正紀、友達は大切にしなさい。

 父が死ぬ数日前、正紀は父にそう窘められた。
 いずるが自分の前から姿を消してその事をどう捉えて良いのか解からなくなっていた正紀は、もう誰も住んでいない隣家の家門を蹴り付けていた。それを、運悪く父に見咎められたのだ。
「大切にしていないのは、いずるの方だ」
 自分に何も言わず姿を消した、彼。
 すっかりいじけた様子の自分に父親は苦笑顔で。
「きっとまた会える。正紀もいずるも、二人共が会いたいと思っていたら」

 もう二度といずると会うなと、矢吹家の人間が大金を置いていったあの時もまだ、何かの切っ掛けで会えると予感していた。
 だからって、あんなタイミングで会うなんて最悪だ。
 かたや名家の御曹司、かたや街中の裏側で喧嘩に明け暮れる不良のボス。
 こんな出会いなら二度と会わない方がマシだったかもしれないと何度思ったか。
「あー……わっかんねぇなぁ」
 中庭に寝転び、色々なことを考えていた正紀は結局そう呟くしかなかった。
 この学校で起きている“H”関連の事件、それを辿れば過去に関わった事件の首謀者、もしくはその首謀者と近しい人間に会えるだろう。それは、自分の父を殺した相手と対面出来る可能性があるということだ。
「薬の出所はどこなんだよ……」
 けれど、何だかよく解からない。殺された彼らは恐らく“H”を使っていたと遠也から聞いた。その彼らの共通していることは例の、甲賀克己も行ったという戦争に出向いたということ。だが、別にその戦争に出向いた人間が全員殺されているというわけではない。また別の共通点が存在しているのではないか。そう思わずにはいられない。そしてそれがきっと正解だ。
 それは、何だ?
 けれど、心当たりがないわけではなかった。あの、ヨシワラの橘の一件だ。彼女は戦争に行ったわけでもないが、あの薬を使って殺されかけていた。彼女は何故殺されかけたか……一度彼女に話を聞いてみたいが、流石にヨシワラに顔を出せるほどの金額は持っていない。手詰まりだ。
「離して下さい!」
 と、頭を抱えそうになったその時そんな声が聞こえてきた。思わず体を起こすと、校舎の影の方で男二人に囲まれた女子生徒の姿が見える。
 黒髪の、なかなかの美少女だ。恐らく、男達にもそれで目をつけられたのだろう。
「そう言うなって。俺達はアンタが可哀想だから声かけてるんだ」
「あの川辺が恋人じゃ、淋しい思いしてるんじゃないかって思って。アイツ他にも何人かいるんだろ?」
 そんな男二人の言葉に、少女は勝気に目を吊り上げていた。
「貴方達には関係無いでしょう!教官と、お…私のことはほっといてください」
 川辺、だって?
 彼らの話に正紀は助けに入ろうとした足を止め、聞き耳を立てた。同姓の生徒のことかと思ったが、彼女の一言で彼のことだとすぐ察した。
 アレが、噂の川辺の恋人。
 興味深げに正紀は目を細め、茂みに身を隠した。川辺の恋人の噂は正紀も耳にしていた。普段なら聞き流すところだったが、川辺のこととなるとそうもいかなかった。
 もしかして、いやまさか。
 そんな気持ちが正紀の心の中で巡っていた為、川辺の事を意識せずにはいられなかったのだ。でも、恋人を作っているということは、やはり別人か。
 そう、思った時だ。
「何するんですか!」
 男に手を掴み上げられ、声を上げた彼女の太腿を男が撫で上げる。このタイミングで出て行かなかったら男じゃないだろう。そう判断した正紀は自分の足に力を入れていた。
「止めた方がいいんじゃないんですか、教官に知られたら終わりですよ」
 ため息を吐きつつ、そう声をかけながら姿を現した正紀に彼らは目を見開いた。しかし、正紀のネクタイの色を見てすぐに勝ち誇ったようにその目を細める。
「なんだ、1年か。邪魔をするな」
「……俺は先輩のことを思って言ってるんですけど」
