人の気配が無いのを確認し、和泉は音を立てず暗闇に吸い込まれるようにその部屋に足を踏み入れた。今の時刻は深夜。科学科の研究室も人通りが無く、緑色の非常灯が不気味に廊下を照らした。
持ってきたペンライトをつけると、資料に埋もれるように鎮座しているパソコンのモニターが光を反射する。
そのパソコンの上にあるカレンダーには今日を含めて数日、この部屋の主が不在である事を示す赤いラインが引かれていた。それを狙ってきたのだから当然だが。
メインのパソコンの電源を入れ、目的のデータを引き出し、数回キーボードを叩く。簡単な作業だが、忍び込むのには一苦労だった。何せ、このデータが入っているパソコンはネットに繋がれていなかったから、ハッキングする手立てもなく、直接このパソコンに触れるしか手段が無かったのだ。
だが、これでようやく。
「こんな時間に何の用だ」
作業を終えて電源を切ろうとした時、部屋が明るくなり不審者の姿を露わにした。
和泉はパソコン画面から眼を離し、思わぬ邪魔に舌打ちする。
「川辺……!?」
しかもその相手はあの川辺だ。何故彼がここにいるのか解からないが、相手は眉を上げて笑う。
「早良博士には留守を任されている。何をしていた?そのパソコンから離れろ」
電源の入っているパソコンを見、彼は和泉に銃口を向けた。和泉は悔しげに眉を寄せたが、すぐに横へと身をずらした。
「何故、あんたが早良博士にそんな事を頼まれている」
「大人の事情だ。お前は何をしに来た?博士の命でも狙っているのか?」
「それは違う。博士には、今死なれたら困る」
「では、何故?」
「……子どもの事情だ。知りたがるな、うっとおしい」
和泉の身体が前のめりになり、こっちに突っ込んでくると反射的に察し、川辺は引き金を引いた。火薬が爆発する音と共に和泉の背後にあった窓ガラスが割れる。あ、と思うより早く風が入り、書類が紙ふぶきのように舞い散り、川辺の視界を邪魔した。そしてその隙を突いて、割れた窓から和泉が飛び出していこうとするのが書類の隙間から見える。
「逃すか!」
邪魔な紙を払い、目標に向かって二発発砲した。二発ともその背に命中し、彼は窓の外へと飛び出すことなく、低く呻きその場に倒れる。
やったか。
しかし、瞬時に反射的に命中させてしまったことを後悔した。こんな子どもを手にかけてしまい、苦いものを感じたが、もう遅い。
白い紙が舞い落ちる中、窓際に倒れるその和泉の体に近寄り、生死を確認するために手を伸ばした。
その時、ふわりと何か香のような香りが鼻に触れたと思った瞬間、目の前を仄かに蒼く発光する蝶が過ぎった。はっとする前にその蝶は二匹三匹と徐々に増えてゆき、川辺の周りを取り囲む。
「これは……」
異様な光景だった。
蒼い蝶が自分を取り囲み、ふわふわと舞っている。こんな光景は今まで観たことが無い。夢見心地にその蝶の動きを目で追っていたが、鈍い頭痛を感じその時ようやくあの香りの存在に口元を押さえた。
先程僅かに感じたあの匂いが、濃くなっている。
催眠術か何かか。
昔どこかで似たような術を得意とする人間を見たことがある。軍ではそうした術は“治療”に使うと聞いていたが、1年生でそんなものを習うはずが無い。
一体この少年は何者だ?
