「日向」
 教室に戻る途中、克己と同じくサボり組らしい遠也が翔の顔を見つけ、駆け寄ってくる。遠也はまだ自分が川辺に告白した事は知らない。
「遠也」
「遅かったですね。甲賀は……サボり、ですか」
 翔の隣りにいない彼の名前を出され、翔の方も苦笑しつつ肩を竦めた。
「ああ。俺は今から出るよ。遠也はどうしたんだ?」
 サボるにしても、教室の前をうろついているなんて珍しい。普通学科の授業になると遠也はいつも図書館か科学科の知り合いのところへ行き、必修の授業になるとふらっと帰ってくる。そんな普段の行動とは違う動きを見せた彼に首を傾げて見せた。すると
「実は、図書館の利用者名簿を見て、日向にメールを送った相手が解かったんですが……」
「ああ、そっか」
 そのことを伝える為にわざわざ自分を探してくれていたらしい。別に昼休みでも構わなかったのに、と笑うと遠也は困惑するように眉を寄せた。どうやら、今伝えることには何かしらの意味があるらしい。
「今更何聞いても俺は驚かないよ」
 先ほどの和泉の件の方が絶対に自分にとっては驚愕の事実だ。翔の言葉に遠也も躊躇いつつも口を開いた。
「実は……」


