「二三、聞きたいことがあるんだけどな」
 早良はベッドに横たわる橘に声をかけたが、彼女は目を開けてはいるもののこちらを見ようとはしない。
 まぁ、良いけれど。
 パイプ椅子に座り、早良は彼女の白い顔をじっと見つめた。
「君は自殺をしようとしたのか」
「……覚えていないわ」
「では、君は例の薬をどこで手に入れた?」
「……薬?薬って、何の事?」
 その時初めて彼女は早良の方へと視線を向ける。一応、彼女の血液も調べてみたが、彼女からは微妙しか検出されなかった。恐らく、首を吊ってからあの香は焚かれたのだろう。そのおかげで彼女は中毒までには至っていない。
「わからないなら、良い」
 それだけ答え、早良はその病室を去った。
 しかし、不可解なのは何故彼女がここにいるのか、だ。彼女は確かに美人だけれど、条約を破ってまで造るほどの理由にはならない。何かがあるはずなのだ。有馬梨紅のクローンではなければいけなかった理由が。彼女のクローンを作ったところで、それが彼女だと気付くのは彼女の弟である日向翔くらい。衝撃を受けるのも彼くらい。
 目的は、まさか。
「早良」
 その時、遠也から声をかけられハッと顔を上げた。そうだ、今は彼に分析したものの説明をする時間だった。彼は聡いから、自分が何を考えていたのか易々と読んでしまいそうで怖い。
 慌てて早良はわざと欠伸をして見せた。
「この“H”は大分弱いものだな」
 早良の分析に遠也も成分が書かれたパソコン画面の中を覗き込んだ。遠也は正紀から彼が飲んでいた薬を預かり、その分析を早良に頼んでいた。
「当時ばら撒かれていたものよりはずっと弱い。誰かが手を加えて、そこら辺の適当なビタミン剤と混ぜたような薬だ」
「じゃあ、薬を完全に抜くことも可能ですか」
「……それは、どうかな……篠田君が薬を飲まなければこれ以上悪くはならないとだけは言える」
 早良の力のない声に遠也は眉を寄せる。正紀は、そんなに精神が弱い人間では無い。けど。
「相当、苦しいはずだよ」
 正紀の笑顔を思い出す。あの顔の裏にそんな苦しみの表情があると、誰が思うだろう。
「不足するビタミンも混ぜて、薬を出しておこう。でも、記憶も無くしてるんじゃないかな……それくらい長く飲んでるんだったら」
 近くにあったホワイトボードにさらさらっと調合薬を書き始めた早良の背を眺めながら、遠也は正紀の事を考える。彼の評価を、改めないといけない。
 ぱらりと書類をめくる遠也の背に、早良は思わず声をかけていた
「……気をつけろよ、遠也」
「はい?」
「んー……友達が出来るってのは良い事なんだけど、さ」
 少し言いにくそうに口篭る早良の様子に、遠也は眼を細めた。彼が何を言いたいのかすぐに解かった。
「この薬は危険だ」
「知っています」
「もし彼が大量にこの薬を飲んだら、エセSBSになるかも知れない」
「……そうですか」
 この学者はどうやら自分のことを心配してくれているらしい。恨めしそうな視線を背に感じながらも遠也はただ平坦な答えしか返さなかった。それに、早良は咎めるように眼を伏せる。
「篠田君には、近寄るな」
「無理です。クラスメイトですし」
「解かってる。言ってみただけ」
 あーあ、とつまらなさそうに声を上げ、早良は身伸びをする。遠也は自分が何を言ったところでそれを聞き入れるような可愛げのある性格じゃない。それは誰よりも自分が知っている。でも
「……身内の失態ですし」
 ボソッと低い声で言われたもう一つの理由は、予想していなかった。少し悔しげな色が混じっていたのは、佐木という名を背負う自身の立場への落胆と、師である早良の失態への嘆きだろう。
「……別に、いーんだぞ、遠也」
「何が、ですか」
「佐木の名前、気にしなくても。俺の事、篠田君に言っても」
