今日はあまり翔と口を利かなかった。
 誰も居ない教室で一人壁に寄りかかり窓の外を眺めて、いい傾向だと思ってみる。このまま、距離を置ければ良い。自分にとっても彼にとっても。
 克己は紅い教室に視線を巡らせて、血が飛んだようだと心の中で例え、そんな例えが真っ先に浮かぶ自分の思考回路を嫌悪した。
 それでも、興奮作用があるという赤という色の中で安堵する自分は救いようが無い。
 昔、誰かが夕焼けを綺麗と言った。自分は、不気味だと返した。
 赤という色で真っ先に連想させるものは血。暮れなずむ紫色の空で存在感のある半円の色は揺れる血だまりの様で見ているだけで気分が悪くなる。
 正直にそう告げると、彼女は微苦笑を浮かべ、自分の腕に寄り添ってきた。
―――いつかきっと赤が綺麗だと思える日が来るよ。
―――いつか、私がそう思わせてあげる。絶対に。
 だって、私“赤”好きだもの。何かプレゼントしてくれるなら、赤い色がいいの。
 くすくすと笑いながら彼女は強く抱きついてくる。小さな体のどこにそんな力があるのだと言いたくなるほどの力があの時は嬉しかった。
 赤い色を嫌悪する貴方がすき。と呟いたその言葉も。

 あの頃は彼女しか見えなかったのに、今ではもう彼女のいない世界に慣れてしまった自分がいる。

「誰かと思ったらこおがくんじゃーん」
 ようやく落ち着けると思ったのに瞬間的に気を張り詰めることになった。
「……加藤か」
 がらりと遠慮の無い扉を開ける音と共に不快な高音を持つ加藤が現われた。ここは静かに昔の思い出に浸る暇も無い場所なのだろうか。
 よりによって、教室に他の人間の気配が無いことが仇となってしまった。
「へへー。甲賀君とまた話が出来るなんてラッキィー」
 こちらがあからさまに顔を顰めたのに気付いていないのか、彼は無遠慮に距離を縮めてくる。本当に、余計な人間と会うことになってしまったものだ。
「俺は運が悪い」
 冷静に返す克己の態度が面白かったのか、加藤は満足げに笑う。
「今日は一緒じゃないの?日向君」
「お前には関係ないだろう」
「んー、そんなこと無いって。僕が君に興味がある限り、関係ないとは言えないじゃん?」
 加藤の笑い方は一見悪意が無いものに見えるが、その影には何が潜んでいるかわからない。と、いうか解かりたくも無い。
 はぁ、とあからさまにため息を吐いた克己に加藤は接近する。
「ねぇ、僕が南の特待生だって知ってる?」
「そんなものエンブレムを見れば解かる」
 さっさと荷物を持って帰ろうとする克己の選択を邪魔するように彼の前に立ちはだかった。挑戦的に細められた金の眼は愉悦の色。
 それを目で咎めると彼は更に笑みを深くした。
「いいなぁ、甲賀君の目。ゾクゾクする」
「そりゃどうも」
「甲賀君の手も大好きー。僕、この手に撫でられている日向君がかなり羨ましかったんだよね」
「……で?」
 男に告白されることもすでに慣れていた克己はやはり冷静だ。本気でもないだろうし。
 かなり冷たく返されていることにもめげず、むしろその態度が彼にとっては好ましいものだったのだろう。馴れ馴れしく、今さっき褒めたばかりの克己の手を取り、にやりと笑った。
「だって、アンタの手から血の臭いがするんだよ」
 ギラギラとしたネコ科の金色の目が克己を見上げる。血、という単語に密かに克己は反応したが、それは相手に気付かれる事は無かった。
 紅い夕日に染まった教室はまるで辺りに血を撒いたかのような空間になっている。
「ねぇ、最近の事件、アンタが犯人なんじゃないの?」
 明らかに面白がっている彼の口調に、克己も口角を上げてみせた。
 それは肯定か否定か。
