この場に居た者全員が予測していなかった台詞を言い終えた翔は恥ずかしかったのか、頬をほんのり紅く染めて俯いた。その仕草が妙に可愛い。
 恋する乙女というか、いや少なくとも乙女ではないのだけれど。
「あ、あの、いや、その、だから、えと、俺を……恋人にして貰えると嬉しいんですけど」
 わたわたと翔は自分の願いを言って、目を強く瞑っていた。返事を待つその顔は何かを祈っているようにも見える。
「……矢吹」
「……何だ、甲賀」
「夢か?」
「俺、お前と同じ夢を見る程お前と仲良くない気がするんだけど」
「だな」
 と、言う事は現実というわけで。
 軽く眩暈がした。
 額に手をやり、ぐらついた思考を落ち着かせようとしている克己の様子にいずるは少し呆れた。
「つーか、甲賀、お前何も聞いてないのか?」
 あの翔なら、友人である彼に一言相談か何かしていそうなものなのに。けれど、克己はその問いに小さく舌打ちする。
「聞いていたらこんな事にならない」
 そんな話を聞いたら全力で告白を止めている。恐らくは、あまり親しくない佐木遠也と珍しく結託して。
 克己のその一言にそこまで予想し、いずるは呻きそうになった。恐ろしい相手を敵に回してしまったことを川辺本人はきっとまだ気付いていない。
「日向……まさか、お前……本気か?」
 告白された相手もまさかそんなことを言われるとは思わなかったらしく、先ほどまでのイライラも忘れて顔を紅くしている翔を驚いた目で凝視していた。それに、翔はしっかりと頷く。
「はい」
 俺じゃ駄目ですか?
 そう首を傾げる翔の目には緊張の所為か涙が。ふるふると細い肩が震えているのも解かる。
 そこで初めて川辺が困惑したような表情を見せ、頭を掻いていた。どう断わろうかと考えているような顔だ。翔の告白は玉砕に終わる、そういずるも克己も思った。
「あのっ!」
 翔の方もそう察したのだろう。必死な表情で川辺を見上げ、
「俺、自分で言うのもなんですけど女顔だし、他の奴よりは……なんつーか見れるかな?とか……えぇと……」
 自分でも何を言っているのか解からなくなったのか、翔はそこで言葉を止めて俯いた。
「おいおい……本気なのかよ日向」
 思わずいずるがそう呟くと、一瞬克己が冷たい目でこちらを見たのが空気で解かった。そんな目で見られても困る。
 その時不意に川辺がこちらを振り向き、彼と目が合ったいずるは慌てて茂みに顔を隠したが、恐らくは無駄だった。
 怒られるか。
 覚悟をしていたのだが、聞こえてきたのは怒声ではなく
「……わかった、いいだろう」
 川辺の翔へのため息交じりの返事だった。
 そっと茂みから顔を出すと翔のほっとしたような表情が見える。そんな彼に川辺は優しく笑いかけていた。
「お前には負けたよ、日向」
「ありがとうございます!」
「ただし、自分の行動には責任持つように」
「勿論です」
 よかったー、と翔は胸を撫で下ろしてから川辺に頭を下げる。告白とは少し違うような対応にいずるは目を細めたが、顔を上げた翔のはにかむような笑みにやはり普通の告白現場なのだと思い直す。
「じゃあ、後で教官の部屋に行っても」
 おいおい、積極的だな、日向。
 今度は克己に睨まれないよう口に出さずにいたが、それも無駄な努力だった。横にいた克己が翔がそう口にした瞬間立ち上がるという空気を読まない行動をしたからだ。
「へ?克己!?何でここに……ってうわぁあ!」
 翔がその茂みの揺れる音に振り返るより早く、克己がその手首を掴み、彼をひっぱり強制退場。それを唖然と見送ったいずると川辺はほぼ同時にため息を吐く。
「君もいたのか、矢吹」
「はい……すいません」
「謝る事はない。どうだ、篠田とは仲直りしたのか?」
 にこやかに話しかけられ、いずるは少し複雑な気分になる。その気まずそうな表情から、川辺は何かを察したらしい。
「まだか」
「……はい」
「そうか」
 どことなく淋しげないずるの表情につられ、川辺の眉も少し下がる。けれど、すぐに気を取り直すように彼は表情を戻し、いずるに背を向けて蒼い空を見上げた。
「俺も、よく友人と喧嘩をしたな。懐かしい」
「え?」
「友人、って呼べる相手俺は一人くらいしかいなかったがな……お前ら見てると思い出すよ。友達というか、悪友というのが正しいのかも知れない。毎日喧嘩ばかりだった」
「はぁ……」
 懐かしげに語りだした川辺の背を訝しげに見ていると、その視線に気付いたのか彼が唐突にくるりと振り返った。
 ん……?
