人の気配がする。
克己ははっと顔を上げたが、教室の扉の向こうに感じた気配はすぐに消えた。
「なに、どうかした?」
 動物の遺伝子を持つはずの加藤はそれを感じ取らなかったのか、不思議そうな顔をして甘えるように手を伸ばしてくる。それが妙に鬱陶しく、さり気なくその手を払い身を起こした。
 そんな克己の態度に加藤は怒るわけでもなく、彼も身を起こして肩を竦めるだけだった。
「偉い人達はこうすれば喜んでくれるのに」
「そうか、それは良かったな」
 少しだけ緩めたネクタイをいつもの位置に直して、窓の外を見る。夕日はとうの昔に沈んでいて、教室の中は廊下の明かりでどうにか相手の顔を確認出来るくらいの明るさだ。
「何だ、もう終わり?」
 自分を突き放し帰り支度をする克己に、相手をしてもらえるのでは無いかと期待していた加藤はつまらなさそうに、そして強請るように眼を光らせる。猫目が妖しい光を持ったのに、克己は眉を顰めた。
「悪いが、人外には基本的に興味が無い」
「ふぅん……それなら、ね、こっちの相手でもいいよ?」
 ひゅ、と聞きなれた空気を斬る音が耳を掠め、何だと眼を見張るといつの間に持っていたのか加藤の手には銀色に光る刃物が握られている。
 猫目が、闇の中で獲物を見つけて爛々と輝いていた。
「……殺されたいのであれば、好きにしろ」
 彼がナイフを持ち出してきたことに動じることなく、ただ淡々と静かな声で加藤に忠告する。
 自分より強いものには平伏する動物の本能は欠落しているのか、加藤はしばらく克己の背をギラギラとした眼で見ていたが、つまらなそうにナイフを下した。
「いっぺんにそんなに楽しんじゃあ、後が面白くなくなっちゃう、か」
「俺は別に今でも構わないが?」
「折角のお誘いだけど、止めとく。さわむーに怒られちゃう」
 けらけらと彼は笑い、自分の最も親しい相手の名を出した。彼も流石に沢村の言う事は聞いているようだ。猛獣と猛獣使いのような関係なのかも知れないが。
 けれど何を言っても、どんな態度をとっても、まったく相手にしない克己の様子に、加藤はにやりと笑む。
「じゃ、日向君かな。日向君相手もしてみたいんだ」
 さぁて、どうしてやろう。
 白銀のナイフに舌を這わせ、翔の血の味を想像し眼を細める。そんなのんびりとした加藤の思案の台詞に思わずその首元を掴み上げていた。唐突だと思われた克己のその行動にも加藤は動じず、たださっきのような悪意の無い笑みを向ける。
「無理矢理とか結構好きなんだ。引っ掻いたり、噛み付いたりとかも。ほら、僕虎混じってるからさ。泣き叫ぶ声を聞くのも大好き。どんな声で泣いてくれるかなぁ日向君。君は、日向君が泣いてるところ見たこと、ある?」
 随分と嫌な事を聞いてくる。
 眉を顰めながら手に力を加える行動を肯定と取ったらしい彼は机にそれなりに息苦しいはずなのにも関わらず表情を輝かせた。
「ね、どんな感じ?やっぱり、子供みたいに大泣きするの?大人しくシクシク泣くのかな。犯したら、どんな悲鳴上げてくれそう?考えるだけで、ぞくぞくするね!!」
 まるで、良い玩具を見つけた子供のような瞳と声で彼はケラケラと笑う。今更ながら、怖気が走った。その笑い方はまるで出来の悪い玩具から発声される音のようだ。
 まぁ、彼は翔相手に言っているのだから、自分には関係の無い事だ。
 関係のない事のはずだ。
「……随分と獣じみているな。人間としてのプライドは無いのか」
 克己の冷たい声に彼は眼を大きくし、次の瞬間声を上げて笑い出した。
「そんなのあるわけないじゃん!僕の血は純粋な人間じゃあない。人間でいる必要がない。んでもさ、人間だって動物じゃない?基本的な本能は何ら変わり無いよ。君達人間にも、理解出来るはずだ。犯してみたくないの?泣いた顔観たんなら、可愛いって、無茶苦茶にしたいって思わなかった?自分の所為で泣く姿とか想像して、ぞくぞくしないの?」
 ねぇ。
 まるで誘うように加藤は微笑む。
 しばらくその怪しい笑みを克己は睨みつけていたが、何故か唐突に手から力が抜けて加藤を解放していた。それを相手は自分の勝利と思ったらしく、見上げてきた眼は挑戦的なものへとなっていたが、苛立つほどではなかった。
 何だか急に馬鹿らしいことをしてるように思えてきたのだ。相手は人間ではない。そんな相手にはどんな嫌味も批判も届かない。届くわけがない。
「確かに、お前の言う事はある程度理解出来る」
「でしょ?だから、僕今度日向君」
 けれど、彼の名前を出された時は、この獣を黙らせたくなった。
「だが、生憎と当分アイツを泣かせるつもりはない」
 加藤の予想とは大きく外れた泣き方しかしない翔の顔を思い出し、思わず苦笑していた。大泣きするわけでなく、かといって忍び泣くわけでもなく、表情を崩さずただ涙を流すだけの泣き方。
 今まで色々なところで色々な人間の泣き方を見てきたけれど、あんな泣き方を観るのは初めてだった。