「実際のトコ、どうなの?この間の生徒会の集まりでさぁ、君の名前が出たんだよ?」
「ほぉ」
「君に、暗殺命令が出てるんだ」
 くすくすと加藤は笑うが克己はそれを冷ややかな目で見た。何の反応も見せない克己に加藤の方がつまらなさそうな顔になる。
「何?驚かないの?」
「この間から奇妙な気配を感じていた」
「やっぱ、甲賀くんくらいなら気付くよね。僕は」
 ガタン。
 机が揺れる音が誰もいない教室に響く。唐突に触れた唇の熱に克己は驚くことなくただすぐそこにある加藤の顔を眺めた。
「アンタだったらいいな、って思ってる。アンタの手が誰かを傷つけたり誰かに傷つけられたりするところ、観てみたい」
 どこか媚びるような瞳が、今触れ合ったばかりの赤い唇を見つめる。
 その加藤の態度を克己はひたすら冷めた視線で眺めていた。
「生憎、俺はあんな馬鹿な事はしない」
「えー?でも甲賀君人を殺すの好きそうじゃん。日向君の事だってそういう目で見てるんじゃないの?」
「……そういう目?」
「食い殺したいって、目」
 随分と自信満々に言ってくれる。
 目障りなものを観る様な眼になった克己に彼は笑みを深くする。どことなく嬉しそうなその笑みには、ついていけない。
「今日だって、日向君が変な解釈しなければ、食べること出来たかも知れないのにね」
 そして、加藤のその言葉には呆れたため息を吐いてしまいそうになる。
「お前らだったのか」
 確かに感じていた、あの森での自分達以外の気配。野生動物かとも思っていたがどうやら違ったらしい。
 加藤はにっこりと笑み、顎に手を当てて少し考えるような仕草をする。
「確かに、あんな信じきられた瞳で見られたら、そんな事出来ないよね。でも僕としてはそういう瞳を怖がらせるのが好きだけど」
 くすりと笑った加藤の顔に克己は戦慄を覚える。と、同時に自分でも意識しないうちに彼を鋭く睨みつけていた。
 強い怒りの色を見せたその眼に加藤は怪しく微笑む。
「僕は、その目も大好きだよ?喰われても良いって思うくらい。あぁ、何で君の暗殺命令僕にやらせてくれないのかなぁ」
「……それは誘っているのか?」
 先程、加藤にキスをされた感触がまだ唇に残っている。そこを指でなぞりながらこれはそういう意味だったのかと彼に問うと、加藤はにんまり笑った。
「そう思ってくれても構わないよ。僕もさぁ、溜まってるんだよね」
「……」
 時刻は夕方。赤い夕日はすでに沈みかけている。
 もう教室には誰も来ない。
 確かに、状況はかなり良い。
 もし、自分がこの男を抱いたと知ったら彼は自分から離れていくだろうか。
 あの汚いことなど何も知らないような笑顔を凍りつかせるのだろうか。
 何故か翔の事を考えると妙に苛立ちを感じる。どうして自分の前であんなに無防備でいられるのか、理解出来ないからか。
「ねぇ、酷くしてもいいからさ。別に、好きな相手しか抱けないってわけじゃないでしょ」
 そっと自分に抱きついてくる加藤の身長は翔よりわずかに高いくらいで、大した違いではない。けれど、触れられた瞬間に悪寒が走る。
 今まで色んな人間に触れてきたが、ここまで嫌悪感を覚えた相手は初めてだった。
 自分の中で何かが変わり始めているような気がする。その自分の変化が恐ろしい。
 恐怖や嫌悪、不安、そして愛情も戦場では不必要だからと、全て捨てさせられたのに。彼が危機に陥るといつも彼が死ぬという可能性に恐怖を感じなかったか。不安に思わなかったか。そして、彼以外の男に触れられて、嫌悪。
 それらすべての事象を足して判断しようとしたが、それを遮るようにあの低い声が響いた。
