「うー、無い……」
 大志は放課後になってこの間無くした写真をあちこち探していた。無くしたなんて、言えるわけが無い。大切な家族写真だったんだろうに、無くしたことを知られたらきっと元不良のキレの良い拳をお見舞いされる。
 それを想像し、ぞっとした。
 どこを探しても見つからないという事は、誰かに拾われてしまったのだろうか。そうなって、もし捨てられてしまっていたら。
 ざっと血の気が引いた大志をからかうような煙草の煙があたりに立ち込め始めた。談話室には灰皿が置いてある。だから苦い香りがしてもおかしくないのだが、煙の臭いと灰の臭いは少し違う。
 真新しい煙の臭いに誰かいるのかと談話室を覗き込んだが、窓が開いているだけで誰もいない。窓が開いているのなら、むしろにおいが無くなっていてもいいはずなのに。
 今更ながら、この学校は士官学校だ。
 若くして戦争で死んだ生徒は沢山いる。それ故に、一つの学校には必ずある七不思議のネタは尽きない。七どころか七十七もあるのでは無いかとも言われている位には。
 今、いずるがいたらすかさず七不思議の話を始め、今、正紀がいたらすかさず幽霊!と絶叫しただろう。
 香りだけ漂わせる、幽霊か。
 けれど大志はそこで考えを止めた。
 いや、むしろ香りだけ漂わせるというのは確か悪魔の常套手段では?
 悪魔は自分の存在を知らす為に焼け焦げた臭いを漂わせると聞いている。煙草の臭いも、焼け焦げた臭いと言えなくもない。
「いや、落ち着け、俺!俺は牧師の息子。神に守られている。というか悪魔なんて存在しない……はず!幽霊来るなら来い!天にまします?我等が父よ、願わくばみ名をあがめさせたまえ、み国を来たらせたまえ?」
 うろ覚えの祈りを唱えると、何故だか臭いがきつくなる。
「お前、本格的にアホだろう……」
「うわーっ!和泉の顔した悪魔!」
 開いていた間窓から顔を出した和泉に心の底から驚愕した大志は思わず自販機の影に隠れ、それを見た和泉はため息と共に煙草の煙を吐き出した。
「……って、アレ?本物?そんなところで何してるんだ」
 ここは3階。だというのに、和泉は窓の外にいる。どうやら、建物の構造上かそれとも外見の良さのために作られたものか、少し外に座れるくらいのでっぱりがあるらしい。そこに彼は腰掛けて煙草をふかしていた。
 その煙が空へと昇っていくのを見て、合点がいく。
「ああ、何とかと馬鹿は高いところが好きってやつ!」
「てめぇ、マジしめっぞ」
「あ、間違った。煙と何とかだ」
「……これは棄ててもいいようだな」
「え?あっ!駄目だ!」
 和泉の手にあったのは大志が探していた正紀の写真だった。何故彼が、と思ったが彼とあってからだ、写真が見えなくなったのは。
「拾ってくれたのか、さんきゅ!」
 飛び掛るように窓の向こうにある和泉の手から写真を取ろうとした、が
「おっと」
 さっと和泉がその手を引いたので、勢いで半身を窓から乗り出してしまった大志は危うく飛び降り自殺をするところだった。サッシに勢いよく打ち付けたみぞおちが痛い。
「いずみぃ……」
 情けない声を出す大志を和泉は眼で笑い、写真を彼の目前でひらつかせた。
「返して欲しかったら、俺の言う事一つ聞け」
「……えぇ!?」
 大志は大袈裟すぎるほどに驚き、慌てふためく。その顔は何故か真っ赤だ。
「それって、まさか和泉、俺の事そんな眼で見てたのか!?」
「……ちょっと待て、どんな眼だ」
「こ、困る困る!宗教上男色は駄目なんだよ、俺っ!無理無理無理……のぅあ!?」
 ぐい、と首元を掴まれ大志の視界は反転する。眼の下には、少し遠くに緑色の地面が。
「こっから落とされたいのか、お前」
「……冗談ですごめんなさい」
 本気でそんな事考えているわけが無いんだからそこまで怒らなくても。普段どおりの冷たい眼だったがその奥には怒りが潜んでいるのを見て大志は両手を挙げた。
「で、俺は何を聞けば良いんですか?」
 ぱっと手を離した和泉に先ほどの条件を問う。掴まれていた襟元を正しながら窓のサンに腰をかけた。
「……お前、佐木遠也と同室だったよな」
