「こんなんで本当に大丈夫なんですか?」
 こんな方法で目的が達成出来るか疑わしい。黒髪のカツラを外し、翔は蒸れた頭から熱気を取ろうと頭を掻き回した。
「大丈夫大丈夫。似合ってるじゃないか、日向」
「……嬉しくないですけど」
 教官室のソファに座っている翔の姿はいつもの制服ではなく、女子生徒用のスカート姿だった。元々女顔であるからか、一見普通の女子生徒の姿だが、今回はそれだけでは充分ではない。日向翔だということを気付かれてはいけないのだ。
 試しに人が見える場所に立ってみたが、誰一人自分だと気付かなかったようだ。
「化粧は偉大だな」
 カツラを翔の頭に被せてみたら、黒いその髪の色は色素が薄い翔の本来の髪を覆い隠した。これなら、茶色い髪の色のイメージが強い翔だと誰も思わないだろう。そして、極めつけは化粧だ。それでもう翔は間違いなく女子生徒に変身していた。
「……本当に、これで橘さんを殺そうとした奴が寄ってくるのかなぁ」
 自分から言い出したことだが、あまりにも突飛な行動だったと後悔すると同時に不安になった。
 橘と関係のあった川辺。その川辺の周りには、自分を襲ってきた永井恵介がうろついていた。そして、彼は死んだ。それに、生徒会も動いている。
 川辺が一つのキーポイントになっていることは間違いないし、現に自分は永井に襲われている。
「俺が犯人だったどうするんだ?」
 翔の小さな呟きを拾った川辺が、翔が脱ぎ捨てたカツラの毛を整えながら優しげな声で問う。
「俺が死んだら、俺の友達が気付きます」
 遠也や克己、正紀たちが必ず。彼らは自分が川辺に告白した事を知っている。自分に何かがあったら、即座に川辺のところに来るはずだ。
 その油断ならない面子を思い出したのだろう、川辺は苦笑し「そうか」と呟くように答えた。
「……川辺教官から教えてもらった“H”、調べました。麻薬……みたいなものなんですよね?」
 さっき、図書館に行ったついでに調べたら、国語辞典には載っていなかった結果が出てきた。恐らくこれが彼が言いたい事なのだろう、と判断した。
 川辺は髪を整える手を一端止めてから再び手を動かす。
「ああ、そうだ」
「それが、橘さんのところにあった薬……なんですよね?生徒会では禁止してるって聞きました。橘さんと付き合いのあった貴方なら何か知っていますよね」
 川辺に聞いたところで、正しい答えが返ってくるかは分からなかったが、橘が首を吊ったあの日、自分を錯乱させたその薬がそれなのだと克己から聞いている。生徒会で禁止されている薬でもあるし、間違いないだろうが。
「川辺教官は、その薬の事、知ってるんですよね?どうして、俺に、この薬の事を。この薬、橘さんと何か関係があるんですか?それに」
 その薬を使って金儲けをしているなら、佐木家の息子で、科学科とも通じている遠也と友人である自分にそんな単語を教えるわけがない。自分がそれを知り、彼に聞いたら一巻の終わりだろうに。
「貴方は、何者ですか」
 恐らくは敵ではない。だが、味方でもない。
 長い髪を整える手は止まることなく、無言で優しく作り物の髪を梳く。もっと聞きたい事はあった。何故、橘に近付いたのか。それが一番聞きたいことではあったが、聞くのが怖い。
 けれど、核心に近付きすぎた問いだったのか、川辺の返答は無かった。
「君は、そんなにあのクローンを守りたいのか」
 代わりに問い返され、翔は少し不満に感じたがすぐに頷いた。僅かな動きだったが、それを川辺は呆れたように息を吐き、手を止めて翔を振り返った。
「見た目は同じでも、あれは君の姉ではないよ」
 どこか窘めるような言い方に翔は眉間を寄せる。まるで、自分が間違っていることをしているような、そんな気分にさせる言い方だ。
「そんなことは分かっています。頭では解かってるんです。でも……あの顔で泣かれるのは嫌なんです、あの顔で辛い顔されるのが嫌なんです。あの顔で、笑って貰えると……嬉しい、から」
 夢の中ではいつも哀しげな顔でしか見てくれない彼女の笑顔を、自分は忘れかけている。だからもう一度笑顔が見たい、それだけだった。
「自己満足に過ぎないのかも知れない。それでも、俺はあの人を守りたい。守らないといけないんだ」
