コウガならいっつも航空科の近くの射撃場にいるよ。

と、教えてもらったは良いが。
「航空科、ってさ……」
 翔は暗闇の中で途方にくれていた。
 この軍施設は、馬鹿みたいに広い。陸の施設だけでも把握しきれ無い程広いというのに、それで他の科の土地になど行こうものなら完璧に迷う。確か、この軍施設は県が作れるほどの広さがあると誰かから聞いたことがある。
 移動手段は娑婆と同じでバスや電車がある。しかし、この時間帯、最終と思われる誰も乗っていないバスに飛び乗ったは良いものの、下された終点は真っ暗な何も無いところだった。一応行き先に航空科何とかと書いてあったから多分ここは航空科の敷地内なんだろうが。
 ……その前に、誰の許可も無く他学科の敷地内に来ても良かったのだろうか。
 克己が来ているのだから大丈夫だとは思うが、でも彼なら黙認されても自分は黙認されないこともあるような気がしてならない。
 でも、誰かに会って咎められた方が、誰かに会うことなく彷徨うよりはマシか。
「どこ、行ったんだろう……」
 克己を心配する前にまず自分の身だ。
 一応バスの運転手にここら辺に射撃場はあるかと聞いたら、西に一キロ歩けば今は使われていないのが一つある、とぶっきらぼうに教えてもらった。
 ちなみに、バスと言うとあの長方形型の大型車を思い浮かべるが、ここの学校のバスは水の中も走れるジープ。凹凸のある地面も難なく走るが、その振動は最悪だ。まだ地面が揺れているような感覚が残っている。
「しかも西ってどっちだよ……」
 遠也あたりなら空を見上げ、星の並びで方向を見ることが出来るのだろうが、あいにくとそこまでの知識は自分には無い。北極星くらい探せるかと空を見上げてみたが、北極星どころか北斗七星さえよく解からない薄暗い空だった。
 取り合えず、一キロという距離ならば試しに歩いてみれば着くかも知れないと、一番近くに見える光に向かって足を踏み出した。
 一キロという距離を走るのは苦痛ではない。普段の授業では信じられないくらいの距離を走らされているし、しかもその時は背中に重い荷物が乗っかっている。
 今は身軽で、しかもたった一キロ。
 特に思考に耽る時間も無く古びた印象を受ける小さな建物に着いた。なにやら金属の弾けるような音が聞こえてくるが、何をしているのだろう。銃声とはまた違う。
 そして、入り口付近に長身の青年が立っていた。制服は陸のもので、一瞬克己かと思ったが、横顔が違う。
「あの……?」
 声をかけると彼ははっとこちらを振り返り、視線が合う。彼の胸元には蒼いネクタイがつけられていて、彼が上級生だとすぐに解かり肩に力が入った。一歩引いた自分に、彼は眉を上げた。
「日向、翔か」
「え?」
 何故自分の名前を知っているのだろう、と眼を大きくした翔に、その疑問に答えず男は冷静なその眼を細める。
「今は入らない方が良い。切り刻まれる」
 すい、と彼は視線を建物の中に移し、その動作は翔に見ろと言っているようだった。
 中へと通じる扉はことごとく力づくで破壊され、おかげで中の様子がはっきりと見える。克己が数人相手に剣を振っていた。聞こえてくるのは彼が剣を振る音だけだ。時々誰かの呻き声が聞こえたと思えば、人が倒れる。
 圧倒的な強さを見せる克己に、紅い色の髪を持つ男は苛立ったようで犬歯をむき出しにしてもう一人剣を持つ男の前から駆け出し、克己の背後へと飛び、吠えた。
「てめぇ、俺の可愛い下僕に何しやがる!」
「あ、やべっ!悪ィ甲賀!」
 隙を突かれた航空科の制服を着た青年が叫んだが、それは杞憂だったようだ。オレンジの髪の男はそのまま克己の背に突進していくと思われたが、ぴたりと止まった。まるで、時間が止まったかのように。
 その理由はすぐに察せた。克己が背を向けたまま剣を逆手に持ち、その切っ先を後ろの敵の喉元に当てていた。1ミリでも動いたら、その切っ先は彼の喉を切り裂くだろう。
 男は身を硬直させ、そんな彼に克己は視線だけを向けている。
「あー、流石流石。相変わらずどうすりゃそんな事が出来るのかわっかんねぇ勝ち方するよな」
 克己の周りには彼が片付けたくせ者が全員床に倒れている。その光景に軽い拍手を送りながら山川は肩を竦める。
 翔は山川の顔を知らず、ただ眉を寄せるしかなかった。あの克己にこんな軽い口調で話しかける人物は一体誰だ。見覚えのない服だが、どこの学科の制服なのは確かだ。少なくとも陸ではない。
「相変わらず、陸に居させるには惜しい腕だ。本気で、航空科に戻ってくる気は無いのか?」
 航空科?
