私、好きな人が出来たの。
 そう恥ずかしげに、けれど嬉しそうに言う姉は初めて“女性”らしいと思えた。
 そんな彼女は、自分の知る彼女ではなく急に遠い存在になった気がして、怖かった。
 だから、引き止めてしまったのだけれど。


「……もしかして、翔くん、か?」


姉達が死んでから半年くらい経ったある日、姉の墓へと足を向けたら彼岸の時期でもないのに人がいた。しかも、彼女達の墓の前に。
背が高い大人の男の人だった。
自分に気がついた彼は、何故かすぐに名前を呼んでくる。ちょっと驚いた風に。
それで、ピンと来た。
「貴方は、姉さん、の?」
暮れなずむ夕日に照らされた彼の黒いコートは、軍のものだった。
姉の恋人が軍人だったことには少々驚いた。けれど、同時に怒りも湧き上がってくる。
軍人のくせに、彼女を守ってはくれなかったのだ。
「どうして、姉さんを助けてくれなかったんだ……あんた、軍人なんだろう」
テレビで見かける、軍への入隊希望者を募るCMのキャッチフレーズは、『貴方の大切な人を守れ』だ。それを馬鹿正直に受け止めていたわけではないけれど、軍に入ればそれなりに強くなるものだと思っていた。
翔の指摘に彼の表情が曇る。
「すまない。なかなか自由の身になれなくて、ずっと彼女にも会えなかった……今日初めて知った」
くるりと彼が振り返った先には、冷たい石の墓がある。それを見つめる彼の眼は黒い悲愴の幕で覆われていたから、彼の姉に対する気持ちは本物だったのだろう。けれど、それを認めて更に苛立ちが募る。
そこまで思ってくれていたのなら、何故。
「貴方だけだったはずなんだ、姉さんを助けられたのは。なのに」
いっそ、彼女を連れ去ってくれれば良かった。
弟のことなんて気にするな、と言ってくれれば良かった。
それを彼がしなかったのは、彼が姉と同じく優しい人間だったから。それは、解かる。しかし、やり場の無いこの思いはどこへ向ければ良いのだろう。
手に力を入れると、持っていた花束の包装ががさりと音を立てる。
「……でも、君が生きていてくれて、良かった」
そう安堵するように月並みの言葉を言った彼に思わず手に持っていた花束を投げつけていた。
彼は、本当に優しい。
姉が死ぬ原因となった自分を責めることなく、むしろ自分を気遣ってくれた。
でもこの人は、何も解かっていない。
自分が病院に入院していた時、自分に中途半端な同情を向けてきた看護婦や医師と同じだ。
「良くねぇよ……!」

そう叫んで彼に背を向けて、彼とはそれっきり。
本当は、もっと違うことを話さないといけなかったはずなのに。もっと違うことを言わなければいけなかったはずなのに。
この事は、今でも後悔している。





「ったく……何なんだコレ」
 翔は克己に渡された明細票を睨みつけて、これを返してきた川辺のあの嫌な笑みを思い出しイライラしていた。
 その裏に書かれていたのは“H”という文字。その意味が解かりかねてイライラしていたのだ。
 H、鉛筆の硬度。
 H、ヒットの意。
 H、腰周りの寸法。
 H、水素の元素記号。
 H、ローマ字書きのhentaiから生まれた和製用法……。
 色々走り書きしてみたが、なかなか答えが浮かばない。
「翔、お前橘に会ったのか?」
 柔道着に着替えている克己に少し厳しく追求され、翔は何故彼がこんな険しい表情でいるのか解からなく不思議そうに、ああ、とあっさり頷いた。
 その瞬間、盛大なため息を吐かれる。
「お前なぁ」
「何だよ、別にいいだろ」
 けれど、少し彼女の様子が変だった。突然抱き締められ、目を白黒させた翔の前で彼女は静かに涙を流した。理由を聞いても、彼女は微笑むだけで。
 その後彼女はヨシワラへと戻ってしまい、何だか全てが振り出しに戻ったような気分だった。
しかも次の授業がよりによって普段のナイフの授業の担当教官が出張で、代わりにあの川辺が来るということにも更なるため息を誘われた。
「克己、俺、先に道場行ってるからな」
 着替えを終えて、練習場までの道すがら色々なことをただ思い出していた。姉のこと、橘のこと、魚住の事、それと、自分を襲ってきた永井という生徒のこと。彼は、川辺に気があったように思えた。橘と川辺は繋がりがあり、魚住もあの日、川辺の部屋に。
 一足早く練習場に着くと、珍しく生徒より早く来ていた川辺の姿を見つけた。彼も自分が来たことにすぐ気が付き、ふっと笑う。
「日向か。甲賀から明細票は貰ったか?」
「……はい」
 やっぱり克己にはこれ以上迷惑をかけるわけにはいかない。それに、これはやっぱりどこまでも私事だ。姉のクローンを助けたいなんて、自分でもどうかしていると思う。もう3年くらい経つのに、いつまでも引きずっている自分が女々しくて仕方が無い。
 あの人は知っているのだろうか。自分の恋人がクローンとなり、他の人間に抱かれていることを。軍部の人間なら、いつか耳に入ること。
 せめて、この一件をどうにかして、あの人へのあの時の侘びとしよう。
「授業後、お話があります。時間とっていただけますか?」


