「俺はコレ片付けてくるから、先に風呂入って寝てろ」
 寮で翔を下すと、克己はバイクを返却してくるとそのまま走り去ってしまった。それを見送り、寮のエントランスホールに来ると、見覚えのある顔が二つ。
「日向!」
「え、遠也、と篠田……?」
 遠也の少し焦ったような表情に足を止めれば、彼らがこっちに小走りでやってきた。
「どうし」
「どこに行っていたんですか!?」
 腕を掴まれ、必死な表情で詰め寄ってきた遠也に翔は一瞬言葉を失った。一体何があったというのだろう。後ろにいる正紀に戸惑いの視線をやれば、彼もどこか心配げな眼だ。
「えと、克己んところに……射撃場」
 克己の名を聞いて遠也は少し驚いたように目を大きくする。
「甲賀?甲賀はどうしたんです」
 きょろりと周りを見回しても彼の姿を見つけられず、遠也は怪訝そうに眉間を寄せた。
「バイクで行ったから、バイク返しに行ったけど……」
 どうかしたのか。
 首を傾げる翔に遠也は安堵の息を吐く。
「何でもありません……」
「あ……てか、二人の方が大丈夫か?何か俺、変な人にあったんだけど」
 松長と名乗った保健委員のことを思い出し、翔は二人の顔を見た。
「変な人?」
「保健委員だ。何か、篠田がちょっと狙われてる……みたいなんだけど、何でだ?」
 保健委員という存在に遠也と正紀は目を見開く。その反応の意味が解からず、翔は瞬きをしたが、先に遠也が動いた。
「大丈夫です。何かの間違いだと思います」
 きっぱりと言い切った遠也の言葉を翔はあっさりと信用し、後ろで聞いていた正紀もその言葉を信じそうになった。それならどれだけいいだろう。
 部屋へと帰っていく翔を見送り、遠也はため息を吐いた。
「橘のところには行ってないようだ」
 そんな彼に正紀は声を掛ける。あの後、早良からメールが来ているのに遠也が気付き、その内容は橘が目を覚まし、3日後にはヨシワラに戻すというものだった。
「日向のねーちゃんのクローンなんだ、あの人」
 だからこそ、あんなに一生懸命だったのかと正紀は遠也から聞いてようやく納得した。解からないでもない。自分にも姉がいるから。
「だったら、早く教えてやればいいのに。橘が目を覚ましたこと」
「……そう、ですけど」
 遠也は目を伏せ、沈黙した。
 橘が起きたと聞いて翔の部屋へ行ってみたが、誰もいなかった。それに遠也が焦燥の表情になったのを正紀は怪訝な目で見る。
「……日向、あの事件の息子なんだろ」
 比較的住む地域が近かった正紀の記憶にも残っていた。報道されていた時の名字とは違ったからすぐ気付かなかったが、噂は広まるものだ。しかも、正紀はそういう噂がよく耳に届くところにいた。あの事件が起きた当時、まだ生きていた父もこの事件に目をやっていたから、という理由もあり鮮明に覚えている。
 どこからともなく聞こえてきた、五中の日向が例の事件の生き残りだという噂も。
 正紀の鋭い指摘に遠也は眉を上げた。
「どうして、それを」
「俺一応隣町在住ですよー。すっげぇ話題になった事件だったし、覚えてるさ。意外だったけど。日向、明るいし」
 普段人当たりが良く、いつも笑っている印象がある友人の思いがけない過去に正紀も違う人物ではないかと思っていた。けれど、やはり彼が例の事件の関係者。
「……明るく、見えますか」
 正紀の明るいという言葉に遠也は眉を下げた。確かに、初めて翔と出会った頃よりはマシに見える。だが、3年という月日だけでは、彼の傷を癒すのには短すぎた。一生かかって癒さないといけない傷なのに。
 ここに来なければ彼は何も知らず、平穏な日常を過ごしていただろうに。それが悔やまれてならない。よりによって、姉のクローンなんているところにだ。
 この先、彼女に何かあった時に、翔が自分の身を盾にして彼女を守る姿が容易に想像出来てしまう。そんな状況になるのは避けなければいけない。
 下手をすれば、翔が死んでしまう。それだけは。
 クローンを庇って人間が死ぬなんて、あってはならないことだ。
「篠田は、嬉しいですか」
 抑揚のない静かな問いかけに、正紀は瞬きをした。
「何が?」
「篠田は、死んだ父親のクローンが今目の前に現れたら、嬉しいですか」
 正紀を見上げる遠也の眼はどことなく虚ろだ。光のないその眼に正紀は眉間を寄せたが、その問いの内容にも目を細める。そんなことはあってはいけないことだ。そのクローンは姿形は父でも、父ではない。
 けれど、今もしあの父と同じ顔で同じ声を持って自分に笑いかけたら。
 困惑する正紀の心情を読んだのか、遠也が小さく笑う。
「そう思うのが普通ですよ。日向も、分かっているはずです。分かってはいるんでしょうが……」
 それでも彼は彼女のために命さえ投げ出せる。
 本当は、あの時橘を助けたくはなかった。助ければ翔がまた彼女のために奔走するは目になるのは分かりきっていた。その所為で、もしかしたら彼自身の命も危うくなるかもしれないということも。
 けれど、あのまま死なせても翔を傷つけた。彼女と同じ顔、同じ声、同じ体、そして同じ死に方。あのままにしておけるわけがなかった。
