「俺はこれから用があって、しばらく帰れない。帰りたかったら好きに帰ってくれて構わないから」
 早良がそう言ってこの研究室から姿を消したのは昨日だった。橘は特に何も持ってきていないから用意するものもなく部屋から出た。
 廊下の奥にまた扉があり、ここが何かの研究チームの専用フロアだということを知る。自分を造ってくれた彼も科学科だから、もしかしたらここの外に出たら彼に会えるのだろうか……そんな淡い期待を胸にぺたりと裸足の足を踏み出した、その時。
「橘さん!」
 目の前の扉が開き、覚えのある顔が荒い息を吐きながら自分を見上げた。よほど急いで来たのだろう、額には汗が滲んでいる。
「貴方……」
 橘は突然の彼の登場に一歩後ずさっていた。彼の顔を見ると何だか自分の存在に後ろめたさを覚えるのだ。自分が、彼の姉のクローンだと知ってから。
「あ……」
 彼は橘の姿を捉え、深く息を吐き、その場に崩れ落ちた。
「ちょっと、大丈夫?」
 力尽きて倒れたのかと思い、橘は慌てて駆け寄ったが、彼はすぐに顔を上げ、笑った。心底嬉しげに。
 眩しすぎる笑顔だった。
「良かった……」
 そう呟いた声が擦れていたのは聞き間違いじゃないだろう。その音に胸が締め付けられた。
「どうして」
 どうして、クローンである自分にそこまで。
 床に膝をついたまま顔を伏せている彼の色素の薄い髪をそっと撫でる。さらさらとした柔らかいそれはすっかりささくれ立っていた自分の心を少しだが癒してくれた。
 僅かに震えている肩に手を伸ばした、その時
「良かった、姉さん」
 かすかに聞こえた彼の言葉にその手を止めてしまう。
 明確な理由を示されてしまった。
 じんわりと暖かくなっていた心が違う意味でまた熱くなっていくのが解かる。
「……可哀想ね」
 思わず零した言葉に彼が反応し、顔を上げた。橘を見上げる両目は潤み、目元が少し紅くなっている。10代半ばの少年にしてはどこか幼い表情だ。
「可哀想ね」
「橘、さん?」
「……貴方も、私も」
 緩く抱き締めた少年の体から淡く感じる体温があまりにも幼く、橘はそっと目を閉じる。頬を伝う涙の感触が妙に熱く、涙は熱いものなのだとこの時初めて知った。



 遠也は早朝の淡い朝日の中を一人足早に歩いていた。ついつい科学科に長居してしまい、急がないと朝食の時間に間に合わないかも知れない。流石に朝食抜きは辛い。
 誰も歩いていない廊下だったから、走っても良いかと脚に力を入れた時、横の廊下から人が飛び出してきた。まだスピードを出していない時だったから、衝突は免れたが、相手も驚いたようで足を止めて「すまない」と小さく謝ってきた。聞き覚えのあるその声に顔を上げてみれば
「矢吹……?」
 ここはまだ科学科の敷地内だ。なのに、どうして彼がいる。
「佐木」
 彼も少し困惑したような表情を見せたが、すぐにおはよう、と微笑む。すぐに表情を取り繕う事が出来る彼は実際の年齢よりずっと大人びているように見えた。それは矢吹家での教育の賜物なのだろうか。一応自分も彼と同じ良い家の出だが、彼は昔から続いている高貴な血筋の名家様だ。佐木家とは格が違う。
 どうして、ここに。
 そう問いたかったが、それよりも言わないといけない事がある。
「丁度良い。少し、話があるんですが」
 今時間があるかと聞いたら彼はすぐに頷いた。しかし、こんな場所ではいつ誰に聞かれるか解からない、といずるに誘導され科学科に近い場所にある弓道場へと足を向けた。もう朝食には間に合わないことは覚悟の上だ。
