか他人を自室に泊めようとするとは。
 物珍しい目で見ていると、何故か目を逸らされる。何か脅されたとかそういうオチなのだろうか。でも、克己に限って他人にそんな弱みを握られるわけがない。と、いう事は純粋な厚意か。
 いずると正紀が喧嘩をして、正紀が友人達の部屋を渡り歩いている事は知っている。きっと、見かねた克己が正紀に声をかけたのだ。
「そか。克己、優しいなぁ」
 知っていたが、改めて思う。
 翔の純粋で透明な瞳に見つめられ、克己は何だか複雑な気分だった。
「俺は先にシャワー浴びるからな」
 そそくさとシャワールームに入っていった克己を見送り、翔はベッドに座る。自然とバスタオル一枚の正紀と向き合うことになり、彼は目があってすぐ「悪いな」と謝り、足元に置いてあった水滴の浮かんだ未開封のペットボトルを渡してきた。どうやらそれが手土産らしい。
「良い。人が増えると修学旅行気分で楽しい」
 翔がよく飲んでいるスポーツドリンクだった為、多分選んで来てくれたのだろう、それを受け取りつつ笑顔を返すと、正紀もほっとしたように表情を緩めた。
「でも、矢吹とはちゃんと仲直りしろよ?」
 変な安心をされては困ると一応釘を刺しておいたけれど。
「んー。まぁ、そのうちな」
 正紀のその軽い返事から、簡単に仲直り出来そうな空気を感じ、他人のことながらほっとする。
「俺、結構篠田と矢吹の親友関係って理想なんだよな」
 そんな翔の無邪気な言葉に正紀は一瞬笑みを消したが、それに翔は気付かなかった。
「お互いなんでも分かり合ってる雰囲気だしな。幼馴染とか俺いなかったし、何か羨ましい」
 どうやら翔はただ純粋に幼馴染というものに軽い憧れを感じているだけらしい。その事に正紀は少しほっとした。
「そーか?昔の事知る奴なんて、正直辛いぞ。俺が失敗したも馬鹿したことも全部知ってんだ」
「それは篠田だってそうだろ」
「何が?」
「篠田だって、矢吹の失敗とか馬鹿したところ全部知ってんだろ。そこはお互い様じゃね?」
「……まあ、それは、そうなんだけどな」
「そういうのが良いんだろ、幼馴染ってのは」
 何も知らずに翔は自分のベッドに寝転がる。けれど、自分の場合克己や遠也とは何も知らなかったから仲良くなれたのかもしれない。和泉と話をして、そう思う。
翔を目の端で捉えながら、正紀は小さく息を吐いた。
「そういえば、大丈夫だったのか」
「何が?」
「和泉だよ、和泉」
 シャワールームの方をちらりと見てから、正紀は小声で、けれど口調は強く聴いてくる。どうやら、和泉との事は大分心配させてしまったらしい。後で遠也にも謝っておかないといけないだろうな、と正紀の様子を見て思う。
「ああ、悪いな。大丈夫だよ。それに、和泉も……そう、悪いヤツじゃないと思う、よ?」
 翔のフォローをどう捉えたのか、正紀は肩を竦める。お人好しとでも思われただろうか。
「ところでだな、日向」
 自分の膝に肘をついた正紀は、向かい側にいた翔を強い目で見た。
「俺、お前に言わないといけないことがある」
 彼が突然低い声で呼びかけてきたので、翔も身を起こし、正面から向かい合った。茶色い正紀の目がじっと見つめてくるのに、翔は目を伏せた。何となく、翔も気付いている部分はあった。正紀から、例の薬を追いかけているという話を聞かされてから。
「俺が、あの薬追っかけてる理由。俺、日向にも言っておかないといけないよな」
 ほら、来た。
 覚悟はしていたけれど、やはり緊張する。
「……やっぱ、関係あるんだな。俺だってちょっとは知ってるよ、シルバーウルフの噂くらい」
 噂で聞いていた。彼が自分の父の仇を取るために不良の真似事をし、見事仇を取った、と彼の不良仲間が今でも涙ながらに語っているらしい。
