もし、橘が被害者ではなく加害者だったら、どうする?それでも君はその身を挺して彼女を守ろうと思うか?
川辺の言葉が頭から離れず、翔はため息を吐きながら人通りの殆どない校舎を歩いていた。着替える場所と考えると、自分の教室しか思いつかなかった。夕日も沈み真っ暗になってしまった校舎というのは不気味なものだ。一人でそこを歩くのは少々心細いものがある、そう思った時だ。
「女」
突然どこからか低い男の声が聞こえ、ぎくりと身を竦める。
「誰……?」
女、と呼ばれ翔は咄嗟だったけれど、か細い声で答えながらあたりを見回す。だが、階段と廊下、教室があるだけで人影は見当たらない。だが、このやや低い重低音は自分たちの年齢では出せない声だ。生徒ではない、それだけは分かり、身構える。
「薬が欲しくないか」
彼はこちらの問いには答えず、淡々と告げた。
薬、という単語に翔は目を見開く。まさか、とは思うが。
「何……何の話?」
心当たりはあったが、わざと知らぬ振りをして混乱しているように振舞う。こうなることは、この姿になろうと決意した時に覚悟していた事だ。むしろ、これが目的。突然の好機に驚き、焦りつつも高鳴る心臓を落ち着かせる為にその部分に手を置いた。その動作は、相手に少女が恐怖を覚えているように見えたらしい。低い笑い声が聞こえた。
「軍での生活は辛いだろう。怖いだろう。苦しいだろう?それ以前に、忘れたい過去も、あるだろう?」
だが、その声に思わず眉を顰めてしまう。
何だ?
その妖しい声に体が金縛りにあった様に動かなくなった。突然息苦しくなり、思わず口元を手で覆う。
気持ちが悪い、何だ、コレ。
ぐらりと足元が揺れ、思わず片膝をつき、突然痛み出した頭を抱え、呻いた。
この感覚はあの時と似ている。あの、橘の自殺未遂を発見したあの時だ。まさか、あの薬が使われているのか、今ここで。痛みを堪えながら目を開ければ、暗かったはずの廊下が何故か真っ白になっている。 これが、薬を焚いている煙なのだろうか。なるべくそれを吸わないようにと口元を覆っていた手に力を込めた。
油断をしていたつもりは無かったが、まさかこんな事になるとは思わなかった。そう後で言い訳したら、恐らく遠也や克己に怒られるのだろう。それくらいは予想しておけと。
口元を押さえ、念のために持ち歩いていたナイフを手に取り、気配をうかがうと靄の向こう、ゆらりと人影が動き、勝機を見つける。
「そこか!」
ナイフを逆手に握り、重い足を一歩踏み出した。
横に払ったナイフは確かに手ごたえがあった。が、徐々に霧が晴れ、目の前に立っていた人物に翔は目を見開いた。
「……翔?」
茫然と、自分と怪我を負ったその首から溢れる血を手に取り、眺めているその人物は
「姉、さん……?」
小さな声でそう呼んだ人物は、哀しげに睫毛を振るわせた。
嘘だ。
急所は狙っていなかった。もっと背の高い相手だと思ったから、服を切り裂く程度に留めようとしたのだ。腕か、そこら辺だと、思ったのに。
「翔……?どうして」
彼女は表情を歪め、その眼から涙を落とし、手に着いた自分の血を前に突き出し、翔にこの理由を問う。
「どうして」
「姉さん、違……っ」
思わず声を上げ、それを合図にがくがくと自分の膝が恐怖に震え始めた。彼女を傷つけたナイフは手から零れ落ち、床に音を立てて転がる。だが、ナイフを手から離したとしても、自分が彼女を傷つけた事実は変わりない。
「どうして……酷いよ、翔」
「違う!俺は……これは!」
彼女を傷つけるつもりではなかった。
しかし、視線を落とした自分の手は彼女の血で濡れていて、床に落ちた自分のナイフも血でべっとりと汚れていた。そして彼女の細い首からは血が溢れ続けている。どんなに言い訳をしたところで、事実は覆せない。
焦燥する翔の前を追い詰めるように、目の前の彼女は苦しげに咳き込み、その口からは血が溢れ、その都度苦しげな悲鳴が上がる。
「ひ……っいやぁ……!」
その細く弱々しい声に、息も出来ない。ガチガチと歯が鳴り始め、喉が急激に渇いていく。その場に崩れ、呻く彼女から眼が離せなかった。
「あ……あ……!」
悲鳴を上げようにも声が喉に張り付いて、僅かに喉から漏れたその情けない声に口を手で覆う。
姉さんが死ぬ。俺が、殺した……?
