「日向!」
遅い遅いと心配していた正紀と遠也はようやく帰ってきた彼と、隣りにいた和泉を見て怪訝な顔を見せる。何故か、翔の足取りがふら付いているのは気のせいだろうか。
翔は二人の顔を見て、一瞬ほっとしたように表情を緩めたが、その後すぐに疲れたような横顔になる。
「悪い、遠也、篠田……俺ちょっと用事出来たから先帰っててくんねぇ?」
「日向、それは」
しかし、遠也は力ない彼の言葉には従えなかった。こんな弱っている彼を一人になんて出来るわけがない。そんな遠也の黒い眼に翔は彼が言いたい事を察し、困惑した。が
「俺が、付いて行く」
和泉の突然の言葉に遠也もだったが、翔も驚かされた。
「和泉……?」
「それで、どうだ」
彼は真直ぐに遠也を見たが、それだけでは納得は出来ず遠也は首を横に振った。彼とは一時的な盟約を交わしたが、翔を二人きりに出来るほど信用はしていない。
「駄目です」
「つか、お前何考えてるわけ?」
正紀も少し棘のある声を出して和泉を睨む。調理実習での一連の事が彼らには鮮明に頭に残っているらしい。
それを見て和泉は小さくため息を吐く。
「強いて言えば、何も考えちゃいない」
その答えに翔は目を見開いて彼を振り返った。
「和泉、それ……」
それはつまり、自分を殺すとかそういった類の事も考えていない、ということだろうか。そんな翔の驚きの眼に和泉も気付き、詰まらなそうな表情を見せて顔を背けた。
「ふざけた事言ってんじゃねぇ!」
正紀はその言葉の意味を読みきれず、自分より背の低い和泉の首元を掴み上げた。その短絡的で血の気の多い反応に、和泉は冷めた眼で元不良を見上げる。
「お前は威嚇しか出来ないのか……前から思っていたが、お前のその喧嘩格闘技はどうにかしろ。汚すぎて見苦しい」
「な……っうぁ!?」
首元を掴んでいた腕を取り、和泉は片手で自分より大きな体を地に投げた。地面に背を打ち付けることになった正紀は急に視界が反転し、何が起こったのか分からず目を瞬かせている。
そんな彼を片腕一本で投げた和泉は冷たく見下した。
「汚いというのは動きに無駄が多いということだ。お前には自分より大きな相手を投げる程の技術は無い」
ふいっと顔を彼から背け、唖然としている翔に和泉は目をやり、それを細める。
「行くぞ、日向」
「え……あ、ああ」
「ちょっと待て、和泉!」
背を向けようとした和泉に正紀は慌てて身を起こし、強く睨み付ける。その眼はどこか野犬に似ていたが、活きがいいという点だけは認めてもいいのかもしれない。
「いつか、お前投げ飛ばしてやるからな」
そんな浅はかな挑戦状も彼は鼻で笑い、歩き出す。翔は二人に軽く声をかけてから和泉の後を追った。
「和泉、有難う……な」
遠也たちが自分を追ってこないよう、和泉は計らってくれた。それに、前にも和泉は自分を何度か助けてくれていたらしい。何とも不器用な方法で。
「俺はお前に礼を言われることは何もしていない。お前が感謝するのは勝手だが、心外だ」
しかし、和泉の言葉は冷たい。期待はしていなかったけれど。
「あ……そう。さっきのアレ、合気道みたいな投げ方だったな。それに、篠田のアレも結構的を射ていたってか……あ、俺はどう?この間俺とやっただろ、俺はどうだった?」
何とか気まずい沈黙だけは回避したくて、話を振ると面倒臭そうではあったが、和泉は口を開いた。
「日向は綺麗過ぎる。人を倒すためのものではないように見えた」
その感想に翔は先日の和泉との一戦を思い出した。彼と戦っている時は恐怖ではなく、感じたのはむしろ愉悦だったように思う。
「矢吹も綺麗な型をしている。篠田は矢吹に色々教えてもらえば良い」