 その話を聞いたのは、正紀を尊敬する隣町の不良達と遭遇した時だ。ぼんやりその話を聞いていたら、彼らと目が合いうっかり一戦交えることになってしまったのだが、その事は頭である正紀には言わない方が良いだろう。
「どうも、俺にくっ付いてきてた奴がお前に世話になったようで」
 けれど、正紀は知っていたらしい。良い笑顔で言われてしまった。それには苦笑を返すしかない。怒られるか、とも思ったが正紀は肩をすくめるだけだった。
「そいつらが集めてきた情報のおかげで、俺も知ってたけどな。日向のこと」
「……そうか」
 隣町に住んでいたのだから、全国ニュースとなっていた自分の事を知っているのは意外でも何でもなかった。大して驚くこともなく、ため息を吐くに止める。声が震えていたような気がするが、それは気付かない振りをした。自分の昔を知る人間は恐怖だ。
 翔が少し辛そうに目を伏せたのを見て、正紀は気が咎めるものがあったが、それでも話を続ける事にした。
「でも、ちゃんと言っておきたいし、俺も聞いておきたいんだ。日向と、橘のこと。なんつーか、理解して欲しいし、俺も理解しておきたいから」
 もし橘が例の薬と関わりがあるのなら、もしかしたら目の前にいる相手と諍いが起きるかも知れない。それを明かされる前に、お互いの事情は理解しておきたかった。正紀と翔は住む地域は近かったものの、ここに来る日までお互い面識は無かった。それでもここに来て数ヶ月、共に厳しい授業を乗り切った仲でもあるし、隣室だったのもあり接触することは多かったしお互いにお互いが友人だと認識している。折角得た友人を今更無くすのは勿体ない。
 翔がどれほど正紀の意図をくんでいたかは解からないが、神妙な顔で頷いた辺り、何かは薄々と予感していたのかも知れない。
 それでも緊張をしているのか、拳を握り、小さく息を吸って吐いて、ようやく口を開く。
「篠田は、俺の事どれくらい知ってるんだ?」
「新聞に載ってた程度。日向のねーちゃんが自殺して、無理心中をしようとした父親が息子に抵抗されて返り討ちにあった……って」
 言葉を選んで説明したつもりだったが、翔の表情は曇っていく。その時の事を思い出したのか、眉間に皺を寄せていた。
「俺と姉さんな、ずっと父親に殴られたり蹴られたりしてたんだ。俺は、ずっと姉さんに庇われてて、でも俺だけ今の義父さんに引き取られて、でも穂高さん……今の義父さんが穂高さんって言うんだけど、その人に武術とか色々習って、ようやく今度は俺が姉さんを守れるって思い始めた矢先のことだった」
「……そ、か」
「橘さんがいて、そりゃちょっとショックだったけど……でもチャンスだと思ったんだ。今度は絶対に守りたいって、思ってる」
 翔が目を上げると、真剣な面持ちの正紀がそこにいた。その表情になんとなくほっとする。正紀は他人に気を配れる人間だと気付いてはいたが、ここまでとは。彼は自分に変な同情をしているわけではなく、聞いてくれている。そのことに感動すら覚えた。
 正紀の方も翔が話を終えて少し経ってから口を開く。
「俺の親父は、探偵だったんだ。その親父が死ぬ間際まで追ってた事件が“H”がらみで、親父はきっと知ってはいけないところまで知ってしまったんだ。殺されて、後は多分日向が聞いてる通り。親父を殺した人間を突き止めたいってのもあるけど、やっぱり、さ」
 一度目を伏せて、再び上げられた眼は強い決意の色一色に染まっていた。
「父さんは命をかけて解決しようとしていた。絶対に、闇になんか葬らせない。父さんの死を無駄にはしたくないからな」
 そう、何の迷いもなくきっぱりと言えた正紀が少し羨ましかった。彼の言葉から、自分の父への真っ直ぐな尊敬と敬愛が感じられる。