 彼らのネクタイの色は臙脂。つまりは2年生だ。それでも、人によっては川辺よりは階級が下だろうに。
「1年が大きな口を叩くな。さっさと帰れ」
 だが、彼らはそれに気付くことなく犬を追い払うように正紀に向かって手を振った。
「あのなぁ。アンタら」
 流石に呆れて正紀がもう一歩前に出た時だ。
「うらっ!」
 なかなか自分から手を引かない男二人に業を煮やしたのか、それとも隙が出来たと思ったのか、その少女が突然自分の目の前にいた男に肘鉄を食らわせていた。
「へ?」
 正紀が目を疑っている間に、彼女はもう一人の男も蹴り飛ばし、二人を地に伏せさせる。
「お、お前ぇ……!」
 蹴られた腹部が痛むのか、男は悔しげに彼女を見上げ、そんな相手に彼女は再び構え直す。
 なかなかスピードのある一撃だったが、油断していた彼らが本気になれば彼女くらいすぐに倒すことが出来るだろう。彼女の胸元で揺れたネクタイは正紀と同じく一年生、しかし彼らは二年生だ。正紀が加勢したとしても、危うい上に後々面倒だ。
 ああもう、しょうがない。
 立ち上がりかけた二人に彼女は攻撃態勢を見せたが、その手を取り、正紀はその場から逃げ出した。
「走れ!」
「へっ!?」
 彼女も突然腕を引かれ驚いたようだが、正紀は構わず走るスピードを速めた。
「おいこら!逃げんな!」
 そんな声が後ろから聞こえてきたが、ここは逃げるが勝ちだ。しかし、彼らが追ってくる気配があり、更に足を速めたが、彼女の方もそのスピードに難なく付いて来る。
 曲がり角を曲がり、すぐ横にあった茂みに彼女を先に隠してから自分も身を隠す。ここは訓練にも使われる森と校舎との境だから、森か校舎内か、どこに逃げたか分からなくなる地点だ。彼らを撒くには最適の場所だ。
「くっそ……どこ行った」
 予想通り、追いついた彼らのそんな悔しげな呟きが頭上から聞こえ、正紀はほっと一息吐く。彼らはしばらく森か校舎内か迷ったようだったが、結局は諦めるという選択をしたらしく、舌打ちをして戻っていく気配があった。
「行ったな……大丈、夫……」
 身を起こして、正紀は今の自分の体勢に硬直する。
いや、しょうがないだろう、だって茂み低いし。
 心の中でそんな言い訳をして、普段の授業でこういう場合すぐに地に伏せるよう訓練されていたことを思い出し、それが身についてきたことを思い知らされた。ほふく前進などもうお手の物だ。
 それに、人を庇う方法も習ったわけではないが自然と身についていたらしい。爆発物など飛んできた時には誰かの上に自分の体を乗せて庇う、アレだ。
硬直したまま色々な事と弁明をすばやく頭の中で巡らせている正紀を、彼に押し倒された名前も知らない黒髪美少女はきょとんとした眼で見ていた。
「篠田?」
 しかし、その紅い唇がわずかに動き、自分の名を呼んだ彼女の声で正紀はようやく我に返る。
「は、はい!ごごごごめんなさっ!」
 慌てて起き上がろうとした正紀の行動と大きすぎる声に、今度は彼女の方が慌てた。今まだ彼らが近くにいるかも知れないのに、正紀の行動は迂闊すぎた。
「まだ起き上がるな!大きな声も出すなっ!」
 口を手で塞がれ、もう片方の手は首にそえられそのまま引き戻された正紀は再び硬直する羽目になる。
 何で俺、こんなところで知らない女の子の上に乗っかってるんだろう。
 つい5分前までは想像もしていなかった状況に頭がついていかない。もし、クラスメイトか誰かが世間話のついでにこんな状況になったんだと話したら、どうしてそこで襲わないんだと笑い飛ばしていただろうが、実際自分がそんな状況に陥ってしまうと何かしようという以前に緊張しすぎて体が動かない。
 しかも耳が何だか柔らかい気がするのはまさか、彼女の胸か。その事実に頭が真っ白になってしまう。