 これがきっと最後のチャンスだろうから。
 そのためなら、女装くらいなんてことない。
 再びカツラを被り、肩から落ちたその長い黒髪に触れ、どこか人工的なその手触りに違和感を覚えるが、致し方ない。
強い決意を秘めた翔の横顔に川辺は小さく息を吐いた。
「今15歳、だよな」
「そう、ですけど」
「……そうか。この間は、手荒なことをしてすまなかった」
「いえ、別に……」
「君は、まだ15だろう。クローンのためになんて死んだらそれこそ眼も当てられないぞ」
 ぽん、と川辺の手が頭に乗り、そこで初めて彼を大人として認識した。今まではただの教官だと思っていたから、それ以外の人種だと思ったことはなかったのだ。まさか、彼がこんな事を言ってくるとは。
 そして、久々に自分が子どもという分類になるのだと思い出した。もしかして、彼は自分を心配してくれているのだろうか。
「大丈夫です」
「日向……」
「大丈夫です、俺。少し前だったら教官の言うように橘さんの為なら死んでもいいって思ってたかもしれない。でも今の俺には大事な仲間がいるんです」
 克己や遠也が何度も優しく助言をしてくれ、正紀たちが明るく接してくれる。彼らを無くしたくはないし、自分ももう少し彼らと共にいたいと、こんな風に思ったのは初めてだ。
「皆が俺の事支えてくれてるし、心配もしてくれてる。今の俺には姉さんの他にも大事に思える人達がいるから、死ぬわけにはいかないでしょう、やっぱ」
 どこか誇らしげに、目を細めて笑う翔の表情は着ている服とは逆に充分に少年の顔だった。
「それは甲賀辺りのことか」
 川辺も何度か他クラスの指導もしてきて色々な友人関係を眺めてきたが、翔と克己のツーショットは珍しい組み合わせだった。絶対に接点がなさそうなのに、何故か一番絆が強そうな空気を持つ。前にも一度、そんな組み合わせを見たことがあるが……。
 不意に蘇った過去の記憶に川辺は目を細めた。
「克己だけじゃない」
 翔はそう答えてソファから立ち上がる。しっかりとした意思を持った背は細いようで力強い。
「ま。貴方があんな変な交換条件出さなかったら俺だってこんなことやろうと思いませんでしたけど」
 ちらりと目の端で睨まれた川辺は、前の翔との一戦を思い出し、苦笑した。
「甲賀を女装させて写真撮ってこいってやつか?あれは罰ゲームの範囲だろ」
「何で克己なんですか?」
「君が、一番本気を出せる素材だと思ったんだ。後は、あの甲賀克己の弱みを握っておくのも無駄にはならないと思ってな」
 悪戯っぽく笑う川辺のその表情はどこか誰かに似ている気がしたが、誰かまでは思い出せなかった。
「……貴方が、犯人なんですか?」
 どことなく柔らかい空気を持ち始めた彼に、直球に問う。
 だが、何の、とまでは言わない。橘を殺そうとした犯人、その薬を売りさばいている人間、それともこの間自分を襲った人間を殺した犯人なのか。
 川辺は否定も肯定もせず、ただ笑うだけ。
「自分で調べるんだな、日向翔。こうして俺の側にいれば、俺が犯人ならその証拠が寄って来るはずだ」
彼は自分に何をさせたいのだ。
 川辺が考えている事が理解出来ない。犯人なら、それを突き止めようとする自分は邪魔だろうに。犯人ではないのなら、何故否定しない。
 困惑する翔に、彼は目を細めるだけだった。
「……君は、もし橘が一連の事に一枚噛んでいたらどうする?」
「え?」
「仮定の話だ。もし、橘が被害者ではなく加害者だったら、どうする?それでも君はその身を挺して彼女を守ろうと思うか?」
 そんなわけ、あるはずがない。
 翔の答えはそれしかなかったが、川辺の眼が思いのほか真剣だったため、全否定出来なくなった。川辺の眼は、翔の答えをひたすら待ち望んでいる。
「……俺は」



「絶対いいように扱われてる気がする、俺……」
 女装のままとぼとぼと校舎付近をうろつきながら翔はため息を吐いた。こうして一人で歩いていれば、あちらから接触してくるかと思ったのだが、今日もその兆候はなかった。気付けば校舎からは人気がなくなっている。当然だ、もう下校時刻なのだから。
 橘さんが、なんだって?