 その時、いずるは彼に会うたび感じていたあの奇妙な感覚を再度感じ、眉間を寄せる。声も聞き覚えはない、顔も見覚えはない。けれど、強いて言うのであればそのシルエットだ。見覚えがあるのは。けれど、大人の男なんて今まで何人も出会ってきた。もしかしたら、どこかですれ違ったことでもあるのだろうか。
「でも、そいつは死んだ」
 いずるの思考は川辺の柔らかい口調に中断された。
「そいつが死ぬちょっと前にも喧嘩して、結局それきりだ。失念していたんだ。俺もそいつも、いつ死んでもおかしくない状況だったことを」
 川辺が何を言いたいのか、そこでようやく解かった。川辺は軍に所属している人間で、恐らくその友人も軍にいた人間なのだろう。友人は何かの戦闘に巻き込まれ、喧嘩状態のまま、死んだのだ。
「結構、後味悪いもんだぞ。こういうの」
 静かな声で窘められたような気がし、いずるは視線を下げる。
「俺達はいつ死んでもいい状態にしておかないといけない。変な悔いを残していてはいけないんだ。解かるな、矢吹」
 正直なところ、あまりそういうことを意識したことはなかった。軍の士官学校に入学したとしても、自分は矢吹の名に守られている……心のどこかでそんな甘えがあったのかもしれない。遠也に、名を捨てられると上げたのに、だ。
「だから、悔いが残っていたら死ぬな」
「……は?え?」
 しかし、次に川辺が言った言葉にいずるは思わず顔を上げる。
「えーと……今のって、そういう話……だったんですか?」
「そういう話だ」
 何故か川辺は胸を張るが、ちょっと待て。
「普通、こういう時は国のために死ねとか言うんじゃないんですか……ね?」
 彼も軍人、一応自分も今は軍人だ。何度か授業中に言われた言葉を半ば呆れつつ言えば、ふっと川辺の表情が曇った。
「俺に、君にそんなことを言えと言うほうが残酷だな」
 川辺は小さな声で呟いたが、それはいずるの耳にぼんやりと届いただけだった。
「はい?」
「いや、何でもない。引っ込みつかなくなる前に仲直りしとけよ」
 じゃあな。
 軽く手を振り、川辺は去って行く。それを見送りつつ、いずるは眉間を寄せた。
 何だろう、この気分。
 川辺は警戒しないといけない相手だというのは解かる。解かっている。だが何だか違う方向に落ち着かない気分になるのは何故だ。
 その変な感覚に頭を掻いてから、はっとする。
「……そういや、アイツら大丈夫か?」
 そう呟き、しばし逡巡してから首を横に振った。
「いや……大丈夫じゃないのは、川辺教官か、なぁ……」




 何だ、一体どうしたんだ。
「克己、おい……!」
 翔は突然現れた友人に手を引かれ、困惑するしかなかった。何故彼があそこにいたのか、何故彼がこうして自分の手を引いているのか。しかも無言で。
 教室の方に戻るのかと思えば、方向が全く違う。早く戻らないと授業が始まってしまう、という不安が過ぎり、必死に呼びかけるが彼の足は止まらなかった。長い足で大股、しかも競歩並みの速さで歩いている為、翔は小走りでついていくしかない。
「克己……」
 もしかして今の話、聞かれていたんだろうか。
 唐突に浮かんだ不安で彼を呼ぶ声がしぼんでいくと同時に視線が下がる。
「……ごめん」
 ぽつりと零れた言葉に、ようやく克己の足が止まった。
「どうして俺に謝る?」
 てっきり怒鳴られると思っていたが、克己の声は予想に反して静かだった。
「それは、その……」
 静か過ぎて、翔は戸惑うしかない。