 彼女としては、もう正紀が迂闊に顔を上げないようにというつもりなのだろうが、何だかもう叫んで逃げ出してしまいたい心境だった。
「……もう大丈夫かな」
 そう小さく呟いた彼女はようやく手を離し、その瞬間正紀はすぐ身を起こした。あまりの速さに彼女は目を大きくしていたが、その顔も何だかまともに見ることが出来ず、思わず視線を逸らす。
「篠田?」
 再び不思議そうに彼女が自分の名前を呼び、そこでようやく疑問を抱くほど頭が回り始めた。けれど、その前に言っておかないといけないことは沢山有る。
「ごめんな、その……押し倒したりして。なんつーか、俺、加減あんまり知らないから……どっか怪我しなかったか?」
 女の子は壊れやすいんだから!と昔姉に散々言われた事を思い出し、正紀は少し青ざめた。姉は勝気な性格でそれなりに体格も良かったが、今目の前にいる彼女は細い。どこか骨でも折れてないかと不安になる。しかし、そんな正紀の不安を彼女は笑い飛ばした。
「この程度で怪我なんてしないって。慣れてるし」
 彼女も一応軍人だ。その返事に正紀はほっと息を吐き、そこでようやく彼女を視界に入れた。
「ありがと、篠田」
 おかげでにこりと微笑んだ彼女の顔を直視してしまい、顔が熱くなり始めるのが分かる。
 そういえば、この学校に入ってから女子生徒とまともに口をきいたのは始めてかも知れない。ついでにいえば、こんな美少女と口をきいたのは恐らく人生初めての経験だ。因みに、女性を押し倒したのも初めてだった。
 それを意識して再び心臓の鼓動が速まるのが分かる。中学時代も何だかんだ言って、女子と和やかな会話をしたことはあまりないのだ。自分は不良だと遠巻きに見られていたのだから。
 こんな風に、微笑まれたのも初めてだ。しかも、美少女に。
 多分彼女は美少女と呼ばれる類に入る。長い黒髪に白い肌、顔は多少化粧をしているようだが、それでも厚化粧というわけではない、控えめなものだ。大きい透明な眼が微笑みの形のまま自分を見上げていると意識をして正紀は慌てて視線を彼女から剥がした。
「な、何で俺の名前……」
 そう聞きながら、ちらりと彼女の方を見ると、身を起こして少し乱れた髪の毛を適当に梳いていた。無造作に投げ出された細い足がうっかり視界に入ってしまい、慌てて視線を森の方へと投げる。緊張しても仕方がない、女性経験など皆無に等しい自分のような男なら。
 そんな正紀の態度に、彼女は不思議そうに首を傾げた。その時。
「何、しているんですか?」
 聞き覚えのある低い声に正紀は反射的に両手を上げ、僕痴漢していませんの意思表示ポーズを取っていた。そんな彼の奇妙な行動に、彼女だけではなく突然現れた遠也も怪訝そうに目を細める。
「篠田?」
「え、ええっ!べべべべ別にななな何もしてないぜっ!何もっ!」
 あからさまに動揺している正紀の奇妙な態度に遠也は眉を上げ、何か言いたそうな雰囲気ではあったが、何も言わなかった。引き攣った笑顔で手を横に振っていた正紀は、天才が興味を失ってくれたことにほっと息を吐く。と、いうかここまで慌てる必要がどこにあったのだろうか。実際自分は彼女に何もしていないし、何かしていても、何故遠也相手にここまで慌てる必要がある。
 ちらりと茂みの向こうにいた遠也に視線を移せば、彼はじっと正紀の前にいる黒髪少女を眺めていた。その視線に彼女は居心地悪そうに顔を逸らしていた、が
「……何をしているんですか?こんなところで」
 そんな彼女に遠也はまるで知り合いに話しかけるように問う。それには正紀も驚かされた。遠也はそんなに顔が広い方ではないと思っていたのもあり、しかも女性の知り合いがいたのか、という感心も少しあった。しかし、彼女が遠也の知り合いだというのなら、紹介してもらうという手がある。と、彼女と知り合いになる方法を見つけ密かに心が明るくなったが