 思わず息を呑んでしまったのは、エリートと呼ばれる学科の人間を初めて見たのもあり、その会話の内容に驚いたのもあり。
 色素の薄い癖のある髪を持つ彼は航空科の人間のようだ。そして、克己と親しいらしい。そんな人物が、彼に航空科に来るようにと誘っている場面に出くわしてしまった。気まずい気分になっても仕方ない。
それにしても、何故こんな奇妙な戦闘を彼らはしていたのか。
「航空科なら、面倒臭い紛争鎮圧に行かなくて済むし。こーんな面倒臭いことになんねぇっての」
 ねぇ?と山川はむすっとしている遊井名田に笑いかけた。彼はすでに負けを認めているのか、不機嫌な表情のまま顔を背ける。
 克己はため息を吐きながら剣を収めた。
「そうだな……考えておこう」
 え。
「マジで!?」
 克己の返事に初めて色よい返事をもらえた山川は思いがけないことに表情を明るくするが、隠れて聞いていた翔は息を呑む。
「……どうも、陸は煩わしいことが多くて困る。いっそ戻った方が気が楽かも知れない」
 克己はこの久々の慣れた剣での一戦で少し体が楽になったのを感じていた。陸の戦法は自分に合わず、更にこの床に伏せている奴らのように、警戒しなければいけない相手が陸には多い。
「よっし!お前が来れば俺も楽出来る」
「……山川お前それが目的か?」
 呆れる克己に翔の知らない男は満面の笑み。
 克己に、こんな相手がいたなんて知らなかった。
 そして、彼の「陸は煩わしい事が多くて困る」という言葉が頭の中を駆け巡る。もしかしてその「煩わしい」に自分も含まれているのでは無いか。
 やっぱり、迷惑だったんだろうか。
 弱いくせに、という沢村の声が蘇り、無意識のうちに拳を握っていた。
 確かに、自分はまだまだ未熟で高い戦闘能力を持つ克己に庇って貰ってばかりだ。今彼と話をしている山川という人物もそれなりの技量があるようで、克己は彼のフォローは何もしていなかった。安心して後ろを任せられる相手ということか。そんな相手が航空科に誘っている。
 克己の実力なら、エリート集団といわれる航空科へ行っても上手くやっていけるだろう。何故彼が航空科に行かなかったのかの方が不思議なくらいだ。家柄の所為だろうか。
 折角友達になったのに、今彼を失うのはかなり淋しい。どうするのか、選ぶのは彼自身の問題でこっちは口出し出来ないけれど。
 けれど、その理由である「煩わしい事」をどうにかすればもしかしたら陸に残ってくれるのではないだろうか。そういう努力をすることは自分にも出来る。
「これからも、彼と友達ゴッコを続けるつもりか?」
「え?」
 すっかり近くに知らない人間がいるのを忘れていた翔は突然声をかけられ、びくりと肩を揺らしていた。が、その言葉に、自然と拳に力が入る。
「友達ごっこって、どういう意味ですか」
「……そのままの意味だ」
 相手は呆れたようなため息を吐き、冷たい視線で翔を見下した。
「見たろう、今の彼の戦い振りを。君はアレについていけるのか。付いていけるほどの技量があるのか」
「何ですか、それ」
「付いていけないのなら即刻離れろ。無駄な怪我をすることになるぞ」
「アンタ……あのオレンジの仲間か?」
 あの騒動をこんなところで傍観していたのだ。そう考えるのが普通だ。眉間を寄せつつ睨み付ければ
「仲間にくくられるのは癪だが、一応はそうだ」
 その答えを貰ってすぐに翔は相手と間合いをとった。それを彼は鼻で笑い、視線を部屋の中へと移し、そして
「遊井名田」
 名前を呼ばれたオレンジの髪の男はすぐに顔を上げ、翔の姿を視界に捉える。彼と眼が合ってしまい、本能的にヤバイと思うより速く、にやりと笑った紅がこっちに突っ込んできた。
 山川は単純に逃げた?と呟き、克己も特に気に止めることなく遊井名田が向かった方向を振り返った、が
「うぁ!?」
 その声に眼を見開くことになる。
「翔?お前、何で」
「ちょ、オイッ!!」
 突然羽交い絞めにされた翔は唯一自由になっている足をばたつかせるが、背後にいる紅髪の男は体格差もあり動じない。暴れると彼の胸元に光っていたドッグタグの鎖がちゃり、と耳元で鳴った。不意に横を見ると彼がつけていたタグに彫られている文字が眼に入る。
『遊井名田焔次』
 他の文字より大きく漢字で彫られたその名前だけどうにか読めた。多分この今自分を羽交い絞めにしている相手の名前だろう。その名の通り全身を紅く染めた青年は、紅いカラーコンタクトを入れた目を細めた。
「高遠、お前見てたんなら手を貸してくれたって良いんじゃねぇ?」
 舌打ちをしながらその遊井名田が隣りに控えている男に文句を言う。やはり、この二人はあまり友好的な間柄ではないらしい。この遊井名田の声は大きく、少し離れた場所にいた克己の耳にも届いたようだった。
