蒼龍。
 かつてその居場所が王宮の東にあったことから由来し、東宮とも呼ばれていて、現在もその呼称で通じる。蒼龍という名は五行説による東方の神の名前から来ている愛称。
 また、春宮とも言われる。
 すべて、皇太子の別称。

 そんな説明を眺めて遠也は眼を細めてからため息を吐いた。早良のところで見た名前を検索すればこんな説明が出てきた。本当に調べないといけない事は他にあるのだが、行き詰まっていたので気分転換に他の事を調べてみたが状況は何も変わらない。
 早良の元から帰って来て遠也はひたすらパソコンに向かっていた。時間が、惜しかった。
 けれど、予想はしていたがヒントを得ることも無く遠也はパソコンから眼を離した。大志との二人部屋であるこの部屋に、今日は翔がいる。彼がここに来るのは珍しいことではないが、なにやら難しい顔をしているのは珍しい。けれど、特に遠也は翔に話しかけるようなことはせず、再びパソコンの画面に眼を戻す。こういう時翔は自分に何かを話したくているはずだから。
 一体何の内容だろう。さっきの橘のことか、それとも……。
 真剣な表情で考え込む彼の顔を眺めて、さっきの早良の話を思い出す。
 彼の父の母親が外国人。と、いうことは翔も4分の1外国の血が混ざっていることになる。道理で髪の色素も肌の色素も薄いはずだ。髪の色を染める人間が多いからなかなか気付けなかった。翔の場合、眼の色が自国民と同じ色だから尚更。そこは母似、ということになるのか。あまり本人は気にしていないようだったが。
 それにしても、早良は大雑把に“外国”と言っていたが、一体どこの国の事を指しているのだろう。確かに同盟を組んでいる国も何カ国かあるが、最近になって同盟を破棄し戦争状態になった国もいくつかある。約40年前には同盟を組んでいた国をパソコンで検索してみると、今では敵となっている国が殆ど。その中には強敵となっている大国の名も。
 もし、翔がこれらの国の血を引いているとしたら、面倒な事になりそうだ。
 今は日向穂高の養子となっているからそう簡単に判明する事実ではないだろうが……。
「日向は知らなかったんですか」
「え?」
 遠也から話しかけられて翔はぱっと顔を上げる。
「自分の親が、外国の血を引いていたこと」
「あ……うん、まぁ」
 どこか歯切れの悪い返答だ。翔の態度も目線を逸らしたりとよそよそしい。
 薄々は気付いていたけれど、こんな風にはっきりと誰かに言われたのは初めて、というあたりだろうか。
 何にせよ、それが有る意味幸運だったのかもしれない。
「あまり他の人間に言わない方がいいですよ、この事は。恐らく、有馬博士本人もコンタクトか何かで眼の色を隠していたでしょうから」
「コンタクト?」
 思わぬ言葉に翔がぽかんとした顔で遠也を見る。
「はい、コンタクト。この国じゃ悪い意味で目立ちすぎますからカラーコンタクトで……ってまさか日向、まさかコンタクトで実は眼の色隠していました?」
 本当は翔の眼も蒼で、今までずっとコンタクトをつけていたとか。
 遠也の早合点に翔は慌てて首を横に振る。
「俺の眼はコレ地だよ、地!」
 そんなコンタクトなんて入れるだけで痛そうなものを。
 翔の必死の否定に遠也も納得してくれたようだった。元々冗談のような言い方だったから、大して本気で聞いたわけでもないのだろう。遠也が納得してくれたのにほっとしたのにつられて翔は小さく呟いていた。
「そ、か。コンタクト、ね」
 それなら、自分が今まで考えていたことの疑問が解消される。
 翔はつい最近まで父の目が蒼いとは知らなかった。思い出せる父の眼は闇のような黒で、蒼じゃなかった。けれど、最後に父が死ぬ前に見た目は確かに蒼かった。その意味が解からず今まで解くのに何のヒントも無い謎に頭を悩ませていたけれど遠也の言葉が解決へと導いてくれた。
 彼は常にコンタクトをつけていた。だから自分は彼の眼の色を知らなかった。
 死ぬ寸前に見た彼の眼が蒼かったのは、コンタクトをとっていたから。
 と、いうことはそんな父の秘密を知っていた早良博士はやはり父と近しい人間だったということになるが、それは追求しないでおいた。彼は自分の事情を知っているようで、大分気遣ってくれていたようだから。
「……誰にも言わない方が良いですよ。もちろん、甲賀にもですからね」
 遠也が再び翔に釘を刺し、それには苦笑しながら頷いた。言う必要も無いと思う。自分は両親ともこの国の人間で、他の国を知らないし、今まで意識してきたわけでもないから。
「あ、そういえば、何か今日克己の様子変だったんだよなー……」
 克己の名前を出されて翔は別な方向へと話を変えた。疑問が一つ解消した所為もある。
「……そうでしたか?」
