「あ、克己、お帰り」
 川辺との話をすませて帰ってみると、いつもどおり翔が笑顔で迎えてくれた。
 いつもどおり、というあたりは首をかしげたくなるのだが。
 普通恋人が出来たら朝帰りを二三回してもおかしくないのに、翔は放課後今まで通りに帰宅をして克己と夜を過ごしていた。そして就寝時間に規則正しくベッドに入る。
 もしかして、あの告白は何か考えがあってのことだったのだろうか、と思う。というか思いたい。
「翔、お前」
「あ、克己、俺今日の夜ちょこっと居ないから」
 って、さっそくか。
 思わず口に出してしまいそうだったのをぐっと堪えた。夜出かけないから、と淡い期待をしていた矢先でへこたれそうになる。川辺からは結局例の質問の答えは貰えなかったこともあって、思わず眉間を寄せていた。
「何で……」
「ん?食堂借りれたから」
「……食堂?」
「そ、明日教官にお弁当作るんだ」
 ベタ過ぎる彼の行動にはもうため息を吐くしかない。
「翔……」
「克己の分も作ろうか?俺、結構料理自信あるんだ。叔母さんとよく一緒に作ってたから」
 ここで頷くだけだったら、きっと遠也にヘタレと罵倒されたに違いない。
「それはありがたく受け取るが、翔」
「お。マジで?じゃあ俺頑張って作ってくるな!」
「待て、翔……」
 了承の返事を貰った翔は喜び勇んで部屋から飛び出し、克己の制止の声なんて届かなかった。
 この状況、どうしろと。
 取りあえず翔が帰ってくるのをひたすら待つしかないだろう。
「たく……」
 やることが無くていつも手にとるのは、愛用の銃。これの手入れが暇つぶしだった。
 翔が最近不在だったおかげで、銃は黒光りしている。
「……俺には、関係ない」
 言い聞かせるようだった声色に眉を寄せて、胸元を掴んだ。
 その下にある硬い物体の存在が今は何だか重かった。
 何故こんなに苛立つのか。
 解からないけれど。
「……や、克己、無理してくれなくてほんっと大丈夫だから!」
「これくらい俺にも出来る」
「手が震えてる震えてる!!」
 そろそろ銃の整備も飽きてきたので、翔の様子を見に何となく食堂を覗いたら、何故か気がついたら卵を割ることに神経を使っていた。
 食堂は南寮とも兼用だから、変な奴等にからまれないように、と忠告するだけのつもりだったのだけれど。
「こんなに神経を張り詰めたのはプラスチック爆弾の解体をやらされた時以来だ」
 緊張で張り詰めた呟きに翔は呆れるしかない。
「や、何かそれ次元が違うだろ」
 広い食堂で、作業場だけに光をつけて一人で作業しているのが何となく心細く思っていたところに克己が来てくれたのは有り難かったが、手伝わせてしまったのが運のつき。
 何故卵を割るのに神経を使うのか解からない、とぼやけば、何故神経を使わないのか解からない、と返された。
「克己もさ、覚えれば多分コックとかパティシエ並の人になれると思うんだけどな」
 何せ、基本なんでも出来る人間だから。
 けれど、どこか彼から欠点を奪ってしまうのは勿体ないと思ってしまう自分がいる。それは多分、ウィンナーでタコを作ったくらいで尊敬の眼差しを貰えるからだろうが。
 これで林檎でウサギを作ったらどんな反応が貰えるんだろう。何だか少し楽しい。
 克己と近いところに居るようになって気付いた事は、彼はいろんな人に完璧とかオールマイティとか言われているけれど、実際のところは出来ないことや知らないことはとことん追求するタイプなだけだったという事。
 自分が知らない、解からない事があるのが嫌で、どうせやるのなら完璧に。と、いう事だろうか。
 好奇心旺盛な完璧主義者で、その努力をあまり他人に見せないから単なる何でも出来る人に見られるのだろうけど。
 疲れないのかな。
 ちらりと克己の表情を伺ってみると、何やら難しい顔をして、卵を割る角度の計算式らしいものをブツブツ呟いている。
 手の抜きどころが解からなくて、何事にも最頂点を目指して。
 一つ二つ三つ、いやもっと沢山、出来ないことがあるのが人間として普通で。そこを補い合うのが他人との交流というヤツで。
 それとも、そういう性格で親にも過剰な期待とかされて、出来ないということが許されなかったとか?