 早良の優しげな眼に遠也は目を伏せる。
「一発二発殴られてもしょうがないとは思ってるよ。というか、殴り殺されてもしょうがない」
 手の中で黒のマッキーペンを弄りながら、早良は苦笑していた。たまに全てを諦めたような顔をする彼は嫌いだ。
「別に、貴方一人の責任ではないでしょう。造れと命令した人間がいて、他にも一緒に造っていた人間がいたはず」
「俺以外は皆死んだけど、な……ん?」
 その時、早良はある事を思い出し、口を手で覆う。そういえば、と思い出した事があった。彼もこの薬の作成に関わっていたが、途中で抜けた。他のプロジェクトに呼ばれたとか何とかで、薬は大体出来上がり後は実験だけという段階だったから、誰もそれを止めなかったのだが。
「他の分析は出来ていますか?」
 遠也のその問いで早良は思考を中断せざるを得なくなる。
 正紀から預かった髪の毛のことを告げ、遠也は眼を上げた。それに彼は一瞬不満げな顔をしたが、すぐにパソコンの横に重ねてあったファイルを引っ張り出し、なだれを起こさせていたが黙殺していた。流石に遠也もこんな時にそれを見咎める余裕も無く、無視しておいた。普段は小言を飛ばすのだが。
「ああ、髪の毛は」
 パタン、と早良はファイルを閉じてため息を吐く。
「間違いなく“H”を使ってるヤツのものだ」



 その日は何の前触れも無く訪れた。
「父さん?今日は早いな」
 中学入りたての正紀が授業を終えてさっさと帰ってきた時間帯に、父親がすでに家にいた。リビングのソファに座りコーヒーを飲んでいた彼は目を上げて「おう、帰ったか」と笑う。久々の父親の笑顔だった。ここのところ、仕事が忙しかったようで家に帰ってくるのも遅く、朝早くに出かけて行ってしまい、正紀との生活リズムと合わなかったのだ。
「どうだ、学校は元気に通えてるか?」
 父親のお決まりの質問に思わず笑ってしまいながらも、正紀は素直に頷いた。
「ああ。学校の奴らも良い奴だし……」
 けれど、そこで言葉を止め、少し淋しげな目を見せた息子の心情を恐らくこの父親は誰よりも理解していた。
 ずっと今まで一緒にいた親友が隣りにいない。この状況は、鷹紀も同様だった。いずるの父は正紀の父の親友で、もうずっと一緒にいたのだ。正紀といずるが共にいた時間よりずっと長い時間を。彼らが住んでいた隣の家はすでに空き家となっている。
「正紀、また会える」
 父はそう苦笑し、正紀もその言葉を信じる以外にどうしようもなかった。父がそういうのなら、また会えるような気もする。
「その時にいくらでも文句を言えばいい。喧嘩になったっていい。喧嘩するほど仲が良いんだからな」
 そう言いながら息子の黒髪をぐしゃぐしゃと撫でた。喧嘩するほど、とは正紀がいずると喧嘩をして帰るといつも言ってくれた言葉だ。
 でも、本当にそうなんだろうか。いずるの両親は喧嘩ばかりで、しまいには離婚してしまったのに。
 正紀の表情が少し暗くなったのを見て、鷹紀も眉間を寄せたが、すぐ軽く手を叩いてその空気を払拭する。
「そうだ、正紀。今度の休みに旅行に行くか」
 気晴らしに、と明るい声で言う父の思いがけない一言に正紀は目を丸くする。
「旅行?」
「ああ。母さんとも話してたんだ。次の休みにパーッと。な?お前の進学祝もかねて、さ」
「つーか、そんな金うちにあんのかよ」
 私立探偵なんて不安定な自営業を営んでいる父は常に忙しそうなのに、その多忙さに比例した暮らしは出来ていない。母は常に赤字と睨めっこだ。
「あるある。親父の言葉信じらんねぇのかぁ?」
 疑わしい目で見ても、彼はニヤニヤと笑い「任せろ」と一言。そう言われるとなんとかなりそうな気分になるから不思議だ。
