小さくなっていく背中を見送り、葵は肩の力を抜く。そんな彼のタイミングを見計らったかのように、窓の外から声が飛んで来た。
「随分とあからさまな誤魔化しだったな」
「……盗み聞きは感心しないなぁ」
 苦笑しつつその窓を開ければ、わずかな足場に座り煙草を吸う和泉がいた。その顔を確認し、葵は満面の笑みを浮かべる。
 記憶より成長しているが、まだどこか幼さを残した顔には覚えがあった。銀色のフレームの眼鏡を付けているのは変装用なのか、確かに付けていない時と印象が変わる、と感心してしまう。
「久し振り。元気そうで何より何より」
 葵の柔らかい笑みに懐かしさを感じた彼も、普段固めている表情をわずかに緩める。
「ああ。お前もな」
 クラスメイトの前では絶対に見せないような幼い笑みだが、口からは表情に似合わない煙草の煙を吐き出した。携帯灰皿で煙草をもみ消してから、和泉は顔を上げ、その記憶より成長している容姿に葵は目を細める。
「和泉……だっけ?ここでの名前は。変な名前」
「よく知ってるな……ま、お前にとっては大した情報じゃない、か」
 葵の情報収集の能力はこの学校の情報部に勝るとも劣らない。それを知る人間はごく一部だが。それと同時に、彼の本名を知るのもごく一部の人間だろう。
「それで?俺になんか用なんじゃないの?和泉くん?」
 意地の悪い笑みを浮かべながら偽名を口にした葵は、こちらの目的を察しているはずだ。それでも聞いてくるのだから始末が悪い。
 バツが悪そうに視線を下げ、和泉は渋々口を開いた。
「情報を買」
「蒼龍サマの?」
 最後まで言っていないのに即座に葵は聞いてくる。にこにこと、満面の笑みで。
 確かにその情報も欲しいが、彼の思惑通りに事が進むのは癪で、眉間を寄せながら和泉は首を横に振る。
「違う。外の情報が欲しい。何か変わったことはないか」
 一応、この学校の中にいてもテレビやラジオは聞けるが、軍の検閲に通された電波のみの情報で、偏りがあるのだ。そうした情報は葵のような外とも通じる伝手を持つ人物から貰わないと手に入らない。勿論、蒼龍のこともだ。
 蒼龍はこの国の皇太子だ。そんな人間の情報は、彼らの手を借りないと手に入れられない。
 やろうと思えばネットからも手に入れられるが、人を通した葵の情報はネットからでは得られない情報が多く価値が高い。
「外ぉ……?そうだなー……」
 窓のサンに腕を乗せ、頬杖をつきつつ、葵は頭の中に入っている情報を思い起こす。和泉の好みと必要性も考慮して。
「あ。そいや、今年は10年に1回の選挙の年なんだけどさ、面白い情報があるんだ」
 選挙、という珍しい単語に和泉は葵を振り返る。葵のほうも窓から身を乗り出してきていて、どうやらそれなりに面白い情報らしい。それに決めたと小さく頷いた。
「それでいい。いくらだ?」
「んー、2万」
 指を2本立てて手を出してきた彼に、和泉は少し眉を寄せ文句を口にする。
「……高いぞ」
「それなりに価値があるってことだよ」
 確かに、選挙という珍しい内容は聞いても損はないかもしれない。通常政治は世襲制となっていて、政治家家系じゃない人間が政治の世界に入る為にその選挙が必要となる。その回数は10年に一度。多くは、大企業の社長が息子にその座を譲り、老後の小遣い稼ぎに政治家になるというパターンで、適当な大臣に賄賂を送れば必ず政治家の仲間入りが出来るというもので、選挙とは名ばかりのものだと聞く。選挙権自体有る程度の条件が揃っていないともらえないので、自分達にはあまり縁のない話ではあるのだが。
「その選挙に、20代の平民出が立候補したって話」
「……はぁ?」
 だから、葵の情報には驚かされた、というよりは呆れた。
「……何考えてるんだ……若さ故の暴走か?」
 確かに、義務教育を修了していれば、立候補出来る年齢に制限はない。だが、立候補するには莫大な金が必要なはず。そんな金、平民が持っているのか。持っていたとしても、そんな溝に捨てるような真似をするなんて馬鹿としか良いようがない。それに平民出が、政界に足を踏み入れるなど、選挙権を持つ上流階級の人間が許すわけがない。