そして、思いがけずいずるの名を出した和泉には少し驚かされた。その内容にも。
「矢吹、って強い……のか?」
普段の訓練の時はいつも克己相手で精一杯だったので、周りの様子をあまり見ていない。いずるは確かに弓道をやっていたと聞いているから、姿勢は良く、凛とした空気を持つ。だが、元不良の正紀とどちらが強いかというと正紀の方かと思っていたが。
「少なくとも、篠田よりはな」
和泉のあっさりとした一言には感心してしまう。彼は意外とクラスの中を見ていたということだ。
「だが矢吹はいつも何か躊躇うように腕を振っている。その躊躇いが無ければもっと伸びる」
「躊躇い?」
「……それに、銃を持っている時は何かおかしい。矢吹は銃の成績はあまり良くないだろう」
その指摘に、他の授業はそつなくこなしている彼が、銃だけは何故か平均以下である事を思い出した。本人は、弓道とは勝手が違うから、と苦笑していたが。何か他に理由があるのだろうか。
それにしても和泉は饒舌だった。どこか熱っぽさも感じるあたり、彼も体術に何らかのこだわりを持っているのかもしれない。
「甲賀は、俺が一番嫌いな戦い方をする」
そこで、和泉が次に口にしたのは克己の名前だった。憎しみが混じったその言葉に顔を上げれば、和泉は何かを思い出しているように自分の手の平を眺め、唇を噛み締めている。
「アイツは、軍人だな。いや、ただの軍人じゃない。頭の中に機械を突っ込まれたSBSみたいだ」
どこか悔しげに吐き捨てた和泉の言葉の中に聞きなれない単語があった。
「えす……なんだ、それ」
思わず足を止めて聞くと、和泉は怪訝な顔で振り返る。どうして知らない?と言いたげな眼だ。
「知らないのか。軍が造った戦闘強化人間を。有馬蒼一郎の息子の癖に」
最後の言葉には少し眉間を寄せていたが、それは口にせず問いを投げかけた。
「どうして、軍が造ったその……それと父さんが関係あるんだ?」
自分の父親は科学庁の研究者だったはずだ。軍と共同でその戦闘強化人間とやらを作った張本人だったとでも言われるのだろうか。
けれど、和泉の返事は違った。
「何を言っている。有馬蒼一郎は、人間の脳に機械を入れてその人間を操れるようにする人道に反した案を反対し、当時准将だった碓井和臣と対立したんだ」
碓井和臣。その名前なら聞き覚えがある。確か、最年少で将軍という地位についたと数年前にもて囃された人物だ。テレビでその顔を見たことはあるが、帽子を被っていたし顔はよく見えなかったと記憶している。それ以前に興味が無かった。
「結局、碓井和臣は自らの子どもの脳にその処置を施して騒ぎを収めた。地位の高い人間が自ら犠牲を払ったと、馬鹿な周りは感心していたようだったが……最低の男だ」
吐き捨てるように言った和泉の目には怒りが滲んでいる。それは一体どういう意味を持っているのだろう。
碓井和臣という人間の名前は、ニュース以外でも聞き覚えがある。翔の義父である日向穂高の元上司のはずだ。まほろからは彼の所為で穂高の眼は失われたと聞いていたから、翔自身その人物に良い印象は無い。だが、穂高と父はそれなりに親しい仲だったと聞いている。普通、上司と対立している人間と友情を築けるだろうか。
それと、もう一つ気になったのは、やはり自分の知らない何かを知っている和泉のこと。
「和泉は、どうしてそんなに色々知っているんだ?」
特に、翔の父である有馬蒼一郎の事は恐らく翔自身より知っている。その問いに和泉は眉間を寄せる。あまり聞いて欲しくはなさそうだったが
「どうして、その眼は蒼いんだ?もしかして、お前……姉さんの子なのか?」