 そして、彼はやはりその日の仕事がまだ終わっていなかったらしく、夕食が終わったら外出した。夜中には帰ると母に言っているのを聞きながら、正紀はその日のニュースを眺めていた。不意に硝子テーブルに目をやると、分厚い手帳が残されている。黒いカバーもボロボロで、大分使い込まれているそれは父親の手帳だ。
 正紀、お前だけには見せてやるからな。俺の命と家族の次に大切な手帳だ。
 そう言って見せて貰ったのは、自分だけだ。そんな物が家族みんなの目に晒されるリビングに放りだされていたことに違和感を覚えた。
「あ。父さん手帳忘れてったんだけど」
「え?珍しいわね」
 あの父親が肌身離さず持っている手帳を忘れるなんて珍しい。共にテレビを見ていた姉も瞬きをする。
 ちらりと時計を見れば、父が出てすでに30分。すでに仕事場の事務所に到着している時間だろうが、これがないと大変なんだ、と苦笑していた父の顔を思い出し立ち上がった。
「俺、コレ届けてくるわ」
 姉にそう告げ、正紀はさっさとその手帳を自分の通学用の鞄に突っ込んで家を飛び出した。こういうことは珍しくない。手帳を忘れたのは初めてだったが、他の書類を忘れて時、よく正紀が事務所まで届けに行った。だから、今日も同じだとそう思いながら慣れた道を走る。
 梅雨が近い季節、少し湿っぽい空気の中を走って事務所についたが、電気がついていない。さてはどこかに寄り道しているな、とコンビニや本屋に行ってみたが、父の姿は見つけられなかった。また事務所に行っても、やはり電気はついていない。
 仕方ないので家に帰ろうと帰り道を歩いて、パトカーのサイレンの音が街に響いている事にようやく気付く。
 けれど、その時は大して気にせず家に帰ってきたら、姉の怒ったような声に迎えられた。
「ちょっとどこほっつき歩いてたのよ!」
「は?なんだよ、何そんなに怒ってんだよ」
 自分はちゃんとどこに行くか彼女には言ったはず。怒られる筋合いはない。不機嫌を露わに彼女の顔を見上げ、息を呑む。勝気な彼女の目からは涙が流れ落ちていた。
 茫然とした自分に、彼女はくしゃりと表情を歪めて
「父さん、死んじゃったんだよ」
一瞬彼女が何を言っているのかわからなかった。
 しゃくり上げる彼女の話だと、通り魔に殺されたのだと。けれど俄かには信じられないことだった。正紀は誰よりも自分の父が強い事を知っている。通り魔ごときが倒せる人間ではないのだ。通り魔ごときに負ける彼じゃない。それに、ついさっきまで共に夕食を食べていた。次の休みには旅行に行こうと言っていたのだ。
「……なんかの、間違いだろ?」
 乾いた声でそう言うが、姉はただ無言で首を横に振る。それ以上は嗚咽が邪魔して何も言えないようだった。
 血が下がり、背筋が震えた。
「……っ母さん!母さん!」
 姉では説明不足だと判断し、家にいるはずの母を呼んだが、姉は再び首を振る。
「母さんは、警察に呼ばれて遺体確認しに行った……」
「何で姉ちゃんは行かなかったんだ」
 もしや、自分が家にいなかったからか、と思ったが、彼女は自分の頭を抱え、強く閉じた目から大粒の涙が次々と落ちた。
「……誰か、わかんないくらい、刺されてるから……っみないほ、が、良いって……!」
 恐怖と絶望に打ち震える姉の必死に言い切った台詞に正紀はすぐに家を飛び出した。
 何度も足がもつれそうになったが、ただ前だけを見て走った。あのパトカーのサイレンは父の、だったのだ。外に出ればまた聞こえてくるあのサイレン。
 全身の力を抜いたら絶叫してしまいそうだ。こんなに無我夢中に走ったのは初めてで、段々どこを走っているのか解からなくなった。
 解からない。
 解からない。
 つかみどころのない夢の中をもがいているような気分だ。
 闇の中でサイレンだけが鳴り響いていた。


 そして気が付いたら、父の葬儀の日だった。
