いっちゃん、いっちゃん、いずる。
 そう優しく自分の名を呼ぶのは、誰だったか……。もう何年も会っていない母親の声だと少し考えて思い出した。彼女は幼い自分によく絵本を読んで聞かせてくれた。穏やかで儚げな空気を持った彼女は、温室育ちだったのもあるのか夢見がちなところがあった。彼女と父の出会いも、話を聞くとある事件の時に警備のアルバイトしていた父に助けられ、それがきっかけに2人は恋に落ちたと聞いている。その時の彼女にとっては王子様のように見えたのだろうが、彼は残念ながら王子ではなく一介の庶民だった。刺激の足りない日々を送っていた彼女には刺激的な出会いだったのかも知れないが、二人の結婚、むしろその出会いは間違いだった。そう、最後に彼女に会った時に冷たく告げると彼女は哀しげに瞳を揺らした。
 私は、あの人と会った事、貴方達を生んだ事、何一つ後悔はしていない。
 そう、静かな声で呟いて。
 確かに幸せな時期もあった。母が自分に絵本を読み、愛しげに自分の名を呼び、父は自分に危機が迫るとすぐにその手を伸ばした。幼い頃熱湯を被りそうになったいずるを庇った時の火傷の痕はきっと今でも彼の腕に残っている。
 しかし、今は。
 この学校へと旅立つ日、自分を見送ってくれたのは祖父母……法律上の両親だけだった。血縁上の両親は二人共顔を見せなかった。別に、その事を恨むつもりはない。淋しいとも思わなかった。両親などいなかったものともう思っているし、いずるはすでに彼らから精神的自立を果たしていた。今どこで彼らが何をしていようが、自分には何の関係もない。
 けれど、幼い頃から何かと母親が言っていた言葉だけは忘れられず、いずるの頭の中に残り、偶にその存在を強調した。
 大切な人の秘密を知ってはいけない。知ったら、その人は目の前にいなくなってしまう。
 ちらりと脳裡を過ぎるのは正紀の事だ。彼は隠し事が下手で、彼が何か隠していても自分はすぐにそれを察する事が出来た。今、彼が隠していると思っていることも知っているし、知らない振りを続けていた。けれど正紀も聡い。どこかで彼も気付いているのではないか。自分が知らない振りをしていること、そして自分もまた秘密を持っている事を。全てを知り、正紀が自分と離れる事を決意したらそれを止める術は無い。それもまた、正しい判断だといずる自身思うからだ。
 何だかんだ言っても、自分と彼は身分が違う。友情、とか、絆、とか安易に口には出来るが、今の世界では身分の差というのは意外と厚い壁なのだ。勿論、その程度で崩れる友情を今まで築いてきたつもりはない。だが、何かの切っ掛けで正紀を傷つけてしまうのではないかという予感があった。もしかしたら、いつか自分の存在そのものが彼を傷つけてしまうかもしれない。
 一人で弓道場にいたいずるは深いため息を吐いた。
 弓を引き掛け、いずるは一度手を止め、右手と左手を交互に眺め、強く握った。?を付けた手からはぎしりと布の軋む音が聞こえたが、聞こえた音はそれだけではない。
 他の人間には聞こえない、自分だけが感じ取れるこの音。もしかしたら、実際は鳴っていないのかもしれない音だ。
「……兄さん」
 そっと今はもういない相手を呼び、顔を上げる。そこには、姿勢を自分で確認出来るように取り付けられた大鏡があった。この間、科学科に行った帰り佐木遠也に出会ってしまったのは誤算だった。彼もきっと思いがけないところで出会ってしまい、不審がっているだろう。気付かれるのも時間の問題かもしれない。
 せめて、正紀に自分からこの事を話してから気付いて欲しい。そうは思うがきっとそれは無理だ。まだ、その覚悟は出来ていない。
 ゆっくりと左腕を覆い隠す弓道着の袖を捲くり、肩口まで上げて手を止めた。そこには、何もない。ただしっかりと成長し、丁度いい筋肉がついた二の腕があるだけだ。
 は、と自嘲気味に笑い、左腕から手を離した。布は重力に従い、ゆっくりと落ちていく。けれどそれが元の位置に戻るよりも先にいずるは左手を強く握り、コンクリートの壁に叩きつけた。