蝶から視線を剥がし、下に倒れている和泉を見たが、そこに倒れていたのは少年ではなかった。
血を流し、蹲るその体は大人の大きさで、白く青ざめた横顔には、見覚えがある。背筋に冷たい物が走ると同時、彼の伏せられていた目がゆっくりとこちらを見上げた。
そのこげ茶色の目が、自分を映した瞬間戦慄が走る。
「タカ?」
そう呟いた刹那、蒼い蝶は割れた窓ガラスに吸い込まれるようにして消えてゆく。後に残るのはヒラヒラと舞う白い紙だけで、仕留めたと思った和泉の姿はそこになかった。
「……やられたな」
鈍く痛む頭に手をやり、川辺はため息を吐く。
「あいつ、あの時手ぇ抜いていやがったな……」
あの時、というのは翔との対戦の時だ。川辺が彼のまともな一戦を見たのはあれが初めてだ。翔の力は一度拳を交えた身としてはあれくらいだろう、と納得のいくものだったが、和泉は今回の手並みを見たらこの間の一戦は力を抜いていたとしか思えない。
舌打ちをしながらハラハラと落ちてくる書類を叩き落とし、ため息をついた。だが、そのうち一枚に紅い血がわずかにこびりついているのを見て、和泉が怪我をしていることを悟る。自分が撃った弾が命中していたのだろう。
しかも、深手だ。だから、幻術に惑わされていた自分を攻撃してこなかったのだ。
しかし、随分と嫌なものを見せられた。
不意に眼に入ったコルクボードには日に焼けた新聞記事が数枚貼られていて、その中の一枚に視線が止まる。
『連続通り魔殺人事件、いまだ犯人捕まらず。迷宮入りか』
見覚えのある見出しに思わず川辺は眉を寄せていた。自分にとって全ての始まりはここからだったような気がする。いや、実際はもっと前から始まっていたのかもしれないが。
犠牲者の名前を眼でなぞり、一人の名前に視線を止めた。
「ったく……だから、あの時止めとけって言ったんだ」
思わず呟いてしまった言葉が、白黒で印刷されている彼の写真に虚しく落ちた。本当は、こんな堅い表情ではなく、柔らかく笑える人間だったと自分は知っている。知っていた。
ため息をつき、横でひらりと落ちていく紙に視線をやる。ようやく書類がすべて地に落ちた、と思った。が、それは書類ではなく一枚の写真だった。
見覚えのある男と子どもがこの後の悲劇も知らずに幸せそうに微笑む一枚の写真。
この子がこんな風に笑っているところを見たのは久々だった。
川辺の背で、暗闇の中にまだひらひらと舞っていた蒼い蝶の最後の一匹がその時消えた。
「く……」
逃げる際に割れたガラスに引っ掛けてしまった腕から血が落ちる。しかも、川辺が撃ったうち一発が腕をかすり、左腕は血で真っ赤に染まっていた。あんな逃走は久々で少し勘が狂っていたのかもしれない。痛む腕に眉間を寄せつつ、和泉は闇を走っていた。
何故川辺が早良と組んでいる。
彼の留守を狙っての行動だったが、迂闊だった。
奥歯を噛み締め、近くにあった木に身を寄せた。自分の体重に揺れた木の葉のさざめきにため息を吐く。
この木もこの敷地内にある木も全て野生で育てられた木ではなく、人工で作られたものと聞いている。くらりと貧血で目が回り、その場に座り込んだ。
「無様だな」
誰もいないと思っていたところで突然人の声が聞こえたから堪らない。反射的に木の影に身を寄せたが、もう自分がここにいることは知られている。心の中で舌打ちをしつつ、ナイフを握った。ついでに、先程川辺相手にも使った香りも漂わせる。こちらが風上だ。この香りが相手を包むのもすぐだろう。こちらの剥き出しの闘気に気付いたのか、相手は戸惑いの声を上げる。
「……おい。なんだ、気付いていないのか」
ん?