 この学校のカリキュラムは大きく学科と実技に分かれている。実技は柔道やナイフや演習など、体を訓練系の授業を指し、学科は戦闘時に役立つ知識を教える専門学科と、普通の高校生の授業内容と同じ数学や国語、英語などを教える普通学科に分かれている。その普通学科は授業自体の参加不参加は自由だった。自由、と公言されているわけではなく、暗黙の了解といったところだ。普通学科を教える教師は軍関係の出身者ではなく一般人であるというところも、それを後押ししていた。法的にもすでに軍隊に在籍していることとなっている生徒より、彼らの方が身分的には低い。
 それ故に、生徒から馬鹿にされたような目で見られることが多い普通学科の教師の授業中は、うるさいのかと言えばそうでもない。授業に出たくない人間は出なければ良いだけのこと。
 おどおどと若い英語教師が授業をしているのを見てから、翔は不意に窓の外に視線を流した。
 あの日も、確か英語の授業だった。橘に初めて出会ったあの日も。
 今日は空は晴れていて、翔の机を照らす光は夏の暑さを孕んでいた。机の上に投げ出していた左手を直射日光が焼いているのを見ると、今までは平気だったが急に暑さを感じ、そっと机の中に左手をしまった。金属のひんやりとした感触が手の甲を冷やす。
 自分はこうして暑さや冷たさを感じる事が出来るが、彼女はもうこれを感じる事は出来ない。今はただ、冷たい石の下、永遠の時を眠り続ける事しか彼女には許されていないのだ。
 机から出した手は成長しきれていない少年の手のような、少し大きな女性の手のような、微妙なところにある形状だった。
 今だったら、彼女の手をしっかり包む事も出来たのだろうか、この手は。
 いや、今でもまだ小さすぎるだろう。あの頃からあまり成長出来ていない自分の体は全てを暗示しているようだった。
 さっき偶然触れた克己の手は大きかった。あれくらいにならないとやはり人一人守るのは難しい。
 克己みたいなヤツが姉さんの恋人だったら良かったのに。
 そう思いながら、翔は机の上に伏した。
 その時視界に入った隣の席に、克己はいない。
 前にも誰かと話したような気がするが、あんなに格好良くて優しい彼に恋人がいないというのは不可解だった。この学校の7不思議の一つに数えても良いくらいだと。だが、昔恋人がいたと、その恋人をいまだに忘れられないというのならそれも頷ける。それほどまでに想った相手だったのだろう。
 姉の恋人は、どうだったのだろうか。彼女が死んでも、まだ彼女の事を想ってくれているのだろうか。この手で守ってあげられなかったと、後悔してくれただろうか。
 あの時、もう少し話をしていれば良かった、と彼女の墓の前で初めて出会った時の事を思い出し後悔にため息を吐く。でも、彼が軍に在籍している人物なら、もしかしたらこの学校で再会出来るかもしれない。
 その時は、きちんとあの時の無礼を謝ろう。……名前も知らない上に、顔も良く覚えてないけれど。
 それまでは死ねない、よな。
 心の中でそう呟き、もう一度主がいない隣の机を見た。さっき、どことなく心配そうだった克己は、何かに感づいていたのかもしれない。自分のあの川辺への告白に何か裏があると、頭の良い彼なら疑っていそうだ。全部終わったら、心配をかけたことを謝らないといけない。
 その時、授業の終わりのチャイムが鳴り響く。
「じゃ、じゃあプリント後ろから集めてください……」
 気弱な声の持ち主は英語担当の御巫だ。おどおどと集められたプリントを受け取り、そそくさと教室から出て行く背を翔は見送った。
 御巫……珍しいと思った姓だったから印象が強く、真っ先に覚えた名字だったが、下の名前は忘れた。新任教師らしく、まだ20代だろう。その所為もあってか、生徒には甘く見られていた。
 彼が?
 翔は記憶の中の遠也に再び聞き返していた。
「御巫先生でした、利用者名簿どおりなら。けれど、偽造ならいくらでも出来ますし……」
 遠也のほうも、この結果は誤りだと思っているらしかった。また調べなおす、と言い残して遠也は図書館の方へと去って行き、この時間の授業には出なかった。
 翔も授業そっちのけで御巫の様子を伺っていたが、英語の発音は綺麗だと思うが何か物音がするたびにびくりと体を揺らし、朗読を止めている。そんなにおどおどしなくても良いものを。たまに、木戸がフォローするように質問を投げかけていた。普段と変わりのない光景に特に警戒する必要もなかったから、自分は思考が別の方に飛んでしまっていた。
 でもまぁ、一応本人に聞いておくか。
 翔は立ち上がり、廊下に出る。休み時間となった廊下は人通りが多い。どうせ御巫の行く先は学科担当教員の職員室だろうし、このまま追えば廊下で追いつくかもしれない。少し早足で歩き、曲がり角を曲がろうとしたその時だ。
「つぅか、ぶつかってきておいて無言かよこのアホ教師」
 柄の悪い声に思わず足を止めてみれば、追ってきた御巫が見知らぬ2年生に絡まれていた。ぶつかったと言っている2年生は立っているのだが、御巫は廊下に尻餅をついていた。さっき教室で集めたプリントは廊下に散乱している。
 思わずうわぁ、と声を上げてしまいそうな程の惨状だった。
「はは……ごめんね」
 御巫は眉をハの字にして、プリントを集めつつ謝っている。何と言うか、情けないといえば情けないのだけれど、どうにか気を保とうとする笑顔は痛々しい。
「何笑ってんだよ、てめぇ」
 その苦笑が気に入らなかったらしく、生徒が右手を振り上げようとする。殴るつもりか。
「ちょ、待てって!」
 そこで慌てて翔は身を彼らの前に晒し、御巫の前に立つ。2年生は突然の介入者に驚いたようだったが、すぐに拳を握り直していた。
「1年がしゃしゃり出てくるんじゃねぇよ」
 ひゅっという空気の揺れる音が聞こえた瞬間右頬に衝撃を感じ、翔は横の壁に左半身を叩き付けた。
「日向くん!」
 御巫の声と2年生の舌打ちが同時に聞こえ、翔は叩かれた右頬を押さえて壁に背をもたれる。目を開ければ、もうそこには2年生の姿は無かった。ただ、心配気な御巫の目だけがある。
「いってー……」
 平手で叩かれた頬はじんわりと痛んだが、口を切るまででは無かった。
「日向くん、大丈夫かい?」
 おろおろとしている御巫に思わずため息を吐きそうになった。
「俺は平気です、先生は?」
「僕は平気だけど……日向くん、どうして……」
 何度か生徒に絡まれたことがあるらしい御巫は、今まで誰かに庇われたことはなかった。だから、唐突に目の前に現れた自分よりずっと小さな少年の行動には驚くしかない。
 慌てつつも不思議そうに眉を寄せた御巫に翔は笑ってみせる。
「俺は色々習ってるから、先生よりは強いだろうし、力を持つ者は弱い者を守る義務があるって、穂高さん……叔父さんから習ってるんだ」
「でも、日向くん……」
 自分よりずっと年下で体も小さい翔に庇われた彼は複雑な顔だった。申し訳なさそうに眉を下げているその顔に、翔は笑みを向ける。
「はい、先生。プリント」
 適当に掻き集めたプリントを彼に差し出し立ち上がる。次の授業時間まで後数分だ。その前に聞いてしまわないと。
 立ち上がった御巫は多少猫背ではあったが、それなりに身長は高い。少し意外だった、気弱なイメージの方が強かったからだろうか。翔の席は一番後ろだから、小さく見えたのかもしれない。
「先生、俺聞きたいことがあるんだけど」
「授業の質問かい?」
 今までそんなことをされた事がない御巫はどこか嬉しそうな反応を見せ、翔はそれを否定するのが申し訳ない気分になったが、急いでいたので本当の事を言うしかない。
「あ、ごめんなさい……そうじゃなくて…先生、俺にメール送ってきたこととか、ある?」
「メール?」
 しかし、御巫は大して残念がる事もなく、不思議そうに首を傾げる。その反応で、返事は予測出来た。
「いや……ないけど」
 やっぱり。
 あまりにも予想通り過ぎて気が抜けてしまいそうだった。
「ありがと、センセ!次の授業、急がなくて良いんですか?」
「え?あ、ああ!そうだった!日向くん、ごめんね、ありがとう」
 慌しく廊下を走っていく姿を見送ってから、翔は深いため息を吐いた。
「名前は、フェイクかー……」
 予想はしていたが、ここで手詰まりとなってしまった。まぁ、今回のことにメールの送信者が誰なのかはもしかしたら大きな問題ではないのかも知れない。