「何をしているんですか、と聞いているんですけどね?日向」
 絶対零度の微笑で、絶対に逃がさないという強い口調に彼女は凍りつき、ついでに正紀も凍りついた。
 日向、と遠也は彼女の名前を呼んだ。
「え……ひ、ひぅ……?」
「全く、姿をあまり見ないと思ったらそんな格好で何を遊んでいるんですか」
 遠也は正紀の情けない声を無視したのかそれとも聞こえなかったのか、構わず言葉を続け、彼女を叱りつける。そんな彼女もがっくりと項垂れていた。
「バレないと思ったのに……」
「そんなわけないでしょうが。一体何年一緒にいると思っているんですか」
「う……結構自信あったのに」
 彼女はしょんぼりと肩を落とし、遠也は「日向!」と再度その名を呼んだ。一方、まったく話についていけていない正紀はただ口を大きく開いていることした出来なかった。
「ひゅ、日向?」
 ようやくその名を口にすることが出来ると、彼女は顔を上げ
「何だ?篠田」
 と、見覚えのある声で、見覚えのある笑顔で、返事をしてくれた。
「全く、こんなものまでつけて」
 遠也にずるりと外されたカツラからは茶色い髪が現れ、そこでようやく正紀も彼女が彼であることを納得させられる。
「ひ、ひゅうが……」
 引き攣った口から出た声は何とも情けない声だった。
「うん?俺だけど」
 彼の地の髪でも、彼と初対面の人間であれば彼が女性である事を信じるだろう。しかし、正紀は生憎翔とは初対面ではなく、むしろ親しい。納得せざるを得ない。本当に、彼女は、彼女ではなく、彼だったのだ。
 なんだよ、気付いているのかと思ったー、とのん気に笑うクラスメイトの肩を正紀は思わず掴んでいた。
「日向……!」
「は、はい!?」
 突然切羽詰った声で呼ばれ、翔も思わず肩に力を入れていたが、次の瞬間正紀はその場に崩れ落ちる。
「俺の一時のトキメキを返せぇぇぇぇ!」
 そう叫びながら。
 若干泣きが入ったその訴えに、翔は意味が解からず困惑するしかなかった。その背後で何かを察したらしい遠也は呆れたように額を押さえていたが。
「お、おい……篠田?どした?」
「……別に……。現実の厳しさに目頭が熱くなっただけだ」
 くっと嗚咽を漏らしながら彼は目尻を親指で荒々しく拭う。余計な緊張をしたと実感すると、妙に体が疲れるものだ。項垂れる正紀に、友人である翔は心配気に顔を覗きこんでくる。カツラをとっても彼はまだ女子生徒に見えるのだから、自分が女子生徒だと思い込んでいても仕方のない事だ。そう、自分に何度も言い聞かせてようやく調子を取り戻す。
「てか、その胸は……」
 男にはないはずの膨らみを指差すと、翔も彼が言いたい事を察したらしい。
「ああ、タオルタオル」
 シャツの隙間に手を突っ込んで、ずるりと中に入っていたものを取り出してくれた。と、同時に彼の胸はへにゃりと凹む。なんと言うか、えぐい光景だ。
「それで、どうしてそんな格好をしているんですか。貴方、女装は嫌いだと言っていましたよね」
 今の場面で再度衝撃を受けた正紀は放っておいて、遠也が翔にまず一番初めに問うべきであろう質問をぶつける。
 それに翔も腹をくくったようで、ため息を吐いてから口を開く。
「川辺教官の案なんだ。川辺教官に近付いたから狙われたとかなら、これで橘さん殺そうとした犯人か、それに近い人釣れないかなって思って」
「日向……」
 貴方って人は。
 遠也が額を押さえたその動作で彼の心情を読み取った翔は慌てて言葉を繋げた。
「でも、別に危ない事までして捕まえようとはしてないからな!」
「その女装自体がすでに危ない事だと思いますが」
「それは……」
 言いよどみ、俯いた翔に遠也はそれ以上追求するのを止めた。結局、自分は翔には甘いのだ。
「じゃあ、別に貴方は川辺教官のことは好きでもなんでもないんですね」