「愛なんて感情は不必要だ」
 加藤が似たような台詞を口にする。あの声の言葉にはお前に、という主語が足されていた。自分に似ていると言われるあの声は、いつ聞いても不快で憎悪の対象だ。脳まで突き上がってきた怒りに似た感情に、思わず目の前にいる加藤の体を、机の上に引き倒していた。
 教室に立ちこめた悪寒がするほどの殺気に、加藤は満足げに笑い克己の首に手を伸ばした。

 何だかとても頭が痛い。
 

「……遠也が克己を警戒するのは、その所為か?」
 しばらくの沈黙の後、ようやく翔が口を開いた。遠也が克己に向けているのは嫌悪や恐怖ではなく警戒だということは知っている。その警戒が無くなれば二人ともいい友人になれるような気がするのだが、遠也は無言で頷いた。きっと、彼が警戒を緩めることはないだろう、とその仕草で察す。
遠也だけじゃない。自分がココに来た時は、南の一部の人間以外彼に近付こうとしていなかった。
 春川という生徒を撃ち殺した彼に、恐怖を抱くのはわかる。それが最良の手段だと、理解していても。
 それに加わって、克己の能力は飛び抜けていた。狙われたらお終い。そう思って皆彼を遠巻きに見ていたのだろう。
「克己は、イイヤツだよ」
「日向……」
「俺は、春川さんの事も知らないし、克己が彼を殺した瞬間も見ていない。だから俺は、克己の隣りに居られるんだろうな」
 もし、その時ココに居たら、きっと他のクラスメイトと同じく彼を遠巻きに見ていた。克己も、もし自分があの場に居た人間だったら、隣りに置いてくれなかっただろう。
 今のこの状況は、自分にとってはかなりの幸運だった。
 それと同時に、これも何かの縁なのではないかと思う。滅多に遅れた入学を許さないこの学校で、許される唯一の理由で出遅れた自分。
 その事が無ければ、多分親しくなんてならなかった。
「友達だよ。警戒なんて、俺はしない。今の話は、聞かなかった事にする」
「そう、ですか。まぁ、俺の話も学術上での話ですし……」
 何となく予想出来た返答で、遠也はふ、と息を吐いていた。これ以上はきっと何を言っても無駄だ。
 多分、翔は彼が軍属の出であるという事を言ったとしても、変わらない。
「貴方は、他人を信じやすいのがたまに傷です」
「それが長所なんで」
 にかっと笑う翔に、それが短所にならないようにと願わずにはいられなかった。
 遠也はわずかに眉を顰め、額を押さえる。一見苦悩しているように見えるポーズだが、それが遠也の場合は思考を深める時の姿だということは付き合いの長い翔は知っている。薬指で眉間を一定のリズムで叩くその動作を何度も見守ってきたのだから。
「克己の事、そんなに気になるのか」
 多分、考えているのは彼のことだろうと苦笑しながら問うと、額を叩いていた指が止まる。図星である証拠だろう。
「イイヤツだと、思うんだけど……」
 今度はさっきより少し小さな声で言い、翔は遠也の反応を伺う。懇願するような眼に遠也は眼を閉じた。
「いえ、多分貴方には無害なんでしょうからそれは別に良いんですけど」
 あの時殺せなかった、と茫然と呟いていた克己の姿は多分嘘じゃない。彼が、一度翔を殺そうとしたと自分に言った時は翔が何と言おうと絶対に二人を二度と関わらせないと思ったが。
 殺さなかった、ではなく、殺せなかった。翔の身は絶対に安全だ。
 だが、気がかりな事が一つ。
「……何だか別な方向で有害な人間になりそうなんですよねぇー」
「え?」
 ため息と共に吐かれた遠也の言葉の意味を理解出来なかった翔は首を傾げる。その眼は純粋そのもの。
 そんな彼に自分が危惧している事を言えるわけが無い。