どこか親しげな呼びかけに和泉は少し警戒を解き、そっと顔を出してみる。丁度その時、今まで雲に隠れていた月が顔を出し、彼の顔を蒼く照らした。
黒髪にどこか好戦的な黒い瞳、がっしりとした体格は見覚えがあり、多少記憶に残っていたものよりは大人びていたが、間違いなく。
「夏乃宮、様……?」
蒼い蝶に囲まれた彼は、にこりと笑う。慌てて彼の前に姿を現し、和泉は片膝をついた。
目の前の男は制服を着ていて、付けられたネクタイの色は蒼。つまりは、3年という事だ。
「そんなに畏まるな。そんな仲でもないだろうが」
記憶より低い声に益々萎縮してしまうが、軍という環境には珍しい空気を持つ彼に昔を思い出し不意に懐かしい気分になった。
「お久しゅう御座います、夏乃宮様」
更に深く頭を下げる和泉に彼は少し淋しげに笑む。
「何故ここに来た事を私に知らせなかった?」
「……隠密の身でしたので」
「沢村から報告を受けなかったら気づかなかった」
沢村。
彼の口から飛び出した名に和泉は思わず顔を上げる。何故、彼が沢村を知っているのだと困惑していれば、彼もそれを察したようで軽く息を吐いた。
「私は今、生徒会が末端、風紀委員会の委員長を務めている」
「夏乃宮様が、風紀委員長?」
「でなければお前は今頃風紀か執行部辺りに消されていたぞ、“和泉興”」
彼が直接沢村から報告を受けなければ、自分は今頃血祭りに上げられていたかも知れない。その事を彼は言っている。
「……申し訳ありません」
普段なら、そんな簡単にやられるほど軟弱ではないと言い返すところだったが、怪我をしたこの姿ではそれも虚しいだけだ。
「何故、ここに来た?」
「夏乃宮様の護衛の為で御座います」
「目に見えた嘘を。蒼龍が私程度の護衛にお前を寄こすわけがない」
狼司の言葉に和泉は密かに眼を上げてから、頭を下げた。
彼、夏野狼司は王族の血を引く人間で、一応王位継承権第18位という肩書きを持つ。将来的には宮廷内を護る宮廷護衛隊の最高責任者になることが決まっている。だから、腕を上げるために軍のこの学校に入学したと聞いている。ここでは、王室出身である彼も一般生徒として扱われているはず。
「……まぁ、いい」
沈黙した和泉に彼は眼を細め、膝をついた。その行動に和泉は慌てて頭を地に着きそうになる程に下げるが、彼がそれを制止した。
「私はここでは一兵士だ。夏乃宮などと宮号で呼ばれては困る。ここでの俺の名は夏野狼司。例えこの先ここで合間見えることがあろうとも、そのような呼び方は控えろよ」
「……しかし、夏乃宮様ともあろう高貴な御方が碓井ごとき軍人に頭を垂れるなどと……!俺は!」
「だが実際王室は軍の傀儡となりつつある。これは事実だ」
「蒼龍様さえ御健勝であればそのような事にはなりません」
「……秀穂」
諌めるように自分の本当の名を呟かれ、和泉は思わず視線を上げた。そこには少し悔しげに眉を寄せた狼司の顔がある。
「……夏乃宮様、その名をここで呼ぶのはお止め下さい」
「秀?」
「貴方が本当に軍の末端に位置すると仰るのであれば、軍人である貴方にその名を呼ばれたくはありません」
軍人に対してむき出しの嫌悪感を示す彼に狼司は不安を覚えた。今の王室は軍に悪い意味でも良い意味でも支えられているのだ。そんな状況なのに、彼は軍を毛嫌いしている。それで、変な行動をしなければいいがとずっと思っていた。
「しかし、ここに来て3ヶ月……蒼龍様から頂いた我が名、久々に宮の方に呼ばれ、嬉しく思いました」
蒼龍と同じ環境で育ち、多少なりとも彼と同じ血が流れている狼司に名を呼ばれた時、その声から蒼龍と似たものを感じる。
ふっと表情を和らげた和泉に狼司は眉を上げ、眼を細めた。そんな彼の表情は、顔を下げていた和泉は見ていなかった。
「私の命は王室と共にあります。夏乃宮様、何かありましたら私をお使い下さい。この身を挺してでも貴方様をお守り致します」
「……お前が護りたいのは国でも王室でも、私でも無いだろう」
更に頭を深く下げて、上から降ってきた呟きに和泉はすぐに顔を上げた。
「お前が護りたいのは蒼龍だけだ」
静かな声での言葉に、和泉は動じることなく再び頭を下げる。