「……高遠、だと?」
 影に隠れていた男はその時初めて克己の前に自身を晒した。彼の姿を確認した克己は軽いため息をつく。わずかに怒りを滲ませて。
「こんな茶番を仕掛けてきたのは、お前か」
 克己の問いに高遠と呼ばれた男はしばらく無言だったが、何か観念したように「いいえ」と小さな声で答える。その声が敬語であった事と、弱々しいものであることに翔は驚きを覚えた。
「貴方には暗殺命令が下っています」
 そして淡々と高遠が言った言葉にも。
「暗殺?」
 翔は高遠と克己の顔を見比べるが、当の本人は表情を変えることなく、ただ真っ直ぐ高遠を見ていた。そして、遊井名田にも視線を滑らせ克己は口角を上げる。
「本気で俺を殺すつもりはなさそうだが?」
「……嫌がらせ半分、遊び半分でしょう」
「ってオイ、それどういう意味だよ」
 自分では手に余る相手だという事に気付いてはいるが本人に指摘されたことが悔しいのか、遊井名田が不機嫌そうに言葉を挟む。高遠も自分の部下の評価は厳しいらしい。「そのままの意味だ」と遊井名田に告げ、激昂しそうだった彼を沈めた。
「貴方は、試されています。どうか、無駄な重荷は背負われぬようにお気をつけ下さい」
 高遠は遊井名田に羽交い絞めにされている翔をちらりと見て言葉の意図を克己に伝える。そこで初めて克己は遊びと嫌がらせの範囲を知った。
「……そいつを放せ。そいつは関係ない」
「関係ない?本当に?」
「ああ。寮の同室者だが、それ以上でもそれ以下でもない」
「それ以上でもそれ以下でもない人間を名前で呼ぶような人間ではないでしょう、貴方は」
「気まぐれだ」
 ……なんか、さっきから胸にグサグサ刺さる会話が聞こえる。
 それ以上とかそれ以下とか、気まぐれとか。翔がため息をついた時、横にいた高遠が再び口を開く。
「では、今彼を殺しても構わないと。そういうことですね」
 あまりにも淡々とした声だったから、翔は今自分の身に何が起こっているのかいまいち自覚出来なかった。
 あ、と思うより早く自分の首に冷たい手が巻きつく。これは、高遠の手か。克己も彼の行動に一瞬呆気にとられたようだが、すぐに先ほどの剣を構えなおしていた。
「高遠!」
「ちょ、それは少しえげつねぇんじゃね?」
 山川も慌てた様子で一歩踏み出した。が
「待て、高遠」
 その時高遠を止めたのは以外にも遊井名田だった。
 一応仲間からの制止に高遠は怪訝な眼で遊井名田を見る。遊井名田はそんな視線に構わず、自分の鼻を翔の首筋に押し付け
「何かコイツ、すっげイイ匂いするー!」
 突然、彼は翔の身体を抱き締めた。今まで羽交い絞めにしていた体制と大して変わらないが、嬉しそうな声を上げた遊井名田の一言に空気が硬直した。
「……は?」
「何このすっげ美味そうな匂い……こんなヤツ初めてだ、何お前!食い物で出来てんの?」
 いやいや、こっちが何お前なんですが。
 それでも多分上学年の彼に文句を言えず、翔はひたすら硬直していた。相手が抵抗しないのを良い事に遊井名田はひたすら翔に頬ずりをする。まるで飼い主にじゃれる犬のように。
「なぁ、高遠コイツ連れて帰っていい?部屋においておけば俺の部屋良い匂いになるんじゃね?」
「芳香剤かよ!断固拒否します!」
 慌てて翔が声を上げると、後ろの男は「えー?」とつまらなさそうな声を出す。が、すぐに何か思いついたように表情を輝かせ、翔から手を放し、自分のポケットから棒付きのキャンディーを一本取り出した。
 茫然としている周りの視線など気にせず、彼はその包装を剥がし、翔の顎に手をそえた。
「はい、あーん?」
「あが!」
 半ば無理矢理口を開けさせた翔の口の中にそのキャンディーを突っ込み、遊井名田は満足そうだ。が、翔のほうは突然口の中に大きめの飴を突っ込まれ、甘くて美味しい事は美味しいが、飴で口の中を切ったようだった。少し血の味がする。
「飴あげるから一緒に来い!」
 そして遊井名田の言葉は、どこの誘拐犯の一言だろう。あまりの事に茫然としてしまう。それは翔だけではなく、克己や山川もそうだった。奇妙な沈黙に包まれる。
「名前は?」
 ただ1人、遊井名田だけは上機嫌に翔の顔を覗き込み、飴で口が塞がれていることに気付き、翔の胸ポケットに入っているIDカードを止める間もなく取り出した。
「ひなた、しょう?」
 彼が首を傾げながら口にしたのは、全く違う読み方で、首を振ろうとしたけれど彼にがっちり拘束されていたのでそれも出来ない。
「そっか、ひなただな!ひな!」
「ふーがです!!」
 納得しそうになっているのを慌てて訂正するが、飴のおかげで上手く発音出来ない。
