「日向……大丈夫ですか?」
 和泉との一戦を終えてからしばし茫然としてなかなかフィールドから出てこない翔に遠也が駆け寄った。
 思いがけない和泉の行動に、遠也はハラハラしながら見ていたが、結果は翔の勝利だ。安堵していたのだが、翔の様子がおかしい。何か和泉が変な事を言ったのではないか。
 内容によっては、この間の和泉との話は無かった事にするつもりだった。だが、翔は顔を上げ、困惑したような顔を見せたが、すぐに取り繕うような笑みを浮かべた。
「大丈夫。試合自体は楽しかったしな」
 明るい口調に反してその笑みはどことなくぎこちない。遠也は眉間を寄せ、もうすでにいない和泉の背が消えた方向を睨んだ。
「何か言われましたか?」
「……姉さんが、妊娠してたって」
 半信半疑に翔はそれを口にした。けれど、遠也の眼が大きくなったその反応にそれが事実なのだと察す。普段遠也はポーカーフェイスを貫いているが、唐突な出来事には弱く、そういう時はその無表情が崩れるのだ。
「知っていたのか、遠也」
 きっと自分を気遣って言わなかったのだろう、特に彼を責めるつもりはない。しかし、遠也は律儀に頭を下げた。
「すみません……」
「姉さんは、知らなかったんだろうな……知ってたら、自殺なんてしない……そういう人だった」
 自分の子どもを犠牲にしてまで自殺をしようとは思わなかっただろう。知っていたら、思いとどまっていたはずだ。虫も殺せない優しい女性だった。
「でも……」
 せり上がってくる激しい憎悪と怒りに喉が熱くなり、吐き気さえ感じ口元を手で覆う。
「知らなくて、良かった……!」
 子どもが出来た、ということは間違いなくあの男の子どもだ。もし、彼女がそれを知ったら。その時の彼女の絶望を思うと怒りと恐怖で全身が戦慄く。久々に父親への憎悪で呼吸が苦しくなったり、吐き出した声は嗚咽にも似ていた。
「日向……」
 肩が僅かに震えている翔の肩に遠也は手を置き、彼の怒りを感じる。けれど、もうやり場のない怒りだ。当人は2人とももうこの世にはいない。それを思うと一番哀れなのは今目の前にいるこの友人だ。1人で姉の絶望と恐怖を背負い、もう他界している相手を許すことも出来ず、ただ憎しみだけを募らせている。
 だから、言いたくなかった。
 無責任に情報だけを置いていった和泉をただ恨むしかない。これ以上、彼の憎悪を煽ってどうするのだ。翔の逃げ場が無くなっていくだけなのに。
 世の中には知らなくても良い真実がある。それを興味本位に暴こうとする人間が一番厄介だ。
「……和泉は、それだけを告げたんですが」
 和泉に対する怒りを感じつつ遠也が聞くと、翔が少し戸惑うように視線を泳がせてから、ゆっくり首を横に振った。
「いや……」
 和泉は言った。彼女が妊娠していた子どもは生きていると。
 そして、攻撃の拍子でコンタクトが外れた彼の眼の色は、蒼かった。
 けれど、遠也にこれを話のはどうだろう。まだ、きちんとした確証はない。しかし、もしこの予想が当たっているとしたら、和泉が自分を嫌う理由が何となく解るような気がした。いや、むしろ嫌われて当然かも知れない。
 自分にとって、兄弟でもあり、甥でもある不思議な境遇の彼と自分が何の柵もなく接することはきっと難しい。
 この事は翔の橘に対する決意をなお一層堅固なものにした。




 
「あ、甲賀、ちょっと良いか?」
 授業後に克己に声をかけてきたのは珍しいことにいずるだった。
 ちらっと翔の様子を伺うと、遠也となにやら雑談をしているようだったから、いずるに視線を移して黙って頷く。
 練習場の外に移動し、何の話だと素っ気無く聞いたら軽い口調で言われた。
「ちょっと甲賀にお願いがあるんだ、正紀の事で」
「断る」
 いずると正紀の空気が数日前から何かおかしかったのは気が付いていた。けれどあまり深く関わる必要もないだろうと傍観どころか気にも留めていなかった。今更巻き込まれるのはごめんだ。