いや、彼女はもうとっくの昔に死んでいる。あの時は別に自分が殺したわけではない。これはきっといつもの夢なのだ、と強く目蓋を閉じた。これは夢だ、早く醒めろ、と心で念じながら。
しかし、ゆっくりと目を開ければ、すぐ目の前に彼女の大きな黒い瞳があった。ぎょろりと動いたその瞳に思わず後退してしまった自分を逃がさまいと、床に倒れた彼女の白い手がその足に伸びてくる。その冷たさに、思わず引き攣った声を上げてしまう。
「ひ……!」
大好きだった姉なのに、どうして自分は彼女をこんなに怖がっているのだろう、と茫然としてしまった。
「待って……ねぇ、待って」
ずるりずるりと体を引きずりながら彼女は異常に強い力で翔の体を這い上がってきた。その手が、足、腰、胸、腕をつたい、血にまみれた顔を付き合わせた。
そして、黒い彼女の目を視線が合う。その眼から、視線を離す事は出来なかった。許されなかった。
「ねぇ」
彼女はあまり唇を動かさず、けれど眼だけは翔から話さず、ゆっくりと言葉を発した。
「どうして、私が死んだのに貴方が生きてるの?」
ゆっくりと微笑んだ彼女のその言葉に、悲鳴を上げられれば、どれ程楽だろう。彼女は一歩後退し、自分にその白い手を伸ばしてきた。
だから、一緒に行こう。
赤い唇はそう動き、それに思わず目を見開く。彼女は別に自分に対して怒っていたわけではなく、自分が彼女とは違う世界にいることに対して憤りを感じていたのだ。
「行って良い……のか?」
不安に揺れる翔の声に彼女は笑みを深める。それに、今度こそ心の底から安堵した。ずっと、自分は彼女達の側に行くのも許されないのだと思っていたから。彼女の笑みに、嬉しさに口元が緩む。
彼女に手を伸ばそうとした、その時誰かが自分を呼んだような気がした。
「惑わされるな!」
誰かの強い声が頭の中に響き、ハッと目を上げるとすでに彼女の姿はなかった。彼女の姿どころか、血痕も血もどこにも残されていない。あの霧さえも消えていた。残っているのは、頭の痛みだけ。そして自分が4階の窓から身を乗り出していたことに気付き、息を呑む。地面が遠い。
「って、ちょ……うぉあ!」
バランスを崩し危うく落下、というところで襟足を乱暴に引っ張られ、翔は廊下に背中から倒れた。その痛みと恐怖のおかげでようやくぼんやりとしていた頭が鮮明になったような気がする。
あまりの事に茫然としている翔を叱咤したのは
「幻覚だ。気をしっかり持て」
はっと顔を上げれば、そこには何故かクラスメイトの和泉が自分の前に背を向けて立っていた。
「和泉……?何で」
思わぬ人物の登場に翔は目を丸くし、これも幻覚かと思ったが、どうやら違うらしい。唖然とする翔を一瞥して、彼はすぐに見えない敵を睨み付け、足に力を入れていた。
「……目を閉じるか耳を塞ぐか息を止めるかしていろ。お前も巻き込まれるぞ」
え。
理由は解からないが、とりあえず慌てて耳を塞げば、ちらりとこちらのその状況を確認してから和泉は右手を無造作に振った。その瞬間、彼の回りに現れた蒼い蝶に翔は息を呑む。蒼く発光した蝶が大量に現れ、廊下を埋め尽くした。
これは、一体。
現実とは思えない光景に唖然としていると、目の前の和泉の口が静かに動かされた。耳を塞いでいるからその声は聞こえなかったが、鼻にはあまり嗅ぎ慣れない香のような香りを感じた。
いけ、あおあげは。
彼の口を注視しているとそう動かされ、それに合わせる様にその蝶がある一角に突っ込んでゆき、消えた。
それに和泉は舌打ちしたようだが、すぐにこちらを振り返り、その耳を塞ぐ手をどかすように顎で指示をしてきた。
「名前は聞きだしたが、逃げられた」
簡潔に状況を伝えられてようやく翔は緊張を解く事が出来る。何が何だかわからないけれど、とにかく何とかなったらしい。
「今の、何だったんだ?凄いな……」
思わず、先程の不思議な光景の事を口にすると和泉は面倒臭そうに目を細めた。聞いてはいけないことだったのだろうか。しかし、彼は面倒臭そうに頭を掻いてから、口を開く。
「催眠術みたいなものだ。原理は言わない」
聞きたそうな翔に先手を取り、和泉はため息を吐いた。こういう類のものはタネを知られたらお終い。翔もそれを察したのだろう。
「凄いな、お前……そんな事出来るんだ」
幻術、と呼ぶのが正しいのだろうか。そんなもの、一昔前の忍者漫画や小説にしか出てこないものだと思っていたが、実際にも出来るのか。
翔がぽかんとした顔で見上げていると、和泉はそのまま立ち去ろうとし、それを慌てて止めようとした。が
「う……」
激しい頭痛と吐き気にその場に蹲ると、相手も足を止めた。
「まだ薬が残っているのか」
そう呟いた和泉の声がすぐに掻き消える。その代わりに知覚したのは、あの男の声だった。
薬が欲しければいつでも言え。
あの男の声が突然頭の中に響き、それと同時に先程の姉の血まみれの姿が浮かび、背筋が引き攣った。
姉さん。
そう心の中で叫んだはずなのに、男の声がそれに答えるように被る。
救われたいだろう?
その、全てお見通しと言いたげな声が、苛立ちを募らせた。
「おい、しっかりしろ!」
「う……かっ!」
ハッと我に返った瞬間、口元を手で覆われていた苦しさに喘いだ。げほりと咳をすると和泉がその手を離し、宙に蒼い粉が舞う。その粉の香りを嗅ぐと、ぼんやりしていた頭が徐々に元に戻っていくような感じがした。
「う、は……何コレ」
口の中にまでその粉が入ったようで、思わず舌を出して喘ぐと、和泉が翔の体を支えていた手を離す。
「気付け薬代わりだ。お前、まださっきの奴の術から抜け出せていなかったようだったからな……何か言われたか」
激しく咳き込んでようやく自分を取り纏っていた奇妙な感覚から抜け出せたような気がする。あの、現実とも夢とも解からない、奇妙な嫌な感覚。
哀れむような、蔑むような、あの言葉。
救われたいだろう、だって?
上から目線の言葉に怒りが湧き上がってくる。奇妙なものを見せてきたのはあちらの方だというのに、その言葉はあまりにも高慢だ。
「喧嘩、売られた………」
咳き込み過ぎて肺が鈍く痛み、目尻に僅かに涙が浮かんだが、構っていられない。
「上等だ……買ってやろうじゃねぇか!」
あっちがその気なら、引き摺り出してやる。そう今はもういない相手に向かって、吠えた。
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