 やはり、自分の告白は彼に聞かれていたのだ。それは、つまり。
「……ごめん」
 結局、口に出るのはこの言葉だ。語彙が少ない自分が口惜しい。口惜しいが、語彙が豊富であっても、次の言葉を口にするのは恐ろしかっただろう。
「俺の事、軽蔑……したか?」
 普通に女性相手に告白したのならいい。だが、今回自分が好意を示したのは、同性だった。例え軍内で同性相手の性行為が暗に認められていても、それはこの特殊な状況だからで、一歩外に出ればそういう趣向の人間は批難中傷の矢面に立たされる。“普通”じゃない人間には厳しい社会で、そうした趣向を受け入れられない人間が大半だ。
「違うんだ……その、俺別に男が好きってわけじゃないし、その……なんつーか違くて」
「翔……」
「あっ、克己とか遠也とかそういう眼で見たこと一度もないからな!そこら辺は安心してくれていい!今後もそういう事ないから!絶対!」
 慌てて両手を振り、とにかく安全を強調した。正直、自分の真意を悟られないように言葉を選ぶのが大変で、必要以上に焦っていた。手を横に振ったり、首を横に振ったりと忙しない動きを見せた翔から、克己は手を離す。その離された手に翔は不安を感じた。
「って……言っても、信用出来ないか……ごめん、克己。でも、俺友達でいたい……ってのは我儘、か」
 無言でいる克己に翔は視線を落とす。同時に苦笑交じりで呟いた我儘という単語が虚しく地に落ちた。
「……俺が」
 そこでようやく克己が口を開き、希望を込めて目を上げるといやに真剣な黒い眼が自分を真っ直ぐ見ている。
「俺と友人関係を続けたいのなら川辺のことは諦めろ」
 その厳しい一言に翔は目を大きくし、そんな彼の反応に克己は小さくため息を吐いた。
「俺がそう言ったら、お前はどうする」
「それは―――」
 じっと見つめてくる克己の目に居心地悪さを感じ、視線を逸らした。返答に詰まったのは、意外とその答えがあっさりと見つかったからだ。けれど、これを今言うのは色々と支障が出てくる。だから、困惑した。
 翔の沈黙に、克己の方が折れた。
「そんな顔をするな。俺は正直あの男のどこが良いのかさっぱり解からないが……顔なのか、性格なのか、能力なのか……それとも財産か?いや、財産は無いか」
 ボソボソと呟きながら、克己は思考を深めているようだ。必死に自分のことを理解してくれようとしているその姿が何だか嬉しいような、哀しいような、複雑な気分だ。
「お前が良いなら、良いんじゃないか」
 けれど、克己のあっさりとした答えにしばし呆気にとられる。
「え?あの……克己?良いのか、俺男に告白……して」
「別に良い、とは思う。お前が、翔が、それで良いなら」
「ああ、あー……あ、そうか」
 肩の力は抜けたが、何故か素直に喜べず気まずい空気が漂い始める。止めて欲しかったわけではない。克己にあの現場を見られるのは正直想定外で、かなり焦ったのだが、彼が柔軟な考えの持ち主で良かった……と思うべきだろうに。
「じゃあ、軽蔑とか、その、えーっと……」
「していない」
「そ、か……そっか。なら、……良かった」
 心の底から安心した……と言ってもいいのだが、何故かわだかまりが残る。笑ってはいるがどこか浮かない表情でいる翔に克己の方が気を使う。
「翔?」
「いや、なんか安心して、ちょっと……うん」
 この胸に残った感情の正体がわからず、ただそう誤魔化す事しか出来なかった。