そして、伺うようにそれを問えば、和泉はその茶色い眼を瞬かせ、口角を上げた。
「俺が、有馬梨紅の子ども?馬鹿を言うのもいい加減にしろ。俺はこの16年間、しっかり生きてきた」
「でも……!じゃあ、何でお前その眼」
「親が蒼い眼だからに決まっているだろう。普通に考えて」
呆れたように遺伝の法則の基本を口にされ、言葉を詰まらせる。それはそうだ。珍しいといっても、この国にも黒以外の目を持つ人間はいる。姉の事を直結させたのは少し短絡的だったようだ。
言葉を詰まらせた翔に和泉は目を細め、足を止める。
「今はそんなどうでも良い事を話している場合じゃないだろう。お前、どこか行くんじゃないのか」
適当に歩いてきていたが、翔の詳しい目的を和泉は知らない。それにああ、と声を上げて翔は正面を見据えた。和泉は適当に歩いてきたと思ったらしいが、翔はちゃんと目的を持って歩いていた。目の前には、真っ暗な弓道場がある。
「ここの、古いゴミ捨て場だ」
「ゴミ捨て場?」
「使われていないゴミ捨て場の後ろに、自分の名前と日付を書いて、手紙を置けって言われた」
それが、あの幻影を見せられた最中に指示をされた内容だった。それを聞いて和泉はきょろりと周りを見回す。すぐ近くに科学科の高いビルの光が見えた。
「科学科の、近く……」
和泉がそう呟いていたけれど、作業を始めていた翔には届かなかった。
「……偽名じゃ、バレるか」
自分の名前と言われると書こうと思ったペン先が止まる。多分、彼らは女である自分を見ている。そこで、本名を書くのは馬鹿すぎるだろうが、偽名だと調べられたらすぐにいない人物だと知られてしまう。
悩み始めた翔に和泉は彼が何かを書こうとしているルーズリーフを覗き込み、
「適当に書け」
「へ?」
「恐らくは、調べたりはしない。声をかけてきたのはあちらからだ。声をかけてきたのならあっちはお前に何かの目的を持って声をかけてきたということ。お前が何者かなんてどうでも良いはずだ」
「そういうもんか……」
ならば適当に、と“佐藤ひな”と書き込む。名字は適当に、名前は何となく前に呼び間違えられた事を思い出して、だった。それに時間を書き込み、ゴミ捨て場の裏に丸めて投げ捨てる。これも彼からの指示だ。もし誰かに見られてもただのゴミと思わせる為だろう。
こうして、次の連絡を待てと。
丸めた紙を指定の場所へ投げ入れてようやく奇妙な緊張から解き放たれ、息を吐く。
「悪いな、和泉。付き合せて」
「俺も興味があるからな……あの、海原誓という男」
聞き出せたのはその名前だけだったが、彼が使っていた手品は和泉と同列のものだった。敵対心というわけではないが、興味はある。
「……なぁ、和泉」
思案をしていたところで、翔が伺うように顔を覗きこんできた。何だ、と視線を下げれば
「また、話せないか?二人で」
「どうして?」
無表情で返され、翔は眉を下げた。
「俺、お前と話したいことがある」
「俺には無い」
「嘘だ、和泉だって俺に聞きたいこと一つ二つあるんじゃないのか」
それは図星だったようで、和泉の眉がピクリと上がる。それに翔は言葉を続けた。どうにか彼の知ること全てを聞き出せないかと必死だった。
「俺もそれに答える。だから、和泉も」
「……お前、何月生まれ?」
確かに答えると言ったけれど、予想もしていなかった事を唐突に問われ、翔はおずおずと「1月」と答えた。それに和泉は軽く口元を緩め、「そうか」と一人で納得している。それが、和泉がわざわざ自分に聞きたい事なのだろうか。
調べればすぐにわかってしまうような事をわざわざ聞かれ、からかわれているのかとさえ思う。
「……なんだよ」