「……ところで、今日は何故朝居なかったんですか?」
 今日の朝、翔の姿は無かった。その後に克己と共に教室に戻ってきたけれど、放課後に翔に橘と会いたいと言われた。急な話だったのは、この朝に何かあったと考えるのが普通だ。
「ああ……川辺のところにちょっと」
 翔の返事に遠也は再び眉間に皺を寄せることになる。
「川辺?どうしてそんなところに行ったんですか」
 川辺、という名を聞いて遠也は静かに無茶ばかりする友人を諌めた。恐らく効力はないだろうが。
 あまりにも静かな声に翔は苦笑しながら視線を宙に彷徨わせた。遠也にはどんな誤魔化しも聞かないだろう。付き合いが長い証拠だ。
「何か、メールでさ、橘さんのこと知りたければ、川辺のトコに行けって……」
「……メール?」
 ぴくりと遠也の眉が動いたのは、奇妙なメールの存在の所為か、それともそんなあからさまな誘いにあっさり乗った自分の行動を咎めたものか。恐らく両方だろう。
「……後でそのメールの発信元調べておきますから、見せて下さい」
「え。遠也そんな事も出来んの?すっげぇ」
「メールアドレス見れば解かるようになっています。この学校のパソコンとサーバーを使っているのなら」
 それくらいのことなら、誰にだって出来る。個人のパソコンを使ってやって来るほど馬鹿ではないだろうから、恐らく図書館あたりのパソコンを使ってきているはず。何かあればこの学校の管理システムに潜り込む。普通の世界よりは狭い世界だから、苦労はしないはずだ。
「……そしたら、川辺のヤツ変な条件出して。もし俺が川辺に負けてたらその条件飲まないといけなくて……あ、でも勝ったから!」
「変な条件?」
 あの川辺が翔に言う変な条件、というと不穏なものしか思い浮かばない。遠也がぴくりと眉を動かしたのを見て翔は引き攣った笑みを浮かべる。
 この空気は、怒られる。
「それはどういった?」
 遠也の静かな声に、翔は言い難そうにしながらも口を開く。勝ったといえば見逃してもらえると思ったら大間違いだったらしい。
「それが……」
 こそこそ、と耳元で教えられたその内容に遠也は寄せていた眉を驚きの形に変化させることになる。
「えぇ?何ですか、それ」
「な、酷いっていうか……俺負けるわけにはいけないだろ?」
 その時のことを思い出したようで、翔の表情はほんの少しだけ怒りの顔になる。遠也は全く自分が考えていた内容と違ったその川辺の条件に、むしろ笑いを誘われた。
「負けても良かったのに」
「遠也……」
「冗談ですよ」
 本気半分冗談半分だ。安堵が遠也にその言葉を口にさせた。
 遠也が肩を竦めて見せたのに、翔はそんなに仲が悪いのだと二人の状況を改めて知る。もうため息を吐くしかない。
「それに、何でか知らないけどあの人俺の穂高さんの名前知ってたんだよな」
 別れ際に彼が言った台詞の中に、翔が世話になった日向叔父の名前が入っていた。拳法なんて出来たのか、とどこか面白げに、懐かしげに。
「穂高さんは軍では有名人ですよ。日向こそ知らなかったんですか?」
けれど翔の叔父と面識のある遠也は翔の言葉の方が意外だった。
 日向穂高は軍でなかなかの功績を残したと同時に、変わり者で有名だった。彼が戦場で拾った戦災孤児を自分の弟子にして育てていた事を知らない者は恐らく軍部内ではいない。それが、遠也の知る日向穂高。
「軍に入っていたのは知ってたけど」
 翔の知る日向穂高は、陽気で優しい人だった。自分が教えられたのは少林寺だったが、彼が本来得意とするのは剣道だったと聞く。何故ジャンル換えしたのか、問う機会は無かったが。