「それがさぁ、そうでもないっぽいんだよ」
 和泉の苦い表情に、葵も少し不思議そうに話を続けた。
「なんか、結城家がそいつの後ろ盾になってるみたいで」
「結城が!?」
 更に信じられない事を告げられ、和泉は思わず声を上げていた。結城と言えば、王室と血を繋いだ三大名家の一つで、この国の政治に関わる一族。今政治の実権を握るのは同じように王室と血を繋いでいる三大名家の伊庭家だが、その伊庭家と対立している結城家は平民に良心的で、軍に友好的な感情を持たない文官だ。先の戦争も、結城家は最後まで反対していたと聞いている。
「これは裏情報だけど、結城築の息子は結構放蕩息子らしくてね。見かねた結城が平民出のそいつを政界に入れて、そいつに継がせるつもりなんじゃないかってもっぱらの噂だ。結構良い大学出らしいよ」
 結城築というのは結城の若き現当主で、彼には20代の息子がいるとは聞いていた。だが、父親に似ず大学はそれなりのところを卒業したものの、卒業後は政界には目を向けず、裏社会で名を馳せているらしい。
 結城はもう駄目だと、囁かれ始めた時の話だった。
「結城は王室と……蒼龍様と友好関係がある。もし、そいつが政界に入れたら、結城の力が強くなれば……国が、変わるかもしれない」
 ぞわりと何かが背筋を駆け上るのを和泉は感じた。
「な?面白い情報だろ?」
 葵も口元を上げて和泉の顔を覗きこむ。お互いの目の中に宿った希望の光りを確認し、頷いた。
「蒼龍様は御存知だろうか」
「軍にいる君より情報は早いと思うけど?」
「……そうか、そうだろうな」
 途端、少し淋しげになった和泉の横顔に葵はため息を吐く。久々の喜びの感情を大切な彼と分け合いたかった気持ちは分かるが。
 そんな顔をするくらいなら、と思うのは自分だけだろうか。
「何でこんなところ戻って来ちゃったの。ずっと側にいれば良かったじゃん。蒼龍の小姓なんて、人間で言うところの名誉ってヤツだったんじゃないの?」
 呆れたように言われ、和泉は軽く目を細めた。確かに、蒼龍の小姓である自分は王宮を自由に動けた。だが、別にそんな名誉が欲しくて彼の側にいたわけではない。
「名誉なんて別に要らない。俺はあの方が幸せであればそれでいい」
 他の小姓は彼に色目を使ったり、取り入ったりと名誉やら富やらを得るのに必死だったが、そんな彼らが滑稽に見えて仕方が無かった。彼の側にいるだけで満足だと言う自分の方が、彼らには滑稽に映ったようだが。
「……お気に入りだった君がいなくなって、蒼龍も淋しいんじゃないの?」
 話を聞く限り、和泉は絶対に蒼龍に気に入られている。こんなに真摯に自分の事を想ってくれる人間などそういない。それに蒼龍が気付いていれば、和泉は彼のお気に入りだろう。
 お気に入り、という葵の評価に和泉は苦笑した。その笑みの真意は解からないが、彼は自分が気に入られているとは思っていないようだった。
「淋しいなど思う暇がある職ではないぞ、皇太子というのは」
「あれ。厳しー……でも何かイイ感じに成長したね、君。ちょっと色っぽくなった?もしかして、蒼龍とそういうカンケイになってそういう意味でも可愛がられてるぅったぁ!!」
 思いきり頬を手の甲で殴られ、葵は一度窓の中へと引っ込んだ。
「なんだよぉー軽いジョークだろー?てか顔はやめて!俺一応商売道具なの!」
 紅くなった頬を撫でながら葵は今日の予定を思い出す。これからも色々と仕事があるのに、顔にあざなんて作ったら上司に怒られてしまう。
 だが、和泉の方は無表情で空を見上げている。
「そういう邪推は不愉快だ」
「んだって!小姓っていえば主人の夜伽もするってのが昔からの慣わしってゆーか!」
「俺と蒼龍様はそんな穢れた関係じゃない。お前、ヨシワラに行って俗化したな」