 すぐに答えられそうな問いに変えると、彼はすぐに顔を上げて大きく頷く。
「勿論」
「では、どうしてそんな姿で?」
何故翔がこんな姿でいるのか、遠也も何故こんな行動に至ったのかという経緯はよく知らない。取り合えず視線でそれを問うと、翔も素直に話を始めた。
「橘さん、川辺教官とそういう仲だから襲われたのかな、って思って……。あれはただの自殺じゃないと思うんだ。現に、俺も川辺教官の部屋に行った帰り、永井って人に襲われてるし、その永井って人もこの間殺され」
「ちょっと待った日向」
 聞き覚えのある名にそこでようやく正紀が復活し、待ったをかけた。
「篠田?」
「永井、ってアレか。この間の新聞に載ってた、永井?」
「そうだけど」
 正紀と遠也はその翔の返答に視線を交わし、ほぼ二人同時に眉間を寄せた。
「おい、佐木……」
「永井もやってましたよ、アレ」
「ですよねー……で、川辺教官と橘、か」
「何の話をしてるんだ」
 翔が首をかしげて二人の会話を止めると、遠也が眉間を寄せ、正紀も口を閉じる。少し考え込んでいる様子だったが、すぐに正紀が口を開いた。
「日向は、“H”っつー薬知ってるか」
「ああ……川辺教官から聞いたけど」
「俺はな、それをばら撒いてる人間を探してるんだ。理由は後で話す。俺は、それをばら撒いてるの魚住先輩かと思ってるんだけど……川辺っつー線も出てきたわけだな」
 川辺の名前だけ口にした正紀を遠也は目を大きくして振り返ったが、動作がゆっくりだった為、翔には彼の驚きを察する事が出来なかった。
「……その薬と、この間から人が死んでるの、関係あるんだな」
「永井はやってた。その前に死んだ奴も、多分、今まで殺された奴らも……恐らくは」
「まさか橘さんも、その薬を?」
 翔がハッと顔を上げて遠也を見たが、彼は首を横に振った。橘が眠っていた時に早良が検査をしたが、例の香が焚かれてすぐに彼女は窒息状態に陥ったらしく、血液からは殆どその薬の反応は無かった。
「彼女は大丈夫です」
 その答えに翔はほっとしたように口元を緩めた。しかし、遠也は眉間を寄せたまま俯き、それ以上説明を追加することはなかった。
「ま、川辺教官には後で聞きに行ってみるとして……今日はもう帰ろうぜ。暗くなってきたし」
 正紀が考え込むのを止め、笑顔で遠也と翔の肩を同時に叩いた。その明るい声で翔も気分が上昇するのが分かる。
「そうだな。俺もさっさとコレ脱ぎたいし」
「ああ、それ着替えてこいって、日向。折角変装してるのに、そのまま俺達と歩いてたらお前だってバレるかもしんねぇぞ」
「ああ、じゃあ俺ちょっと教室戻るわ」
 ひらりとスカートを翻して走ってゆく翔を見送り、正紀と遠也は二人同時にため息を吐いた。お互い気が合わないと思っていたが、変なところでは気が合うものだ。それを笑う気にもなれず、正紀はその場に座り込んでいた。
「あー……しんどい」
 がくりと項垂れ、正紀は思わずそう呻いていた。
「……大丈夫ですか」
 遠也も珍しく正紀に気遣いの言葉を投げたが、この重苦しさは遠也も同じだろう。正紀は茶色い髪をぐしゃりと撫でて、もう一度ため息を吐いた。
「なー、天才」
「何ですか」
「イレギュラーには意味があるんだよ、な。被害者の共通点から外れた存在には何か意味がある」
 そこは基本だ。今まで何かしらの規則に従っていた事が突然変化するのは、そこに何か意味があるという事。今回は例の戦争に行ってあの薬を飲んでいた人物が被害者という規則があるのなら、イレギュラーは橘だ。彼女の自殺未遂が他人によるものだと仮定するのであればだが。しかし、彼女が窒息する少し前にあの薬を元にした香が焚かれたというのなら第三者の存在が確かに考えられる。
「……橘のこと、どう思う?」
 正紀に聞かれ、遠也は目を伏せた。
「不自然です。色んなことが」