「お前に話すような事は俺には何も無い。俺の身の上なんて知ったところで、お前が得になることは何もないんだ。唯一つ言えるのは、俺の眼の色が蒼いのは、俺の親の眼が蒼いから。それだけだ」
今はカラーコンタクトを入れているのか、茶色い彼の双眸の本当の色を翔は知っている。蒼い目はこの国では珍しいものだが、海の副会長などは金髪碧眼で隠してはいない。片親が同盟国の人間だと皆が知っているからだ。
和泉がその眼の色を隠しているというのは、他人に知られたくない血筋を持っているからだと翔も察せる。
「じゃあ何で、父さんのこと知っているんだ」
「それに答える義務が俺にあるか」
相変わらず素っ気無い返事に、翔は眉を下げる。言葉の節々から感じる自分への警戒心が、何だか無性に情けなく思えた。自分は彼にそんな態度を取られるような人間なのだろうか。
「ないけど、俺は知りたい。お前に、敵意を向けられる理由も、父さんのことも、姉さんが死んだ理由も、父さんが殺された理由も、全部」
この体に消えない傷をつけられた理由も、翔は何一つ知らない。自分が何一つ知らないと言うのに、突然現れた目の前の他人が、自分より知っているということが何故か無性に気に障る。
「家族の事だ、俺には知る権利があるだろ!?なのに、何で全然関係無いお前の方が俺より知っているんだ!」
今までずっと感じていた憤りを吐き出すと和泉は驚いたように目を見開き、睨みつける翔を凝視する。
しかし、翔の言いたい事を察したのか、彼はすぐに目を伏せ、小さなため息を吐く。
「……俺が、有馬蒼一郎の事を知っているのは元々俺はあそこで生まれたからだ」
「何……?」
すい、と上げられた和泉が指差したのは、明りが灯った科学科の高いビルだった。思わぬ告白に今度は翔が目を見開く。
「え……と、じゃあ和泉ってクローンかアンドロイド、って事」
「それは違う、俺は人間だ。誰かの卵子と誰かの精子を人工授精させ、試験管の中で育てられた、投薬実験用の人間だった」
和泉の口から語られる事は予想もしていないことだった。誰かに知られたら和泉は科学科へ強制送還されてしまうだろう重大な秘密だろうに、何故こんなにあっさりと話す気になったのだろう。
「投薬実験用、ってでも人体実験用に普通の人間を作るのって確か」
突然の和泉の譲歩に戸惑いつつも、翔は彼を見上げた。
「ああ、一応違法だな。でも暗に認められる場合もあるんだ。どうしてもクローンやアンドロイドではなく、本物の人間で試したい場合はな」
和泉の目は伏せられ、彼は何度か自分の左腕の間接部分を撫でていた。投薬をされていた時の事を思い出したのだろうか、表情が暗い。
「この国の皇子が病弱だということは、知っているだろう」
「あ、ああ……蒼龍様……だよな?」
たまに新聞やテレビで見かける人物のことは翔も知っている。一応王室を守る軍の末端にも位置しているからだ。だが、日常会話に出すほど近い存在ではない。
「その蒼龍様は元々二十歳まで生きられない体だった。だが、彼は当の昔に成人している。その理由をお前は知っているか。科学科が、人体実験を重ねて彼を生かす方法を見つけていたからだ。俺は、そんな理由で造られた一人だった」
ぼそぼそと語られた事に翔は息を呑む。そんな理由で、彼が有馬蒼一郎に憎しみを抱いてその息子である自分にも恨みを抱いている、そういうことだろうか。
「だが、そんな状況から俺を助け出してくれたのは有馬蒼一郎だ」
顔を上げ、強い眼で自分を見たその和泉の顔に翔はただ驚かされる。
「なん、だって……?」
「有馬蒼一郎は俺を逃がしてくれた。あの人がいなかったら俺は今ここにはいない。俺だけじゃない、あの人はこの国には必要な人だった。だが、それをお前が殺した」