「でも彼女の部屋から、あの薬が見つかっています。このままだと……だから、橘のこと、日向には」
「いわねーよ。薬があったからって橘が使ってたとは限らない。んでも、あそこは薬の流通がここより緩い。窓口になってる可能性はあるな」
「篠田、でも」
 保健委員という委員会の存在が出て来てしまい、遠也は困惑していた。保健委員の仕事は主に学校内の薬物の流通の管理、監視、そして使用を禁止された薬物を使う人間を探る機関であると聞いている。勿論、例の薬も使用禁止薬品の一つだ。その薬を飲んでいた正紀もいつ彼らに目を付けられるか解からない。
 いや、もう目を付けられているのではないか。翔の話によると。
「そんな顔すんなよ、天才。らしくねーな」
 沈んだ表情になった遠也に正紀は笑って彼の黒い髪を撫でた。
「俺の心配なんてすんな。俺は大丈夫」
「ですが……」
「俺はそう簡単にはやられねぇ。まだ死なねぇし、死ねねぇよ」
 にへらっと笑う正紀の表情に遠也は少し居心地の悪い気分になる。彼がこうして苦しむ羽目になったのは早良の事も有るが、大きく見て自分の家も関わりがある。そんな自分を、彼は受け入れてくれているのだ。その懐の大きさには今更ながら感服する。
 けれど、まだ早良のことは彼に言えずにいた。彼が早良の存在を知ったらどう行動するか、不安だった。まさか、殺しまではしないだろうが……。
「でも、佐木にまさか自分の秘密喋っちまうなんてなぁ……最初は絶対仲良くなれないと思ったのに」
 遠也が不安を抱きながら正紀と話をしていたことなんて彼は知らず、人の良いことを言い始めた。
 彼らが初めてお互い苦手な相手だと認識したのは、入学したその日だった。佐木と篠田で出席番号が近かったのもあり、身長が低い彼が妙に目立って見えたのもあり、何となく正紀から声をかければ冷たい返答を貰った。遠也の方もどことなく馴れ馴れしい態度だった正紀が苦手なタイプだとその時認識していた。そしてその認識はまだ変わらない。
「まだ別に仲良くなってないでしょうが……」
「うわぁ。佐木くんってば酷いなー。そりゃ、俺は日向ほど可愛げのある人間じゃないけど」
「何でそこで日向が出てくるんですか」
「え?お前、日向のこと好きなんじゃねぇの?」
 あの天才佐木遠也が過保護なまでに構う相手といえば、日向翔しかいない。その構い方も友情を脱しているというか、なんというか。
 そういう感覚に鈍い方ではないと自分では思っているが、遠也のほうは少し目を大きくしてから目を伏せた。そんな事を言われるなんて意外だ、とでも言うように。
「残念ながら、俺と日向の間にはそんな感情ありませんよ……日向は」
 そこで遠也は目を伏せ、小さく息を吐いた。
「日向は、俺の秘密を知ってくれた人で、俺が知るなかで一番綺麗な人間だから」
 綺麗なものを見ると、守りたいと思う人間と穢したいと思う人間の2パターンに分かれる。遠也はその前者のタイプだった。自分の欲望に忠実な人間しか幼い頃に見てこなかった所為か、自分より姉を守ろうとしている翔の行動は始め理解出来なかったが、そういう人間もいるのか、と感心させられた。
 前にそう翔本人に言うと彼は少し哀しげに笑い、彼女を守るのは結局は自分の為だと言っていたけれど。
 それでも、翔は遠也が築いてきた人間像には当てはまらない。彼のおかげで少し人間という生き物に希望が持てたのだ。
 だから、彼に今まで自分が背負ってきたものを告げた。そんな彼が、自分の秘密を知ったらどんな反応を見せるのか、興味があった。自分から離れていくことも考慮していたが、彼はそうか、とだけ言った。
 初めて、受け止めて貰えた。
「……なんか、変なこと言って悪かったな」
 正紀の少し困惑したような顔に遠也は首を横に振る。別に気にはしていない。
 その時、扉が開いた音に遠也は視線を横に流し、止める。それに正紀もそこを振り返り、「あ」と声を上げた。
「甲賀」
 翔と途中で別れたという克己が帰ってきたのだ。彼もこっちに気付き、疲れたようなため息を吐く。ただ単に遠出に疲れたと解釈も出来るが、厄介な相手に見つかったというような態度に見えてならない。
「日向は先に部屋に帰ったぞ」
 そんな彼に正紀は彼の同室者の行方を一応伝え、遠也はただ克己をじっと見つめていた。
「……そうか」
 遠也の視線に気付いているだろうに、大して気にする風も無く彼は二人の横を通り過ぎろうとして、突然足を止める。
「悪い、佐木」
 振り返った克己はそれだけ良い、エレベーターホールの方へと向かう。正紀には何の事か解からず、名を呼ばれた遠也の方へと視線を落とせば、彼は硬直していた。
「佐木?」
「……自覚しやがった」
「へ?」
 敬語がするりと抜けた遠也の言葉に目を丸くした正紀の不思議そうな声など遠也の耳には入らない。
 ただ茫然と克己の背を睨み、何も知らない翔の夜に不安を覚える。さり気無く部屋替えを勧めてみようかと、策を練ることしか遠也には出来なかった。