 それは少し深読みしすぎだろうか。
 でも、何にしても普段冷静沈着な彼がこうして何かに必死になっている姿を見るのは楽しい。
 可愛いなぁ、とか思ったりもするけれど。
 人より負けず嫌いで、自分が出来ないことを発見したら、弱点克服の為に努力する。人並み以上を目標に人並み以上に努力をし、結果他人から何でも出来ると評価される人間になった。
 何で、そこまで気を張らないといけなかったんだろう。性格という説明だけでは終わらないような気がした。
 聞いてみようかと思ったけれど何をどう聞けばいいのか解からず、とりあえず。
「克己、卵もう良いから座ってろよ」
「良いのか?まだ6個しか割ってない」
「充分です」
 そうか、6個も割ったのか。ああ、何作れと。
 一応、穂高の家に居た時に料理はある程度してきたが、普通の料理と弁当の料理では多少勝手が違う。弁当なんて実は作ったことが無いから図書館から本を借りてきたものの、何故こんなにお花畑―やらハート型の型抜きを使ってーだとか、少女趣味なものが多いのだろう。借りてくる本を間違ったのか。
「じゃあ、これの皮剥いてもいいか?」
 色々と考えていた隙に克己の手には林檎が。その赤さが調理実習の時の血まみれじゃがいもを彷彿させる。
「怪我するから止めといた方が良いんじゃね?」
「料理で怪我をするのは当たり前だろう」
「当たり前じゃねぇ!料理で怪我するのが当たり前だったら全国のお母さん大怪我だろ!」
「……全国のお母さんは一晩寝れば怪我完治するんだと思っていたが、違うのか」
「何だその超母さん」
「じゃあ、コレは……何だこの奇怪な道具は。一体何に使」
「克己、いいから座ってろって。あ、そだ、何か好きな料理とか無いのか?俺作れたら作るよ」
 どうにか話を逸らそう。
 苦肉の策だったが、克己の方は泡だて器から視線を外してまた少し難しい顔をして考え込み始めてくれた。
 始めは、これで少し別なことに集中してくれるな、と思ったのだけれど、流石に30分以上も考え込まれると声をかけずにはいられなくなって来る。
「おい……お前、好きな料理無いのか」
「無い、わけでは、無い……と思う」
「お母さんが作ってくれたのとかで、何か無いのか?」
「……まず母親とは、料理をするものなのか?」
「は?え、もしかして克己の家お父さんが料理してた?」
 世間には主夫というものもあるらしいから、そういうことなのかと思ってみれば彼は首を横に振る。
「そんなわけ無いだろう。俺の父親だぞ」
「……何だろう、その物凄く説得力のある一言は……」
「戦闘食で上手いと思ったものは、肉じゃがと鯖の味噌煮くらいだな」
「それ、もしかしなくても、料理っつーか戦闘食の感想だよな」
 戦闘食は翔も食べたことがあるが、どれもこれもお世辞にも美味しいとはいえず、克己の言った肉じゃがは確かに食べられる範囲の味だった。因みに、鯖の味噌煮は未確認。
「普段克己は和食系統しか選んで無いよなー」
 確か。
 朝食昼食夕食のことを思い出して考えてみる。あまりそんな意識をしたことは無かったけれど、一応ABCと分けられているランチでその中でも和食っぽいメニューを選んでいることが多いから、彼は自分で意識していない和食好きか。
 何だろう。こんな僅かな会話で少し克己が可哀想になってきた。
