「川辺教官!」
 そろそろ教官用にあてがわれた寄宿舎に戻ろうかと廊下を歩いていた時、聞き覚えのない若い声に呼び止められた。
 誰だ?と振り返れば、見覚えのない顔がそこに立っている。不可解なのは、彼が着ている服が普通のスーツだということだ。軍服でもなく、ここの制服でもなく、白衣でもない。
「……どちらさま?」
 一般的には普通の服装とされているが、ここの敷地内では異質な格好をしている彼に川辺はそう問いかけた。それに彼は特に何も思うことなく威勢の良い名乗りを上げてくれた。
「士官科1年生の学科英語担任をしている御巫といいます」
「はぁ。で、そのミカナギ先生が俺に何の用で?」
 学科担任とはあまり接点がないからか、彼らの顔を見た覚えが全くない。ついでに、声をかけられる覚えが全くない。
 適当に頭を掻きながらそう返事をすると、その気の無い返事が彼の気に障ったのか、眉間に皺が刻まれる瞬間を見てしまった。温厚そうな顔立ちをしているのに、そうした険しい顔をすると凄みがあるものだ。
「日向翔君のことです」
「日向?あー……日向が、何か?」
「何か?じゃありません!その……貴方、日向くんとお付き合いをされているようですが、あんな格好をさせているのは貴方の意向なのでしょう?」
「はい?」
 この若い青年は何かを勘違いしているようだったが、その勘違いを真実だと確信し川辺に詰め寄っているようだった。
「貴方は、本当に日向くんが好きなんですか?大体、教師が生徒とそんな関係になるなんて、まずそこから……」
「うーん……」
 思わず川辺は首を傾げてしまった。この若い教師の熱意には拍手を贈りたいが、少し突っ走る傾向があるらしい。
「聞いているんですか?それに、貴方この間日向くんのこと殴っていたじゃありませんか。あの日、僕の授業だったんですよ。教師が生徒を殴るなんてとんでもない!」
 そんな川辺の煮え切らない態度に御巫が口調を強くした。それに、何かピンと来るものを感じ、思わず口元を上げる。
「そんな事は貴方には関係ないことですよ、御巫先生。私達は教師じゃなく、軍人ですし」
 馴れ馴れしく肩を叩いてきた手を不快気に一瞥して、御巫は更に反論する。
「軍とかそんなこと関係ありません、僕は一教師として、貴方に」
「貴方が、日向を好きだと言うなら話は別ですけど」
 瞬間、御巫の時間が止まった。そして徐々に赤くなっていく彼の顔に、川辺はあまりにも予想通りの展開過ぎていっそ呆れた。
 そんな反応をしては、図星と言っているようなものだ。
「ち、違います!僕は教師で男です!そんな……生徒を、しかも男子生徒を好きになんてなるわけ……!」
「まぁ、軍内ではよくあることですから」
「僕は軍人じゃありません!貴方たちと一緒にしないで下さい!」
 赤い顔をして強く睨みつけられても一般人程度の眼力ではそう恐怖を与えるのは難しい。彼の何の攻撃にもなっていないその視線に、川辺は笑って見せた。
 面白い玩具を見つけた子どものように。
「でも、抱いてみればその考え変わると思いますよ?」
「は、はい……!?だ、だっ!?」
 あまりにも驚いたのか、それとも予想外の言葉だったのか、御巫の声は裏返っていた。その反応は川辺の悪戯心をくすぐるだけで。
「男でも日向は可愛いし細いし、上に乗っけてもそこまで重くない。あの顔は喘がすより喘がせた方が可愛い顔だ。どうです?あの子を組み敷いて腰に乗せて、思い切りその腰つかってみませんか。貴方好みに乱れてくれると思いますよ」
 生々しい言葉を並べられ、顔を赤くしたまま唖然とした彼の表情は見ものだった。何歳かは知らないが、その外見の年齢ならば性経験も何度かあるだろうに。
「ふっ……ふざけないで下さい!僕は、そんな!」
 やっと言えたその声はどこか震えていて、哀れとしか言いようがない。
「……日向は昼間はあんな色気も感じさせない子どもですが……」
 そんな御巫に近寄り、川辺は追い討ちをかけるように赤い耳に囁いた。
「あれでいて、夜はなかなか」