 誰もいない弓道場の重い扉を開け、いずるはかぎなれた匂いに肩の力を抜く。そんな仕草に彼にとってこの場所が心休まる場所なのだと遠也も悟る。いずるは深呼吸をしてから彼を振り返った。
「で、何だ?佐木」
「篠田の事です」
 内容を口にするとある程度の予想はしていたらしく、彼はふ、と笑みを漏らす。どこか、何かを諦めたような笑みだった。
「彼に、ある人物の髪の毛を調べて欲しいと言われ、調べました。結果は間違いなく薬物使用者です。その人物が誰だか、もしかして知っているのでは無いかと思いまして」
 遠也はいずるが嘘を言っても見抜けるよう鋭い眼で彼を見上げたが、相手は変わらない笑みで肩を竦めた。
「多分魚住先輩じゃないかな。アイツ、あの人の部屋に泊まっていたみたいだし」
「泊まっていた……?そんな人間の部屋に一緒にいたというんですか、彼は。どうして知っていて止めないんです。心配じゃないんですか?」
「……心配、か」
 いずるはその単語に反応し薄く笑う。
「正紀は君にどこまで話したのかな?」
「何の話ですか?」
「アイツが不良になったわけと、一連の事」
 遠也がいずるにわざわざ正紀の話をしたのは、彼なりに正紀を心配しての行動だろう。普段、他人が喧嘩したところで眉一つ動かさない遠也にしては珍しい事だ。それに正紀が彼に頼み事をした時、聡い遠也なら何かは気付くだろう、といずるも解かっていた。
 見抜かれていることに、遠也は瞠目する。
「矢吹、貴方は」
「アイツ、久川諌矢っていう名前を出したか?」
 その質問にこっちの話をまず聞け、と言ってやりたいところだったが、今まで特に感情を見せなかったいずるの眼が急に鋭くなったのを見て遠也は文句を飲み込んだ。
 いずるの脈絡の無い質問に遠也は口を閉じて首を横に振る。その動作に、いずるは思わず眼を強く閉じていた。
「そうか……」
 正紀が第三者にその事を話すのなら、何か違う発見が見えると思って仕向けたことだった。遠也なら頭も良いし、他人に話したりはしないし、適当な処置も取ってくれるだろうと考えた。克己は頭は良いが、正紀がそんな話をするような相手ではないし、話したところでそこで終わりそうだし、翔は話しやすいが、他人の問題までどうにかしてくれるほど余裕はなさそうだ。遠也は科学科にも繋がりがあるし、何よりあの佐木大病院の子息。適任だった。
「久川諌矢は俺の兄貴だ。病気で死んでることになっている」
「久川?」
 いずるの名字は矢吹なのに、兄とは姓が違う。その事を目で問うと、知らなかったのかと言いたげにいずるが肩を竦める。
「俺の前の名字、久川なんだ。久川いずる。親が離婚したから変わったけどな。俺は母さんの方、兄貴は親父の方に引き取られたんだけど、兄貴は病気で死んだ……若林大学病院で」
「若林……?」
 何となく病院名を言ってみたのは、遠也が何かの繋がりでこの病院のことを知っているかと思って、そこから話題が進むかと考えてのことだったが、必要以上の驚きようにいずるは怪訝な表情で顔を上げた。
「知っているのか?」
「あ……いや、一応うちの系列なので……珍しい病気だったんですか?」
「ああ。俺も良くは知らないけど。今の医学じゃ治すのが難しくて、だから20歳まで生きられないだろうって言われてたようだけど……佐木?」
 遠也の顔色がさっきより心なしか悪いような気がして、いずるが気遣うような声をかけた。
「どうかした?」
「いえ。何でも。その、貴方の兄が何か関係あるんですか?」