「失礼だな。一般的な意見を言ったまでだよ」
 腰に手を当てて何故か胸を張る葵に和泉は深いため息を吐く。小姓なんて言葉も最近では一般的に使われないのに。使われているとしても日本史の文献でちらりと見る程度だ。そんな単語の裏の意味が、一般的な意見になるわけがない。
「そんなの非生産的だ。あの方には一刻も早いお世継ぎ誕生が望まれている。俺じゃ孕めないだろうが」
「……孕めたら、抱かれちゃうのか?」
「蒼龍様がそれを望むなら。身分違いでも彼の血が入った子供は一人でも多い方がいいだろうしな」
 さらりと事も無げに言う和泉に、からかう余地が無いと察し、葵は暗くなった空を見上げた。
「人造の俺が言うのもなんだけどさぁ」
「何だ」
「それって、愛じゃないよな?」
 随分と似合わない単語を持ち出してきたものだ。
 葵や他の人造人間は愛やら恋やら人間が幻想を抱きやすいこの単語を嫌う。人間の欲望のままに弄ばれる彼らにとっては信じられない単語の一つなのだろう。そんな彼がわざわざそんな言葉を持ち出してきたのだ。
「当たり前だろう。俺があの方に抱いてるのは忠誠のみだ」
「蒼龍が、君に忠誠じゃなくて愛を求めたらどうするの?」
 じぃっと葵の黒い目に覗き込まれ、和泉は目を伏せる。
 蒼龍と愛という言葉を結びつけてみて、思い出すのは最近決まった彼の側妃。病弱な彼がいつこの世を去るか不安になった宮廷庁の翁が宛がった名家の息女だ。だが、彼は彼女に手を触れることはなく、ただ昼間時間のある時に2人で庭を歩いたり話をしたりと、穏やかな時を過ごしている。とても綺麗で、庭に咲く睡蓮のような女性だと思った。
 夜は昼に残しておいた仕事を片付けるから、と彼女を部屋に寄せなかった。そうした彼をどうにかして欲しいと翁衆に泣きつかれた事もあったが、自分が何を言おうと彼はただ笑うだけだった。
 ただ一人を愛する事が許される日など自分には来ないと。
「……そんなことは、有り得ない。俺にとってあの方は唯一だが、あの方にとって俺は万民の一人にしか過ぎないからな」
 彼は全てを愛しむ。
 そんな彼だからこそ、護ろうと決意したのだから。
「良いの、それで」
 葵の問いかけに腰を上げ、和泉は肩を竦めた。
「その程度に思われていた方が楽だ。この命はあの方に捧げると決めている。俺の所為で泣くあの方など見たくもない」
 軽く笑う和泉の横顔に、何かを察した葵は無意識のうちに眉間に力を入れていた。
「なぁんか報われないでやんの。やっぱ人間だけど、こっちよりだね、和泉くんは」
「……それより、お前はどうして日向翔と共にいた」
 急に声が低くなった和泉の問いに、多少怪訝には思ったがにこりと花が舞ったような笑みを浮かべた。
「え?それは俺がカケルに恋しちゃったからー」
 彼ら人造人間は、愛やら恋やらの言葉を嫌うが、皮肉って軽々しく使う。その事を知っている和泉はただただ呆れた。
「見え透いた嘘を……」
「嘘じゃないよ」
 え。
 そのはっきりと意志を持った否定に和泉は思わず目を見開いて彼を振り返った。そこにある葵の横顔は、いつものおちゃらけた彼の表情とは違う。
「嘘じゃない」
 沢村と彼のキスシーンを見て頭が沸騰しそうなほど熱い怒りを覚え、廊下じゃなかったら彼を押し倒して泣かしたいという衝動にかられ、克己の名前が出て彼に妬き……気付く要因がありすぎた。
 いっそ誇らしげな葵の様子に呆気に取られていると、彼は「じゃ、俺仕事あるから!毎度!」とさっさとご機嫌に去っていってしまう。
 何なんだ。
 自分もそろそろ自室へ帰るかと、とりあえずそこから飛び降り、コンクリートの上に着地をする。北寮と南寮は建物が繋がっているが、北寮の中を堂々と歩くのは流石に気が引けた。
 闇の空には月が仄かな光を放っていて、今頃彼もこの月を観ているのだろうかとぼんやり思った。娶った側妃と共に。
 ……それでいい。