 まともな泣き方も知らない相手を見て、どこに欲情や劣情を感じる隙がある。あれを観た瞬間に思ったことは、ただ漠然と
「俺が、笑っている顔の方が好みだからな」
 いつも笑った顔しか観ていなかった所為だろうか。泣き顔は観たくないと、ただそう思った。
 思っていた返事と違ったのか、加藤は変な顔で無表情の克己を見上げた。
「なに、それ。訳解かんない」
 理解出来ない、と動物の瞳が訴えてくる。無垢な眼には違いないが、恐らく彼がこの事を理解する時は一生訪れないだろう。
「笑った顔なんて観たところで楽しくとも何とも無いよ。馬鹿じゃないの。泣いた顔の方が絶対可愛い」
「……良い事教えてやろうか?加藤」
 くすりと誰を思い浮かべて笑ったのか、妙に優しげな表情になった克己を加藤は上目遣いで見上げる。大して可愛げのないその顔に、克己は彼から視線を逸らし、窓の中の先が見えない闇の向こうを見つめる。その先には大分遠いところに街灯の小さな光があった。
「アイツはお前程度の奴に泣かされるようなヤツじゃないし、それは俺が許さない。覚えておくんだな」
「……さぁ?僕は普通の人間ほど記憶力が良くないからね。すぐ忘れちゃうかもよ?」
 くすくす笑う加藤は脅したところで大して効力が無い。彼もここに居る身で、更に造り物だから通常の脅しには屈しない、屈する必要が無い。
 死すら恐れない彼らはやはり人間としてどこか欠けている。
 そんな相手に矢張り接触させるにはいかない。
「その時は、消させてもらうだけだ」
 脅しではなく、宣告。
 加藤もただ無表情でその言葉を受け止める。彼にとっては生きるのも死ぬのも、どうでもいい遊びのようなものにしかすぎない。彼だけではなく、人間の手によって造られた生を持つ者は恐らく皆。
 だから、自分達と彼らは解かり合える日は絶対に来ない。
 人間の手によって作られた彼らは、気が付けは人間にとって最も厄介な存在になっていた。
 加藤を残して暗い教室から出ると、明る過ぎる照明が眼を突いた。もう校舎に生徒は残っていないだろうに、無駄な電力だ。
「甲賀?」
 長い廊下を歩いている時に呼び止めてきたのは、よりによってあの川辺。
「丁度良かった。お前、日向と仲が良いよな?コレ渡しておいてくれないか」
 この間とは打って変わったにこやかな態度で彼は見覚えのある白い封筒を克己の前に差し出す。
 今日の朝に配られた、明細票だった。
 それがどういうことを示すのかわからない程馬鹿じゃない。
「……何故、教官がこれを?」
 今日の朝に配られて、何故彼が持っている。考えられる理由はただ一つ。
 けれど、川辺は曖昧な笑みを浮かべて答えた。
「日向がな、俺に会いに来て色々と質問していったんだ。その時に忘れたものだろうな」
「質問、ですか」
 一体どんな質問をしたら、窓から突き落とされるんだ。
 白い封筒を裏返してみる克己の様子に川辺は眼だけで笑う。
「気になるならお前も中身を見ればいい。日向の戦利品も入れておいた」
「戦利品?」
「それを賭けて俺は日向と手合わせをしたんだ」
 軽い口調で説明する川辺に、思わず克己は眉を寄せる。
「生徒と個人的な戦闘をしたのか……」
「まぁ、俺が負けたから良しとしておけ?流石、日向穂高の弟子だ」
「日向穂高?あの……?」
 聞き覚えのある名前に克己は眼を細める。翔が叔父さん、叔父さん、と言っていたのはあの日向穂高だったのか。
 と、いう事は、だ。
 視線を下げ、何やら思案する克己の様子に川辺は一瞬表情を消した。
「……俺がお前にそれを先に渡したのは、お前がまず先に見ろということだからな?」
「はい?」
 川辺の注意に克己が顔を上げると、彼は滅多に見せない嘘くさい笑みを浮かべ、克己の横を通り過ぎていく。
「お前の活躍、期待してる。心が決まったんだろう?日向によろしく」
 すれ違いざまに肩を叩かれた。
 一体どういう意味だ。
 つまりは見ろという事なんだろうが、彼の意図が解からない。白い封筒を開けて中身を取り出すとそこから出てきたのは入っていて当たり前である明細票。そして、自分の明細票には入れられていなかった紙が二枚。
 その内容に眼を滑らせ、息を呑む。
 川辺がまだそこにいないかと顔を上げたけれど、もうその姿は無かった。
 何故彼が翔ではなく自分に渡したのか……その意図だけは読めなかったけれど、感謝するしかない。
 常に持ち歩いているジッポライターを取り出し、その二枚の紙の端に火をつける。すぐに紅い炎があがり、文面を這うようにして消していく。
 見せるわけにはいかないと、そう思った。
 泣かせないと、さっき加藤に言ったばかりで。
「くそ……」
 トイレの洗面台に燃える紙を放り込んで、灰になっていく真実にただ遣る方無い思いをぶつけるしかなかった。




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