 最後まで聴かず、御巫は川辺の前から逃げ去った。何とも若い反応だ、面白すぎて笑いが抑えきれない。
 もし、彼が何か間違いを起こそうとしても翔の腕ならあの男を投げ飛ばすくらいは出来るはずだ。焚き付けたのが自分だと知られたら、その拳の矛先は自分だろうが。
若いっていうのは良いなぁ。
 くすくす笑いながら足を進めようとした、その時
「なかなか興味深い話をされていたようですね、教官」
 人の気配の無かった背後から声を投げかけられては肩を揺らして驚くしかない。先ほどの御巫は気配を消すというやり方も知らない相手だったが、今回は違う。しかも、その声に殺気混じりの怒気が込められていては、堪らない。
 背筋に冷たいものが流れるのを久々に感じた。
「……その話、詳しく伺いたい」
 振り返ると、予想はしていたが、今恐らく一番会ってはいけない男、甲賀克己が壁に寄りかかり満面の笑みでこちらを見ていた。
 修羅場を掻い潜ってきた男の眼力は、笑みの形をとっていても人を殺せる。
 甲賀克己をからかうには、ネタに限度があるとこの時思い知らされた。



 あれでいて、夜はなかなか。
 そう囁いた川辺の声が耳から離れない。内容もだが、川辺の声もだ。普段の彼の声とは違い、色が混じった擦れ声が夜の情事を暗示しているようで何とも言えない気分にさせる。それでいて、その時の翔の声を知らないというのがまた変な想像へと御巫を導くのだ。
 一体、どんな声で喘ぐのか、とか。
 一体、どんな表情になるのだろう、とか。
 ああ、そんなことを考えていてはいけないのに!
 そう、口に出して叫ぼうとした瞬間、何者かに口を塞がれ、強く背を壁に叩きつけられた。何が起きたのか一瞬分からなかったが、瞬きをした後視界を埋めていたのは、色素の薄い髪だった。
「和泉、くん?」
 おずおずと恥ずかしげに顔を上げたのは、自分が担当している1年の生徒だった。しかも、彼は一度も自分の授業に出ていない生徒だ。その彼が、何故か自分の腕の中に収まっている。ふわりと、彼の体から香のような匂いが鼻に触れた。
「どうか、したのかな?」
「……先生」 
 薄暗い人通りの少ない廊下に響いた和泉の声は、どこか甘く切なく響く。
「俺、先生に聞きたいことがあるんだ」
 この間話した時とは違う、どこか幼い口調に戸惑いつつ質問かと問おうかとしたが、彼は自分の授業にあまり出たことがない。
「何、かな?」
 さっきから和泉から漂う香の香りが急激に強くなったような気がした。だが、嫌な臭いではない。もっと嗅いでいたくなる不思議な匂いだ。
「……この間、何を見て青って言った?」
 その香りに被さるような和泉の心地のいい声が脳を痺れさせた。
「青……?」
「先生、綺麗って言ってたじゃないか」
 忘れられたのかと哀しげに眉を寄せ、和泉のその眼が責めるようにゆらりと揺れた。
「俺、嬉しかったのに……」
 そっと御巫の肩口に顔を埋め、密着した肩が細かく震え始めたのには慌てるしかない。あの、他人に興味を示さないタイプに見えた和泉が自分の腕の中で震えているのだ。
「い、和泉君!?どうしたのかな?誰かに苛められたとか?」
「……そんなんじゃないよ、先生」
 小さな声で否定され、御巫は身を硬直させた。その緊張は密着していた和泉にも伝わったらしい。
「……俺、ずっと先生の事……でも、先生は男なんて嫌だよな。だから、綺麗ってもう一度聞きたかった。それで諦めるから」
 彼の声がわずかに震えているのは恐らく気のせいではない。
「和泉くん……」
「何が、青くて綺麗だった?」
 切ない声色に御巫は緊張のあまり喉を鳴らしていたが、彼の肩口で囁いていた和泉の眼は鋭かった。それに気付かなかった御巫は幸いだったかもしれない。生徒の突然の行動に顔を青くしたり赤くしたりと、彼はそれどころではなかった。
「君の、肩口に……あるタトゥだよ」
「……え?」
 ぱっと顔を上げた和泉に、御巫は微笑んでみせた。彼の声の震えが収まるように、優しく。