 あの日の慌しさは無く、次々と訪れる喪服を着た人が自分と姉、母に頭を下げ、たまに目頭を押さえる。あの日ひっきりなしに鳴っていたサイレンは、平坦な念仏とそれに合わせた木魚を叩く音に早変わりしていた。
 あの後、病院に行って母親に止められても見た父の遺体は無残としか言えないものだった。不覚にも正紀はその瞬間卒倒してしまい、気付いたら自分の家の自分の部屋に寝かされていた。
 そして、冷静になって考えたことは一つ。どうして、顔で判別出来ないほどの遺体で、篠田鷹紀だと判明したのか。その問いに取り調べに来た刑事は「彼の荷物の中に手帳があった」と答えた。その手帳に、何枚も入っていた父の名前入りの名刺と免許証で解かった、と。
 それを聞いて正紀は声を上げそうだったが、それを飲み込み納得した演技を見せた。警察はその手帳を犯人捜しに役立てる為、と持って行ってしまった。事務所や家にあった父の捜査資料も全て。まるでテレビでたまに見る家宅捜索の押収品のようにダンボールに詰めて持っていく警察の姿を、母も怪訝な目で見ていた。だが、彼らに逆らう事は出来ない。だが、これではまるで父が犯人扱いではないか。
 他に何かないか、と聞かれたが正紀は「無い」と首を横に振り、母も同じ動作をした。
正紀の手には本物の父の手帳が残された。あの時は突然来たように思ったが、父はきっと薄々何かを感じ取っていたのだろう。だから、わざと手帳を置いていった。
そして、あの旅行の話はどうやらもう二度とここに帰って来ないつもりの旅行だったらしい。そう、手帳に走り書きしていた。てっきり国内旅行だと思ったのに、彼が計画していたのは外国行き。色んな国の名を挙げ、斜線を引いていた跡から、あんな軽い口調で言っていたのに実は大分入念に計画していたものだったようだ。
 父さん。
 父さん。
 貴方の敵は、一体何だったんですか。
 貴方は、何故死なないといけなかったんですか。
 奥歯を噛み締め涙を堪え見上げた遺影の彼は、ただ明るく微笑むだけでそれが無性に虚しかった。
「この度は」
 またお決まりの言葉を口にし、何人かのスーツを着た男を従えて来た老人が頭を下げる。キチンと喪服を着こなした姿は庶民とは違う何かがあり、正紀は彼を目にした瞬間眉間を寄せていた。
 母も彼が誰だか解からないようで困惑したようだった。それを察した相手は一文字に引き結ばれていた口をゆっくりと開く。
「私は矢吹雄弦。久川いずるの祖父です」


「……夢、だった」
正紀は目を開けて天井を眺め、ため息を吐く。
こういう夢は何度か見た。父の元へ急いでも彼のところにはけしてたどり着けない。そんな夢だ。
彼の死で大きく自分の人生は歪められてしまったような気がする。
 そして、あの父の葬儀の日。いずるの祖父がやってきた日。
 てっきり本人が来てくれることを期待していた正紀は思わぬ人物の訪問に唖然としてしまった。だが、何か用事があって、それで代わりに彼が来たのかと思ったのだ。
 思ったのだが、違った。
 彼は簡潔にお悔やみを言ってすぐにスーツケースを取り出し、中身を母の前に晒した。中身は意外性も無しに現金だった。
女手一つでは2人の子どもを育てるのは大変だろう、援助をしてやるから、お宅の息子さんをうちの跡継ぎに二度と近寄らせないで欲しい。そう言って。
 母は突っぱねたが、正紀が了承した。何にせよ本当に金は入用だった。この事を、恐らくいずるは知らない。
 こんな夢を見た後で再び眠ろうとする気にはなれず、正紀は身を起こした。ここは魚住の部屋だ。まだ自分の部屋には戻れず、彼の好意に甘えてまた泊まらせて貰っていた。
 二つあるうちの一つの部屋にあるソファの上で寝させてもらっていたが、シャワールームの方から水音が聞こえる。こんな夜中にシャワーを浴びているのだろうか。ちらりと目を時計に向ければ、夜中の2時だ。