 壁が揺れ、ゴッと鈍い音が弓道場内に響き、パラリとコンクリートの破片が床に落ちる。壁には拳大の穴が開き、それをいずるは冷めた眼で見てから肩の力を抜いた。
 左手の甲の汚れを払い、無傷であるその手を眺め、軽い準備運動のように手首を振る。そして、凹んだ壁にその手を置き、開いたばかりの穴を手の平でなぞる。
「……鏡の位置ずらせばバレないよな」
 思わずやってしまったが、流石にこの穴を他の人間に見られるわけにはいかない。見られたところで、自分の仕業とは誰も思わないだろうが。
 普通の人間が出来る事じゃない。
 普通の人間ならまずコンクリートに穴を開けることは不可能だ。たまに吃驚人間のような人間がテレビに出ているが、ああいうものの多くは仕掛けがある。だが、この壁にそんな仕掛けはない。仕掛けが、あるとしたら……。
 白い腕を眺め、いずるはその手首に自分の額を当てた。動いて熱っぽくなった額には、そのひんやりとした温度が染み渡るが、腕にその熱は感じられなかった。




「一体何がどうなっているんですか?」
 遠也の怒りの声に帰ろうとしていたところを止められ、克己は密かに思う。
 ああ、お前には絶対そう言われると思った。
 今は放課後だが、今日一日の翔の行動は奇妙だった。休み時間になればそそくさと教室から消え、どこに行っていたのかと聞けば曖昧にはぐらかされる。絶対に川辺のところだ。丁度、川辺に新しい恋人が出来たとあちこちで囁かれるようになっていた。
 告白現場を見逃した遠也と大志は不思議そうに首を傾げている。遠也は怒りに近い感情を抱いているようだ。苛立っているのがその言葉で解かる。
 別に、遠也も翔が誰と付き合おうが干渉するつもりはまったくない。
 が、今回は相手が問題だった。
「俺にもさっぱりだ」
 不機嫌そうに克己は遠也の問いに答え、口を閉じる。それ以上何かを言いたくなかったからだろうか。
「まさか日向が川辺に惚れるとは……もう喰われたんだろうなぁ」
 余計な一言を付け足した大志は頭を遠也に叩かれ、足を克己に思い切り蹴り飛ばされた。
 完全に八つ当たりだったけれど、この殺伐とした怒りのオーラの中で意義を申し立てることは出来ない。一人で痛みに耐えるしかなかった。
「日向を頼むと言ったはずですが?何でこんな事になっているんです!」
 ばん、と遠也は机を叩いて克己に詰め寄った。あの「頼む」はあの一時の頼むではない。しばらく彼が無茶をしないように見張っていてくれの「頼む」だ。なのに克己はその言葉を聞き届けてくれなかった。
 少しは彼の力を認めても良いと思っていた矢先の出来事で、遠也は憤慨するしかない。
 そんな小さな天才の怒りを、克己はただ黙って受け止めている。
「大体、俺が知る限りでは、川辺は日向の恋愛相手が務まる相手では無いです」
 翔との付き合いが長い遠也は一番そこが引っ掛かっていた。
「……別に務まるとかそういう問題じゃないだろう」
 嫌々話に加わった克己は遠也の一言を否定する。けれど、彼は首を横に振った。
「それに、日向は自分の恋愛感情を優先するタイプじゃない」
 自分から告白した、と聞いたけれど、遠也はそれがどうしても信じられなかった。
 川辺のことはついこの間まで思い切り敵視していた彼が、だ。あの告白が本当のものだとすると一体どんな魔法か、それとも惚れ薬でも間違って使われたのか。そんな非科学的な理由じゃないと納得出来ない。
 しかし、一つ考えられるとすると。
「……何だ?」
 何も知らずにいるこの馬鹿な翔のルームメイトが原因。
 遠也の冷たい視線に克己は面倒臭そうな表情になり、それが更に遠也のカンに触る。
「まぁ、良いです。確かに、恋愛自体は彼にとって大きなプラスになるかも知れないですからね。誰か彼を支えてくれる人物が現れ、彼の姉以上の存在になるのであればこの際相手が男でもいいでしょう、が」
 川辺だけは、やっぱり納得出来ない。というかヤツにそんな立場が勤まるわけが無い。そう遠也は主張するが、克己はため息を吐くだけだ。