「そうだけど」
「……なら、橘の事は知っているよな」
 少し声の低くなった和泉の顔は見えなかったが、真剣なのは伝わってきた。
「知っている、けど……」
 正直な話、名前と顔だけだ。この間の自殺未遂の一件で彼女を見ただけで、大志は他に何も知らない。
「俺は何も知らないぞ」
「佐木遠也が橘のことを調べていたこともか」
「それは、知ってるけど」
「なら、その調べた資料を俺に回して欲しい」
「そんな泥棒みたいな真似は出来ない」
「……写真はどうする」
「自分で調べればいいだろ、和泉ならそれくらい」
「橘のことを知りたいわけじゃない。彼女の資料を全て消したい。だから、俺に手渡さなくても資料を燃やすかしてくれればいい。どうせお前らももう要らないだろ」
「要らないかどうかは遠也に聞いてみないと」
「……佐木と直接交渉の方が早そうだな」
 そう判断して和泉は腰を浮かせる。そのまま飛び降りてしまいそうだった彼に大志はぎょっとした。ここは3階。普通なら飛び降りれば骨折か打撲は免れない。
「ちょ、ちょっと待て和泉っ!早まるな!それに、写真っ!」
 がしっと背中をつかまれ、和泉はこの時ようやく厄介なヤツと関わったと思う。どうやら大志はあまり自分に対して警戒心は持っていないようだが、お人好しの性格は正直うざったい。
「別に早まってはいない。写真はまた今度」
「なんでー!拾ったものそのまま持ってたら泥棒だし!」
「拾ってやったのに随分な言い草だな。大体お前、この写真の人物が誰だか知ってるのか」
 ひらりと和泉の手の中で揺れる写真に写っているのは恐らく正紀といずる、そして正紀の父親だ。
「知ってる。篠田と矢吹と、それと篠田の親父さんだろ」
 胸を張って答える彼に和泉はため息を吐いた。
「篠田鷹紀。一部じゃコイツの名前は有名だ」
 和泉も何度か彼の顔を観た事がある。勿論、写真か映像媒体でも何度か。まさか篠田正紀の父親だったとは。この写真を見るまで知らなかった。
さて、どうする。佐木遠也。
 確か彼はあの薬を作ったグループに入っていた早良と繋がりがあるはずだ。先程、正紀が遠也の部屋に行くのを目撃していた和泉は眼を細めた。
「彼は、知ってはいけない事を知ったから殺された人間だ」
 佐木遠也がその事実を知るのもきっと遠くない。その時彼がどんな行動をとるか、日向翔がどうするか。
 高みの見物をさせてもらおうか。
 ふ、と面白げに笑った和泉の真意を大志は知る由も無かった。




「……あ。遠也にコレ渡すの忘れてた」
 部屋に帰るにはまだ早すぎる時間帯で、適当に外をぶらついていたらポケットの中に入っていた存在を思い出す。今渡しに戻っても邪魔になるだけだろうし、明日でも良いか、と粉薬を指で弄りながら建物の影に足を踏み入れた。
 その瞬間、目の前に白い手が現れ、驚く間もなく口を塞がれて影に引き込まれる。
「騒ぐな」
 耳に触れた低い声は聞き覚えの無いもので、後ろから羽交い絞めされている為、相手の顔が解からない。
「っアンタ、誰……っ」
 口から手が離され、声を出すと目の前に現れた手が何かを持っていた。それに焦点を合わせて、息を呑む。
「生徒会、の……保健委員?」
 彼がそういう人物だという事を示す徽章に今度は緊張で身を固める羽目に。そういえば、川辺の部屋から出てすぐに風紀委員である沢村がいた。あれは偶然ではないだろう。
 間違いなく、生徒会が動いている。
「川辺教官にあまり近寄るな。これは命令だ」
「どうして」
「……君の為でもある」
 手を離され、素早く振り返りそこにいた人物の顔を見て翔は眼を見開いた。
「あんた、確か……」
 ネクタイの色は臙脂色。そしてその顔は、川辺の部屋に行った時に彼の上に乗っていた男だった。
 彼は少しバツが悪い表情になり、黒く長めの前髪をかき上げた。その下にある肌が奇妙に白く見える。
「あの事は忘れろ。仕事だったんだ」
「仕事、ってやっぱりあの噂本当なんですか。川辺教官が、薬を……って」
「君が知ることじゃない」
 冷たく彼は言い放ち、顔を背ける。