「じゃあ、和食系にするか……」
 本来、川辺の為に作るのだから彼の好みを考慮しないといけないはずなのだけれど、近くにいる親友にも食べて欲しくなってきたので。
 克己が喜んでくれるなら、まぁいいか。
 何故か、そんな風に思ってしまった。
「ところで、目玉焼きとは何の目玉を焼くんだ?」
「いや、だから座っていようよ克己君」
 置いておいた本を見ていた克己がまた新たな興味を持ち始めている。惨事を防ぐ為にその本を彼から奪い取ると暇なんだと言いたげな彼と眼が合う。が、暇で良し。
「ちなみに、目玉焼きは卵割って焼いたヤツな。黄身が目玉に見えない?」
「見えない」
「キッパリ言うか」
「目玉というのは球体だ。抉り出せば解かるが、実際の人間の眼球は」
「わーわーわーわーッ!!変なこと言い始めるなよ、おまッイッテぇ!」
 物を切っている時に余所見をするもんじゃない。
 普通に包丁をまな板の上に置いたつもりだったのだが、運悪く置いたその場所に自分の指があったようで、自分でも何が何だか解からないで悲鳴を上げた。
「悪い、大丈夫か」
「あ、ああ、平気。あー、くそ、何かお約束だなぁ」
 今まで料理で怪我したこと無かったのに、誰かの為に料理をしていて怪我をするなんて典型的すぎて笑うしかない。これで明日彼に弁当を渡しに行った時、指に絆創膏をしている自分を見て彼はどう思うのだろう。
 痛み程ではなかった小さな傷からは紅い血がにじみ出てきて、適当に舐めていれば何とかなるかと指を舐めていたら目の前に絆創膏が現れた。
「え?」
「少しの傷でも油断出来ないんじゃなかったのか?」
 何かと思ったら克己が少し呆れた様子でそれを差し出していた。この間言った事をどうやら覚えていたらしい。
「でも、これくらいだったら本当に明日には治ってるって」
「超母さんなのか、翔は」
「違う。てか何で持っていたんだよ、絆創膏」
「いつ怪我するか解からないからな、お前が」
「俺かよ!」
 克己は有無を言わせず絆創膏の包装を破いた。そこまでしたらもう貼ってもらわないと無駄になってしまうので、もう翔は何も言わず彼に任せることにした。
 他人にこんなことをしてもらうのは、久し振りだ。
「川辺のことは、本気なのか」
「え……あ、はい」
 突然の質問にこくんと思わず頷いていたら、軽いため息と共に頭に軽い重み。この感じからして、手が乗っかっているようだ。
「翔」
「何だ?」
「……お前、もう川辺と寝たのか」
 ごとごと。
 あまりにも直接的な問いに翔は思わず手に持っていた野菜を取り落としていた。それが石の床に鈍い音を立てて落ち、ハッとした時には足元にジャガイモが数個転がっていた。全ては変な事を聞いて来た友人の所為だ。
「おま……いきなり何聞いてくるんだ!」
「寝たのか」
「くり返すな!んなことしてねぇよ!」
 恋愛事、色事にはあまり興味がなさそうな顔をして、随分と下世話なことを聞いてくる友人に思わず叫んでいた。翔自身、恋愛事にはあまり慣れていないし経験も少ない。色事なんてとんでもない。それどころか、普段友人達の猥談にも加わらないのだ。あまり免疫も無く、思わず顔を赤らめていた。
 そんな翔の反応をどう思ったのかただ見つめてくる克己から目を逸らし、もう一度小声で「してねぇっての」と決まり悪くくり返す。