 遠也が思い返せる範囲では、克己は普段どおりだった。普段どおり、特に発言をすることはなく、ただ淡々と、黙々と完璧に授業をこなす。その姿は極めていつも通り。むしろ普段どおりでなかったのは、喧嘩をしたらしいいずると正紀だ。それは、翔もわかっている。
 けれど、普段一番彼と長い時間共にいる翔にとっては遠也の答えは不満の残るものだったらしい。
「そうだよ。何か……いつもより近寄りがたかった!」
 上手く説明出来ないけれど、今日は一日中彼のまわりの空気がピリピリしていて、気軽に声をかけられるような雰囲気ではなかった気がする。それでも声をかけると普段どおりに返してくれるのだけれど。
 それに耐えられなくなったのは翔のほうで、今日は学校から寮まで克己とは共に帰らず、今も遠也の部屋に居た。克己にも、「用事があるから先に帰れ」と言われたのだが。
 必死に主張する翔に、遠也はため息を一つ。
「近寄りがたいのはいつものことですよ、甲賀は」
「そんな事ない。それはそう周りが思い込んでるからだって」
 翔にとってはクラスの中で誰よりも克己といるのが自然になっていて、周りがそう思うのが不思議でならなかった。頭良し顔良しスポーツ万能でまるで違う世界にいる人間に見え、そういう意味で近寄りがたいというのなら解からなくも無いけれど。
 翔の言い分もあながち外れていないかもしれないが、遠也の眼から見れば克己自身も他人の干渉を避けていたように思える。それに気付いていない翔は、鈍感なのかそれとも、克己が彼を受け入れたのか……恐らく後者だろう。
「日向」
「何?」
「甲賀が変わっていないのなら、貴方が変わったんじゃないですか?」
 特に遠也としては他意はなかったのだけれど、翔の言い分を聞いているとそういう風にも取れると思い、口にしてみた。
 翔のほうは遠也が何を言っているのか解からなかったようで、何度か瞬きを繰り返す。
「だから貴方の方が、甲賀に近寄りがたいと思い始めて、彼が近寄りがたい、と思うようになったのではないか、と。やっと」
「やっと、って何だよ遠也……」
 でも、遠也の説明に思い当たるところがあったのか、翔はブツブツ言った後でしばらく視線を辺りに彷徨わせていた。
 何か、あったな。
 遠也はそう察してノーパソをいったん閉じる。床に座っている翔はしばらくフローリングを眺めていたが、すぐに視線を上げた。
「……俺も良く解からないんだ。ただ……」
 叩かれた手はもう痛まない。でも、不安と良く解からない胸の痛みに思わず眉根を寄せていた。友達だと思っていたけれど、彼が何をどう思っているのか解からなくなる時がある。全部理解できると驕っていたわけではない。それでも、寂しさは残る。
 助けてくれたと思えば今度は突き放されて、一体どうしろと。
 それに
「……遠也には、母さんの話をした事があったっけ?」
 突然の脈絡の無い話に遠也は怪訝に思いながらも首を横に振る。彼から姉の話は聞いたことがあっても、母親の話は詳しく聞いたことが無い。存在を忘れているのではないかと思うほどに彼の口から母親の話は出なかった。あの父親の話よりずっと、翔にとっては母親の話の方が口に出しにくい。
 視界の端で遠也が首を横に振ったのを確認し、翔はやはり、と密かに思う。自然と彼女の話をしなかったのは、もしかしたら彼女の存在を忘れたかったからなのかもしれない。
「俺にとってはアイツが一番憎い相手だったけれど……一番怖かったのは母さんだった」
 母親は、敵でも味方でも無かった。父と同じく科学者だった彼女は忙しくいつも側に居なくて、たまに家に帰って来ても、何があっても自分達に言葉すらかけてくれなかった。
 ただどこか、冷たい眼で、自分達を置物を見るような眼で見て、視線を伏せる。
「昔、母さんに手を叩かれて、触るな、って言われた事があるんだ」
 ずっと昔は優しかった母。けれどある日突然態度が豹変した。自分を見る眼は二度と暖かく微笑んではくれなかった。そんな彼女の眼には恐怖さえ伺えた。
「……俺は、彼女の態度の変わりようにただ茫然として、でもそれなりにショックを受けたんだろうな。その日から彼女の夢を見るようになった」
 夢、というのは翔にとってはすでに恐怖の種の一つになっていた。夢の世界は自分の思い通りには進まず、自分が取りたいと思う行動を取れない。そして、見たくないと強く願っても眼を閉じることさえ許されず、自分がこの深い眠りから覚めるまでひたすら続く。
 そしてこの拷問のような時間は毎日必ず訪れる。
 これらの起きて思い出すことの出来る悪夢はどれも実際に有った過去の再現で、ただ、母親に関した夢は恐らく自分の中で作り出した“夢”だ。
 それでも充分に生々しくリアルな夢は、悪夢と呼ぶのに相応しい。
「……心臓を2回、腹を3回、だ」