「……っこの駄犬!」
 とうとう堪えきれなくなった高遠がオレンジ色の頭を思いっきり叩き、スパーンと良い音が部屋中に響いた。
「いって……っ!何すんだよぉ、高遠!」
「お前は俺に恥をかかせる気か!馬鹿だ馬鹿だネジが足りないと思ってたがここまでとは!」
「だって、コイツすっげぇ良い匂いすんだぞ!?お前みたいに安いコーヒーみたいな匂いじゃなくて、何かこう……高級感溢れるようなもんじゃないけど、手作りのお菓子!みたいな!ほーむめいどほーむめいど!」
「誰が安いコーヒーだ!」
 遊井名田は何かよく解らない事を主張し、それに高遠がどうでもいいことに食らい付く。
 何なんだ、この状況。
「翔」
 棒付きキャンディーを舐めつつ茫然と仲間割れをしている二人を見ている翔の肩を叩いたのは克己だった。
「あ、克己」
 とりあえず、最悪の状況からは脱したようだ。と、彼の疲れたような顔を見て察した。
「出せ」
「へ?」
 止める間もなく口から飛び出していた白い棒を引っ張られ、飴が外に出る。
「他人から貰ったものを簡単に口に入れるな。毒だったらどうする」
「あ、そか」
 克己の注意に普段教官から口すっぱく言われていた事を思い出す。でも、アレは抵抗する暇も無かった。変な事を仕掛けてきた遊井名田は上司らしい高遠から小言を食らっている。
 一体、何なんだ。
 克己が暗殺されるとかなんとか言っていたけれど、こんな相手に克己が殺されるわけが無いな、と何となく安心しながら克己を見上げると、彼は翔から奪った飴を外に放っていた。
「あっ!こら!捨てんな、勿体ねぇ!毒なんていれねーよ!食べ物は大事にする主義だっつーの俺は!」
 遊井名田は克己の言葉と行動に激昂し、高遠はそんな遊井名田をうんざりした眼で見る。
「……引き上げるぞ、遊井名田」
「もうちっと遊びたかったけど。ま、仕方ねーか」
 遊井名田は自分の部下を掻き集め、ずるずると引きずりながら去って行く。高遠はそんなトラブルメーカーの背を見送ってから視線を再び克己にやった。
「重荷は早く投げ捨てた方が懸命かと。俺や遊井名田程度で身動きがとれなくなるなど、貴方らしくない。後悔するのは貴方御自身だ。貴方が守りきれなかった、あの女の二の舞になりますよ」
 山川と克己の顔に緊張が走った。
 あの女、と高遠が指した相手が誰なのか、翔の頭には浮かばなかったが代わりに何故か一度見た彼の胸にかけられているクロスを思い出す。
「君も、いつまでも守ってもらえると思うな」
 高遠の黒い眼は翔へと移っていた。黒い眼は黒すぎて何を考えているのか良く解からないが、彼の言い方は何だかとても気に喰わなかった。
「あの」
 他人に干渉されると結構頭に来るものだ。この時の自分の声は思っていたより苛立っていた。何だ、口答えでもする気か?というような高遠の馬鹿にした目が、追い討ちだった。
「守るとか守られるとか、俺は女じゃない。自分の身ぐらいは、自分で守れる。それに、克己とは友達だから一緒にいるんだ。別に守ってもらいたくて側にいるわけじゃない。だから、貴方にそんな事口出しされる筋合いはない」
 ギッと睨みつけると相手の目が少し大きくなるのが見えた。
「……君といい、遊井名田といい、上下関係をもう少し厳しくした方が良さそうだな」
「え」
「では、失礼します。また、今度。くれぐれも油断されぬように」
 高遠は克己に向かって軽く礼をして、去って行く。また今度という別れ際の言葉にうんざりとしつつもほっとしたところで、克己のため息が聞こえた。
「お前、何でこんなところに来たんだ」
 呆れ気味のその言葉にうっと物言いに詰まるが、理由は一つしかない。
「何で、って克己が遅いから探しに来たんだろ?殺人犯がうろうろしてるってのに、心配するだろーが。そしたら案の定よくわかんない奴らに絡まれてるし!」
 翔の心配、という単語に吹き出したのは山川だった。恐らく克己にとって最も不要な単語だろうに、この初対面の彼は難なく言い放った。しかも、克己よりずっと背が低く、華奢な体を持つ少年が。体格と性格のギャップにも笑いを誘われた。
「アッハ、何この子。面白いなー、可愛いし。陸ってみんなこんなんなの?それなら俺が陸に行きたいよ」
「……山川」
「冗談だよ。初めまして。俺、山川至。君は?」
 克己の諌めるような声にも軽く返し、彼は翔に簡単な挨拶をする。初めて見る顔に翔は少々緊張気味に答えた。彼の服装は、エリートの集まりと聞く航空科のものだ。
「日向、翔……です」
「甲賀とはクラスメイトなの?」
「いや、あ、クラスメイトですけど、寮で同じ部屋で……」
「同じ部屋ぁー……」