無表情ではあったが、和泉の眼は自分を射抜いていた。だが、それに理不尽なものを感じずにはいられない。
「じゃあ、何だよ……お前は俺が死ねば良かったって言うのか?」
ハッと乾いた笑いを思わず漏らしながら問えば、和泉の眼が細くなる。口元に浮かべた笑みが引き攣ったのが自分でも分かった。だが、和泉はそんな翔の反応に呆れたように肩の力を抜く。
「そうは言っていない。だが、何故殺したのかと聞いてみたかった」
「殺した、って……別に俺が殺したわけじゃない」
確かに彼を刺し、3年間病院送りにしたけれど、命を奪ったわけではなかった。そう思いたい。和泉の真直ぐな視線から視線を逸らし、何故か逃げ出したい気分になった。
「でも、アイツは誰かを助けるような人間じゃない」
和泉が自分を嫌っている理由がその恩義から来ているのであれば、それだけは言っておきたかった。そんな他人を思いやれる優しい人間ではなかった、自分の知る彼は。
しかし、和泉は表情を変えることはない。
「有馬蒼一郎は穏やかな人だった」
「んだよ、それ。俺が、嘘吐いてるとでも言うのか……?」
憤りを感じると共に、困惑した。父の知り合いは皆声を揃えて自分の話を信じられないと言った。早良も、穂高さえもだ。翔の体にある傷をみてようやく自分の話を信じてくれたという苦い過去の記憶に、翔は眉間を苦しげに寄せる。
だが、そんな翔の様子に和泉は首を横に振る。
「お前、疑問には思わないのか」
「何を」
「何故、自分の知る父と他人の知る父が違うのかをだ」
随分と馬鹿らしいことを聞いてくるものだ、と思わず笑ってしまいそうになった。どうして昨日今日会ったばかりの相手に、ここまで諭されないといけないのだろう。
「そんなこと何度も思った!だけど、考えたって答えが見つかるわけがないだろ、俺は何も知らない、誰も何も教えてくれない!」
「それは、お前に知らせたくないからじゃないのか」
興奮しかけていた翔は和泉のその一言に息を呑む。そこに畳み掛けるように和泉は続ける。
「知ったらお前が危険な目に遭うかもしれないと危惧していたからじゃないのか」
「それは……」
思い当たる事はいくつかあり、翔は何も言えず黙り込む。ようやく興奮が収まったらしい彼の様子に和泉は深い息を吐く。
「正直な話、俺も詳しい事は殆ど知らない。詳しい事を知っている人間は恐らく消されたんだろうな」
彼はポケットから小さな手帳を取り出し、翔に手渡した。随分と年季が入っているらしく、紙が茶色くなっている部分もあったが、それを適当に開くと中には切り抜かれた新聞記事やインターネットの記事をプリントしたものが貼ってある。それらは全て科学者や軍人の死を伝えるものだった。事故死、病死、戦死、自殺。そんな見出しがまず眼に入る。
そして、最後のページには最近の日付が書き込まれた小さな記事が貼り付けてあった。
見出しは、有馬蒼一郎、病死。
「……病死?」
思わず呟いてしまった声が和泉にまで届き、彼はその手帳に手を伸ばしやんわりと取り返していく。
「世間的にはそうなっている」
植物状態であったが、院内感染による肺結核により死亡、とその記事には書かれていたが、翔は困惑するしかなかった。あまりにも、自分が見てきた事と違いすぎる。
「こんなの嘘だ、だって俺は」
この眼で、首が無くなり血が溢れる胴体を見ている。
その時の事を思い出し、思わず口元を押さえたが、湧き上がる吐き気はなかなか治まらない。そんな翔の様子に何が言いたいのか察した和泉は「分かってる」とだけ。
「早良さんは、どうだ?あの人なら父さんの事」