 先程の川辺との話を思い出し、翔は唇を噛み締めていた。彼は仮定の話だと言ったが、何故かいつまでもその不躾な問いが頭から離れなかった。
 川辺の話によれば、その“H”という薬はヨシワラから流れてきているらしい、と。そしてそれをバラ撒いている人間がヨシワラの中にいるのは確実だと。
でも、それが橘だと決まったわけではない。あそこには沢山の男女がいるのだ。むしろ、あの場で殺されかけた彼女ほど、無実に近い存在はいない。
 徐々に赤くなり始めた空を見上げ、近くにあったベンチに座った。ふと見れば、水を撒き散らしている噴水の向こうにあるベンチに青年が一人座っている。彼は茶色く色あせた文庫本を読んでいるらしく、一定の間隔でそのページをめくっていた。こんなところで読書をする人間を見るのは初めてだ。
 ふと彼も顔を上げ、こちらを確認してにこりと笑う。人懐こい笑みだったが、その首に巻かれているネクタイの色は青い。3年生だ。慌てて頭を下げて礼をすると、水越しに彼が笑みを深めるのが見えた。
 その洗練された笑みには見覚えがある、生徒会副会長の千宮路廉だ。
 こちらが表情を固めた理由を悟ったのか、彼が目を細め、何か言いたげに口を動かそうとした、その時
「君、もう下校時刻は過ぎているよ」
 突然背中からかけられた声に振り返ると、そこには英語教師の御巫がいた。翔の驚きように彼も驚いたのか、忙しなく瞬きをしている。そんな彼からすぐに視線を剥がし、向こう側のベンチを見ればすでに彼の姿は無かった。
「どうかしたかな?」
 御巫の戸惑うような声に「いえ……」と小さな声で答え、翔は立ち上がった。今日はもう帰ろう。何だか、ここに長くいるのは良くない気がする。
「何でもないです。センセ、さよーならっ」
 満面の笑みと女声を意識して挨拶をすれば、御巫の人の良さそうな顔がほんのり赤くなるのが分かった。ああ、どこかで誰かが言っていた気がするが、ちょろい。
「あ、ちょっと待って」
 踵を返そうとしたところで呼び止められ、再度振り返ると黒髪がばさりと宙を舞う。普段こんなに長い髪を持ったことがなかったから、邪魔でしようがない。
「何ですか?」
 それでもそんな不慣れな態度は微塵も見せず、その髪をかき上げながら笑ってみせた。すると彼はさっと自分から視線を逸らし
「君は、どこのクラスの子かな?」
 と、今の翔には一番答えにくい問いをぶつけてきた。
 ちょろいと思ったのは間違いだったのか。
「あ、い、いや……君が川辺教官とその……お付き合いしている子だってのは分かっているから、変な意味ではないんだよ?ただ、僕は一年生を担当しているんだけれど、君のような子見た覚えがなくて……」
 翔が難しい表情をしたのをどう思ったのか、慌てて彼はフォローをしてきた。しかし、鋭い指摘には翔も逃げ出す術を見つけられない。適当に誤魔化したところで、明日にはバレることだ。
「生徒会から不審な人物を見つけたらすぐに知らせろ、って言われてるから……そのIDカードだけ見せてはくれないかな?」
 馬鹿正直に生徒会の通達を守っている教師は彼くらいかもしれない。その真摯さに負けた。
 仕方なく、胸ポケットから自分のIDカードを出し、彼に手渡した。そのカードを持ってること自体はこの学校に所属する人間ということを証明する。カードを出した瞬間、御巫が安堵したのが分かる。しかし、カードを見て、彼の表情が驚愕へと変化した。
「……日向、くん?」
 何度もカードに貼られている証明写真と目の前にいる少女の顔を見比べ、彼は納得するような、それでいて感心するような声を上げていた。
「……あんまり見比べないで下さい、恥ずかしいから」
 無意識のうちにスカートの裾を引っ張り普段は出さない足を隠そうとしていた。
 ちょっと拗ねたように言うと彼は大袈裟なまでに目を見開いてあわあわと両手を振る。
「ご、ごめん……!その、あまりにも可愛……じゃなくて似合っ……じゃなくて、その……ごめんね」
 良い言い訳とフォローが見つからなかったのか、諦めてがっくりと肩を落として彼は最終的に謝ってくる。別にそこまで謝らなくてもいいのに彼は真摯な態度で頭を下げた。あまりにも恐縮しきった態度に、むしろこっちが悪い事をしたような気分になった。
「別に良いです、気にしないで下さい」
 カードを受け取りつつ苦笑して見せると、御巫も少しほっとした表情を見せる。それに翔も安堵した。
「けど、どうしてそんな姿で……授業か何かかい?」
「あ、まぁ……そんなもんです」
 ははは、と乾いた笑いを上げてみせるが、自分から言ったのに御巫は納得していない様子だった。けれど、それ以上は何も聞いてこなかったのが幸いだった。気弱な青年とばかり思っていたが、察しは良いようだ。それに、担当しているクラスの生徒全員の顔も覚えているという辺り侮れない。彼は1年の全クラスを担当していて、その中でも授業に出ないだろう生徒もいるというのに、だ。
「えーと……この事は誰にも言わないでくれませんか?」
 彼に感心しつつ、口止めも忘れない。川辺にも言われていた。何かあった時は正体を明かしてもいいが、その都度口止めを忘れない事、と。その方法や台詞まで教えてくれたのだから、案外彼も面倒見がいいのだろうか。
 でも、なるべくならやりたくなかったんだよなぁ……と翔は心の中で密かにため息を吐いた。しかし、これが最良だと彼も言うのだからそうなのだろう。
「この事、まだ……誰も知らないんですよ。気付かれたら恥ずかしいし」
「ああ、まぁ……でもそれ位似合ってたらそんなに恥ずかしがる事は」
「だから、この事は……先生と俺だけの秘密ってことで」
 そう言って上目遣いで懇願しろ。涙目なら尚良し。
 川辺が笑いを堪えながら指導してきたことを全て実行するのは流石に無理だった。上目遣い、というのは相手が自分より身長が高いからまだクリアしているだろうが、涙目は無理だ。
「分かった、誰にも言わない」
 多分、御巫相手なら下手な小細工も無しに口止めは出来ただろう、と彼の爽やかな返答を聴いて心の底から思った瞬間、どっと疲れが押し寄せてくる。
 もう、今日は帰ろう。




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