夕日が沈む。
 川辺は教官室から赤い夕日が沈んでいくのをぼんやりと眺めていた。
 今日は大人げ無い事をしてしまった。
 思い出すのは二人の顔。一人は、彼に付きまとっていたからそれを注意すれば逆ギレされ、もう一人は彼女の事を聞いて来たからどうにか誤魔化す為に大人げ無い行動をとってしまった。まぁ、負けたから良しとして欲しい。
「“H”、か」
 ぽつりと呟いた忌むべきものの名前に無意識のうちに眉間に力が入る。これに関しては良い思い出は全くない。彼女からもあれの匂いがした。だから近付いたわけだが、日向翔には誤解をされてしまったようだ。
「日向翔は有馬蒼一郎の息子、佐木遠也は佐木家の跡取り息子、篠田正紀に……矢吹、いずる」
「え?はい?」
 驚いたような声が背後から聞こえ、川辺の方も驚かされた。振り返るとそこには、今名前を呟いたばかりの矢吹いずるが立っている。彼は少し困ったような表情を見せてから、肩を竦めた。
「すみません、ノックはしたんですが」
「矢吹……?どうした、何か用か」
「教官が弓道経験があるとこの前お聞きしたので、お時間がある時にでもお相手していただきたいと思いまして」
 控えめに笑ういずるの顔はどこかで習ってきた様な顔だった。こうすればある程度の地位がある人間だと相手にわからせる事が出来る、と。
 彼女と同じだ、と川辺は昔出会った女性を思い出し、眼を細めた。
「良いだろう。でも昔の話だ。お手柔らかに頼む」
「いえ。力は抜きません」
 きっぱりといずるは言い放ち、真っ直ぐな視線を川辺に向ける。その澄んだ目に全てを見透かされているような気がした。
「ですから、教官も本気でお願いします」
「……分かった」
 有無を言わせない気迫に川辺は頷き、いずるはほっと息を吐く。これで、用は済んだ。
 教官という相手はいずるにとっても目の前にすれば緊張する相手だ。なるべくなら話しはしたくない。なのに、何故こうして彼を訪ねてきたのか……それは自分でも解らなかった。
 川辺の奇妙な空気に誘われ、足をのばしてしまったが……。やはりこんな行動はあまりするべきではない。こっそり反省しつつ、いずるは目を伏せた、その時
「何か、苛立つ事があったんだろう」
 いずるの白い頬に貼られた絆創膏を見て川辺は優しく笑う。その声色に今度はいずるが驚かされる番だった。
「何で」
 はっと絆創膏がはられている自分の頬に手をやった。確かに、今までもう慣れるくらい同じ場所に傷を負ってきたが、それを最近会ったばかりの彼に見破られるはずが無い。それに、ここ数年は慣れてきた所為もあってこんな変な場所には怪我をしなかった。
「俺も昔弓をやってた時、矢吹と同じ場所に傷を作ったことがある。後は、親指の付け根とか……左腕とかな」
 結構痛いよな、と彼は笑った。
 何だ、それ。
 いずるは奇妙な部屋の空気にむず痒い気分になる。
「……まだ未熟者なのです……お恥ずかしい限りで」
 彼の言う通り、自分も親指の付け根や左腕に何度も怪我をした覚えがある。ちらりと彼の腕を見れば、長袖の隙間から火傷らしい痕が少しだけ見えた。彼も軍人。戦場へ行った身なら、その程度の傷は珍しいものではないだろうが……。
 思わずその傷を凝視してしまっていた事に川辺も気が付き、はっとしたように袖を引っ張り隠していた。珍しく慌てたような動作に、いずるも少し眼を大きくする。
 この学校には体中に傷がある人間がたくさんいるが、それを隠そうとする者はほとんどいない。男の勲章だと考えている人間が多いからだろうが、だから川辺がそんな行動を取った事には新鮮味を感じた。
「その傷はどうされたのですか?」
 こんな事を聞くような性格だから、正紀に意地が悪いとよく言われるのだが。
「昔、少しな」
 低い声で答えた彼の言い方から、恐らく戦場で受けた傷ではないのだろう。
「……あの、川辺教官」
「何だ?」
「どこかで、会ったことがありますか?」
 顔は見覚えが無い。だが、雰囲気がどこか覚えが有るような気がする。確信はなかったが、なんとなく昔、どこかで。
 川辺は一度開きかけた口を閉じ、彼が来る前まで眺めていた窓の外に眼をやった。
「いや、無いな」
「教官」
「俺みたいな人間が、矢吹家の時期ご当主である君と会った事なんてあるわけがないだろう?」
 気のせいだと彼は笑い、いずるはただ眉を寄せる。
 夕日はすでに沈みかけだった。