 まただ、またあの視線。一体どこからだ。
 授業へ向かう道で、正紀はまた背にあの視線を感じる。
「篠田、どうかしたか?」
 共に歩いていた大志に声をかけられ、正紀は首を横に振る。自分の動きを、見張っている人間がいるなんて言ったところで、この友人を巻き込むだけだ。
 再び彼の隣りを歩き始めた正紀に、大志はほっと息を吐く。
「なぁ、篠田。早く矢吹と仲直りしろよ」
「あ?」
「なんか、お前ら喧嘩してるとこっちまで調子狂うし……あ」
 噂をすれば何とやら、いずるがひょいっと曲がり角で顔を見せた。うっかり久々に目線を合わしてしまい、二人共気まずい気分で眼を逸らす。けれど、お互いほぼ同時にここで目を逸らしたら負けだと思ったのか、目を上げた。
「よぉ、いずる。元気か?」
 肩を竦めながら聞けば、いずるも受けて立つというように軽く鼻で笑う。
「元気だけど?どっかの誰かさんが居ないおかげで悠々と1人部屋気分で、よく眠れるよ」
「……そりゃー、良かったじゃねぇか」
 いずるの言葉に正紀の口元が引きつり、瞬時に一触即発の空気になってしまい、慌てたのは近くにいた大志だ。おろおろとするしかない。
「おい……2人とも……こんなところでそんな」
「……嘘に決まってんだろ」
 その時、ち、と小さく舌打ちをしたのはいずるだった。
「よく眠れるのは本当だけどな、元気じゃない」
 どこか弱々しい彼の声に、正紀も目を見開いた。
「いずる……」
 その瞬間だった。今まで見ているだけだった視線から、殺意に似たものを感じたのは。
「な……っ!」
 驚いて振り返ったがそこには誰もいない。
「篠田?」
 喧嘩とは無縁だったのだろう、大志はそれに気付いてないらしく、怪訝な表情だが、正紀は眉間を寄せ、小さく深呼吸をした。
「……何でもない。行こうぜ、三宅」
「え、おい……」
 いずるの前を通り過ぎる正紀を大志は心配げな表情で追う。それをいずるも見送ってから、正紀が振り返った方向を厳しい表情で見ていた。
「どうしたんだよ、篠田」
 大志は仲直り出来そうだった空気を自ら逃した正紀の行動が分からず、困惑する。
 だが、正紀は足早にいずるの前から去ろうとした。
 自分は殺されるかもしれない、あの視線に。覚悟は出来ている。けれど、もし自分と親しいからといって、いずるにまでその手が伸びたら?
 自分が殺されるのは自業自得だ。禁止されている薬を飲んでいたから。いつか天罰が下るとも思っていた。だが、いずるは関係ない。
「おい、篠田!」
 練習場手前で、大志が正紀の肩を引き、足を止めさせた。
「……良いんだ」
 疲れたように正紀はため息を吐き、大志は珍しい彼の反応に慌てるしかない。
「何が良いんだよ。良くないだろ!お前と矢吹は親友で」
「俺は一般人、つか、元不良頭。アイツは、名家の次期当主……違いすぎるだろ」
「お前、何言って……」
「良いんだ。これが、この世界の……普通、だろ」
 蒼い空を見上げると、頭の中で老人の朗々と語る声が響いた。
 君のような人間が、アレと真の友情が築けると思っているのか。友情とはお互いの立場が対等であってこそ成り立つものだろう。君とアレは立場が違いすぎる。今までは同じだったとしても、これからは違う。
 それを、わきまえてくれ。金なら用意した。
 あの日、父親の葬儀の日にいずるの祖父から言われた言葉を思い出した。覚えたくもない文句だったというのに、そういうのに限って頭から離れない。
 あの日、自分は彼等に友情を売った。そのツケが今来たのだろうか。
 もう少し、友だちでいられると思ったのだが、限界か。
「アイツ死なせるわけにはいかないしな……」
 まだ背に感じるあの視線に、正紀は奥歯を噛み締めた。