「アイツが川辺を選んだ。周りが口を出したところで、どうにかなるわけじゃ」
 バン。
 克己の素っ気無い言葉に怒りが頂点に達したのか、遠也は机を思い切り叩いて台詞を止めさせる。
 遠也がこんなに苛立ちを露わにしているところを見たのは初めてのことだった。
「取りあえず、日向に川辺のことが本気かどうか聞いて下さい」
 遠也が克己にお願い事をするのは珍しいが、その内容に克己は表情を引き攣らせる。
「何で俺が。大体、その答えを聞いてどうするんだ」
「YESだったら思いつく限りの手法を使って別れさせますよ」
 黒い笑みを浮かべながら遠也は手の関節をバキバキ鳴らしていた。体力派では無い彼がそんな動作をすると何だかとても怖い。
「この指を使って日向のストーカーを何人処理したと思っているんですか」
 しかも、腕に覚えがあるらしく。
 力ずくでなかったというのはわかるが、力ずく以上にえげつない手を使ったのだろう。
 正直、怖い。
 心底ぞっとして、遠也を敵に回している自分の立場に不安を感じた。
「大体、さっきプラスになると言いましたが、反対にマイナスにだってなるんですよ。好きになった相手に適当に扱われて再起不能になる日向を貴方は見たいんですか?」
 それと、遠也のそんな言葉にも不安を感じなかったといえば、嘘になる。
「……わかった。気にかけておく」
「それと、貴方にも一応言っておきますが、橘が明日から仕事復帰するそうです」
 少し前に帰っていた彼女は、色々な準備を済ませ、明日ようやく仕事に復帰するという情報を遠也は得ていた。翔にはまだ言っていないが。
「大々的に宣伝していたようなので、この事は色んな人が知っていますよ」
つまりは、もしこの間のアレが殺人だとしたら、殺そうとした人間もそれを知っているということだ。
 克己はこの間川辺が翔に渡した生徒会の報告書の内容を思い出し、眉間を寄せる。
「……佐木」
「何ですか?」
 重々しい口を開いた克己を振り返り、遠也は怪訝な表情を見せる。
「実は……」
「お!アレじゃね?噂の川辺教官の新しい恋人!」
 その時、窓際にいたクラスメイトの一声にクラスに残っていたメンバーがいっせいに窓際に走ってきた。
 克己はそこで言葉を止め、遠也と視線を交わす。
「可愛いじゃん、くっそー……」
 しかし、クラスメイト達の反応は奇妙だった。翔がそこにいるのであれば、誰かがその名を口にしてもいいものを。それには遠也も克己も疑問を持ち、ほぼ二人同時に椅子から立ち上がり、窓へと向かっていた。
 すでに窓を占領していたクラスメイトの間からその姿を見るのは、背の低い遠也にとっては至難の業だったが、高身長の克己には簡単だった。少し顔を上げると確かに川辺と誰かがそこで談笑しているのが見えた。その誰かは、顔はよく見えなかったが黒い長髪に、服装はこの学校の女子生徒の制服だ。どう見ても翔ではない。
 不意に川辺が顔を上げ、こちらを眼だけで見上げた。それにクラスメイト達は怒られるとでも思ったのか、すぐに身を低くして隠れたが、眼だけはしっかりと窓から出して川辺の様子を伺う。もっと授業で効率的な隠れ方を習っただろうが、と言いたくなるが、克己はそれどころではなかった。
 克己と視線が合った川辺は、面白げに笑い突然目の前の少女を腕に抱く。
 それを見た野次馬達が好奇の叫びを小さく上げたところでようやく遠也が窓にたどり着いた。
「……女?いや……あれは……。甲賀?」
 彼女を見て遠也がなにやらブツブツ呟いていたが、克己は彼の見解を聞くことなく窓から離れた。それに遠也が声をかけたが、彼は振り返ることなく教室から出て行った。丁度、そのタイミングで窓の下の恋人達もそこから去ってゆく。しかし、だ。
「どうしてこんな人が大勢見るような場所で……」
 遠也の呟きは、恋愛事に飢えているクラスメイト達の興奮した会話にかき消された。






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