 彼女を宮廷に迎える前に、翁衆に呼び出され、何とも下世話なことを問われた。お前はあの方の伽の相手なのかと。彼が寝入るまで側についていることはたまにあったが、思いもかけない問いに自分の方が混乱してしまい、それに慌てた相手に謝られた。
 そして、続いて側妃が来るに当たって、少し蒼龍から離れて欲しいと頼まれた。
 溺愛する小姓が存在すると側妃に知られたら、彼女が機嫌を損ねかねないし、蒼龍が彼女を必要としないかもしれない、とのことだった。確かに寝所に彼女を近づけないという彼の態度には自分も焦りを覚えた。
 仕事の内容はさほど変わらない。変わったのは、彼と共にいる時間を側妃に明け渡したということだけ。
 それが彼の為になるのなら、と上の命に従い、自分は空いた時間をひたすら戦闘訓練の方へと当てた。
 そうした日々が続き、ある日耳にしたのはとうとう彼が側妃を寝所に招き入れたという話。
 そうか、良かった。そう単純に思った。
 僅かに感じた喪失感は、彼が自分の知らない人間になってしまった事への憂いから来るものだろうか。
 この学校に素性を隠して入学したいと彼に願い出た時、彼はなかなか良しと言わなかった。翁衆の口添えがなければきっと今ここにはいない。
 公の場で願い出て、そこで頷かせれば撤回は出来ない。それは翁衆の入れ知恵だった。
 小姓の一人や二人、減ったところで構わない。
 そう彼は公の場で言い、自分は許しを得て、ここに来た。
 後悔はしていない、はずだ。そんなものするはずもなかった。
 彼と別れる前夜に、彼の体温を知るまでは。
「……馬鹿らし」
 葵の言うとおり、人間だが自分は彼ら寄りだ。友情や親愛ならまだしも、愛だの恋だのは信じられない。
 それでも、彼の言葉は信じたいと思うのは長年の忠義生活の所為か。信じたところで何かが変わるわけでもないのに。
 自惚れるな。
 心の中で己を叱咤し、暗闇に溶け込んだ。


 

 自分の下で甘い声を上げる女を冷めた目で見ながら、葵はひたすら無心に手を動かしていた。
 ときたまに彼女に優しい言葉をかけるのは忘れない。
 翔のところから戻ってきてすぐに客をとらされ、今日は相手が女でよかったとつくづく思う。
 自分は人間に造られ、一生の服従を誓わされている生き物。気がついた時には理不尽な人間の行動に振り回され、傷つけられていた。
 そうしていくうちに、彼らに対する憎悪と嫌悪が蓄積されて、今に至る。
 人間なんて大嫌いだ。
 ずっと、そう思っていた。ずっと、ずっと。ずっとだ。
 人間に恋をするなんて、有り得ないと思っていた。
 なのに。
 あぁ、と女が高い声を上げる。声を上げるな、と心の中で毒づいた。
 火灯だけが灯る淡い闇の中、葵の目の前にいたのは日向翔その人だった。
 何故だ。今日の客は彼とは似ても似つかない容姿で、お世辞にも美人とは言えない顔立ちだった。
 なのに、回り灯籠は彼女と翔の顔を交互に照らす。
 こんな、はずは。
 く、と眉根を寄せて慣れた快感をやり過ごすと女の腕が首に巻きついた。彼の腕は、もう少し細かったような気がする。
 女性の柔らかい脂肪がつきすぎる腕に、わずかに吐き気を覚える。
 今日抱きしめた彼は温かかった。白かった。小さかった。
 何となく埋めた首元の香りには、頭がくらくらした。髪から漂うふんわりとした太陽の香りには頭が熱くなった。
 カケル。
 心の中で彼を呼ぶと胸が痛かった。
 こんな、はずは。
 人間に心から恋をして、結局捨てられ、死を選んだ昔の仲間の最後の姿と、翔の笑顔が頭の中で錯綜する。
 自分は、アンドロイドで、彼は、人間で。
 もし、彼を抱けたらこの奇妙な焦燥は無くなるのだろうか。
 カケル。
 自分の下で身悶える彼を想像すると、体がカッと熱くなった。
「どうしよう、姐さん……」
 人知れず、呟く。
 人間に恋をしてしまったかも、しれない。



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