 ナイフの授業は普段どおり淡々と進んでいった。最後の残り15分くらいで、授業の締めくくりとして試合をすることになってる。その時間が来て、川辺が生徒を集めた。
「誰かやりたい奴いるか?」
 川辺がそういうとクラスメイト達はお互いの顔を見合わせ、不安げな表情になる。そんな生徒の様子を見て川辺はため息を吐きたくなった。
「いないなら、終わりに」
 まぁ、強制するものでもないし、と終わりにしようとした時だった。
「教官、俺が」
 凛とした声は和泉のもので、急に周りは黙りこくった。和泉の腕はクラスでも上位に入る。だが、そんな彼が相手に選ぶのは誰か、予想が出来なかった。
「良いが、相手は誰がいい?」
 川辺の問いに、和泉は口元を歪める。
「日向」
 名指しをされて翔はばっと和泉の方を見た。彼は自分をどこか冷めた眼で見ていたが、彼が自分とやりたがっていることを察し眉根を寄せた。意外と感じないということは、いつかこうなると、自分でも予測していた展開だったようだ。
 手の中のナイフを握り、翔は頷く。
 翔が了承した事に周りは再びどよめいた。和泉の実力はクラス内でも屈指のもの。対して、翔は身軽な面は見て取れたが、技術があるとは思えない。
 軽症で済めばいいというのが周りの評価らしく、それを耳にした克己は眼を細める。
「日向」
 翔が一歩前に出ようとしたとき、後ろからひんやりとした手が腕を掴み制止する。振り返ると遠也が不安げな眼で自分を見上げている。
「大丈夫」
 確かに、いつかはこうなると予感はしていたが、それでも何故か自分が死ぬ気はしない。
 心配する友人達に笑みを見せてから、フィールドに向かった。
 遠也はまだ不安な眼でその背を見送り、克己がそれを横目で見て軽く息を吐く。
「何かあったら俺が止めに入る」
 必要ないかもしれないけれど。
 そう呟いた克己の言葉は遠也の耳には届いていた。そうあればいい、と遠也は強く思いながらフィールドに眼をやった。
 フィールドに立った二人の身長差は少しだけで、号令が掛かるまで構えることも無くただ視線を合わせた。その手にはお互いナイフが握られている。
 無表情の和泉からは、一体どういうつもりで指名してきたのかは解からない。けれど
「……いつか、こうなる日が来ると思っていた」
 翔が静かに口を開くと、和泉はいつもの嫌みったらしい視線を投げてくる事はなく、ただ眼を細めた。
「それなら話は早い。本気で来いよ」
「何故、お前は俺の事を知っているんだ」
「それについてはノーコメントだと言ったはずだ」
「だから、もしこれで俺が勝てたら話を聞かせて欲しい」
「……何の?」
「俺の父親、有馬蒼一郎の事だ」
「……何故?」
「俺は、何も知らないんだ」
 縋るような思いで翔は言葉を吐き出した。それに和泉も意外そうな表情になったが、すぐに厳しい眼になる。
「俺は、何も知らない。父さんの事も母さんの事も、姉さんの事だってきっと、何も知らなかった。だから知りたい。俺や姉さんが何故あんな目に遭わされていたのか」
 和泉が黙ったまま構えるのに倣い、翔も構える。その構えはここで習ったものではなく、穂高から伝授された自分が一番やりやすい構えだった。和泉の構えも、ここで習ったものとは違う。
 お互いそれで本気だと察し、互いの気迫に背筋に震えが走る。
 緊張が最頂点まで高まったその時、頃合を見計らった川辺が「始め!」と声を上げた。二人はほぼ同時に足を踏み出し、お互いに向かって走り出していた。
「……すげぇ」
 ぽつりと誰かが呟き、再び静寂が戻る。フィールド内で剣を交えている二人には届かない声だったが、そこにいる誰もが心の中で同意した。二人の動きは想像以上に早く、けれどお互い攻撃を避けているのだから凄い。翔は身に付けているスピードを生かし、和泉からの攻撃を避けている。対する和泉の方はそんな翔に畳み掛けるように攻撃の連続。隙を少しでも見せたら恐らく翔は和泉のナイフに切り裂かれる。
 ひゅっと首元を掠めたナイフを避け、翔は一度間合いを取った。あれほどにも自分に攻撃をしかけてきたのに関わらず、和泉は息も切らしていない。ただこの学校に入ってきた人間でない事は容易に察せた。
「やるな」
 ふっと笑みを漏らした和泉の言葉に、翔も勝気に笑う。
「そっちもな」
 何故か、少しわくわくしてきた。叔父と拳を交えたあの時と感覚が似ている。さっきは和泉は鋭い攻撃をくり返してきたが、どれも自分の急所は外していた。首だって、動脈は狙っていなかった。そして第一、彼からは殺気が感じられない。