 そんな冷たい返答に、予測していたのかいずるは苦笑顔だ。
「正紀をしばらくの間、君達の部屋に泊めて欲しい、ってお願いなんだけど」
 友人であれば気安く了承を貰えそうなお願い事だったのだが、克己は冷たい。
「断ると言ったはずだ」
「友達甲斐のない返答を有難う。でも、ただで、とは言わない」
 勿論、克己相手に頼んでいるのだから快く了承してもらえるとはいずるも考えていなかった。
 翔に話を持ちかければ良かったのかも知れないが、翔の場合だと自分がそう正紀に頼んだとあっさり言ってしまいそうだ。大志も同じだ。変に気を回して自分たちの仲を取り持とうとしてくれそうで、ありがたいが今それをやられるのは少し困る。
 ただで、という言い方に克己は口角を上げる。相手はあの名家の一つの矢吹家の子息だ。
「金か?生憎だが俺は金で動かせる人間じゃ」
 けれどいずるが手に持っているのは何故か最新式のコンパクトサイズのデジカメ。動画も綺麗に取れる優れもの、という広告をいつかインターネットで見た覚えが有る機種だ。
 にっこりと笑ったいずるの顔になにやらとても嫌な予感がする。
「この間の放課後、俺もちょっと意外な光景を見て、ついシャッター押しちゃって」
「放課後……?何の」
 まさか。
 思い当たったことに克己が微妙に不快な顔になったとき、いずるはデジカメの電源を入れる。電源が入ったことを伝える軽快なメロディに思わず口元を引き攣らせた。
 画素数の高い液晶画面に映されたものに、ただ唖然とする。
「……お前の方が友達甲斐が無い人間だと思うが」
 友達甲斐が無いというよりも、気を許せる相手ではないという事を今日思い知らされた気がする。
「甲賀が友達甲斐のある返答をくれたら出さなかったよ」
 いずるの手の中にあるデジカメの画面には、あの加藤との一件がしっかりくっきり映されている。克己が意図したわけでもないキスシーンが、綺麗に写っているのが忌々しい。
「どうしようかな。一応脅し文句とか言ってみる?これをばら撒かれたくなかったら、俺の言う事聞いて?」
「勝手にすればいい」
 そんなものをばら撒かれたところで実際痛くも痒くもない。
 どうでもいい、と言いたげにいずるに背を向けかけた彼に、さらに畳み掛けた。
「ばら撒く……というか、日向に見せる」
 思ったとおり、克己の背が一瞬硬直し、恨めしげな目で振り返る。その解かりやすい態度に思わず苦笑してしまった。
「大人しく言う事聞いてくれよ、甲賀。俺だってコレ世に出すつもりはさらさら無いんだから。でも今脅しちゃったわけだし、お前が言う事聞いてくれなかったらばら撒かないといけない。あ、動画もあるぞ」
「……解かった」
 はぁ。
 思わずため息をついてしまった克己にいずるはにっこりと笑う。
「有難う、甲賀」
 よく言う。
「じゃ、このデータは後で消しときます。友情に感謝しながら」
「……この借りはいつか必ず返させてもらうがな」
 他人の喧嘩に巻き込まれてしまった上に嫌な取引をさせられて、克己はどことなく苦い表情を浮かべていた。
「大体、篠田の事なら自分でどうにかすればいい。何故喧嘩なんかした。立ち回りの上手いお前なら、喧嘩なんてしなくとも」
 克己の問いの意味は充分解かる。喧嘩なんて確かにあの場面に必要は無かった。それでも喧嘩をふっかけたのはいずるの方。
「俺ね、アイツの泣き顔が見たいんだ」
 克己から視線を外してどこを見るわけでも無いいずるの眼はどこか憂いを帯びていたが、その口から飛び出した言葉は何とも不穏なもの。
 どこかで似たようなことを聞いたような、と克己は思わず眉を寄せていた。そんな克己の反応に構わず、いずるは盛大なため息を吐いてから肩を竦める。
「正紀って、今はあんなんだけど昔はすっごい泣き虫だった。鷹紀さんが死んでから、だと思うけどアイツあんまり泣かなくなってさ。つまらなくて、ほんと」
「矢吹、お前……」
 真性サドか?