「何でそんな事聞いてくるんだよ」
 正紀や大志あたりなら興味本位で聞いてきそうだが、まさか克己にそんなことを問われるとは思わなかった。動揺してしまった心を落ち着けようと、手近にあった林檎を剥き始めた翔の正面には克己がまだいる。
「ちょっとした興味」
 そう、さらりと言われてしまっては、納得するしかない。あまり納得出来なかったけれど。
「興味、って……克己ならその……そういう経験俺よりあるだろ。今更俺に聞いてどうすんだ」
「男相手にはそんなにないからな。お前、本当に川辺と寝てないのか」
「してません。ったく信用しろよな、俺が克己に嘘吐くわけな……い」
 そこまで言って、一つ思い当たる事があり思わず語尾を小さくしてしまったのを克己も見逃さなかった。
「翔?」
「あ、いや……とにかく、そんな事にはなってないから!か、克己の方こそどうなんだよ、色々付き合ってきたんじゃねぇの、女の子と……と……うあ、ごめん……」
 何とか別な方向に話題を変えようとして失敗してしまう。思わず項垂れた翔が呻くように謝罪してきたのに、克己は一瞬怪訝な顔を見せたが、すぐにその反応の理由を思い当たったらしい。
「別に気にしなくて良いが」
「いや、悪い。ごめん。そんなつもりじゃなかったんだけど」
 克己が、好きだった相手を自らの手で死なせてしまったという話を聞かされたのはつい最近だった。それなのにうっかり失言をしてしまった唇を噛み、それ以上は何も言えなかった。どうフォローしようか考えていたからというのもある。
「遥」
 そこで、克己の方から話を始めたことに翔は驚いて顔を上げた。
「海原遥。彼女の名前」
「克己……」
「大して特徴のあるヤツじゃなかった。どこにでもいるタイプだ、顔だって美人とはっきり言えるものじゃない。内気でちょっと声をかけただけでもビクビクしてて、初めは嫌われてるんだと思った。それが」
 一端そこで言葉を止め、克己は小さく息を吐き出していた。
「俺が、昔そいつの為なら全てを投げ出しても良いとまで思った相手だ」
 意外と言えば、意外だった。克己にそこまで思わせた相手がいるというのは。しかし、有り得ると言えば有り得ることだ。彼も人なのだから誰かに好意を寄せることはあるだろう。それに、張り詰めた世界で生きてきた克己にとっては必要な存在だったのかもしれない。
「克己の方から、言ったのか。好きだって」
「いや、言ってきたのはあっちだ。その時は振ったが」
「振ったのかよ」
 その時思い出したのは、翔もたまに見かける克己の女子からの呼び出し場面だった。好きだと告げた女の子には容赦なくNOの返事をしていた彼は、恐らくその時も躊躇いなく答えたのだろう。思わず、顔も知らない遥という少女に同情してしまった。
「その後色々あって、俺から好きだと言ったら泣かれたな」
 振った時には泣かなかったのに、と不思議そうに克己はぼやいていたが、何となく彼女の気持ちは理解出来る。相当嬉しかったに違いない、涙を堪えることが出来ないくらい。
「彼女が好きかどうか、本当はその時はまだ自分でもよくわからなかった。でも初めて誰かに優しくしたいと思った相手は彼女で、この手で守りたいと初めて思ったのも彼女だった」
「……好きだったんだな、お前」
「良い恋人にはなれなかったがな」