「……ウチの兄貴もな、死に直面して恐怖を感じたみたいで、ある薬に手を出したんだ」
 ある薬、と言われ遠也は嫌な予感がした。
 そして、“も”という接続詞にも。
「矢吹……知っているんですか……?」
 正紀が薬を飲んでいる事を。
 今会話をしていて薄々思っていたけれど、いずるの苦笑顔を見て確信する。彼は大方の事を知っている。
 けれど、何故気付く事が出来たのだろう。正紀の口ぶりからは、必死に隠していて、隠し通せていると信じているようだったのに。
 遠也の困惑顔にいずるは軽いため息を吐いた。
「……アイツ、忘れているんだよ」
 アイツ、とは恐らく正紀の事だ。
「アイツ……自分の目の前で兄さんが死んだのに、その事忘れてる」
 多分、正紀が飲んでいた薬の副作用だ。
 あの薬を飲むと一部の記憶を失う。正紀の場合、その記憶が失われたのだろう。
「何度も何度も聞いてくるんだよ。その度に説明しているのに、また聞いてくる。おかしいだろ?」
 額を押さえてから、大袈裟なまでに身振り手振り話すいずるの声はまだ平静だったが、彼の動揺が伝わってくる。振られたいずるの手が僅かに震えていた。
「そう、ですね」
 確かに、そんな面を見せられたら気付かないわけがない。
「でも、アイツが直接俺に言うまでは知らないことになってるから」
 一体何度説明したかわからない。
 時々思い出したようにその事を話題にして、話さなかったらしつこく食い下がってくる。毎回同じ勘違いをして。
 いい加減、気が狂いそうだった。
「でも、じゃあどうするんです。篠田は。ほっとくわけにもいかないでしょう。魚住にこれ以上接触したら彼も危ない」
「……先輩は、正紀を殺せない」
 やけに自信があるその口ぶりに遠也は眉を寄せる。
「何故ですか」
「あの人が、変わった理由だよ。弓の引き方が変わったのは4月の初め頃。それは丁度、例の戦争が終わった辺りの話だった」
「じゃあ」
 魚住の例の戦争に行ったのか。
 だから、薬も飲み、もしかしたら一連の事件も彼が。正紀は何かそこら辺の確証を得て動いているのかも知れない。
 けれど、いずるは軽く首を横に振る。
「先輩は行っていない。行ったのは……」
 不意にいずるは顔を上げ、道場の壁にかけてある名前を見る。そこには、部活動として活動はしていないけれど、この学校で弓道の段を持っている者の名前が並べられていた。学校で級位審査もやるので、段があがれば木で作られたその名前の書かれた板を移動することが出来る。
 遠也もそれに倣い、息を呑んだ。
 いずる、魚住の名に並んでいたその名前は
「伊原、優史……?」
 この間気にかかる名前として上げられていたその人物と糸が繋がった。
 けれど、一体これはどういうことだ。関わりがあることは解かったが、どこがどう繋がっているのかまだ解からなく、むしろ突然の事実に困惑する。
「無事、帰ってきたけど、その後にその時の怪我で死んでしまったらしい」
 いずるの情報は偽の情報だ。伊原は殺された。何者かに。これは自分でその死体の写真を確認しているから間違いない。
「多分それからだ、あの人が変わったの」
「伊原……さんと魚住先輩は仲が悪かったりとかは」
「いや。良かったよ。従兄弟だったらしくて。伊原先輩の方は学年一つ下だったけど」
 仲が良かったのであれば、殺人だなんて事にはならない……はずだ。恐らく彼は犯人では無い。
 けれど、気にかかるのは魚住が飲んでいる薬も、例の“H”だということ。
 もしや、どちらかが薬を飲み始め、仲のいい相手に勧めたのか?