 音をなるべく立てないようにして起き上がり、そのシャワールームへと近づいた。部屋は暗いが、そのドアの向こうからわずかに光が漏れている。半開きになっているそこから聞こえる水音は、シャワーではなく恐らく洗面台の蛇口からあふれるものだ。
 人の気配がするのを確認して、そっとドアノブに手をかけ、一気に引っ張った。
「先輩、こんな時間にシャワーっすか?」
 何も知らない振りをしてなるべく軽い声を出した。ハッとした魚住が振り返る。ここまでは予想通りだった。
 オレンジ色のライトに照らされた彼の白いシャツと手が赤く染まっている事以外は。
 それが血だと認識したのは、正紀の鼻にその匂いが触れた時だった。
 魚住が動作を止めたのはほんの一瞬で、すぐに正紀から目を離し、血に濡れた手を水で洗い流す作業を再開する。手馴れた手付きを見ながら、正紀は眉間を一瞬だけ寄せた。
「……誰か、殺して来たような姿ですね」
 心臓が重く鳴るのを感じながらも正紀は平静な声を出す。だが、魚住は何も言い返さない。まるで半分眠っているようなぼんやりとした目だ。生気のない眼。その目を、正紀は知っていた。
 あの頃、よく見たあの目。
 彼は、あの薬を使っているのだ。
 その事実を真正面から突きつけられた瞬間、背筋に悪寒が走った。
「――し」
 彼はぽつりと誰かの名前を呟き、眉を哀しげに下げる。
「もう、許してくれ」
「……え」
 そう呟き、倒れこんできた魚住を正紀は慌てて支えた。自分より僅かに高い身長の男を支えるのは少し辛いものがあったが、鼻腔をくすぐる例の香りにそれどころではなかった。懐かしいあの匂いに腹部から熱い怒りがせり上がってくる。
 その時だ。
「ぐ……」
 耳元で低い獣のような声が響いたと思った瞬間、首元を掴まれ、壁に叩きつけられた。
「な……っ!」
 突然の事に油断してしまった自分の甘さに眉間を寄せたが、もう遅かった。片手で掴みあげられた首を締め上げられ、少し下にある魚住の目には流行り生気はない。こうなってしまった相手には生身では敵わない事を正紀はよく知っていた。
「先輩……!あんたっ!」
 魚住を睨みつけようとして、奇妙な感覚に陥る。前にも似たようなことがあったような、そんな既視感に頭が揺れた。酸素が行き届いていないからかもしれないが、その戸惑いが正紀の判断を遅らせ、更なる魚住の攻撃を許してしまう。あまりの息苦しさに目の前が霞んだ。
 こんなところでみすみす死ぬわけにはいかないのに。
 ギリギリと骨が軋む音が耳元で響き、正紀は奥歯を噛み締めた。
 あいつ、俺が死んだら泣くかな。
 不意に思い出したのはいずるのことだった。彼は自分が死んだら泣くだろうか。そんな馬鹿みたいな疑問にすぐ答えが浮かぶ。答えは、YESだ。
 今でこそあんな可愛げのない人間になってしまったが、元々いずるは自分より泣き虫だった。それが、ある時期から泣かなくなってしまい……ああ、そうだ、彼の両親の仲が悪くなり始めた頃だ。
 泣かなくなったのではない、泣けなくなったのだ。自分もそうだった。
 この学校で再会した時、心の底から嬉しげに笑ったいずるの顔が脳裏に浮かぶ。泣かせるわけにはいかないだろう、あんな風に笑う大切な人間を。
 残った気力全てを強く握った拳に込め、横にあった鏡に叩きつけた。激しい音と共に硝子にヒビが入り、破片が落ちる。その破片を手探りで剥がしていると、音に驚いた相手の手の力が弛むのが分かった。
 今だ。
 足りなかった酸素を思い切り吸い込み、咽る前に相手の体を突き飛ばそうとした。が、突き飛ばす前に相手の体ががくりと折れ、その場に膝を付く。
「……大丈夫か」
「へ?」
 思いがけない展開に瞬きをくり返す正紀の前に立っていたのは、見慣れているといえば見慣れているけれど、見慣れていないといえば見慣れていない相手の顔だった。