 この世は地獄だ。
 あの地に立ち、心の底からそう思った。
 吸い込むと肺を刺す空気、吐き気を促す臭い、果て無き荒野、生き物だったとは思えない大量の死体。
 あの地獄の光景は、帰還した今でも忘れられなくて、心を闇へと誘う。
 今までずっと共にいた友人はただ慰めるだけで、地獄を知った俺に彼の言葉が届く事はなかった。
 そして、あの人と出会った。彼は俺に天国を見せてくれた。彼は俺にとっては天使のような存在だった。
 例え、その背に黒い翼が生えていようとも。
 例え、彼が俺に指差した方向が更なる闇だったとしても。
 一瞬の光を、俺は求めてしまった。
 君はこの事を知ったら、俺を軽蔑するだろう。
 それでも、俺は君が全てを知り、今まで他人に向けていたナイフを俺に向けてくれる日を待ち望んでいる。

 早く、助けて。


「あの薬を、飲んでいたんですか……?」
「何、お前思ってたより“天才”だなぁ。知ってたのか、“H”」
 意外と言いたげな彼の台詞に嫌味を返す暇が無かった。
 早良にバラまいている犯人を捜してくれと頼まれた原因の薬を、目の前の男が使用している。頭の中に早良の説明が駆け巡った。
 狂人、という単語も。
「俺は、“H”をばら撒いている奴を探している」
 そして正紀の言葉に眉間に力が入る。
「薬を、手に入れる為にですか?」
 だから彼は同じ薬を使っている仲間を探しているのか。そんな理由なら、手を貸すわけにはいかない。
「篠田、そんな理由なら俺はお断りです。薬とは早々に手を切るべきですよ」
「おいおい、誤解すんなよ。別に俺は薬が欲しいわけじゃない。確かに、一時期監禁されてやばいくらい飲まされたけど、今はほぼ抜けているんだ」
 遠也の冷たい視線に彼は手を軽く横に振る。この状態で薬を再び飲むのは、今迄の努力を無駄にするだけだと笑いながら。
「じゃあ、何故」
 遠也の強い眼に正紀は眼を閉じる。
 今でもしっかりと思い出せる光景はどれもこれもいい思い出とは言いがたい。一通りの場面を思い出し、最後には必ずいずるの心配そうな目が、自分を責める。
 いつも、いずるには迷惑をかけてきた。そしてそれは恐らく現在進行形。
 今回の事も、いずるが自分を心配して、の事なのだろうがその詳しい理由を正紀は知らない。だからこそ、苛立つ。
 時々、不安と心配、そして恐怖が混ざった瞳で自分を見るいずる。その眼を見るとどうしようもなく胸と、手の古傷が痛む。
 彼は何を隠している、と怒った。でも隠しているのはいずるの方じゃないのか。
 無意識のうちに過去に傷を負った自分の手を押さえていた。この傷が出来た時の事はあまり覚えていない。恐らく、薬で頭がイカれていたからだ。
「……クロス通りPA345−675に「メイガス」っつー店があった」
「……メイガス?」
 聞き覚えのない単語に遠也は眉を寄せる。育ちのいい彼が聞き覚えが無いのは当然だ、そこは酒や煙草、そして薬の使用者が集まるショットバーなのだから。普通の中学生なら知らなくて当たり前の場所だった。
「そこは、ラクという男が王様の店で、ラクは薬の売人だった」
 今でも眼を瞑れば蘇る光景。
 色とりどりのライトにやかましい音楽、現実を忘れようと踊り狂う若い男女。そしてどこからともなく漂ってくるあの甘い香り。
 その真ん中には、いつも彼が居た。
 一人、自分が与えた薬で高揚し平静を失った人間達を、その光景を、嘲笑っていた。
 今思い出しても、憎しみしか感じないあの男。正紀は思わず拳を握る。この拳に込めた力は、彼への憎しみが薄れていない証拠だ。
「そいつが、俺の親父の仇だったんだ」
 怒りに震えた正紀の声に、遠也ははっと顔を上げる。
『篠田鷹紀(38)さんは午後8時に自宅を出て―――』
 出血多量で死亡。刃物で全身38ヶ所刺されて。道路には30メートル血の跡が。
 早良のノートにあったあの記事は、やはり正紀の父親の事だったのだ。
「篠田、まさか」
「だけどアイツはなかなかガードが固かった」
 店を突き止めても、会員制か何かで一般客は入れてもらえない。とくに、自分のような子どもはなかなか近づけないところだった。
「だから、俺はアイツに近付く為に街で喧嘩して、素行が悪い人間を演じ続けて一年以上経った時ようやく、アイツの仲間に声をかけられたんだ」
「貴方って人は……」
 軽率すぎる。
 思わず額を押さえた遠也の反応に正紀は苦笑するしかない。
「……呆れたか?でも、その時はそれしか、思いつかなかったんだ」
 自分がもう少し遠也ほど頭が良ければ、自分がもう少し克己ほど冷静であったら、こんな事にはならなかったのかもしれない。
 そして、もしあの時自分の側に彼がいてくれたら。
 その事を後悔しているのは、きっと自分ではなく、彼の方なのだろうけれど。





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