 いや、少し前から何となく気付いていたけれど。
 思わず口に出してしまいそうだったその時、いずるの空気がふっと変わる。
「つまりはさ、アイツにとって涙を見せることの出来る程信頼してる相手じゃないって事なんだよ、俺は」
「……はぁ?」
 突然の言葉に流石の克己も声を上げた。いずると正紀は自他共に認める親友同士だと周りは思っている。なのに、だ。思いもかけないいずるの心情にただ、唖然とした。
「泣きたいなら泣けば楽なのに。俺は一体どうするべきなんだ……全てを話すべきなのか」
 目を伏せ、いずるはどこか悔しげな表情を見せる。
 真実を話すべきなのか。それが彼の一番の悩みだった。
 真実とは推理物ならそれを露見すれば解決する。小さい頃はそんな推理ドラマを見て胸を躍らせたものだ。けれど、今は違う。
 正紀が諌矢の死を知った。その真相を知りたいと自分に言った。その言葉は、自分にとっては最も恐れていた言葉だった。
「本当のことを知ったところで、全てが解決するわけじゃない……俺の知る真実は知らないほうが幸せなものばかりだ。甲賀も、そういうのあるだろ?」
 真実を追究するのが俺の役目だと正紀の父はよく口にしていた。その血を正紀も引いたのか、何があっても彼は一歩も引かない。それは良い。普通なら褒められることだから。
 でも、これだけは、お願いだから突き止めないで欲しい。
「俺を脅して次は泣き言か」
 ぐっと眉根に力を入れたいずるを克己は鼻で笑った。
「何だ、友達なら慰める場面だろう。笑うか普通」
「ついさっき脅しておいて何が友達だ」
「ま、そうだよな」
 克己に多くを求めすぎたか、といずるは苦笑する。その顔はいつもの彼からは見られないほどどこか辛そうで、まるでこっちが加害者だ。
「……篠田も、気付いているんじゃないのか。アイツも馬鹿じゃない」
「それは、知ってる……だから心配なんだ」
「大体、それが真実ならそれを受け止めるしかないだろうが」
「それが出来ないから困るんだ。甲賀程俺は強くないし、」
 ふ、といずるが表情を緩めた時、茂みの向こうから聞き覚えのある声が聞こえてきて、いずるは台詞を止めて振り返り、克己もそれに倣い、眼を見開いた。そこでは、川辺と翔が何故か二人きりでいた。
「何やってるんだ、アイツ」
 克己が苛立ちを含んだ言葉を吐くと、いずるは苦笑した。もう克己はこちらの話は放り出してしまったらしい。
「さぁ?でもあんまり、川辺に近付かない方がいいと日向に言っておけ」
 いずるの忠告に克己は川辺とお前だな、と密かに彼も付け足しておいた。
「……お前、何か知っているのか」
 単なる軽い注意ではなくどこか警告めいた意味合いを持ついずるの言葉に克己も眉を顰める。いずるも聞き返され、眉間を寄せた。
「まだ、どれがどう繋がるのかは解からないけどな」
「アイツも駒の一つに入ってると?」
「……川辺は」
 いずるは弓道場で彼と会ったときの事を思い出し、ゆっくりと口を開く。
「俺がよく行く道場の横に、ゴミ捨て場があったんだ。けど、12年前に回収方法とか色々変更があって、そこのゴミ捨て場無くなった。それを、川辺が知ってたんだ」
「……それがどうした?」
 いきなりゴミ捨て場の話をされ、流石の克己もいずるが言いたい事を察せず困惑する。そんな彼を、いずるは振り返った。
「12年前に無くなったゴミ捨て場を、どうして軍出身じゃない川辺が知っている?川辺が軍に入隊したのは8年前で、ここで教えるようになったのは2年前だ。しかも空で、あんな遠い科学科寄りの弓道場に来る機会があったとは考えにくい。陸には今年から来たってのに」
 それに、伝聞で得た情報ではなく、自分が使っていたような口ぶりだったのも気にかかる。いずるの説明に克己もその重要性に気付き、川辺に対する疑惑を深めた。
「……軍の情報に誤りがあるとは考えにくいしな」
 川辺がここの学校出身でないことは確かだ。確かに、奇妙だ。
「気をつけておいたほうがいいよ、甲賀」
 いずるの低い声に目を伏せて同意し、克己は視線を川辺達に戻す。いずるも川辺をじっと見つめた。確かに、奇妙な面は多々あるのだが、川辺という人間に心底警戒心を抱いているわけではなかった。克己には言わなかったが、なんというか……昔どこかで彼に会ったような、そんなこれまた奇妙な感覚があるのだ。既視感というものなのだろうか。このところ、色々あったから脳が疲れているのかも知れない。
 川辺と翔はまだ話を始めていないらしく、呼び出された川辺の方はなかなか話を切り出さない翔に「どうした」と声をかけていたが、翔はなかなか顔を上げない。
 言いたい事をはっきり言うタイプの翔にしては珍しい沈黙。
「日向……次の授業があるんだが」
 腕時計を見ながら彼は困ったような視線を向けてくる。
 俯いていた翔はその言葉に顔を上げて、意を決した。
 翔は今言わずにいつ言う、と弱気な自分を奮い立たせて川辺を見つめる。
 そして
「あの、俺を教官の恋人にしてください!!」
 緊張で力を入れた告白は、勿論少し遠くで待機していた克己達の耳にも入ってきたわけで。
「は?」
「へ?」
「……あ?」
 いずると川辺がほぼ同時に、ワンテンポ遅れて克己が不快げに、声を上げた。
 



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