 彼の話し方と先ほどの自分の話し方は全く違った。正紀はきっと明確な目標が既に定まっているのだ。大義を胸に持ち信念を貫こうとしている彼と自分では立場が大分違う。その事に翔は密かに奥歯を噛み締めていた。
「……日向、分かってくれるか」
 正紀の方はそんな自分にも気遣うような声をかけてくれる。その器の広さには感服するが、反対に自分の狭量具合には腹が立つ。
 ここで、正紀に君に協力すると言えればどんなに。
「篠田は、分かってくれるか……?橘さんは、クローンだけど、でも俺」
 周りから何度も言われていたことを少し言いにくそうに自ら口にした翔にニカリと正紀は笑んだ。
「わーってるって。こういうのって理屈じゃねぇもんな。合理的な判断が下せないのが、男ってもんだろ。クローンとか、そんなん考えなくても良いじゃねぇか」
「え……篠田?」
 思いがけない言葉に翔は目を見開いた。てっきり、クローンなのにとか、たかがクローンだぞとか、そういう風に諭されるのかと思った。けれど、正紀はこちらの言い分をあっさりと受け入れてくれる。
「守りたいから守る。俺はそれで良いと思う」
 俺は難しく考えるのが好きじゃないから単純に答え出してるだけなんだけど、と正紀は笑うが、そんな明るさと気軽さが翔には救いだった。
「篠田……お前、良い奴だな」
「おうよ!惚れるなよ」
 顎に手を当ててポーズを取る正紀はお笑いキャラ一直線で、こういうところが無かったらもう少し女の子に人気が出るだろうに。
 でも、こんなところもきっと彼の良いところなのだろう。あの遠也も正紀と最近仲が良いようだし、それはなかなか珍しいことだった。遠也にその事を言ったら否定されそうだが。
 不意に、昔シルバーウルフの下で動いているんだと言った少年に、お前も篠田さんの下につかないかと誘われた事を思い出した。当然、不良の団体に加わる事など考えた事もなかったから即答で断わったのだが、今だったら少しは考えたかもしれない、と正紀をちらりと見て思う。
「よっしゃ、日向」
 軽い気合と共に正紀は両手を差し出し、意図を読んだ翔も笑いながらその手を叩き合わせた。パンという軽快な音が響いて今度は翔の手が下になり、正紀が上から叩き合わせる。その次は右手左手、と中学当時運動部では気合入れとチームワークを確かめる為にやっていた手打ちだが、地域が近い所為かやり方が同じでしばらく部屋に懐かしいリズムが響く。
 パン、と最後の片手同士の手打ちが終わり、見事リズムがあっていたことをお互い笑い合った。
「すっげ久し振りにやったぞ、これ」
「俺も俺も。つか、日向意外と力強いのな。手の平痛いわ」
 言われた翔の方も何度も打ち合いをしたおかげで手の平が痺れていた。お互い様だ、と笑い返して視線を合わせた。
「何があっても、俺達は友達だ、日向」
 力強い言葉と瞳に、翔も頷く。
「ああ……ありがとな、篠田」
 最後は握手で締めるこの動作は久々だったが、なかなか良いものだ。
 丁度その時克己がシャワーからあがってきて、怪訝な眼で見られたが、そんな彼には二人で笑ってしまった。
「ってなわけで俺甲賀のベッドGET!」
 克己が首を傾げるその隙に正紀が座っていた克己のベッドに寝転がり、早々にブランケットを頭から被る。ベッドに出来た山を克己はすぐに踏みつけた。
「オイ篠田、お前は床で寝ろ」
 容赦なく背中を踏みつけられた正紀は顔を出し
「隙を見せたお前が悪い。諦めろ、俺はどかない」
 それだけ言って再びブランケットを被った。まるで自分の身を守ろうとする亀のようだ。
「おい」
 折角泊めてやっているのにその態度はどうなんだと再び足を振り上げて今度は踵落としを喰らわせれば、ベッドが軋み、正紀の呻き声が一瞬聞こえて、静かになった。
 篠田、と何度か声をかけても返事はない。
「……寝たのか」