「川辺、教官……?」
「殿をつけろ、殿を」
 呆れたように言われた言葉に正紀は身を竦めたが、相手はそれほど気にしていないようで倒れた魚住の体を持ち上げ、隣りの部屋のソファへと運んでいた。正紀は彼の行動をただ茫然と見ていることしか出来ない。
 けれど、ただ黙っていても仕方ない。
「……川辺教官殿」
「やっぱり殿は良い。うざったいな、ソレ」
 どっちだよ。
 心の中で舌打ちをしてから正紀は少々乱暴な声で「川辺教官!」と呼びなおした。だが
「篠田、お前もいい加減その手の物捨てたらどうだ?」
 川辺の指摘に出鼻を挫かれつつ、指された自分の手を見て思わず呻いてしまう。さっき鏡を叩き割り、破片を掴んでいた手は血まみれで、慌てて手を開くと思わぬ鋭い痛みに声を上げてしまった。
「いってぇ!」
「ああー……馬鹿だな。力いっぱい握って……指無くしたらどうするんだ?」
 ポタポタと血が滴り落ち始めたその手を取り、様子を眺めて川辺は傷の深さに眉間を寄せていた。確かに傷は痛むが、それより気になる事がある。
「……何で川辺教官、こんなところにいるんですか」
 手当てまで始めてくれた彼に恐る恐る聞いてみれば、彼は正紀から視線を外し、少し何かを考えるように目を上げた。そして
「魚住に頼まれていた。しばらく自分を監視して、何かあった時はそれ相応の対処を頼む、と。そしたら何かが割れる音がしたからな」
「……先輩に?教官は先輩とどういう関係なんですか?」
 不意に思い出したのは、魚住の体に残されていたキスマークだった。だが、川辺は肩を竦め、目を伏せる。
「どういう関係でも無い。少なくとも、君が思っているような関係じゃない」
「でも、教官の噂は色々聞いていますけど」
「俺が色んな生徒と関係持ってるってか」
「はい」
「冗談。残念ながら、俺はもう心に決めた相手がいるし、お前らと同じくらいの子どもだっている。しかも2人」
「はぁ!?」
 目の前に突き出された2本指に思わず川辺の顔を見上げてしまったが、そんな反応に彼は不満気に眉を寄せた。
「俺にガキがいたら不満か?」
「い、いや……別に」
 滅相もございません、と首を横に振るが、まさか川辺の年齢で自分たちと同じ年齢の子どもがいるとは思いも寄らなかった。確か30代後半だったよな……と情報源の解からない噂を思い出し、ついでに川辺の顔を見たが、若い。
「でも川辺教官って独身ですよね?」
「お前ら、そういう無駄な情報どっから集めてくるんだ……独身だよ。奥さんに逃げられたからな」
 生徒の情報網に呆れつつ、川辺は仕方ないといった感じで暴露した。
「他のヤツに言うなよ?こういうの、知られるとうるさいから」
 確かに、川辺には悪い噂もついているがそういうところが良いという女子もいる。何がいいのか正紀にはさっぱり解からないが、彼はそれなりに一部生徒に人気もあるのだ。
「……有難うございました、助けてくれて」
「少し遅いぞ、その言葉」
 川辺は苦笑し、正紀の額を軽く小突いた。訓練中からは想像出来ない柔らかい空気に正紀は少々戸惑いを感じる。
 何だか前にも感じた事があるような、そんな空気だ。
「さぁ、何で魚住の部屋にいたのかは知らんが、早く自室に戻れ」
 彼はしっしっと犬を追い払うように手を振るが、最後の一言に正紀は視線を下げた。
「……いや、俺は」
「矢吹と喧嘩でもしたか」
 鋭い川辺の言葉に言葉を詰まらせるしかない。そんな正紀の気まずい態度に川辺は笑う。
「お前ら、仲良いなぁ」
 微笑ましいものを見るようなその態度に、少し正紀は眉間を寄せた。子ども扱いをされたような気分だ。実際、彼よりは子どもなんだろうけれど。
「喧嘩してるのにですか?」
「喧嘩するほど仲が良い。違うか?」