 そんな情報を貰った山川はそれを繰り返し、翔の顔をじっと見つめてから克己の顔にちらっと視線を移す。
 その意を読めない克己は視線で「何だ」と問うと彼は突然首に片腕を回してきて壁の方に顔を向けさせられる。翔には二人背を向けた状態だ。
 うざったいその腕を取り払おうとした時、山川が小声で話しかけてくる。
「あの子か」
「何が」
「気になるってヤツ。ってかあの子だろ」
「お前に言う必要は無い」
「あの子なのかー。翔君。いいじゃんいいじゃん可愛いじゃん!あれなら俺も男でもいけるぐっほぁ!」
 話している最中にみぞおちに一撃を入れるのは卑怯なのでは無いだろうか。
 腹を押さえて悶絶する山川の腕を簡単に払い取り、克己は出口の方に足を進めた。
「翔、帰るぞ」
「え、でも」
「その馬鹿のことは気にするな」
 気にするなと言われても、背中しか見えていなかった翔からしてみれば、何があって彼が腹痛を起こしたのか解からない。原因不明の病気とか持病とかだったら放っておいては危ない気もする。
「あーくそ、イッテェ……そういや、甲賀お前最近頭痛の方は大丈夫か?」
 山川の問いにはっとしたように克己は彼を振り返った。それにどんな意味があるのか、翔は解からないが、克己は眉を寄せ小さく息を吐く。
「今はお前が頭痛の種だ」
「うわ酷。ちっくしょ、お前は俺の腹痛の種だよ!」
 悔し紛れに山川が叫んだ言葉は、お互いがお互いにストレスを与える関係である事を言っているようで、翔は彼らの関係が解からなくなった。方や片頭痛持ち、方やストレス性胃痛持ちということだろうか。
 克己はさっさと外へと言ってしまうし、山川も痛そうな顔に無理矢理笑みを浮かべて「じゃあな」と手を振ってくれたし、訳が解からないままだったけれど、彼に頭を下げて翔は外へ行ってしまった友人の後を追った。
「お前、一体ここまでどうやって来たんだ」
 二人きりになってまず先に聞かれたことは多分至極当然の問いだった。
「バスで、だけど……克己は?」
「バス?ああ、あのジープ……俺はこれだ」
 克己が目線で指したのは、大型二輪だった。確か、移動用に貸し出しもしていると聞いていたけれどまさか克己がそれを使っているとは思ってもみなかった。
 まぁ、いちいちバスの時間を待っているよりはこっちの方が彼は好むかもしれない。
「色々無料で貸し出ししてるから、お前もコレの乗り方くらい覚えて置いた方が良いかもな。後々必要になってくるだろうし」
「色々って、バイクの他にも貸し出ししてるのか?」
「ああ。二輪と車は免許見せないと貸して貰えないが自転車なら要らないぞ。後、戦車や馬もある」
「……へぇー……戦車に、馬」
 本当に色々貸し出ししているらしいが、その中で自分が乗れるのが自転車だけというのも何だか虚しい。しかし貸し自転車とは、一体どこの観光地の設備だ。
 学校の体制に少し呆れつつ、説明してくれた友人をちらりと見上げた。
「……なぁ、克己」
「何だ?」
「お前、大丈夫なの?頭痛」
「は?」
 フルフェイスタイプのヘルメットを被ろうとしていた克己は翔からの思いがけない問いに手を下していた。夜空に溶け込んでいる黒髪を見ながら、翔はもう一度くり返す。
「や、さっき頭痛がどうのって言ってたから」
 もしかして、色々とストレスが溜まってそんなことになっているんじゃないかとか。そのストレスの原因は自分だったりするんじゃないか、とか。だから、航空科に行ってしまうんじゃないか、とか。
 色々と考えたけれど、それを口にする勇気は無く、ただ痛むという克己の頭を撫でてみた。
「お前が気にすることじゃない」
「……ストレスとかじゃないのか?」
「ストレス?」
 あれ?違う?
 てっきりそれが原因だと思ったのに、当の本人は何故そんな事を言われるのか解からないというような声だ。間違っていたとしたら、自分がそんな結論に達した経緯を説明したくない。
 おろおろと「違うのか?」と慌てる翔に、克己はあっさり頷いた。
「古傷がある」
「古傷?」
「ああ。昔、ちょっと色々あってな。それが時々痛む。それだけのことだ」
「そう、なのか」
 今自分が手を置いている彼の頭には古傷があるらしい。髪の毛に隠れているらしいから、よく解からないけれど。初めて知った。
 でも、あの山川という人物はその傷の事も、きっとその傷が出来た経緯も知っているのだろう。そう考えると、何だか少し苛立ちを感じた。
 自分は、彼の事を何も知らない。友達なのに……友達の、はずだ。
 でも、友達と呼ぶにしては、確かに何かが対等とは言えない。その何かが何なのか分からず、困惑するしかなかった。頭脳か、戦闘能力か、それともそれ以外の何かか。
何で、こんなところ怪我したんだ?