「仰るとおりです」
「……ならば私の護衛など不要だ」
あっさりと返事をされて狼司はため息を吐く。少し位迷ってくれてもいいものを、何ともはっきりと言ってくれる。けれど彼は昔からそうだった。
「私の部屋に来るといい。その傷の手当をしよう」
「そんな畏れ多いことは」
「言ったはずだ。俺もここでは一兵士。その態度、改めとけよ?和泉興」
はい、と答えようとした時にぐらりと目が回る。腕からの出血にとうとう耐えられなくなったらしい。
倒れそうになったその体を狼司の腕が支えた。その腕が妙に熱く感じ、和泉は出血で自分の体の体温が低くなりすぎていることに気付く。狼司の腕に倒れこんだ拍子に眼鏡が落ち、かしゃんと軽い音を立てていた。
「大丈夫か?」
狼司の声が遠くに聞こえる。
ぼんやりとしていく思考の中、彼の声が別な人物を思い出させた。狼司自身が王位継承の順が遠くとも、血は意外と彼と近い。だから、似ている。声が、とても。
「とんだ、失態を……お見せ、」
「気にすんな。俺とお前の仲じゃねーか」
砕けた口調で返し、狼司は彼の背を軽く叩いた。元々、自分と彼は年が近いのもあり共に武術や勉学やらを学んできた仲で、今さっき交わしたような堅苦しい会話をする仲ではない。
しかし、相手の方が強情だった。
「お放し下さい……お召し物が汚れます」
「……軍服なんて、血に濡れるものだ」
「蒼、様……」
そう小さく呟き、和泉の意識は闇に沈んだ。彼の周りを気遣うように飛んでいた蝶も、術師が意識を失った所為か次々と消えていった。けれど最後の一匹だけはひらりとこちらへ飛んできて、何か牽制でもするように狼司の顔の前を舞い、消える。
この蒼揚羽を生み出す香りは、王室に密かに伝わる香の一種だ。何世代か前の王の妻が薬業を生業としている家の娘で、彼女自身が王を守る為に生み出した術だと聞く。それから幻術は、王と王の一族を護る宮廷守護隊の十八番だった。秘術と呼んでもいいこの術に、軍は見向きもしないが、そのおかげで秘術は“秘術”のままだ。
確かに、こんな術は戦場では役に立たないだろうが。
気を失った和泉の色素の薄い髪を撫でると、柔らかい髪はさらりと彼の白い頬に落ちた。宮廷にいた頃は髪が長く腰まであったが、随分と短く切り落としたものだ。それに眼を細めると、香の残り香が鼻を掠める。蒼龍が彼に贈った香り。
蒼い蝶は確かに蒼い瞳を持つ和泉には似合いの蝶だが、何だかあまり好きにはなれない。
怪我の具合を見るために服を捲れば、意外と細い肩に蒼い龍のタトゥが血に濡れていた。
「……紅く染まればいいのにな」
そう呟いた狼司の前に一匹紅い蝶が舞い、ひらひらと闇の中を飛んでいった。それに導かれるように狼司は和泉の体を抱え、歩き出す。
が、すぐに背後に迫っていた気配に足を止める。和泉を科学科から追ってきた彼らは荒い息を吐き、足を止めた。あまりにも下品なその息遣いに、狼司は眉間を寄せる。
「科学科の哀れな奴隷、か」
追ってきたのは、軍部が派遣している警備のものではなく、科学科が作り出した戦闘要員……つまりは改良に改良を重ねて造られた人造人間だ。身体能力を限界まで高められた彼らの姿は太陽の下には出せないほどに醜く、そして人間なら本来持ち合わせる理性がない。そんな彼らでは、和泉が得意とする幻術は通用しないだろう。幻術は、対象が理性のある人間だからこそ効果を発揮する。
彼らは今すぐ狼司の背に飛びかかろうと、これから行われる殺人の快楽に喘いでいた。
そんな品のない敵に狼司はため息を吐くしかない。
「華紬、風時雨」
そう、自分の仲間の名を呟くとざわりと周りの空気が変わった。理性のない人形と言ってもその気配には流石に気付いたようで、戸惑うような空気を背で感じた。
「……夕餉だ、好きに喰え」
狼司の言葉を待ち構えていたと言うように風の音が彼らを取り囲み、それきり音が止む。あの下品な息遣いも風が取り払ってくれたようだ。
狼司がそこで初めて振り返ると、そこには誰も居ず、ただ闇の中に月が浮かぶだけだった。
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