吐き気を堪えながら思い出したのは、最近出会った学者の若い顔だ。だが、和泉は首を横に振る。
「早良博士が生きているということは、あの人が核心的なことを何も知らないという良い証拠だ」
「あ、ああ……そうか。じゃあ他にはもう、誰も……」
そうすると、真実を知る人間は誰一人として生きていないということになる。手詰まりなのかと肩を落としかけた、その時。
「一人、いる」
和泉の一言に翔は伏せかけていた目を上げた。
「一人いるだろう。碓井和臣が」
そうだ、父と対立していた張本人は今朝もテレビで名前だけ聞いた。まだ、彼は生きている。
だが、自分は有馬蒼一郎の息子だ。そんな昔の敵の息子に会おうと思うほど心が広い人間だろうか、碓井和臣は。第一、将軍様に一対一で会えるような身分でもないし、彼は多忙で今は南米の方にいるとか。
「お前なら、会ってくれるかも知れないぞ」
だが、和泉は何故か鼻で笑い、肩を竦めた。
「碓井将軍殿は、有馬蒼一郎と親友だったらしいからな」
訳が、解からない。
親友で敵。そんな不安定な関係がこの世にあるのだろうか。
少し考えてみたけれど、色々な情報を与えられた所為か頭が妙に重く、疲労していた。
「なんだ、それ……わけわかんねぇ」
熱くなった額を冷えた手で擦ると、和泉が自分に背を向ける。話すべきことは話したということなのだろう。
「和泉……」
何となく自分の前から去って行くその背に弱々しい声を投げると、律儀に歩みを止め、彼は振り返った。
「……一応言っておくが、俺は別にお前を嫌ってはいない。だが、好意を感じているわけでもない。必要に駆られればお前を消すことも迷わない。……が」
目を細め、彼は翔のどこか不安げな表情をしばらく見つめる。この沈黙の間、和泉が何を考えているのか予想も出来なかったが、その視線はどこか、そう、どこか穏やかな温かさを持っていた。
「……12月だ」
「え?」
「12月。俺が人間として完成した月は」
「完成、って……あ、誕生日……か?」
随分と遠回しな言い方をするものだ、と翔は思わず少し笑ってしまう。
「そか、同じ冬生まれなんだ」
しかし、それだけの言葉に、和泉は眉を上げ、ため息を吐いた。
「……お前、鈍いんだな。これじゃ甲賀も苦労する」
「な……んなことねぇよ!てか、何でそこで克己が出てくる!?」
「俺だって甲賀の名前は口にも出したくない。出させるな、馬鹿」
「お前それ理不尽」
どうやら和泉は心底克己を嫌っているらしい。理由は先程言っていた、軍関係なのだろうが、それもどこか理不尽なものがある。確かに克己は軍関係の家に生まれたと言っていて、それを和泉は本能的に嗅ぎつけたようだが、克己自身に理由があるわけではないのに。
けれど、ようやく少し和泉に対して警戒は薄れた気がした。さり気無く何度も助けてもらっているのだから、当然かも知れないが。むしろ遅いくらいかも知れない。
「……本当に気付いていないのか」
翔の態度に和泉は再び呆れたように呟く。嘆きにも近かった。
「和泉?」
「お前、何で俺が他人に知られちゃあからさまに不味い身の上をお前に話したと思ってる?」
それは翔も疑問に思っていたことだが、まさか和泉から聞かれるとは。しかも、ため息混じりに。
「俺が、父さんの事を知りたがったから……じゃないのか?」
「……あ、そ」
「って、違うのか?あ、もしかして俺と友達になりたくて!……ち、違うんだな」
あまりにもつまらなそうな和泉の反応に違う解釈を口にしたら、物凄い目で睨まれた。そうか、友達は嫌なのか。分かってはいたが、そうはっきりと拒絶されると流石に物悲しいものがある。
でも、まぁ。
「ありがと、な。和泉」