 何故和泉が自分を指名してきたのかは解からないが、彼は自分を殺すつもりで指名してきたわけではない。それだけは解かる。
 相手も気分が高揚してきたのか、ニィと笑い、それに翔も口元だけ上げて笑い返す。
 なら。
 たっとこちらに向かって走ってきた翔に和泉は構える、がそこを狙ったかのように翔は彼の顔面にナイフを投げた。
「投げた!?」
 武器を手から離すのは死活行為だ、と少し非難めいた声が上がったが、和泉はそれを簡単に弾き、翔のいる正面を見据えた。が、そこに相手はいない。
「こっちだ」
 下からの声に反射的に和泉が下を向いた。そのタイミングを狙い、翔は地に手をつき、顎を蹴り上げた。予想もしなかった攻撃に和泉の体は吹っ飛び、そのままフィールドアウトになる。
 すたん、と足をついて立ち上がる翔の勝利に、観客はしばし唖然としていた。遠也はほっと息を吐き、克己は当然の展開と言いたげに腕組みをする。正紀はそんな克己の肩を興奮気味に叩いた。
「うわぉ。日向すっげーな」
「馬鹿にするな。アイツはいつも俺と打ち合ってるんだ」
「へ?」
「俺の技術は和泉よりずっと上。最近はそれに慣れて受身も上手く取れるようになっている」
 今まで克己相手に戦っていた翔が、和泉に簡単にやられるわけが無いというわけだ。
 翔は肩で息をしながら、地に倒れている和泉に近寄った。彼は蹴られた顔を片手で押さえながら、ゆっくりと身を起こす。
「和泉……」
 立ち上がろうとする彼に手を伸ばしたが、それはあっさりと振り払われる。ぱしん、という厳しい音が小さく響いた。
「俺はお前の手なんて借りない」
「和泉、お前何で」
「あぁ、一つだけ面白い事を教えてやろう。お前は俺に勝ったからな」
 彼は負けたのに全く臆せず、軽く笑った。
「面白い事?」
 翔の警戒するような声に、和泉は蹴られた拍子に飛んでしまった眼鏡を拾い上げる。レンズに細かいヒビが入ってしまっていて、これはもう使えないと察し、その場に投げ捨て、肩の力を抜いた。
「お前は、自分の体を好き勝手に、物のように弄ばれたことがあるか?本来の自分の年齢さえも歪められて、自分が何者かも知らされないまま気分の悪い水溶液に浸された事は?」
「……何、言ってんだ?」
 何が言いたいのか分からないと言いたげな翔の反応は予想通りだった。
「無い、だろうな」
 和泉はふら付きながら立ち上がり、片手で覆われた手の間から、く、と口角を上げて笑うのが見えた。そのまま背を向けた彼を慌てて翔は追おうとする。
「和泉!」
「お前の姉は死亡時に妊娠をしていた」
「……何?」
 妊娠?
 その単語に翔はその場に立ち竦む。あの姉が妊娠していた、と。初めて聞いたことに頭がついていかない。茫然とする翔を和泉は鼻で笑うが、目に走った痛みに眉根を寄せ、目蓋を閉じた。
「お前が姉を死に追いやった所為で、その子どもも死ぬ羽目になったということだ」
 和泉の冷たい言葉に、翔は息を呑む。思ったとおりの反応を返した翔に、和泉は痛みを堪えつつゆっくりと目蓋を上げた。
「と、言いたいところだがな」
「え?」
 ぱっと顔を上げると、こちらを振り返った和泉の冷たい目と視線が合い、頭の中が真っ白になる。顔を覆う指の間からわずかに覗いたその和泉の眼の色は、蒼かった。
 その蒼には見覚えがあり、思わず凝視してしまう。
 翔が何を見ているのか、和泉も了承済みだった。すぐに指を閉じ、手で目を覆い隠す。隠されていない片目は普段どおりの茶色だった。
 そして、彼はゆっくりとその顔から手を離した。片目が青く、もう片方の眼は茶色い、その顔は。
「その子どもは、生きている」
 和泉はそれだけ言って、落としたナイフを拾い上げて翔に背を向ける。コンタクトが落ちてしまった片目を押さえながら、道場から去った。
「和泉……ちょ、待っ……」
 ここで呼び止めたところで、彼がこれ以上何かを話してくれるとは思えない。一つだけ、と彼は言っていた。思わず伸ばしかけた手を引っ込め、翔は俯く。
 本当に、彼女があの時妊娠していて、その子どもが生まれているのだとしたら。
「あの、蒼い眼……」
 ―――うーんと、蒼い眼が、印象的な人だった。
 早良の言っていた言葉を思い出し、翔は和泉が出て行った方向を見やる。
「まさか……」


 眼鏡もなく、取り払われた手の下にあった顔は、どことなく自分に似ているような気がした。




Next

top