ああ、本当に末恐ろしい子どもが揃っているもんだ。

 目の前に突きつけられた剣の切っ先に、川辺は右手の力を抜いた。それからすぐにその手から零れ落ちた剣が石の床で跳ね上がり、足元まで転がってきたが、それを拾う隙は全く与えられなかった。自分を拘束する視線が外れない限り、息をするのさえ自由ではなかった。
 恐る恐る両手を挙げて、降伏を示す。
「充分だろ、甲賀」
 今の一戦を見守っていた空の生徒がそう声を投げた時初めて彼は視線を川辺から逸らし、細い剣を下した。その瞬間、川辺はようやくこの緊張から解放され、危うくその場に崩れてしまいそうだったがそれはどうにか足に力を入れて留めた。
 殺されるかと思った。
 それが、川辺の今の一戦の感想だった。怒気と殺気を漂わせた克己が川辺に声をかけた理由は、フェンシングを教えていたという噂を聞きつけ、相手をして欲しいというものだった。しかし、試合なんてものではなかったように思う。克己の剣が一方的で、彼の攻撃をかわすのがやっとだった。いや、そのかわす隙も克己によって作られたものだったのかもしれない。しまいには、その逃げる方向を読まれ、彼の剣は自分の急所をつく寸前で止まった。
 川辺は荒い息を吐いたが、克己は全く呼吸を乱していない。今まで打ち合っていたとは思えない、あまりにも嫌味な克己の立ち姿に川辺は笑うしかなかった。笑うといっても、ただの笑みではない。引き攣った笑みだ。
 一体、今自分の目の前に立っている男は何者なのだ。
「でも甲賀相手には結構頑張った方ですよ、お疲れ様です」
 出会ってすぐに山川と名乗った青年がペットボトルに入った水を川辺に渡しながらにこりと笑う。ここは、空の敷地に近い剣の練習場だ。何故空の生徒がここにいるのかは分からなかったが、どうやら彼と克己は友人らしい。彼の親切を受け取り、川辺は一息吐いた。色々な意味で緊張の一戦だった。
「で、甲賀……俺に何か他に用があるんじゃないのか」
 水を飲みながら問うと克己は剣をしまいながらちらりと川辺を見て、無言のまま再び剣に視線を落とす。
 無視された、らしい。
 奇妙と言えば奇妙だった。彼が自分に勝負を挑んでくるということは、何か意図があっての事だと思ったのだが、彼は何も言わず剣を交え始めた。
「……俺はてっきり日向の事をなにやらかにやら言われると思ったんだけどな」
 てっきり、自分が勝ったら彼と別れろとかそこら辺の事を言い出してくると思っていたのだが。
 がしゃがしゃがしゃ。
 ちょっとした意趣返しのつもりで日向翔の名前を出せば、盛大な音が聞こえ、驚かされた。振り返れば、剣を片付けようとして失敗した克己の足元に沢山の剣が転がっていた。
「甲賀?お前何やってんの?」
 友人も驚いたようで慌てたように声をかけたが、手伝おうとした彼を手で制していた。克己は背を向けているからどんな表情をしているかは見えない。が
「……川辺教官」
 その低い声のトーンでは、少なくとも笑っていないことは確実だった。
「日向翔を抱いたのか」
「……何を聞いてくるのかと思えば」
 ふ、と思わず川辺は口元を緩めていた。御巫に話したことが随分と気にかかっているらしい。先ほどの一方的な試合もその嫌がらせなのだろうか。
「日向に聞け、そういう事は」
「俺はあんたに聞いているんだが」
「答えたくない。だってお前、YESでもNOでも俺の事殺しそうなんだもん」
 少し幼い言葉で返し、振り返った克己に向かって川辺は舌を出して見せた。その克己の周りには凶器が沢山あるのだ、変に答えて殺されるよりは、答えない方が良い。
「あー、それは確かに言えてる」
 山川も川辺の言葉に同調し、苦笑した。克己は隠しているつもりだったようだが、その押し殺された殺気は普通に放たれているソレよりも恐ろしい。傍観者だった自分さえそれに息苦しさを感じていたのだ、対象である川辺が上手く動けなかったのは当然かもしれない。
 そこで試合が終わって初めて克己は山川と視線を交わし、その目を細めた。
「……どうだった、山川」
 それだけの言葉だったが、山川は何を問われたのかすぐに察したらしい。笑みを深め、肩を竦めた。
「うん、まぁ甲賀の予想通りかな?」
 にこやかに答え、彼はその視線を川辺に向ける。あまりにも親しげな笑みだったので、油断をした。
「貴方、川辺教官とは違う方ですね」
 その軽い口調での一言に、川辺の肩が大きく揺れ、背中が固まる。それを山川は眼の端で捉えて言葉を続けた。