「俺は、2年の松長。もし君達に何か妙な動きがあれば、容赦しない。君の友達の佐木遠也と篠田正紀にも伝えておけ。特に、篠田正紀……」
 彼は何を思い出したのか、正紀の名を再び口にし、厳しい表情になる。
「余計な事をしたら、今度こそ命は無い」
「命は無い、って」
 何故遠也と正紀の名前が出てくるんだろう。
 丁度今話をしているだろう2人の名前に翔は眼を大きくした。もしかして、あの2人は今回の事を何か知っているのではないか。
「篠田達に一体何をするつもりですか……!」
 友人達の危機を黙って見過ごすわけにもいかず、強い眼で相手を睨みつけたが、彼は自分を一瞥するだけで背を向けた。
 一体、何なんだ。
 知らない人間の登場と知り合いの自分が知らない一面に胸騒ぎがする。もしかしたら、自分も友人も結構不味い事に関わりつつあるのでは無いかと、今更思い始めた。
 けれど、脳裏に過ぎるのは白い部屋で眠る彼女の姿。
 引き返す事は出来ない。
 彼女が笑ってくれるなら、何でも良い。それが、自分にとっては正義なのだから。
 俺は正しい。
 そう言い聞かせないと、弱い自分が前へ足を踏み出す事を恐れそうだった。





 俺は正しい。
 自分のやっている事は正しいことなのだ、と何度自分に言い聞かせたか解からない。
 人を殴っている時、母親に厳しく今の生活を言及されて曖昧な返事をした時、久々にいずるに会ったけれど、素っ気無く二度と会うな、と言った時……あの薬を手にした時。
 気が付いたら、あまりにも多くのものを失っていた。
 だからこそ、引くことが出来なかった。
 仲間にこれはヤバイ、と止められながらも正紀はその店へ、彼の元へと通った。薬のことなど興味が無い振りをして、何度か誘われたけれどその度に断わっていた。金が無い、興味が無い、やりたくない、そんな適当な言い訳を口にして。
 店の顔なじみになって、その頃だった。再び、いずると諌矢に再開したのは。
 いずるは純粋に父親の死亡記事を見て、正紀を心配して訪ねてきてくれたが、街の不良頭となっていた自分の姿を信じられないという眼で見た。それが当然か。
 それでも、彼は自分と兄の携帯の番号を教えて行った。けれど、自分の今の姿を知ってしまったいずるに電話をすることは出来ず、震える手で押した番号は兄の方。久々の再開に諌矢は喜んでくれて、当時の自分にとっては彼との会話が一番心が安らぐ時だった。
 もしかしたら、すべてが終わったら昔のように戻れるのでは無いかと、淡い期待もし始めていた。
 ひたすら、仇の側で様子を伺い、情報を集める日々。復讐という言葉を意識したことは無い。ただ、何故父が殺されなければいけなかったのか、それを知りたかっただけだった。それを知った上で、彼に法的処置を受けさせて、罪を償ってさえくれればそれで良かった。
 けれど相手はそんなに甘い相手ではなかったことに初めて気付かされたのは、初めてあの薬を自分の手の平に乗せた時。
 彼は自分に薬を渡してきて、にっこりと笑ってきた。
「篠、お前に変な噂があるんだよ。俺に信じてもらいたかったらそれを飲め。飲めなかったら噂を信じてお前を殺す」
 こめかみに感じたのは硬い鉄の銃口。
 確実に殺される、と思った。
今でもはっきりと思い出せる冷たい声。
 ここで今まで曖昧に受け流していた薬を飲めなかったら確実に殺される。彼の眼は本気だった。
 その時初めて、自分がかなり深いところまで彼らと関わってしまったのだと自覚した。
 そして、引き返すことも出来ない、ということも。
 目的を果たさずに死ぬのは、嫌だ。
 その時思ったのはそれだけで、それを飲むことに大して抵抗は無かった。
 思った以上の苦さに咽る自分を彼は笑い飛ばし、ぐしゃぐしゃと頭を撫でてきた。まるで子どもを褒める親のそれだ。不意に死んだ父の顔を思い出し、叫びだしたくなった。
 そんなこちらの心情を知るわけもない相手は、いつかその苦味はお前にとって甘美なものになる、そうくだらないことを言って。
 その後の記憶は無い。恐らく初めての薬に脳がイカれてしまったのだろう。覚えているのはあの甘ったるい臭い。