 全く図々しいにも程がある。
 克己は舌打ちするが、今のは絶対気絶したんだと思う。
「克己、俺のベッド貸すから俺のところで寝ろよ」
 正紀の体をベッドから蹴り落とそうとしているのを見かねてそう言うが、克己は首を横に振る。
「いや、翔は気にするな、俺は床で」
「……なら日向、俺と寝るか?」
 気絶したと思った正紀が被った布団を僅かに持ち上げ、その中から翔を手招きする。僅かに見えた悪戯っぽい笑みに、翔も苦笑して彼の方に向かった。
「じゃあ、そうすっか」
 しかし、それには克己が待ったをかける。
「ちょっと待て。何で俺のベッドにお前と翔が寝て、俺が翔のベッドで寝るんだ」
「あらやだ甲賀くんってばあたしと寝たいのね!」
 正紀が裏声で言い、自分の体を庇うように身を捩ったが、それに克己は思わず枕を投げつけていた。
「断じて違う!」
「やだ、もう照れちゃってー。優しくしてね」
 ははは、と笑いながら正紀はブランケットを捲り上げ、わざとらしく克己を手招いた。もう、文句を言う気力も失ったらしい克己は無言のまま手に持った枕で正紀を叩きまくっていた。
「あ。じゃあ何だ、俺と寝たいのか克己」
 あはは、と笑いながら冗談のつもりで翔が言うと、何故か正紀に枕を投げていた克己の背が硬直した。一体その反応は何なんだ。
「甲賀くんよ、そんな反応見せちゃバレバレだぞ。それに枕はツンデレの黄金武器だ」
 偉そうにベッドに寝転がったまま、にやにやと正紀が笑ったのを切っ掛けにまた克己の枕殴打が始まる。この枕、羽枕ではなくそば殻入りのおかげでなかなか痛い。それに克己の腕力が加わるとなかなかに凶器だ。
「いででで!甲賀、ツンデレってのはな、恋する相手にツンツンするのがツンデレなんだよ!俺にツン部分を向けるな!想い相手にツンツンしろ!」
「残念ながら、俺は好きな相手にはデレデレだ」
「お前それ自覚あったのか!!」
 わーわー楽しげな二人を眺め、翔は少し考え込んだ。正直、自分もフローリングの床に直に一晩眠るのは辛い。克己も同じだ、絶対に朝起きた時に体の節々が痛い。
 それなら
「そうだ、ならみんなで寝ればいい」
 パン、と手を叩いた翔に二人は顔を上げ、怪訝な顔を見せた。それに翔は満面の笑みを向け、座っていたベッドから立ち上がる。
 その後、壁にくっ付いていた二つのベッドを真ん中に寄せてくっ付けて、3人横に寝るという荒技を実行し、長身の正紀と克己は足がベッドからはみ出ていたが、床に寝るよりましだ。それどころか、正紀はどこか楽しげに寝転んでいた。
「はは、マジ修学旅行みてぇ……うちのガッコって旅行ってなかったっけ?」
「無いだろ。戦争行きという旅行はあるがな」
 端に寝ている正紀の隣りに克己が寝転がり、その隣りには翔が寝ていた。
「その旅行はカンベンだなぁ……。折角面白い奴らに会えたんだから、楽しみたいのに。なー、甲賀、お前だって日向と旅行いきたくねぇ?」
「……お前、さっきから……」
「え。俺は克己と旅行いきてぇけど。何、ダメ?」
 克己が答えるより先に翔が先手を取り、また何も言えなくなった克己を正紀が笑う。
「じゃ、卒業したらみんなで甲賀の実家に行こうぜ。東北、だっけ?」
「待て、何で俺の家なんだ」
「だって俺と日向地元近ぇんだもんな。天才もいずるも同じだし。三宅んとこは引越し多いらしいし、それなら確実な甲賀くんと東北旅行。なっ、日向」
 いちいち翔に同意を求めるな。
 そう克己が心の中で吐き捨てているのを知ってか知らないでか、翔はのん気に同意する。
「そうだなー。それが終わったら今度は克己がウチに来れば良い」
「おぉ!良かったな、甲賀」
「もうお前らさっさと寝ろ」
 うるさい正紀に背を向けると、必然的にこちらを向いていた翔と眼が合う。少し眠そうなその目に微笑まれ、あ、と思った瞬間、後頭部に衝撃が走った。