 いや、こんな推理をしたところでどうしようもない。過去の推理より、未来の推理をしないことには。
 余計なことを考えるのは止めようと遠也は頭を軽く振る。その時だ。
「……伊原さんは、正紀に少し似てた」
 ポツリといずるが零した言葉に遠也は顔を上げる。いずるはまだ彼の名前を眺めていた。
「顔とか声とかそういうんじゃないんだけど、どっか正紀に似てた。ここに来る前も何度か大会であの2人を見かけたことがある」
 正紀と会う事が無かった中学1,2年の期間、あの2人を遠目で見ていた頃は羨ましいと思ったものだった。2人の幼馴染という関係がどこか自分と正紀と同じだったからか。もしかしたら、伊原が死んだこの数ヶ月、魚住もあの頃の自分と同じ気分だったのかも知れない。
 でも。
 不意に思い出したことにいずるは顔を上げた。伊原が例の戦争から帰ってからは、彼は弓を引くことも無くただこの道場でぼんやりと座っている姿をよく見かけた。そんな彼が心待ちにしていたのは
「橘が、伊原さんによく会いに来てた」
「橘が?」
 いずるの情報に遠也は目を細める。
「ああ。だから、俺は最初伊原さんが彼女のことを好きなんだと……」
 なのに魚住が。
 一体どういうことだったのか、といずるが呟くが、遠也は眉間を寄せてしばし考え込んでいた。これは調べてみた方がいいだろう。橘本人に聞いてもいいが、彼女はもうヨシワラへ返してしまった。人気者の彼女と会えるのは骨が折れることだろう。だが、その人気もどうやって作ったのか。
「……一つだけ聞かせてもらってもいいですか」
「何?」
「……篠田の事は、どうします?もし、生徒会に狙われたら」
 普通の選択肢なら警察に届けるか病院に行かせる、だろうが、今の状況ではこの二択じゃすまない。
 生徒会に届けたら、正紀がどんな扱いを受けるか解からない。もしかしたら、暗に始末されるかもしれない。いや、すでに彼の存在は生徒会に気付かれて、狙われているかもしれない。
「そんなの、聞くまでもないだろ、佐木」
 いずるは軽く笑い。ふいと的の方に眼をやった。
「アイツ連れて逃げるよ。全部、捨てて」
 いずるの“全部”がどれ程のものか、遠也は了承している。彼は、あの矢吹家のたった一人の御曹司だ。彼にはこの国で優位に生きる地位も名誉もある。だが、それさえも親友の為なら投げ出せると。
 正紀が聞いたら、どんな顔をしただろうか。
「でも、まだ少しの覚悟しか出来ていないんだ。だから、俺の覚悟が決まるまで、佐木の部屋にアイツしばらく泊めてやってくれないか。佐木のところなら安心だ」
「それはお断りします」
「えぇ?」
 今まで何を聞いていたのだろう、と思いたくなるくらいきっぱりとした返答にいずるは少々唖然としたけれど、すぐにいつもの笑顔を浮かべた。
「いいじゃないか、初めてアイツが自分の身の上を話した相手は君なんだ。それに、君だって正紀の事心配してるんじゃ」
「嫌です。他人に頼まないで自分でどうにかしてください。貴方の幼馴染ですよ?」
「自分でどうにか出来ないから頼んでいる」
 いずるはため息を吐いてから俯き、奥歯を噛み締めた。
「正紀が殺されるかも知れないんだ」
 悔しげなその言葉は、本人も言っていた。やはり、いずるは正紀の事をよく解かっている。
「……篠田の不安要素は貴方にあります。貴方じゃないとそれは取り除けないでしょうが。貴方のも、そうらしいですし」
「それは、まぁ……」
「薬のことは、俺が引き受けますが、正直、殺される云々は俺の手に余ります」
「だよ、なぁ……」
 下手をしたら無関係の遠也や同室の大志まで狙われかねない。遠也は頭は切れるが、運動面では正紀にもいずるにも劣る。正紀の護衛役は荷が重い。護衛役に選ぶとしたら、教官に一目置かれている甲賀克己と、武道の心得がある日向翔の2人が最適役だ。だが、あの甲賀克己が了承してくれるかどうか。
「それに……」
 遠也はこの話題を出すのを少々躊躇ったが、彼らのために言っておいた方が良いだろうと決意を固めた。
「SBSの事は、御存知ですよね。矢吹家の次期当主であれば」
「戦闘用強化人間の事だな」
「……では、“H”を常習するとそれに近い症状が出ることも御存知ですか」