 いずれ、解かる事だ。



 目の中にコンタクトを入れるのは慣れている。紛失した事も何度もあったので、スペアもいくつか用意はしていた。勿論、他人に一番知られてはいけない秘密なので、スペアは常に持ち歩いている。
 自分の用意周到さにはいつも感心させられる。和泉は人知れずため息を吐いた。
 それもこれも、蒼龍が厳しかったからだ。宮廷にいた頃、彼は自分の前以外でその色を晒す事を禁じた。
 けれど、2人きりの時はこれを見たいとよくせがまれたものだ。この国では珍しい色だったからだろう。
 これは、君と私だけの秘密だ。
 面白げに笑ったその顔は6歳も年の差があるというのにどことなく幼かった。
 ああ、でも日向翔には見られてしまった。……まぁ、良いか。
 彼はこのことを風聞出来るような身分でない事を自分でも分かっているだろうし。
 この眼のおかげで和泉自身幼い頃から苦労してきた。自分の出生もそうはっきりしたものではなかったのも後押しして、鬼の目と蔑まれたこともある。何故そう言われないといけないのか理由も解からないまま、和泉はこの目の色を隠すようになっていた。宮廷内は迷信的なことも重んじるところだったから、この目の色を知られたら恐らく叩き殺されていただろう。
 でも、蒼龍はこの目を綺麗だと言い、宝石のように扱ってくれた。それだけでも、彼には多大な恩を感じている。
 和泉はコンタクトを入れた目の端を指で押さえながら、廊下を歩いていた。学科の時間は勿論出なかった。
 これで、日向も何らかの動きを見せるだろう。
 ふぅ、と人知れずため息を吐いたその時
「うわあ!」
「は?」
 曲がり角でそんな悲鳴を聞いた瞬間、何かに当たり油断していた和泉は跳ね飛ばされてしまった。何が起こったのかわからず、ぽかんと廊下に尻餅をついていたが、我に帰った瞬間激しい羞恥心に襲われた。
 この自分が、こんな無様な。
「ご、ごめんね?大丈夫?」
 おろおろと謝ってきたのは、確か英語教員の御巫……といっただろうか。学科の授業はまともに出た事が無いからうろ覚えだ。
 彼の存在を無視して無言で立ち上がり、去ろうとしたその時
「和泉君……綺麗な蒼だね」
 相手の囁きに背筋に冷たい物が走った。はっと相手の顔を凝視し、和泉は自分の目を片手で覆っていた。まさか、今の衝撃でまたコンタクトが落ちたのか。けれど、相手は和泉の焦燥など気付くことなく笑みを深め、背を向ける。
 それを見届けることなく、和泉はすぐに近くのトイレに駆け込んだ。持ち歩いていたスペアはさっき使ってしまった。今手元に目に入れられるコンタクトはない。今日はもう激しい運動をするような授業はないと油断していた。
 心の中で舌打ちをし、慌てて洗面台の鏡に映る自分を覗き込み、戦慄した。あまりのことに、引き攣った笑みを浮かべている自分が目の前にいる。
「おい……嘘だろ?」
 すでに授業が始まっていたこの時間、トイレに入ってくる生徒はいず、和泉の乾いた声がタイルで包まれた部屋に反響した。
 恐る恐る自分の目元に指を当ててみたが、その色は変化しない。

 鏡に映る自分の眼は2つとも、茶色かった。


御巫(ミカナギ)です。ルビ振り忘れすいません。

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