「変なことを言って悪かったな。別に、友人を止めるつもりはないから安心しろ。もし川辺に何かされたら俺か佐木辺りに言えばいい」
 その翔の浮かない表情を別な意味で捉えた克己は軽く笑うが、翔の顔は変わらない。
 今まで色々と聞いていた翔の話から察するに、彼は今までそうした恋愛ごとに関わってきた事がないはずだ。故意的に避けてきたのかもしれない、姉のことがちらついて。
「……良かったな、翔」
 例え相手が気に食わない相手だったとしても、翔が彼を選んだのにはそれなりに理由があるはずだ。それを他人がどうこう言って彼を不安にさせるのは得策ではない。
「……克己?」
「好きになった相手に好きになってもらうのは存外難しいことだろう。お前はもう少し喜んで良い」
 遠くで授業の始まりを告げるチャイムが鳴り響いていたが、その上に風に揺れた木々のざわめきが被りあまり耳に入らない。その時、翔はこの間彼が言っていた言葉を思い出していた。
昔好きだった相手を殺した事がある、と。抑揚のない声で。
 その相手とは、きちんと恋人同士だったのだろうか。それとも、彼の片想いだったのだろうか。どちらにしても、彼が苦しい想いをしていたのは変わりない。いや、していたではなく、している、だろう。
 こんな言葉を引き出してこれるような、そんな想いをしてきたのか。
「克己は、優しいな」
「……そうでもない」
「この学校、結構可愛い女の子も多いしさ。克己、早く誰か好きになれよ。お前が誰かと幸せになるの、俺も見たいし、応援したい」
「それはそのうち、な……それよりチャイム鳴ったぞ」
「マジで!次英語だっけ?御巫さんオロオロしてるかもな……克己、急がないと」
 一応普通の授業もあるのだが、それほど重要視されていないために授業をサボったりする生徒が多い。そうした科目の教師は肩身が狭いようで、どこかビクビクしているところがあった。英語担当の御巫もその一人だ。オロオロとしている眼鏡の顔を思い出す。
「翔、俺は今日は出ない」
「え?」
「次の時間までには戻る」
「ちょ、おい……克己」
 止める間もなく克己は去って行く。あまりの速さに何か用事でもあったのかと思うが、授業中に何か用事を入れるようなタイプではない。
 けれど、彼がいなくなってどっと体中の力が抜け、近くにあった木に背を預けていた。何だか川辺に告白した時より緊張していたような気がする。
 おかげで、彼に感じていたあのわだかまりの正体が今、解かった。
 罪悪感、だ。
 好きになった相手に好きになってもらうのは難しい。まさか、そんな事を言われるとは思わなかった、あの克己に。自分とは違い、恋愛事の経験がある証拠だろう。
「……ごめんな」
 精一杯自分の事を心配してくれている彼に、嘘を吐いてしまった。後で謝らないといけないだろうが、良心の呵責に耐えかねて思わず呟いていた。
 川辺の事は、別に好きでも何でもないのだ。橘の事と、この間見た新聞の事がどうしても気にかかり、こんな突拍子もないことになってしまった。彼の近くにいれば何かが接触してくることは恐らく間違いない。この間、川辺の部屋から出てきた時に襲われかかったことを思い出し、自然と眉間に力が入った。
 もしかしたら、死ぬかも知れない。
 でも、かも、だ。死ぬと決まっているわけではない。
「約束は、守るからな」
 克己が消えた方向に目をやってから、翔は教室の方に足を進めた。




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