 何故彼女が狙われのか、彼女が魚住とも川辺とも関係があることも見過ごせない。
「薬、ばら撒いてる本人ってさ……その薬がどれほどヤバイか誰よりも知ってるから、自分は手を出さないってヤツの方が多いんだよな……」
 正紀がそう呟いてから、拳に力を入れるのを見て、遠也は不意に空へと視線を移した。もし橘がその薬をばら撒いていた犯人だとしても、彼女はただのクローンだ。背後に誰かいるのは間違いない。それが、川辺なのだろうか。それとも、他の人間か。
 しかし、遠也にとってはもうその背後にいる人間のことはどうでも良かった。今、一番の不安は
「日向……」
 これが真実だった時の、彼の苦悩はどれほどだろう
「橘じゃないにしても、薬の出所は、ヨシワラってことか……?」
 魚住と川辺もヨシワラの人間と繋がりがあるし、何よりヨシワラは薬の規制が緩い。媚薬やらなんやらどこからか手に入れてそれで色事に興じるということもよくあることらしい。それに、生徒会が禁じている禁薬があることも稀ではない。しかし、だ。
「んでも、北の奴らがそう何度も行けるところじゃねーだろ……」
 殺された何人かは北寮の人間で、南とは違って貧乏人ばかりのはずだ。ヨシワラでは最低ランクの女性を選んだとしても、一晩で一ヶ月分の給料が飛んでしまうところ。そう何度も通えるわけがない。
 これはハズレか、と正紀が頭をかき回した時だ。
「いや……行けます」
 遠也が思い出したようにはっきり言い、それに正紀も顔を上げた。
「殺された彼らの共通点、戦争に行った事ですよね。戦争に行く人間には、軍と生徒会が特権法を定めています。出征する日まで一週間期間があればなら実家に戻れる、出征する人間の望みを周囲の人間はなるべく叶えなければならないとか、色々ありますが……その中に、ヨシワラの出入り自由というのが。帰って来てからもヨシワラなら有効なはずです」
 戦争へ赴く恐怖を酒や性行為で紛らわせるためなど理由は人それぞれだろうが、普段金も身分もない人間が、死ぬ前にそこに行こうと思う気持ちは理解出来ないでもない。
「マジで!それ、どうにか調べられるか、天才!」
「はい。ヨシワラの来客名簿を調べれば……特権使って来てる人間なら、別名簿を作っているはずですから、調べるのは比較的簡単……」
「おー!ナイスだ、天才!」
 謎が解けそうな雰囲気に感極まった正紀が遠也の小さな体を抱き込んだ。と、思えば今度はその脇に手を沿えて遠也の体を軽々と持ち上げ、子どもをあやすようにくるくるとその場を回り始めた。
「おっ前、篠田探偵事務所にスカウトしたいぜ!天才バンザーイ!」
「……何かムカつくんで下してください」
 同い年の人間に軽々と抱え上げられ、しかも高い高いをされる日がくるとは流石の遠也も予想していなかった。確かに、正紀と自分の身長差は30センチ以上あるが。
 べし、っと今は自分より下にあった正紀の頭を軽く叩くと、ようやく下してもらえた。
「あははは、悪ぃ悪ぃ。つい」
 正紀はまったく悪いと思っていない笑顔で遠也の頭をぐしゃぐしゃ撫でる。一言言ってやろうと思ったが、それも諦めた。
「それより、これは深読みかもしれませんが」
 抱え上げられた時の衝撃でずれた眼鏡を掛け直しながら遠也は口を開く。
「戦争に行った人間ではなく、戦争に行く人間が狙われたとしたら」
 遠也の言いたいことが良く解からず、正紀は首を傾げたが、それに彼は目を伏せた。
「忘れたんですか、この薬の効力。記憶が無くなることや麻薬のような高揚感もありますが……自我を失い攻撃力が上がり、好戦的になる」
 静かな説明に正紀の眼が思い出したように大きくなった。そして、まさかという予想も出来たらしい。
「もし、これが軍や科学科がらみの実験だったとしたら」
 厄介です、と遠也は呟くように続けた。




Next

top