 仕方なかった、で済まされるような事でないのは自分が一番良く解かっている。もう天国の父親に顔向け出来ない人間になってしまっているということも。
 しばらく軟禁され、毎日薬漬けで、そこに助けに来たのはいずるだった。イカれている頭で散々罵倒して殴りつけた自分を彼は何も言わず、ただされるがままになっていた。
 その後、警察に密告した自分に対し、ラクはまた大笑いをした。お前みたいな大馬鹿に会ったのは初めてだ、と。
「これで全部終わった。途中、いずるも巻き込んじまって手の傷は、ヤクやってるヤツがナイフ持ち出してきていずるを襲ったから、それを助ける時に出来たもんだ」
 遠也も傷跡に気付いていると克己から言われていた為、ひらひらと手を振って説明すると遠也は視線を落とし、普段の強気な顔ではなくどこか憔悴したような表情になる。顔の作りが綺麗な所為か、そのどこか儚げな表情は、もう一人の幼馴染のことを思い出させた。
 諌矢とは、あの一件後、一度も会わなかった。電話をして礼を言おうと思ったのに、何故か彼の携帯には繋がらなかったのだ。
「……なんか、天才には更に嫌われそうな話ししちまったな」
 遠也にはどこか潔癖なイメージがあり、正紀は思わず苦笑した。顔が綺麗なのと彼が病院の院長の息子で医学にも詳しいという辺りで構成されたイメージだろう。
 そんな彼はきっと、薬を手に取った自分を嫌うに違いない。他にも軍属の人間は薬を使う人間を毛嫌いしていると聞く。
「どうよ?軽蔑したか」
 どうせ今まで嫌われていたんだから、これ以上嫌われてもいいかな、と考えながらの茶化した聞き方だったが、ぱっと顔を上げた遠也の眼はその感情が伺えないほど黒い。けれど、それがすっと細められた事で、遠也がわずかに怒っていると思った。彼の感情を察せたのは、これが初めてだ。
「嫌っているのはそちらなのでは?俺はあの“佐木”ですからね」
「え?俺……お前のこと嫌いって言ったっけ?」
 正紀としては遠也を嫌っていた覚えは無く、というか嫌っている相手にこんな踏み込んだ話をするわけもない。遠也にそう思われていたのなら誤解だ。
 遠也のほうも意外な返答だったらしく、少し眼を大きくする。
「……俺はよく貴方に突っかかれていると思っていましたが」
「突っかかってたつもりはない、ぞ?それならお前の方が俺に対して結構キツイだろ。だから、俺はお前に嫌われてるって」
「それは……すみません性格です」
 むすっとした顔で謝られ、正紀は思わず笑ってしまった。
「天才、お前って結構子供っぽいな」
「はぁ!?」
「ああ、貶してるわけじゃない。歳相応で安心したって意味だから」
「それでも嬉しくありません」
「なぁ、佐木」
 穏やかな口調に遠也は正紀に視線をやる。彼は、笑っていた。
「俺、もしかしたらそのうち誰かに殺されるかもしれねぇ」
 最近感じるあの視線の意味は解からない。が、確実に殺気の類だ。
 もしかしたら、あの店で薬を貰っていた誰かが、この学校にいたのかも知れない。そういう人間達は、あの店を潰す切っ掛けとなった自分を恨んでいる。あの事件後、何度かそういう人間に襲われたこともある。
 この学校ならば、安全かとも思ったが、そうでもないだろうと気が付いたのは最近だった。あの薬が蔓延している、この場所は自分にとっては危険地帯だ。
「後悔はしてないんだ。ここに来た事も、昔の事も。殺されるのも、そんなに怖くない。ただ」
 そう、ただ、気にかかるのは自分の幼馴染のこと。今回の事も、前の事も、大分彼に迷惑をかけてしまっている。それに、彼の兄が死んだという事実を知り、更に不安を感じる。
「いずるが泣いたら、きっと俺は後悔するから」
「……篠田」
「そん時に後悔すんのが、俺は怖い」
 前に一度だけ、いずるが泣いているのを見た覚えがある。
 何で、アイツは泣いたんだっけ?
 思い出そうとしても、その時のことは思い出せなかった。
 



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