 悔しげに片手を強く握り、そう吐き捨てた克己に、翔は林檎の皮むきを止め、ナイフを持つ手を膝に落ち着かせた。
「克己は優しいから、その人は幸せだったんじゃないのか」
「……そうか?」
「そうだ。大体、克己も言ってたじゃないか。好きになった相手に好きになってもらうのは難しいって。その人は克己に好きって言ってもらえたんだから、さ。今だって……今でも、好きなんだろ。その人のこと」
 懐かしげに語る姿からそう翔は感じたが、克己の方はそれには答えなかった。ただ、目を伏せるだけ。それを肯定と捉え、翔はにへらっと締まりのない笑みを浮かべてみせた。
「少なくとも、頭もスポーツも外見も人並み以上の克己君に好かれて嫌だと思う女の子はいねぇよ。いい男がそんな顔すんなって。林檎でも喰って元気出せ」
 さっきから剥き続けていた林檎を振り返れば、6個ほど皮を剥かれて丸裸になったものがテーブルの上に並んでいる。無意識だったが、剥きすぎだ。
 思わず動きを固めてしまった翔に克己は苦笑した。
「それ、いつ言われるかと思っていた」
「……お前、気付いていたなら止めろよ」
「あまりにも見事な皮むきだったので、つい」
 恨めしげに見られながら克己は向かれた林檎を手にとって食べ始めた。
「……美味いか?」
「いや、あまり」
「……季節じゃねぇもんなぁ……」
「でも美味い」
「どっちだよ」
 翔の不満げな言葉を無視して、克己は大して甘味も酸味もない林檎をかじり続ける。
 克己は基本、物事にあまり興味を示さないような顔をして、やることはきちんとやっているわけだ。
「つーか何だかんだいって克己はちゃんと青春謳歌してるんじゃねぇか。俺なんて恋だってした事ねーのに……」
 顔が良いとやはりそういう面は自然と早熟になるのだろうか。正紀ではないが、そういう面の差を見せ付けられるとやはりどこか悔しいものがある。
「川辺は?」
「ばっか、川辺は」
 そこまで口にして翔は言葉と動作を同時に止める。それに克己は小さく舌打ちし、誘導尋問に引っかかりかけた自分に翔は項垂れる。危なかった、克己は色々と抜け目が無くて困る。
「……川辺教官とはらぶらぶですから」 
 心の中で呻きつつ、少し引き攣った声でどうにかそう言い切った。張り付いた笑顔を向ければ、克己は「それは良かった」と何とも白々しい感想をくれる。一体彼がどこまで感付いているのか、翔には全く分からなかった。頭の良い彼なら全て気付いているのかも知れない。その上で、川辺との事を聞いてきているのだとしたら、それは大分人が悪い。
 ならば、と翔は口を開いた。
「克己の方こそ、随分と俺と教官の事気にするんだな?」
 ちょっとした意趣返しと、克己がどこまで気付いているのか探るつもりだった。
 まさかそんな事を言われるとは思わなかったのか、克己も眉を上げる。その反応なら、もしかしたら自分が狙っている言葉を彼から引き出せるかも知れない、と翔は少し意地の悪い笑みを浮かべた。
「もしかして、お前妬いてる?」
 さぁ、どう出る。
 取り合えず、十中八九否定をするだろうから、その否定の仕方で彼がどこまで気付いているか読めるかもしれない。
「……ああ」
 しかし、返事はそれだけで、目的の事を探るには短すぎた。なんだ、とため息を吐いてから顔を上げる。が
「……ん?」
 今コイツ、肯定しなかったか?