また勘違いするなとか、そこら辺の罵倒が飛んでくるかと思ったけれど、和泉は目を伏せるだけで背を向けた。
「また、話ししような!」
その翔の明るい声に彼はまた律儀にも振り返った。
「話すことなんて何も無い」
返された言葉は冷たいけれど。
「それは、話すときに考えれば良いだろ」
前向きな翔に、和泉も自然と表情を緩めていた。
「……気が向いたらな」
「あ、それと、お前の事、誰にも言わないから!」
「そりゃどーも」
素っ気無いけれど、それが彼の性格だと思えば悪い奴ではないと思う。もしかしたら友達にもなろうと思えばなれるのではないだろうか。そんな予感に、安堵した。特定の誰かを警戒したり嫌ったりするのはどうも精神的に疲れる。
それに、一つ心に留まっていた疑問も解消された。彼は姉の子どもではなかった。これは自分の予想がぶっ飛んでいたと、今では笑える。
親が蒼い眼だからに決まっているだろう。普通に考えて。
和泉の素っ気無い声が脳裡を過ぎり、そりゃそうだと一人で笑ってしまった。16年間生きてきたと言っていたし、自分より先に彼は生まれている。しかも、科学科でだ。12月に。
しかし何故彼は自分の誕生日を教え、翔にまで聞いてきたのだろう。まるでどちらが先に生まれたのか知りたがっていたような口振りで。
そこまで考え、思わず足を止めていた。笑っていた口元も、戻して。
「……えぇ?」
まさか。いや、でも。
また一つ新たな疑惑が生まれ、翔は眉を下げた。和泉と話すと、彼の断片的な話にいつも悩まされてしまう。今日もまた、新たな可能性に首を捻る羽目になった。
まさか、いやでも……。
「……えぇー?」
また、今日のように笑われるかもしれない。けれどもし彼が頷いたら?
「お、俺……どうすりゃいいんだろ」
今までそんな事考えたことも無かった可能性に、困惑するしかない。笑えば良いのか、泣けば良いのか。
けれど、今日の可能性は、本当にそうだったら、嬉しいかも知れない。
家族の事だ、俺には知る権利があるだろ!?なのに、何で全然関係無いお前の方が俺より知っているんだ!
翔のあの言葉は、少しの痛痒を和泉の心に与えていた。
「かぞく……か」
勿論、試験管から生まれた自分にとっては程遠いものではある。自分を形成した精子と卵子の行方を知れただけ、まだ運が良い方なのだから。
「かぞく……ね」
再び呟き、何となく足を速める。
本当は自分の事を話すつもりは全く無かった。誰かに知られたら不味いことだという事はよく分かっていたし、翔に話してしまったのは失態だ。
だが、何故か失態だとは思えなかった。
家族の事だから、知る権利があると、全てを知る事を決意した彼に、もしかしたら知って欲しかったのかも知れない。自分の存在を。
「馬鹿は俺か……」
全然関係ない、と言われた事に少し衝撃を受けてしまったこの自分が一番愚かだ。ずっと昔に諦めたはずの血の繋がりを、今になって求めてしまいそうになった自分が。
でも、確かにあの時は嬉しかった。自分と同じ血の流れを持つ人間が一人、この世界にいると知ったあの時は。
けれど。
不意に足を止め、振り返ったところからはまだあの科学科の灯が見え、それに眉間を寄せていた。まだまだ、これを笑顔で伝えられる日は遠い。彼が鈍い人間で本当に良かった。
その灯から更に目を上げると、暗い空に薄ぼんやりと自然の灯が煌めいていた。
いつか、全てを笑って話せる日が来ればいい。それまではこの件は何を問われても誤魔化し続けてやろうかと、些細な悪戯の計画に口元を緩めた。
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