 軍のこの士官学校にも入学し、その後エスカレーター式に軍に入隊し、順調に階級を上げて行った。ここの学校の講師も一時期務めたと彼は自分に教えてくれた。
 そんな彼が除隊したのは、戦闘中に視力を失ったから。
 その後、軍は彼にある程度の額の退職金を出したようだが、流行らない拳法道場ではあまり弟子も取れず、税金をあまり払えない北へと転落した。それでも彼はそう有ることに後悔はないようだった。
「……そういえば、彼の一番弟子は亡くなったと聞いていますが」
 弟子らしい弟子を取ることがあまり無かった彼が、たった一人面倒を見ていた人物がいる。それが、戦場で拾ってきた戦災孤児だ。翔が世話になり始める前に、彼はこの学校に入学し、亡くなったと聞いている。
「ああ、それは穂高さんも知ってるはず。俺は本人にあった事は無いけど……」
 その所為か、穂高は自分をここに送り出すのを渋っていた。死ぬなと何度も言われた。
 彼も彼で苦しい思いをしてきたのだと思う。戦争で視力を失い、大事な弟子も奪われ、そして次は義理の子どもも徴収されたのだから。
「天才―、居るか?」
 適当な雑談に花を咲かせていると、ドアが開き、正紀が顔を出す。彼は翔の姿を捉え、少し驚いたような表情を見せたけれど、驚いたのはこっちだ。
「何だ、日向も居たのか……」
 意外そうに言ってくれるが、正紀が遠也を訪ねてきたことの方が意外だ。彼と遠也の仲はあまり良いとは言えない仲で、何より遠也の方が正紀を苦手だと思っている。
 正紀の方もそれに気付いているはずだが。
「何か?」
 部屋の主が予想通りの冷たい声で迎えたのに関わらず、正紀はにへらっと笑みを浮かべた。
「ちょっと、天才に頼みがあって」
「頼み?」
 それこそ珍しい。
 遠也は訝しげに問い返し、正紀を怪訝な眼で眺める。そんな視線に気付いたのか、突然正紀は茶色い頭を下げた。
「そ。天才である佐木遠也君にしか出来ない頼みなんだ」
 ちょっと言い方が揶揄っぽかったが、頭を下げるということはそれなりに頼んでいるのだろう。遠也の脳裏に、彼の友人であるいずるの言葉が蘇る。
 頼みを聞いてやってくれ、と。
 何故この状況を彼が予想出来たのかは解からない。けれど、確かにあの時自分はそれを了承した。無下にすることは出来ない。それに、翔も遠也に聞いてあげたら?というような視線を送っていた。
「……解かりました、何ですか」
 ため息を吐きながら了承した遠也の返答に、正紀は顔を上げて安堵したように笑む。笑うと少し幼く見えるのは、普段彼の表情が大人びているという証拠なのだろうか。
「持つべきものは天才の友人だな」
 軽い口調での一言に、遠也が首を傾げながらその疑問を持った単語を口にする。
「友人……?」
 棒読みなところが彼らしい。
「お前、そこに突っ込むなよ。一緒に同じメシ喰えばみんなダチって決まって」
「お気楽な考え方で羨ましい限りですよ。それに俺は貴方と同じメニューを選んだ事は一度もありません」
 あ。遠也がイライラし始めている。
 段々とオーラが暗くなって刺々しい口調になっていく遠也にいち早く気が付いた翔が慌てて口を挟もうとした時、話を進めたのは諦めのため息を吐き出した遠也本人だった。
「で、用件とは?」
 無駄な事は好きではない性分なのか、彼は早急に話を進めたかったようだ。本題を急かされ、正紀はティッシュを彼に差し出す。
 一瞬ゴミを出されたのかと思った遠也が眉を顰めるが、よくよく見ると白い紙の上に、一本の黒い毛髪があった。
「これは?」
「ある人の髪の毛。コイツが薬をやっているかどうか調べて欲しい」
「……まぁ、多分出来るとは思いますが……」