 そう聞こうとも思ったが、その何かがそれを止め、不自然な沈黙が続く。こちらの気まずい思いを読んだのか、克己の方から動いた。
「手、離せ」
「あ、悪ぃ……」
 慌てて離れた動作もきっと不自然だった。そんな態度を克己は苦笑し、口を開く。
「翔、怪我は無いか」
 その優しい声色に、翔は慌てて頷く。
「怪我?あ、あ、うん!無い!」
「巻き込んで悪かったな」
「別に巻き込まれたとかそんな風には思ってないって!」
 手を横に振り、笑って見せて気にしていないという事を強調する。
 さっきの気まずい空気をどうにか払拭しようと、それだけだった。けれど、頭の中に今まで知らなかった情報がぐるぐると巡り、どう笑えばいいのか分からなかった。
 山川至という克己と親しげな航空科の青年。生徒会のメンバーだという遊井名田、高遠。
 そして、高遠が言っていた“あの女”。
 自分は克己の事を何も知らないのだと、山川や高遠の存在を目の当たりにして気付かされた。
 正直、知りたいと思う。けれど、遠也に言った通り、何も知らないからこそ彼の隣りにいられるのなら聞かない方が良いのかも知れない。
 性質が、悪すぎる。あまり彼の近くにいない方が良い。
 遠也の自分の為に慎重に言葉を選んだ台詞が、耳元で聞こえたような気がした。
 僅かに困惑の色を見せた翔の眼に気付いた克己は小さくため息を吐いた。
「そうか。なら良いが……とにかく帰ったら部屋替えの申請をしろ。ネットで24時間受け付けてるから」
 さっきより優しい声だった。まるで、子どもをたしなめるようなそんな大人の声。
「……はい?」
 克己の言っている事がよくわからず、一瞬頭の中が真っ白になった。そんなこちらの反応に構わず、克己は更に続ける。
「それとあまり俺の近くにいないほうが良い」
「ちょっと待てよ、何だよそれ……」
 まるでこちらが思い出していたことを読んだかのような克己の言葉には焦りを覚えた。
 それは他人の意見であって、自分の意見ではない。
「とにかく、早く帰るぞ」
「克己!」
 帰る準備を着々と進める彼の手を取り、それを止めさせた。
「話半分で帰れるか!」
「半分じゃない。俺は言いたい事は言った」
「俺は言ってない!降りろ、じゃないとコレ蹴り倒すぞ」
 バイクに足を掛けた翔の顔は本気だった。仕方なく降りると翔も足を離し、ため息を吐いた克己を睨みあげた。
「どういう意味だよ」
「そのままの意味だ」
「何でだよ」
「話、聞いていたんだろう?俺にはどうやら暗殺命令とか言うものが下されたらしい。俺の側にいたらお前とばっちり喰らうぞ」
「そんなとばっちり、喰らわない程度には立ち振る舞える!」
「馬鹿言うな、相手は生徒会だぞ。生徒の中でも特殊な奴らだ。人を殺すことが趣味と公言している奴だっている。命令以上の事をしないという保障はどこにもない」
 克己は自分よりそうした情報を持っている。だから、彼の言う事は大方正しいのだろう。
「でも、俺だって少しは……」
 戸惑いつつ自分の手に視線を落とした。素人ではないこの拳を自分は持っている。それでも、太刀打ち出来ないと克己は言っている。
「お前が有る程度の技量を持っているのは知っている。だが経験は奴らに勝てないだろう、確実に」
「そんなの、克己だって一緒だろ!?」
 そうだ、彼も同じ1年生なのだから、2年3年には経験は太刀打ちできない。
 咄嗟に言い返したことだったが、後から自分の中で納得した。彼も1年なのだから、それは理由にならない、と。
 だが、克己は少し戸惑うような眼を見せたが、翔から視線を外し、小さく息を吐いた。何か覚悟を決めたかのように。
「俺は、違う」
 はっきりと返されたその答えに、息を呑むしかない。
「違う、って……何が?」
 聞いてはいけない。多分これは聞いてはいけない範囲の事だ。
 そうは思ったが、自然と口からこぼれていた。
「俺は、経験面は奴らと同等、いや、もしかしたら奴らより上かもしれない」
 克己がもう自分と離れる事を前提に話していると察し、頭の中が混乱する。
 違う、そんな話を聞きたくてここまで来たんじゃない。そう心の中で叫ぶが、彼には通じなかった。
「俺は、元々は軍閥の家に生まれた人間だからな」
 ああ、聞いてしまった。
 驚きや嫌悪といったものは無いが、ただそれだけ思った。克己が今まで語らなかった彼の身の上を知りたいとは思ったが、そんな前提付ではまったく嬉しくも何ともない。
「だから、気付けばいつも戦場に立っていた……多分、今まで生きてきた半分以上の時間は」
「それが、何だよ……」
「解からないのか。俺はその度殺しや破壊を平気でしてきた人間だ」
 克己が言いたいことは解かる。遠也にも散々言われたことと似たような警告を彼は今、している。
「命令されれば、どんな相手でも殺す。そう、教育されている」
「そんな、の……別に、だって流石に友達とかは殺せとか命令されないだろ。それに命令されても教育されてたって殺せるわけ……!」