 暗い部屋に電気を点け、翔はタオルだけ持ちすぐにシャワー室に向かった。克己が帰ってきたらすぐにシャワー室を明け渡せるように、手早く済ませてベッドに腰掛けた。
 今日は色々な事があったからか、ベッドの柔らかさを感じた瞬間眠気が押し寄せてくる。
 色々あった中で思い出すのは、矢張り克己の事。
 どんな人だったのだろう、彼が好きになる人というのは。
 そして多分、今も散々告白されていてNOとしか言わないのはいまだにその人の事が好きだから。
 好き、か。
 よく耳にするその単語の意味は自分にはよく解からなかった。沢村の事は言えない、と思わず苦笑してしまう。友人としての好意は理解出来るが、恋人に対する好きというのはいまいちどういう感覚なのか解からない。
 どんな感じなのだろう、人を好きになるというのは。
 自分が知らない事を知るルームメイトのベッドを眺めながら、ぼんやり思う。アレだ、きっと大志曰く運命の相手という奴だ。
 姉も、あの時そんな相手を見つけていたのだろうか。
 今から思えば、姉がその恋人を作ってから、彼女はとても明るく笑うようになった。父に殴られた夜も、その相手とメールを交わして穏やかな表情に戻っていった様を見たことがある。彼女にとって心の支え、というものだったのかもしれない。少なくとも、あの頃彼女は幸せを掴みかけていた。
 なのに。
 宙で揺れる白い足と何も映さない虚ろな彼女の瞳を見上げたあの日の光景が脳裡を過ぎり、思わず両手で顔面を覆っていた。
 どうして、あの日彼女は死なないといけなかったのだろうか。
 どうして、あの日彼女の代わりになれなかったのだろう、自分は。
 唯一生かされている自分は彼女のように誰かに恋することも誰かに心を許す事もなく、過ごしている。
 いつか、そんな相手が自分の前にも現れるのだろうか。想像が出来なかった。何度かその恋というものを知ろうと一般的な恋愛小説、漫画と呼ばれるものに目を通してみたが、よく解からなかった。遠也に言えば、「俺も理解出来ません」と返され、そこで終わった。たまに、恋愛が性欲に直結した話もあり、それを見た瞬間、この手の本を見るのは止めてそれきりだ。
 夢の世界に落ちかけた時、誰かが自分の頭を優しく撫でるような感触がして、もしそんな相手がいるのなら、こんな優しい体温を持つ人がいいと思った。