「何か運動系の授業の後だったのかな?シャツきちんと着ていなかっただろう。ちらっと見えたんだ。何の形かまでは見えなかったけ」
「なんだ」
 言い終わる前に、唐突に興味を失ったような声と共に和泉はすぐに身を引いた。さっきまで切なく訴えていたとは思えない程の変わり身だ。そのスピードについていけない御巫の目の前に和泉の両手が音を立てて合わせられる。
「ならもうアンタに用は無い。俺の事は忘れろ」
 目の前にあわせられた両手から、サラリと青い粉が零れ、あの匂いが強くなる。
 匂いに呑まれ御巫の瞳から光が失ったのを確認し、和泉は合わせていた手を離し、中に入っていた薬を相手の体に撒き散らした。まるで蝶の鱗分のように僅かに入っていた太陽光に青くきらめき、消えてゆく。
「少し眠れ。眼を開けた時、お前は今の事和泉興という人間のことを忘れている。すべては夢の中の話だ」
 聞くだけでどこか安堵出来る和泉のその声も催眠術の効力を上げていた。その声に誘われるように御巫は小さく「夢」と呟いた。和泉の術中にはまっている証拠だ。
「この夢は目を覚ますと同時に消えてしまう」
 青い世界に飲み込まれていった御巫の体は壁伝いに崩れ、すっかり力を失った男の体を和泉は一瞥した。すっかりこの薬の香りも消え、後は目の前の男の寝息が漂うだけだ。
「こっちだったのか……」
 和泉は自分の肩口を手で押さえ、ほっと息を吐いた。目を見られていなかっただけ、良しとしようか。
「紛らわしい事しやがって」
 ち、と軽く舌打ちをし、手に持っていたナイフをしまう。もし彼が眼の事を口にしていたら迷わず殺すつもりではあったが、その心配も杞憂だったようだ。記憶は消したが、催眠術というのはけして完璧ではない。いつ思い出されてもおかしくない、いっそ殺しておこうかと思うが、止めた。面倒なことになったら困る。形が解からないとも言っていたし、タトゥがある生徒は実はそう珍しくもない。大して問題ではないだろう。今回彼の記憶を消したのは保険だ。
 その時、和泉の足元にするりと擦寄るものがあった。華紬だ。置いてきたはずなのに、いつの間にか自分の背後にいた。
「華紬……匂いにつられてきたのか」
 さっきまで香を握っていた和泉の手に鼻を寄せるその仕草に納得し、その白い頭を撫でた。それを気持ち良さそうに受け止め、赤い舌がその優しい手を舐める。その舌が妙に熱く感じたのは、自分の手が冷え切っていたからだろう。
「帰ろうか。でも俺の部屋は狼司の部屋より狭いぞ」
 軽く微笑み、華紬を誘導しようとしたその時、彼女が何かに反応しくるりと御巫を振り返る。
「華紬?」
 ゆらりと尻尾を揺らしたその仕草に、和泉は彼女の言いたい事を了解した。
「……ああ、ダメだ華紬。そいつは食べるな。喰ったところで美味くないぞ……多分」
 俺は人を喰った事がないから、美味い不味いの判断はよく解からないけど。
 そう、華紬に話してやると彼女も納得したのか和泉の足にまとわりついた。空腹の知らせだろう。しかし、何を食べさせれば良かったのかいまいち思い出せず、和泉は寮ではなく狼司がいるだろう風紀委員会の委員長室へと足を向けた。







「……おい、いつまで寝ているつもりだ」
 太腿を蹴られ、硬質な声に御巫は目を上げた。寝ていたわけではない、彼が戻ってこないとも限らないから、寝たふりをしていたのだ。だが、彼が来たという事はもうその心配はないらしい。顔を上げれば、黒髪の無表情な青年がそこにいた。
「やぁ、宇佐木先生」
 にこやかに対応すると彼の無表情な顔が怪訝なものに僅かに変化した。普段、優しく生徒に人気があるとは思えない程の無表情っぷりに御巫は忍び笑う。自分とは反対のタイプだ。自分の目の前に立っている宇佐木誓は1、2年の学科教員の一人で、彼は化学を担当している。白衣を着用している彼は、科学科の研究員の一人でもあった。
「……薬にあてられて気でも触れたか」