 それを聞いてすぐにいずるの茶色い瞳が大きくなり、遠也を振り返る。その眼は驚愕と哀しみに揺れていたが、すぐに目蓋で視線を遮っていた。
「あぁ……」
 苦しげに吐き出す吐息のような返答に、遠也も眼を伏せる。
「一度、そういう状態になっている兄貴を、見た」
 少しの沈黙の後、いずるは口を開いた。それは遠也にとっては思いがけない情報で、思わず息を呑む。いずるがまさかそんな過去を持つとは思ってもみなかった。いや、正紀と幼馴染という時点で避けられないことだったのかも知れないが、それにしてはいずるは日々飄々としている。何事も無く今まで生活してきたような、そんな空気を放っていた。
「一度、そういう状態になっている兄貴に、……殺されかけた」
 そろりと首元を撫でたいずるが思い出すのは、本気で絞め殺されそうになったあの瞬間だった。痛みと苦しみに喘ぐ自分を、兄は歪んだ笑みで見下していた。そして、その後彼は……。
 その時の事を思い出し、思わず右腕を押さえていた。
「でも、正紀は大丈夫」
「矢吹……」
「俺は正紀が正紀である事を信じている。例え、アイツが自我を失っても正紀は正紀だ。俺の一番の親友であることは変わり無い。不味い事になったら、俺がどうにかする。佐木は何も心配しなくていいから」
「でも、矢吹」
 遠也にも解かっていた。いずるには何を言っても無駄で、自分は余計な事を言っているのだと。それでも、口を開かずにいられないこの気分は一体何なんだろうか。多少、後ろめたい気分もある。出来るなら犠牲は最小限に済ませたいとも思う。切捨てる事を教えられてから、自分は常にそうして来た。後悔もしていない。
「貴方は、“矢吹”なんですよ」
 ビッグネームであるそれを、“佐木”である自分は一応心に止めておかないといけない。けれど、いずるの方はその名前を出されて少しつまらなさそうに眼を細めた。
「さっき、言ったはずだ。全部捨てられるって。金も名誉も名声も地位も、勿論“矢吹”も。つーか。これいっそ全部捨てられた方が俺としては楽なんだけどな。そう、思わないか?“佐木”は」
 はっきりと言い切る彼の姿はどこか大人びていて、それが遠也には眩しく映る。自分はそうは思えない、思えるわけが無い。
「俺は、“佐木”でないと生きていけませんから」
 自分と違い、己の立場を受け入れている遠也の返事に、いずるは肩を竦めた。いずるの選択、遠也の選択、それぞれ違う道を選んでいるが、その険しさは大して違いがない。
「……そうか。じゃあ佐木には分からないな。命を捨ててでも守りたいっていうのは」
 軽い口調で言われた言葉に、胸に重石を乗せられたような息苦しさを覚えた。いまいち、この相手の心は理解出来ない。
「どうして、そこまで」
 遠也に問われ、いずるは笑う。
「正紀がいないと俺も生きていないし、生きていけないから」
 ……よく、わからない。
 難解な返答に遠也はそれを正直に表情に出した。それを見たいずるは「わからない?」と首を傾げ、遠也は頷く。そのどこか幼い仕草に、柔らかく微笑んでいた。天才はその天才故かたまに子どものような仕草を見せる。
「でも、信頼関係で貴方と篠田が結ばれているのは、解かります」
 遠也のはっきりとした声にいずるは少し驚いたように彼を見やる。そんな彼に、遠也は続けた。
「だから、もう少し……信じても良いのではないですか」
「なに、言ってる?」
「篠田を、もう少し信じても良いのではないでしょうか」
「何を言ってるんだ、佐木。俺は誰よりも」
「じゃあ、何をそんなに怯えているんですか。篠田も、貴方も」
 遠也の黒い瞳は真っ直ぐにいずるの眼を射抜いた。何かを見抜かれてしまったようで、無意識のうちに自分の胸を隠すようにいずるは片手を胸に当てていた。
「……話はそれだけです。失礼します」
 彼は丁寧に頭を下げて、いずるに背を向ける。
 ……何も知らないのに、どうして。
 途端、悔しさが込み上げてきて唇を噛み締めていた。その小さな背を殴りつけたい衝動に駆られたが、八つ当たりにしか過ぎない自分の激動を堪える。
 遠也が去った後で、いずるはがっくりと肩を落とした。
 正紀と、また話すのか。あの事を。話さないと、いけないのか。
 話すたびに信じられないという眼で自分を見る、あの顔が怖かった。
「……仕方ない」