 遠也は目の前の一本の髪の毛を眺めながらしばらく思考に耽る。何故、突然正紀がこんな刑事ゴッコのような真似をしたのか、そしてこの持ち主が誰なのか、などなど疑問が浮かんで溜まっていく。
 その中で最も聞きたい質問を一つだけ選び、正紀の茶色い眼を見上げた。
「何故、その持ち主が薬をやっている、と?」
 中途半端な推理で渡されたのなら付き返してやるつもりだった。誰の髪の毛かという質問は二の次で。
 正紀にとっても予想済みの問いだったのか、彼はそれを遠也の手に乗せ
「臭いだ」
 妙に確信を持った返事と行動に、遠也は表情を顰める。
「臭い?」
 薬の臭いなんて、そうそうに気付けるものではないはずだ。長年、薬常用者を取り締まる立場だった者ならほぼ目つきと臭いで誰が薬を飲んでいるか気付けるらしいが、正紀は違う。
 遠也が疑いの眼差しで正紀を見始めた事を知ってか知らないでか、正紀ははっきりと断言した。
「ああ。アイツからは薬の臭いがした。100%やってるだろうが、一応な」
「……日向、すみませんが、ちょっと篠田と二人きりにして頂けますか?」
「へ?」
 二人の会話だったのに、遠也がまるで正紀の台詞を無視するように自分に声をかけてきたことに翔は眼を瞬かせるが、遠也がじっと自分がこの部屋から出て行くのを見とどけようと黒い眼を向けているので、慌てて立ち上がる。
「うん、解かった」
「日向、別にいいぞ。俺の用はこれで終わりだし」
 先客をないがしろにしてはいけない、と正紀も立ち上がるが、遠也の厳しい声が動作を止めた。
「貴方には話があります。座ってください」
 相変わらず、敬語なのに敬語に聞こえない。
 妙に迫力のある言い方に流石の元不良も萎縮して床に正座をしていた。
「じゃ、じゃあ……遠也、篠田、じゃあな」
 大丈夫か?
 正紀の様子に少々心配が残るが、遠也はすみません、と頭を下げて見送ってくれたので、出て行かないわけにもいかない。
 そそくさと翔が出て行った後、すっと遠也の視線が正紀に移る。その温度が妙に冷たいことに正紀はぎくりと肩を震わせていた。
「で、何だよ、天才」
「……その“天才”というの止めていただけませんか?」
「何で?褒めてるんだろ?」
「そんな風に聞こえませんが」
「わーかったわーかった。じゃあ、思い切って遠也、とでも呼ばせていただきましょうか?」
「……もう好きにしてください」 
 どんな内容の会話をしても苛立つだけだ。遠也と正紀の性格はまったく噛みあわない上に正反対で、一番仲良くするのに難しい種類の相手とお互い顔をつき合わせている。
 その所為か、する会話が意図していなくてもお互い攻撃されているように聞こえる。正反対の性格の方がいい友人になれると言うが、時と場合によるのだろう。
 簡潔にすませないとストレスが溜まる。そう判断した遠也はため息を吐いた。
「で、いつからですか?」
「あ?何が?」
 正紀が意図が解らずただ肩を竦めて見せると、遠也は呆れたように視線を上げた。
「普通の人間は、薬の匂いなんて知りませんよ。まぁ、医者か、警察。それか」
 遠也はいったんそこで言葉を止め、正紀を見据えた。
「薬を使用した事のある人間は、知ってるでしょうけど」
 正紀はしばらく口を閉ざしていたが、段々眼が細くなる。遠也が言いたい事に気が付いたのだろう。口角が上がり、遠也の黒い眼を挑戦的に見返した。
「正解」
 思わず拍手をしてやれば遠也が不快げな表情を見せたが、正紀はしばらく手を叩いていた。乾いた音が耳に突き刺さる。
 もう変に構えなくて良い状況になってしまい、正紀は拍手を止めて後ろにあったベッドに背を預けた。改めて流石、天才と心の中では褒めたが、口には出すのは正直何だか悔しい。