 ぼそりと宇佐木が呟いたが、それは無視して御巫はポケットから煙草を取り出し、一本咥えた。そんな簡単な動作でも、傷をつけた左手が痛む。血が流れ落ちているその傷を一瞥し、痛みも無視して火をつける。大きく煙を吸い込み、吐き出して、ようやく人心地がついた。
「やれやれ……この国には面白いマジックを使う子がいるんだな」
 まだ少し頭がクラクラする、と御巫は苦笑したが、大して術の影響は受けていないのだろう、その言動は明瞭だ。あまりああいった術は見たことがないだろうに、彼は術をかけられる寸前にその手を傷つけ術から逃れた、その判断力と行動力は賞賛してもいい。だが
「不用意に生徒と接触するなと言われただろう」
 その責めるような宇佐木の言葉に御巫は小さく笑った。その笑みは煙草を吸う手で覆い隠されていたが。
「良いじゃないか。折角だし楽しいスクールライフを送りたいんだよ、私も」
「……遊びじゃないんだぞ、これは」
「ああ、仕事だな。でも仕事も楽しまなくちゃ人生半分損してることになるじゃないか」
 くすくすと彼は笑い、そんな相手に宇佐木は目を細め、白衣を翻し階段を下りてゆく。その靴音が遠ざかり、消えてから御巫は吸っていた煙草を携帯灰皿で揉み消し、新しい煙草を取り出し口に咥えた。
「……仕事じゃなきゃアンタらと手を組んだりしないさ」
『何か言った?』
 耳元で聞こえた女性の声に御巫は苦笑して「何でもない」と答えた。
 定期連絡の時間だった。耳につけた小さな四角いピアスから聞こえ始めた女性の声に耳を澄ませ、フィルター部分に小型マイクをつけた煙草を口元に寄せる。
「今のところ問題は無い。女の子は可愛いし」
『あら、そう。それは良かったわね』
 通信相手は御巫の台詞を一蹴し、そのあまりにも素っ気無い態度に御巫の方が折れた。久々の会話だというのに随分とつれないものだ。
「……冗談だ、レディ。君に勝る美女はいないよ。色々と面白いものは見た。後で動画を送る」
 それで、今の失礼な冗談を帳消しにしてもらう作戦は成功したらしい。向こうで満足げに笑う彼女の嬌笑が僅かに聞こえ、そこで通信が切れた。今の女断ち生活にその微笑みは毒だが、毒は薬にもなるというのは本当だ。久々に聞いた心を許している相手の声に心が少し洗われた気分だ。
 だが、敵国潜入というのもあまり良い仕事ではない。血が滴り落ちた指先を見てため息を吐いた。
「ついてないねぇ、私も」
 まぁ、変に刺激をしたのは自分なのだから、これは自業自得の結果となるのか。マイクを仕込んだ煙草は箱に戻し、本物の煙草を再び口に咥え、火をつけた。
 あの白豹は自分の血の匂いに反応していた。一歩間違えば喰われていたかもしれないと思うと背筋に震えが走る。送り込んだエージェントが豹に食われたなんて知ったら、上司は三日ほど寝込んでしまうかも知れない。それはそれで笑えるが。
「しかし、面白かったな……」
 催眠術の類は自分もいくつか扱えるが、あそこまで手並みよくはいかない。あの香とそれを発する青い粉、そして和泉のあの声が全て揃って初めて上手くいくのだろう。自国にもあんなものを使える人間は恐らくいない。少なくとも、御巫の身の回りにはいなかった。
「アイツ、良い声してたな……」
 何と言うのだろうか、高くもなく低くもなく丁度良い音程で、耳にするりと入り、脳に浸透していく透明感のある声。あの香りと同じく、もっと聞きたいと心地良い気分になる声だ。催眠術を使うには最適だろう。
 あの年齢で、あそこまで。
 日向翔のあの変装も見事なものだった。素人の目ではあれが彼だと気付ける者はいないはずだ。この自分でも見破れなかったのだから。彼が変装術に長けているとは意外だった。もしくは、それをやらせている川辺の腕かもしれないが。
 とにもかくにも。
「恐ろしいな、この国は……」
 だが、相手にとって不足はない。
 エージェントとして腕がなるな、と傷を負った手にハンカチを巻きながら無意識のうちに口角を上げていた。





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