 あまりこんな手は使いたくなかったけれど。
 鞄の中に入ったデジカメを手に、密かに心の中でこれから頼み事をする相手に謝った。
「矢吹、か?」
 その時弓道場に現れた人物にいずるは息を呑む。
「川辺教官……?」
 どうして彼がここに。
 と、思いそうになったが、彼がこの弓道場の管理者であることを思い出す。昨日遅くまでここで弓を引いていたいずるはこの道場の鍵を管理室に返さず、持って帰ってしまった。よくやることで、ついでに矢吹という名に大目に見て貰っていたが、流石に不味かっただろうか。
「すみません、鍵ですか」
 慌ててポケットからそれを取り出そうとしたところを手で制される。
「ああ、いい。好きに使ってくれて構わない。この道場をここまで使うのは君くらいだ。鍵の行方が解かっただけで充分だ」
「すみません」
 もう一度謝り、その鍵をいずるは再びポケットにしまう。
「ただし、ゴミだけは捨てておけよ。すぐ近くにゴミ捨て場あるだろうが」
 隅にあるゴミ箱からゴミが溢れているのを見咎めた川辺の視線を倣い、いずるもそこに目をやり水色の四角いゴミ箱からかさりとパンの包装が落ちる瞬間を見てしまい、低く呻いていた。
 自分以外にも使っている生徒がいるから気付けばゴミ箱がいっぱいになっているのだ。しかもゴミ捨て場がここから結構遠いところにあるので、誰も捨てに行こうとしない。結局ここに長い時間いるいずるが捨てに行く事になるのだ。
「近くになんてないですよ。校舎の方まで捨てに行かないといけないんですから」
 仕方なく落ちていたゴミを拾い集め、いずるはため息を吐く。道場は清潔にしておかないと気持ちが落ち着かない。だが、ここを利用するのは弓をやる人間だけではない。少し校舎から離れていて、科学科の敷地に近いここはサボり場として授業中はフル活用らしい。そういう人間が出したゴミを自分が片付けないといけないというのは少し癪だ。
「そうなのか?前までここのすぐ裏にあったのに」
 物珍しいものを見るようにゴミを片付けるいずるを眺める川辺の視線に苛立ちが募る。
「何ですか」
「え?ああ……いや、矢吹家のお坊ちゃんがそんな事をするなんてな、と」
 不躾な視線だったことを詫びるように彼は苦笑し、その砕けた空気にいずるは力任せに取り出したゴミ袋を縛る。ほこりっぽい臭いが一瞬鼻を掠めた。
「俺だって元々は平民身分だったんですよ」
 膨れた袋を軽く踏みつけ、中の空気を抜きなるべく小さくまとめる。それが何の効果をもたらすかは解からないが、今までやってきた通りの行動をした。その手馴れた動作に川辺は感心するような声を上げる。こんな簡単な作業でそんな声を上げられると癇に障る。思わずゴミを踏む足に力を入れ過ぎてしまい、バキと何かが壊れる音がした。
「おい、割り箸とか入ってたら怪我するぞ」
「大丈夫です」
 意外と優しい言葉をかけてくる川辺を目の端で捕らえ、素っ気無い答えを返す。よくあることなのだ、北に身を置いていてもいずるは矢吹家の人間。そんな彼に教師はあからさまな贔屓をしたり、こうして気持ちが悪くなる程の優しい言葉をかけてくることがある。彼もそういうつもりなのかと思うとどっと疲れが押し寄せてきた。
「変なところで怪我するなよ」
 そんな川辺の言葉を背に、いずるはゴミ袋片手に道場を出た。
 ちらりと裏の方を見れば、確かにそこに元々収集所があった跡があり、魚住とも前にそんな会話をした。お互いゴミ捨ての役割をこなしてきたので、軽い愚痴のような会話だった。魚住も自分の先輩と似たような話をしたと苦笑して。12年前まではここにゴミ捨て場があったという話もその時聞いた。
 12年前というのは昔過ぎて、嘆く気にもなれない。むしろそんな12年前の話が今でも語り継がれているというのが不思議だ。きっと、ゴミ捨て係の恨み節というやつなのだろう。
「……12年前じゃ」
 自分でそう呟いて、いずるは思考を止めた。
「12年前?」
 思わず振り返ったところには今自分が出てきた弓道場がある。
 12年前、といえば12年前だろう。指を折って12まで数えてみて、いずるは眉間を寄せた。
「12年前……だって?」




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