 ずっと友人にはひた隠しにしてきた自分の秘密を、こんなにもあっさりと見抜かれてしまうとは。
 そんな正紀の様子から視線を外し、遠也は本日何度目か解からないため息を吐いた。
「……それで、いつからですか」
 例えそんなに仲が良くない相手でも、気付かれてしまってはもう誤魔化しようは無い。
「初めては中3の秋頃……だったな」
「今も、続いてるんですか?」
「まぁ、そう簡単に止められるもんじゃなかったけどな、今はもう飲んでない」
 当時の事を思い出しているのか、ぼんやり天井を眺めながら正紀は素直に告白する。
 彼は昔不良グループの頭をやっていたのだから、薬物使用くらい経験済みであることはおかしくない。けれど、何故か意外だと思ってしまう。薬物は昔は厳しく取締りをしていたらしいが、今ではその使用を有る程度許容している。だから大した問題ではないのだが。
「矢吹は知っているんですか?」
 あの口調なら知っていそうだと思いつつも聞いてみると、彼は首を横に振った。
「知らねぇよ。つか、知られたら俺はアイツと友達やっていけねぇ……」
 短い髪をぐしゃりと撫で、彼は弱々しい声を出す。
 普段の彼からは予想もしない態度で、遠也のほうも軽い戸惑いが生じる。正紀が薬物に手を出したのは遊び半分かと思っていた。不良だったというし、それが正しい解釈だと。けれどどうやらそうではないらしい。
「珍しいことじゃないでしょう。30歳までに薬物使用の経験がある人間は今では国民の60パーセント以上。薬の影響で犯罪さえ起こさなければ自己責任範囲で許されていますからね」
「そんな事言うなよ。一応ケーサツだって薬物取締りしてるんだぞ?それとも、それは―――」
 正紀の眼が意地悪く細められたのに、遠也は彼が止めた先の言葉を察す。それで、ようやく何故自分が正紀を苦手と思っていたのか理解した。彼も自分のことを良く思っていないからだ。そしてその理由も。
「佐木、が裏で薬物を製造しそれをばら撒いてぼろ儲けをしているから、と?」
 自分の家の黒い噂なら何度も聞いた。そしてどれが本当でどれが嘘かも自分は知っている。
 正紀の眼が更に細くなり、その噂の真意を問う。一部でしか囁かれていないこの噂を知っている、ということは正紀が何かの手段を使って情報を手に入れたとしか考えられない。どうして彼がそんな行動に出ているのかは解からないが。
「真意の程は俺も良くは知りません。ただ、身内として一つ言えるのは、あの父ならやりそうなことだ、位です」
「ふぅん。天才君は親父さんが嫌いなんだな」
 大して興味ないような返事をして正紀はじっと遠也と見つめる。
 居心地が悪い。
 前からだった。正紀の濃い茶色の眼に見つめられると全てを見透かされているような気分になる。彼は自分のことは何も知らないはずだから、自分が怯える必要は全く無い。解かっているが、正紀の眼は苦手だ。
 自分がそんな事を考えている事を気取られないよう、平静を装いながら彼から眼を逸らした。
「何の薬だったんですか。S?シンナー?それとも大麻?」
 遠也が自分の動揺を隠す為の質問であることに気付くことなく正紀は苦笑する。彼としては予測済みの問いだったらしい。
「随分とメジャーなところ突いてくるな。もっとマイナーだし」
「マイナー?合成系ですか」
「“H”」
 さらりと言われたその名称に遠也は眼を大きくした。それに気付かず、正紀は続ける。
「“H”だ。アルファベット1文字の、“H”」



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