 予想外の返答に茫然と相手を見上げると、克己の黒い目と視線が合い、自分を見つめるそれから逃げることが出来なかった。
「翔」
 はっと気付けば、今までにないくらい接近している友人の顔が正面にあり、声を上げそうになる。それをどうにか堪えた自分には拍手を贈ってやりたいところだが、そんな余裕はなかった。
「ちょっと待て……なんだよ、どうしたんだよ」
 平常心を装って笑って見せたが、そんな笑い声が浮いたものに聞こえるこの状況に困惑するしかない。
 あまり他人の香りなど意識したことは無かったが、それを鼻が感じ取れるほどの接近だ。
「……嫌なら、それで刺せば良い」
 低い声で自分の手の中にある包丁の存在を教えられ、慌ててそれを離した。近付いている相手の体を、何かの拍子で傷つける事になってはいけない。
 からりと石で出来た床に音を立てたそれを克己はどこか不思議そうに見ていた。なんだかその反応が翔を物寂しい気分にさせる。
「ばか……んな事出来るわけねーだろ……」
 思わず眉間を寄せ、口元を歪めて視線を落とした。
 もし、克己が自分にその可能性が少しでもあると思っていたとしたら。そう考えると情けなさ過ぎて泣きたくなったが、不意にその顔を上げさせられ、戸惑いつつ視線を上げたら克己が少し困ったように笑っていた。
「分かってる」
 少し優しい音に安心させられたけれど、その言葉の意味には眉を下げる。
「……お前、ずるいな」
「それも分かっているけどな。翔も相当だ」
「俺?」
 なんの事だと瞬きをすれば、額に軽い頭突きをされた。
「いってぇ!」
「変な探りを入れるなんて、お前には出来ないから止めておけ」
「……お前、ガード固すぎだな」
 どうやら、こちらの意図は気付かれていたらしく、克己の忠告に翔は口元を引き攣らせた。どうやら自分は勝負に負けたようだ。一瞬にして変な緊張から解き放たれ、盛大なため息を吐いた翔から、克己はすぐ離れた。
「翔が変な事を言い出すからだ。楽しめたけどな」
「楽しむなよ」
 克己はたまに人が悪い。何か言ってやろうかとも思ったが、これ以上この話を長引かせるのは得策ではない。
 それに、何だかさっきから心臓がなかなか落ち着かない。熱くなっていた額に手を置いて、会話のネタを引き出そうとした。
「ああ、そうだ」
 そこで思い出したのは
「碓井和臣って人知ってるか?」
 軍関係の話なら克己の方が遠也よりは詳しいだろうと思い、まず彼に聞いてみることから始めた。少しずつ、核心に近付いていけば良い。そう思いながら。
「なんか、その人父さんの友達だったみたいでさ。ま、将軍様にそうそう簡単に会えるわけないだろうけど、会ってちょっと話聞いてみたいかな、なんて」
 先程の和泉との会話は思わぬ収穫と共に思わぬ困惑を得られた。和泉の言っていた事はあながち間違いではないのかもしれない。周りは、自分の為に何も知らせなかったという事は。
 穂高も、母も姉も、もしかしたら父も。
 姉はただ沈黙のまま、死を選んだ。もしかしたらその身に新しい命があったことも承知の上だったのかもしれない。何も知らずに生かされた自分は、もしかしたら自分が思っていた以上に、彼らに大切に想われていたということなのだろうか。
 目を落とした手はあの頃よりは大きくなっている。事実を受け止める事が出来るくらいには、成長出来ているはずだ。あの頃とは、今は違う。
 誰かを救えるくらいには、成長していると思いたい。だから
「だから、俺さ」
「会うな!」
 突然克己の強い口調と肩を掴んで来た手に言葉を止められ、翔は目を見開いた。その驚きの視線に克己も気付き、ハッとしたように目を逸らしたが、すぐにまた口を開いた。
「そんなヤツ、会ったところでどうなるものでもないだろうが……!」
「何だよ、克己どうした?」
 まさかこんな風に言われるとは思わず、翔は困惑して克己を見上げた。苛立っているというよりは、焦っているように見える。こんな彼の様子は珍しかった。掴まれた肩が少し痛い。
 克己も自分が少し異常な反応を見せてしまったことに気付いたのか、すぐに手を翔から離し、それを自分の額に当てていた。
「悪い……何でもない。悪かったな」
「いや、大丈夫だけど」
 二度も謝られ、翔は慌てて手を横に振った。
 克己もその碓井和臣という人物が嫌いなのだろうか、と和泉の顔を思い出した。彼も随分と碓井某の事を嫌っていたようだった。こんなに色々な人間に嫌われている彼は一体どんな人物なのだろう。そして、その嫌われている人間と友人だったという自分の父は……。
 やっぱり、ロクでもない人間だったんじゃないのか?と翔は密かに思いながら目を落として、また自分の手が林檎を剥いていた事に気が付いた。




Next

top