 軍での教育を受けたらそうなる、というなら自分の叔父はどうだ。彼は優しかった。自分だって、この先ここで教育を受け続けたとしても、友達は手に掛けることはしないという自信があった。
 人には意志がある。理性がある。それらが有る限り、そんな事は出来ない。出来ないはずだ。
 けれど、先程の高遠という青年の存在を思い出し、そんな自分の論が通らないと察す。彼は克己とは知り合いのようだった。だが、彼は克己の暗殺命令の為に動き、攻撃をしてきた。
「俺は、昔好きだった相手を殺した事がある」
 淡々とした口調での言葉に思わず目を見開いてしまう。その反応が間違いだったことにすぐ気付くが、克己は軽く笑った。
「俺が怖いだろう」
「克己……違う」
「それが普通だ。気にするな」
「違う、違う……俺は」
 何度も首を横に振り、違うということを伝えたかった。
「解かれ、翔」
「嫌だ、わからない!」
「俺はお前を殺したくないし、死なせたくもない」
「……え?」
「俺は、どうやら自分で思っていた以上にお前にそれなりの感情を持っていた、らしい」
 戸惑いに揺れる声と瞳に、翔は数回瞬きをする。
「克己、それって」
「だから、解かれ」
「ちょっと待て。それ、俺の事結構仲良い友達だって思ってくれてるってことだよな?」
 克己の言葉を手で制して、自分の解釈を口にした。少し、自分の都合の良いように解釈しすぎているかもしれないと思いつつも、克己を見上げれば
「……あぁ、そうだ」
「嫌だ絶対離れねぇ」
 克己が頷いて即座に翔は彼の両手首を掴んだ。簡単には振りほどかれないよう強い力で。
「……翔、お前俺の話聞いてたか?」
「聞いた。だから今度は克己が俺の話を聞け」
「……翔」
「さっきの高遠って人に言われた。いつまで克己と友情ゴッコをするつもりだって。沢村にも言われた、お前は弱いくせに何で甲賀の近くにいるんだ、って。弱いのは認めるよ。克己の言うとおり、多分生徒会の人には歯が立たない……克己の足手まといになってる自覚もちょっとある」
 眉を寄せながら、今まで何度か怪我をしたり危機に陥ったりした時の事を思い出す。多分、克己1人なら回避出来ただろう、ということは多かった。
「克己の邪魔になるなら、離れた方が良いかもしれない。ってさっきまで思ってたけど……俺だって、克己のこと良い友達だと思ってるし、大事にしたい。確かに、俺は戦闘じゃ使えないかもしれないけど、克己が怪我した時の手当てとか辛い時の愚痴聞いたりとかそういうのはしてやれる。それに……」
 一瞬戸惑ったように翔は視線を横へと滑らせたが、すぐに克己の黒い目を見上げた。
「俺、知ってる。独りは淋しい」
 母や姉が死に、父も死に……血縁と呼べる人間が誰一人いなくなってしまった翔は孤独を知りすぎていた。良い友人や自分を引き取ってくれた養父もいるが、それでもまだ何かぽっかりと穴が開いてしまったような空白感は常に身近にある。克己も誰かを失った事があるのなら、自分と似たような感覚を得たことがあるのかもしれない。
 どんなに強い人間でも、孤独は苦痛だ。
「克己が、淋しいのは嫌だ」
 自分だって、今まで隣りにいた友人がいなくなるのは淋しい。
「何があっても俺は克己の味方だから。生徒会だろうが軍だろうが、どんな相手でも俺は克己の隣りいる。さっきも言ったけど、俺は女の子じゃない。自分の身は自分で守れる。もし、克己と戦うような事になったらその時は全力で相手になる。俺もちょっと武術囓った身だから、すっげ強いヤツと本気で渡り合えたらそれだけで満足って考えあるんだ。それで、自分の最期に近くにいるのが克己ならそれもそれで良いと思う」
 あまり自分の死に際というものを今まで考えた事は無かった。ただ1人で死んでいくのではないかという漠然とした確信しかなかったが、その時近くに友だちが、彼がいるなら1人で死ぬよりずっとましだ。
「俺、強くなるよ。信じてくれ。俺は、何があっても克己を信じる。だから、怖くない」
 そうか。
 自分で言いながら、自分で少し納得する面もあった。どうしてさっき彼が大切な人を殺したと言った時普通なら感じるべき恐怖が湧き上がってこなかったのか。
 多分、その人を殺す事は彼の意に反する事だった。その事を彼はいまだに後悔して、心の傷になっている。そこまでどこかで予想出来たからだ。
「克己なんか、怖くねぇよ」
 挑戦的に笑い、黒い眼を見上げれば、少し苦しげに彼の闇が揺れるのが見えた。
「……それでも、俺はいない方が良いか?」
 言いたい事は言った。それでも、彼が自分を遠ざけたいのならそれに従うつもりだった。
 答えずただ沈黙する克己の様子は肯定なのだろうか。
 どうすればいいんだろう。
 大切な友人だから、一緒にいたい。そう思う。
 けれど今までこうして誰かを引き止めたのは初めてだった。仲が良いと自覚している友人相手にもこんな事言った事がない。遠也とはまた違う種類の感情を彼に持っている、そんな気がする。
 遠也とも始めは友情関係というのは上辺だけだったからなぁ。