「お前っ」
 いきなり殴られ、克己が身を起こして振り返ると、そこにはすでに熟睡状態の正紀が寝息をたてている。
「……篠田、寝相悪いんだな」
 翔も大の字になって寝ている正紀を覗き込み、呟く。
「俺、そういえば矢吹から聞いた事あるな」
「……何を?」
「寝てる篠田は無敵だって」
「………」
 思わず黙り込んでしまった克己は、彼をここに泊めてしまった事を今更ながら後悔していた。彼を真ん中に寝せなかった判断が正しかったことが不幸中の幸いだろうか。いずるに変な弱みを握られてしまったのがまず最大の不幸だ。
 諦めて正紀に背を向けて寝転んだ克己を、じっと見ていれば、目線で何だ、と問われ、翔は暗闇の中で苦笑してみせた。
「……いや、美形は眠そうにしていても美形なものなんだな、と」
「そうか」
「美形ってのは否定しないのか」
「褒め言葉を否定する必要はないだろう」
「……いい性格してるよな、ほんと」
 ふ、と笑って薄暗い天井を見上げる。普段見慣れた天井でも、角度が違うと少し違って見えた。この角度は少し実家の天井と似通っているとぼんやり思い出した。
「な、行けるといいな、東北旅行。みんなで」
「……何もないところだ」
「んなわけないだろ。それに、もし何にもなくても、みんなで騒げば楽しいもんだ」
「俺の実家で騒ぐつもりなのか、お前は……」
「だって、家って田んぼに囲まれてんじゃねぇの?お隣さんに行くのにも車が必要って」
「物凄い偏見だな、それは……」
 なんだ、違うのか。
 翔がそう心で呟いている間、会話が途切れ、夜の静寂が再び部屋を支配する。しばらく天井を見上げていたが、まだ隣りに居る友人は起きているだろうかと口を開いた。
「な、克己」
「……何だ」
「……ごめんな」
 突然の謝罪の声に克己が目を開けると、暗闇の向こう、翔がじっとこちらを見ていた。
「何が、だ?」
 小声でそう問えば、こっちを見ていた眼が伏せられる。
「……ごめん、俺、今ちょっと克己に嘘吐いてるんだ」
「……翔」
「でも、後で言うから。ちゃんと、話すから」
「そうか」
 薄々彼の言う“嘘”に気付いてはいたけれど、まさか謝られるとは思わなかった。翔の方もあっさりと納得されるとは思っていなかったのだろう。伺うように克己を見上げる。
「……許してくれるか?」
「後で、ちゃんと話すんだろう?」
 ぽん、と肩に手を置かれ、そこでようやく翔は緊張から解き放たれた。
「……ありがとな」
 ふぅ、と息を吐き出し、再び天井に体を向き直す。何だか眠気が飛んでいってしまった。
「俺……少し怖いんだよな」
 小声でまた話しかけると、克己の返事は無かった。寝てしまったのだろうか。それでもいい、と続けた。
「篠田と、さっき話したけど……もし、あの人が、やっちゃいけないことやってたら、俺はどう動けばいいか……本当は、全然わかんねぇんだ」
 その時、自分は彼女を守れるのだろうか。彼女を守る為に、大切な友人を敵に回せるのだろうか。それが頭に回るだけで、答えが見つからない。
「篠田は良い奴だし……良い奴、なんだよな……理由も、解かるし協力してやりたい。でも、俺……俺は……あの人を無くすのも怖いし、友達と敵として向き合うのも怖い。どっちを選択しても俺は絶対後悔する。それが、すごく、俺は……」
 眉間を寄せ、翔は枕に爪を立てた。柔らかいそれに指は沈み込むだけで、何の手ごたえもない。それに奥歯を噛み締めていると、突然ぐしゃりと頭を撫でられた。
「……克己」
「もう、寝ろ」
 うるさかったかと眼で問えば、頭を引き寄せられ、そうじゃないと頭をまた撫でられた。
「大丈夫だ。あの馬鹿は一発二発殴った程度じゃ死なないし、馬鹿だから次の日には殴られたことくらい忘れている」