 その声に正紀は目を見開いた。
 川辺は黙り込んだ彼の反応を、的を射た事を自分が言ったのだと判断し、口元を歪めていた。
「しょうがない。手の怪我もあるしな……今夜は俺の部屋に泊めてやる」
「……へ!?きょ、教官のでございますか!?」
「何だ、その唐突な敬語。今日だけだ。後は矢吹と仲直りしろ。それが条件だ」
 そう言って川辺は先に部屋から出て行った。そんな彼の背に正紀は困惑するしかない。訓練中厳しい面しか見ていなかった彼の唐突な優しさ。これは、何か裏があるのか、それともこれが川辺という男の本質なのか。
 噂は色々と耳にしている。男女共に節操がないとか、一番気になるのは薬を密売しているとか。節操がない云々は多分自分は大丈夫だ。ここまで育った男を抱きたいと思う人間がいる……かもしれないが、川辺の趣向は翔や遠也のような小さい少年だと聞いている。
 しかし、薬云々は調べてみる価値はある。
 でも、一つ気になるのは、さっきの彼の一言と、声。どこかで聞いたような声だった。そして、「喧嘩するほど仲が良い」という言葉。
 他人に言ったら笑われそうだったから誰にも言った事が無いが、正紀はどうしてもあの父の死が信じられなかった。今でもそうだ。父は、正紀が知る男性の中で最も強く聡明な人物だった。
 そんな彼が、そう簡単にただの暴漢に殺されるわけがない。殺したところで死ななそうなタイプの人間だった。
 それでいて、死体は誰だか判別出来ないほどの怪我を負わされていた。
 だから、もしかしたら父はどこで生きているのではないかと心のどこかで信じていた、ずっと。
 誰かに狙われているから、彼はどこかに身を隠したのではないか。そうずっと思ってきた。
 まさか、と思うが。
 でも、もしかしたら。
「篠田?どうかしたか」
 なかなか動かない正紀に川辺が声をかけてきた。その顔は自分の父のものとは全く違う。だが、父は元詐欺師だった母に教わり変装術も会得していた。
「……いや、何でもないです」
 正紀は首を横に振ってから、前を向きなおした川辺の背を見つめた。
 もしかしたら。

 まさかとは思うけれど。







「これ……」
 それから数日後の新聞に載ったのは例の事件の記事。
 しばらくクラスメイトの部屋を転々としていた正紀は、友人の部屋でその新聞の内容に眼を見開く。
 新たな犠牲者を機械的に報告するその記事の端に申し訳程度に載せられた一枚の写真。その写真は脱帽・笑顔なしを条件とされた覚えのある形式のもので、そしてその顔は。
「くそ……ッ!」
 思わず、その新聞を握りつぶしていた。

「え、これ……」
 今回は死体を見ることは無かったものの、翔も自室でその新聞記事の写真に眼を見開いていた。
 克己も後ろから覗き込んできて、またかと言いたげなため息をついていたが、翔にはそれだけで済ませられるような内容ではなかった。
 この顔には見覚えがある。
 今思えば、彼がこの事件に関わっていると考えていれば自分は彼をこの事件の犯人だと思っていたかもしれない。けれど、その彼は今被害者として掲載されている。
 
 被害者の名前は永井恵介。目元のほくろが印象的な、それなりに容姿も整った2年生。

 正紀はぐしゃぐしゃになった新聞を開き、ぐっと奥歯を噛み締めた。
「魚住の部屋で会ったヤツじゃねぇか……!」
 翔は、瞬きをしながらずっと食い入るようにその写真を見つめ、自分の記憶をなぞる。
「川辺のとこで会った人……だ」
 まったく別な場所での台詞で、二人はお互いの言葉を聞くことは無かったが、この記事でこれからの動き方を決意したのはほぼ同時刻のことだった。





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