 そんな昔の事も思い出し、心の中でため息を吐きながら克己から手を離した。
 が、その手を今度は克己に捉えられ、再び手に彼の体温が触れる。
「……俺とお前の世界は違いすぎる」
「……そうかな?」
 歩んできた過去は違えども、今ともに学び戦う相手に対していうことではない。だから、首を傾げて見せる。そんな仕草に、克己は目を細めた。
「俺には、お前が眩しい」
「え、えぇ?」
 なんで、そんな。
 突然の言葉に翔は少し混乱する。相手を眩しく思っていたのはむしろこちらの方だ。克己は頭も良くて翔が憧れる程の強さを持っていた。それに、見た目も申し分ない。女顔とはやし立てられる自分から見れば羨ましいまでの体格と、容姿で。そんな彼が、だ。
「俺、そんな克己がそう思うような取り柄とか無い……気がするんですけど」
「そう思っているのはお前だけだ。俺だったら絶対に、こんな面倒臭いことに巻き込まれたくない」
 膝においたヘルメットに頬杖を付きつつ、克己は苦笑した。
「馬鹿だな、翔は」
「それで克己と友だちでいられるなら、馬鹿で良い」
「……今、俺と離れなかった事を、いつか後悔する日が来るかも知れない」
 まだ言うか。
 身を起こし、克己は腕に抱いていたヘルメットを脇に置いていた。その動作を軽く睨みながら見て、彼がこちらを振り返った時、口を開く。
「あのな、そんな日は」
「そうだな、来ないと良い」
 その声が耳元で聞こえ、気付いたら克己の両腕が自分の腰に回っていた。
「おいぃ?」
 抱きしめられている、というにしては拘束している彼の腕に力は入っていない。多分、自分がすぐに逃げ出せるくらいの力での拘束。
 慌てる間もなく、克己の額が自分の肩口にすり寄る。
「怖がってるのは俺の方だな」
「……克己?」
 その心なしか弱々しい声に、肩の力がすぐに抜けた。
「あんな思いは、もう……」
 聞き取れるか聞き取れないかという小さな声での呟きが何を指しているのか、すぐに分かった。ちらりと視線を落とせば、彼の首に銀の鎖が見える。
「俺の、近くにいると言うなら、翔」
「……なんだ?」
「俺より先に死ぬな、絶対に」
「……分かったよ」
 了解の意を伝える為に彼の背を軽く叩いてやった。
「お前だけは死なせない。絶対に」
「克己?」
 女の子が言われたら勘違いしそうなことをさらりと言われ、少し頬が熱くなるのがわかったが、肩に顔を押しつけている彼には見えていないはず。
「おい、克己、お前俺の話聞いていたのかよ……」
「聞いてた。翔は強い。俺よりずっとな」
「何だよ。いきなり褒めるな、照れる」
「だから、死なせたくない」
「……なんだ、それ。何かよく分かんねぇんだけど」
 強いという評価と死なせたくないという感情がどう結びつくのかと戸惑いつつ眉を寄せると、耳元で彼の笑う声がした。
「分からなくて良い」
「おい」
 どこか自分をからかうような調子になってきた彼の言葉に翔はほっとしつつ、不満の声を作った。
 良かった。いつもの克己に戻ってきた。
 単純に安堵し、軽く彼の背を叩いた。今度はさっきより強めに。それに「痛い」と呟く克己の声が聞こえたが、無視してやった。
 すると仕返しとばかりに克己がいきなり腕に力を込め、抱きしめられたというより羽交い締めにされる。
「う!苦し……この馬鹿!」
 負けじと背を叩き続けたが、子どもの抵抗と言いたげな克己の笑い声が聞こえる。
 それにつられて翔も口元を歪める。
 良かった。ただ漠然とそう思う。
 まだ、彼と友だちでいられる。高遠や遊井名田、他にも色々とあったけれど何があっても彼とは友だちでいられる。何よりも、克己の言葉は嬉しかった。沢村や色々な人間に言われたことは、図星すぎて翔の心にわだかまりを作っていたからだ。
 けれど、克己は優しく、それに目の奥が少し熱くなった。
「……なぁ、克己」
 今度は自分が彼の肩口に顔を伏せれば、わずかに彼が吸う煙草の香りが鼻に触れる。
「俺も、克己がいないと淋しいよ」
本当に小さい声だったけれど、彼の耳には届いているはずだ。
さっきまで叩いていた背に、詫びるように手を滑らせるとさっきまで力任せだった彼の拘束が緩む。
 自分の頭を撫でてきた手は大きく、その優しい動きに目を伏せた。
 もし自分に兄がいたら、父親が優しかったら、こんな感じだったのだろうか。そんな無意味な予想が脳裏を過ぎり、自然と克己の背に回していた腕に力が入る。久々の他人の体温と心音は心地良すぎて離れがたかった。
 無防備に自分に身を任せる翔の頭を撫でる克己の方は当初感じていた嫌悪感がすっかり無くなっていたことにその時気付く。ひと暴れしたからか、それとも時間が経ったからなのか、それとも。
「……本当に、いつか後悔させることになりそうだ」
 翔の耳には届かない程度にそう呟いた時、鼻に太陽の香りが触れた。
 



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