 けれど、姉が得られなかった幸せを自分が得ることは無い。

「翔は、好きな子とかいないの?」
 姉は高校、自分は小学校へと向かう道で、突然姉がそんなことを聞いてきたから驚いた。だが、姉の方はどこか楽しげな表情で。彼女はすでに思春期に入っていたから、学校でもそういった話題で盛り上がっていたのだ。翔の早熟な同級生、とくに女子がそういった話題ではしゃいでいたのを思い出し、翔は少し考える様子を見せてから、顔を上げた。
「みんな好き!」
 良い笑顔で答えた弟の言葉に、姉は苦笑する。
「そういう意味じゃないんだけどなー……翔にはまだ早かったか」
「早い?」
 茶色い大きな翔の目が不思議そうに動いたのに、彼女は頷く。
「うん。特別な好きって意味だったんだけど、やっぱわかんないよね」
「特別って?」
「うーんと……この人と一緒にいるとすっごく幸せって思える人、かなぁ」
 姉が少し前から誰かとメールをしているところを見ていた翔は、ああ、と彼女が言いたい事を察した。何度か彼女がはしゃいでその人の話をしてきたことがある。
「ああ、あのメールの人?」
 だから、意識的に彼のことを口にした。この間、彼女についつい言ってはいけないことを口にしてしまったという負い目もあったから。その人のところへ行きたいと言った彼女に、もう帰ってこないのか、と不安を口にしてしまった。
 けれど、彼女がそれで幸せならそれでいいと思えるようになった今、むしろ彼女にはその人のところへ行ってほしかった。だから
「ああ、あの人……あの人はね、もういいの」
 え?
 少し困ったように言葉を濁してから彼女は笑い、歩く。一瞬立ち止まってしまい、彼女がどんどん離れていくのに翔はハッとして慌てて姉に走り寄った。
 彼女のさらりと言った言葉に、背筋に冷たい物が走った。
「姉さん?いい、って」
「あの人とは別れたからいーの。やっぱり遠恋は難しいのねー」
「別れた?姉さん、それ、もしかして俺の」
 俺の所為?
 そう続けようとした翔の言葉を彼女は目で咎め、首を横に振った。
「違うから、本当に」
「有馬」
 その時、横路地からあらわれた学生服の少年が姉に笑いかけ、振り返った彼女も嬉しげに笑い、小走りで寄ってくる彼を迎えた。それを茫然と見ていると、少年が自分を見て「妹?有馬そっくりだな」と翔の頭を撫でる。慣れた誤解に姉がため息を吐いた。
「弟よ」
「えぇ?……ほんとだ、ランドセル黒い。何か勿体ないな」
「失礼しちゃうわよね、翔……翔?」
 姉の訝しげな声は聞こえたが、顔を上げる事が出来なかった。
 一体、自分は姉にどれくらいの我慢をさせているのだろうと思うと、彼女を直視することが出来ない。男の手を頭から振り払い、走り出していた。後ろの方では姉が自分を呼ぶ声と、少年の不思議そうな声が混ざり翔の背を叩いたがそれも振り払ってきた。



 予想はしていたが、部屋に戻ってきた時寝息を立てていた同室者にほっと息をついていた。
「……翔、寝たのか」
 一応声をかけて肩に触れたが何の反応もない。ついでに少し湿っている髪にも触れたが、やはり反応は無かった。
 克己もベッドに座ると、ポケットに入れていたあの翔の明細票がかさりと音を立てる。そういえば、渡すのを忘れていた。
 例の戦利品は燃やしてしまったが、克己は取り出した明細票の裏に一つの文字だけ走り書きし、再び封筒にしまう。
 それを翔の机の上に放り、そ知らぬ顔で自分のパソコンに電源を入れ、座る。
 まさか川辺だけの情報を鵜呑みするわけにもいかず、カタカタと手馴れたスピードでキーボードを叩いた。
 最近続いているあの事件の事、毒に慣れた自分の体にも多少のダメージを与えたあの香り。彼女と関わりを持っている人間の事。
 川辺の情報が本当であれば、最悪としか言い様が無い。
 どこまで誤魔化せるか。
 ちらりと夢の中にいる彼を見てから、克己はパソコンの電源を落とす。
「……克己、帰ってきたのか」
 翔は人の気配に覚醒し、身を起こし眠い目を擦った。その甲に冷たい水が付着したような気がしたが、欠伸をしたのだと解釈することにした。
 今見た夢の内容は覚えている。だからこそ、泣いたなんて思いたくない。
「起こしたか。悪かったな」
 克己はそう言いながらシャワー室に向かおうとする。
「……あのさ」
 その背に声をかけ、壁に背を預けた。
「なんだ?」
 タオルを片手に振り返った克己に、それから先の言葉を続けられなくなってしまう。慌てて顔を逸らし、ベッドに伏せた。
「あの、おやすみ!」
「ん?ああ……」
 わざわざそんなことを言うために呼び止めたのか、と克己はあっさりとシャワー室の方へと向かったようだが、翔は一気に眠気が覚めた。
 どうして、こんなタイミングであんな夢を見たんだろう。
 もういい、と笑った姉の顔が蘇り、背筋に冷たい物が流れた。
 克己が航空科へ行くのを、今日のアレは引き止めてしまったことになるのだろうか。それは、もしかして。


 自分は同じ過ちをくり返そうとしているのではないか……?



オマケ

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