「フェンシングそんなにやったことないでしょう?ルールとかは頭に叩き込んできたみたいですけど、やっぱり長年やってきた剣と、素人の剣じゃあ全然違いますからね。頭の中でルールを思い出しながらやっていたでしょう?剣先も足も、迷ってましたよ」
 長年やっている人間なら、すでにルールやマナーなどは体に染み付いているものだ。特に、プロ並だった川辺本人だったら尚更だ。素人を教官として呼ぶほど、軍は人員不足ではないはず。
「……まさかとは思ったがな」
 淡々とした克己の声に、川辺はゆらりと立ち上がる。しかし、その首はいつの間にか2本の剣の切っ先に挟まれていた。正面に立つ山川が持つ剣と、背後に立つ克己が持つ剣だ。その2つを避けて逃げるのは難しい。
「別に、取って喰おうってわけじゃないですから、安心して下さい。ここには生徒会の監視カメラも盗聴器もありませんし」
 正面の山川の笑顔が川辺の無理な脱出を止める。
「俺は、アンタに聞きたい事がある。それに正直に答えてくれるのなら、この事は黙っておいてやる」
 そして、背後の克己の言葉に川辺はゆっくりと両手を上げた。降伏の意思表示だ。この場面では恐らく一番賢い判断。
「何だ?答えられることを聞いてくれよ」
「……あの事は、本当なのか」
 克己の言うあの事、には川辺も心当たりがあり、思わずため息を吐く。
「お前、日向にやっぱり渡さなかったんだな」
 克己を通して渡そうとした例の明細書と、今回の一連のことの生徒会が作成した報告書のコピー。それを読んでいたなら、翔もこんな奇妙な行動は起こさなかっただろう。
「渡せるか、あんなもの」
 克己はぐっと奥歯を噛み締め、忌々しいと言いたげに答えた。それをちらりと視線を流してから、川辺は深呼吸をした。
「あれが真実だ。恐らくはな」
「あれは、お前はどうやって手に入れた」
「歩き回ったんだよ、色々なところを。探偵は足が基本だからな」
「探偵……だと?」
 怪訝そうな克己の声が背後から聞こえ、正面にいる山川の表情も驚愕に変わる。なんとも胡散臭い職名を出されたのだから当然かも知れない。
「お前は、何者だ」
 そして、とうとう聞かれてしまったその質問。
 川辺が押し黙ると克己は急かす様に剣で彼の肩を叩いた。若い子は待つという事が出来ないのか、と川辺は心の中で呟き、低く笑う。
「それは、なかなか簡単に答えられない問いだな」
「……答えろ」
「残念ながら名前はないんだ。俺はもともと亡霊みたいなものだからな」
 後ろにいる克己にも分かるよう、両手を広げて弁明する川辺に山川は眉間を寄せた。
「それはどういう意味でしょうか」
「……深い意味は無い。俺は今、川辺の体を借りて生きているとでも考えてくれれば良い。俺の事は聞くだけ無駄だ、止めておけ」
 川辺は首に剣を突きつけられているのにも構わず、くるりと体を動かし克己の方を振り返った。
「お前、翔はどうするつもりだ」
「……どうもしない。ちょっとばかり利用させて貰っているが、死なせるつもりはないし殺すつもりもない。そこは、安心しろ」
「信用出来ない」
「ならお前が守れば良い、甲賀克己」
 その真摯な黒い瞳に、先ほどの翔の心の強い眼が重なり、川辺は苦笑した。
「日向も、お前らが大切だから死ぬわけにはいかないと言っていたしな」
「……何?」
「そんな事を言う子どもを殺すほど、俺も冷血漢じゃない」
 川辺はゆっくりと目を伏せ、その様子に克己も自分の剣を下し、山川にも下させた。拘束がなくなったことに川辺は顔を上げ、克己に向かってどこか力なく笑う。
「少し、泳がせてはくれないか。俺の敵は君達じゃないから。今、時間はあるか?」
 克己と山川は二人視線を交わし、代表で山川がその問いに頷いてみせた。それに川辺は少しほっとしたような表情を見せる。
「君たちは、“H”の語源を知っているか。アレは元々は科学科の隠語なんだ。作って効果が解からない薬、実験待ちの薬のことを指す。HELL(失敗)かHEAVEN(成功)か解からない、そんな意味もあるらしいが本当のところは解からん。俺は、この薬で地獄を見たけどな」
「……使っていたのか、あの薬を」
 克己の低い声での問いには、彼は首を横に振る。
「いや。俺は、大切なものを奪われたんだ。あの薬に」
 むしろ、あの薬を憎む側の人間だ。
 そう付け足した川辺の眼には怒りの色が僅かに滲んでいた。




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