「……克己」
「お前も、馬鹿を見習って次の日に忘れていれば良い」
「それ、なんだかなぁ……」
 あんまりな克己の言い草には苦笑してしまったが、少し安堵していた。正紀との話では様々な不安と恐怖に囚われてしまったが、それが友人のおかげで少しずつ消えていく。その所為か急に眠気が襲ってきて、目蓋が重くなった。
 あんまり克己に甘えたら、天国にいる彼の恋人に呪われそうだと眠りに引き込まれつつ思うが、少しくらいは許して欲しい。
「……橘さん」
 でも、最後に思ったのは、彼女のこと。
「なにもしてないと、いいなぁ……」
 そうであって欲しいと、小さく呟いて。
 本当は、その可能性に薄々気付いていたのかも知れない。だから、彼が何らかの原因であって欲しいと川辺の元に行ったのかもしれない。
 姉本人であれば、きっと、ここまで迷う事はなかった。彼女なら絶対にそんな事はしていないと確信出来ていただろう。けれど、橘とはここで初めて出会い、彼女自身のことは殆ど何も知らない。強く信じられるほど、彼女の事は知らなかった。きっとこれが、姉と橘の最大の違い。
 でも信じたい、信じさせて欲しい。
 そう、強く願いながら、翔は目を閉じた。
 翔が寝入ったのを気配で感じ、克己は如何ともしがたい気分に身を起こせば、隣りから息を吐く音が聞こえてきた。
「日向、寝た?」
 こちらに背を向けている正紀の小声での問いに頷くと、「そっかー」とため息と共に彼が情けない声を上げた。
「甲賀、さっきの俺達の話聞いてただろ」
「……どうしてそう思う」
「シャワーの音、途中から消えたのにお前こっちこねぇんだもん」
 正紀の笑いの混じった指摘には何も言えない。シャワーなんて使っていたら二人の会話は聞けないのだが、シャワーを使うと言って出たのに音がしないのは流石に不自然だった。正紀も観察力に長けているが、そうでない人間も察しが良ければすぐに気付ける。
「ま、お前に説明する手間省けて良かったけど。でも、少しは知ってたけど日向も結構酷い目にあってたんだな……普段あんなに明るいのに。お前は知ってたわけ?」
 半身を起こしてベッドに頬杖をついた正紀に、克己は眼だけで頷いた。その答えは正紀にとっては予想済みのものだ。
「そ、か。日向の気持ちは解かるよ。んでも、悪いけど俺にも譲れないものはある」
 眉間を寄せた正紀に、克己は何も言わない。それは、無言の了承なのか、それとも無言の抗議なのか、どちらかはわからなかったけれど。
「でもさ、甲賀。お前はどんな事があっても日向の味方してやれよ。日向は一人にしちゃ駄目だ。きっと、日向もどんな事があってもお前の味方をする」
「……そうだな」
「それと、東北旅行考えとけよ、本気で」
「……」
「あ、何ちょっと嫌そうにしてんだよ。わっかんねぇかなぁー、そりゃ、俺にも生きる目標みたいなのはあるさ。父さんの意思を継ぐとか、探偵事務所つくるとか。んでも」
 先に具体的な楽しみが待ってる方が、もっと生きる気合が入るってもんじゃね?
 ベッドに頬を置き、正紀が欠伸をしたのを眼の端で捉えて、克己は不意に翔へと目をやった。目蓋にかかっていた髪を払ってやると小さく身じろぎをする。
「……こいつは何を楽しいと思っているんだか」
「そういや、日向俺といずるの関係が羨ましいっつってたな」
「は。冗談だろう?」
 正紀といずるの関係と言われると、克己の頭の中にはSとMの関係としか出てこず、正紀の情報を一笑に伏した。
 いや本当だって……と何度も言う正紀は放っておいて、克己も寝に入った。





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正紀に惚れずにはいられない。