 そ、と夢の中で刺された箇所に触れながら翔はぼんやり呟いた。幼い頃から繰り返し見る夢の一つ。鬼の形相の母親に体を何度も刺される夢。飛び散る紅い血と、彼女の獣じみた絶叫をただ自分はぼんやり見上げていた。
 あまりにもか細い声で、聞き取れなかった遠也は思わず「え?」と聞き返す。けれど翔はそれを笑顔で首を振って見せ、何かを振り切るように自分の体から手を離した。
「ちょっとその事思い出した、から克己が怖く見えたのかもな。あー、そうか、そうだったのか。なら」
 原因が自分にあるのなら、特に彼に対して不安を抱く必要は無かった。むしろ自分自身の問題だった事に安堵さえ感じていた。別に、嫌われたわけではなかったのだ、と。
 この部屋に来た時から翔が背負っていた重い空気がふっと消え去ったのに、遠也は思わず口を開いていた。
「日向」
「ん?あ、遠也、ここに絆創膏落ちてるぞ。なんか、医薬品が落ちてるって遠也の部屋らしいよな」
 すんなりと話題を日常会話へと変えようとする翔に遠也は眼を細めた。
「日向、俺は、良い機会だと思いますが」
「え?」
 杞憂だった事を揶揄されるか、と思ったけれど遠也の声は予想外に厳しいもので。顔を上げて彼の表情を確かめると、その声に比例してどこか厳しい顔。
「機会……って、何が」
「……甲賀と距離を置く良い機会だと」
「遠也!」
 突然何を言い始めるのかと思えば、遠也の言葉に思わず翔は声を上げていた。
 彼が克己をよく思っていないのは知っている。けれど、自分と彼の事にこんなに直に干渉してきたのは初めてだ。何かきっかけがあったのだろうとは察せるけれど、自分にとって大事な友人を謗られるのは我慢がならない。
 咎めるように遠也を呼んだ翔はまるで正義感の塊だ。彼がこういう人柄だということは遠也も良く知っていた。少なくとも、あの克己よりは付き合いが長いのだから。
 けれど、だからこそ自分が翔に示唆しないといけないのだと遠也は口を開いた。
「……今まだ犯人が捕まっていない一連の事件の被害者が、大方が戦争に出向いたメンバーだと昨日気付きました」
 そして、あの、一人だけ公表されなかった伊原優史も。
 それなら、薬が関わっている理由もすぐに察せる。
 遠也に示された新たな情報に翔は眼を大きく見開いた。
「それなら、克己が危ないじゃないか。犯人が、その前の戦争に出ているヤツを狙ってるんだとしたら……!」
「まだそうだと決まったわけじゃない。例外が何人かいるので……それに、多分甲賀は殺されませんよ」
 もし、例の薬を飲んでいる人間がターゲットなのであれば、克己はそんな薬をやっているような人間に見えない。薬を飲んだところで、彼の体にその効力を発揮しないようだし。
 毒への耐性があると言った彼の体がどこまで耐えられるか知らないけれど、軍属に生まれた人間が薬に溺れるとは考えにくい。ああいう軍属の人間は、何故軍人が薬を飲むのか理解出来ないのが多いから。
「……この間の戦争は他のとは少し違っていまして」
 召集がかかった当時まだここに居なかった翔には説明しないといけないことが多い。そう踏んだ遠也は彼を納得させる為に一からの説明を始めた。
「今の新しい生徒会長になってから、ここの学校の生徒は前線には送り込まれないようになりました。そして、原則的に18歳未満は戦争には一週間しか参加出来ず、数ヶ月の間を置いて次に出られるという世界条約があるんです。それにいつもは3日足らずでその場は終わらせられたので、3日で帰ってくることが多かったと聞きます」
 けれど、この間の一件は違った。
 敵は、こっちが植民地にした土地を狙った国の軍隊で、今まで主に相手にしてきたその土地の人間ではなく、洗練された軍を持つ。初め、暴動が起こったと連絡があり、軍部上層も植民地下にあった人々がまた騒ぎ出したのだろうと思い、いつものような鎮圧戦だと考えた。
 前線だと思われた場所には確かに、武装したいつもの市民が居た。そして、多くの生徒が配置された後援部隊の方に、本命の敵が押し寄せた。
「期限の一週間まで生き残れたのは3年2年。1年は殆どの人間が死にました。……ギリギリの勝利だったそうですよ」
「そう、だったんだ……」
 その話で翔は克己がどんな状況に陥ったのかようやく少し理解することが出来た。
 しかし、遠也が言いたかったのはそういうことではなく。
「一週間、という時間が何を意味するか、解かりますか?」
 静かなその問いに翔は首を横に振る。
「人が継続的な戦闘に耐えられなくなる時間です」
 それが、今回最も他のと違うことだった。今までは3日で帰ってこられたものが一週間。それがどんなに大きなことか、気付けるのは戦争に出向いた当人達だけだろう。
「緊張と恐怖とストレスが一週間も続くと98%の人間は何らかの精神病を患うことになります。戦場に行った兵士が、心に傷を負って帰ってくるのはよくあることです。人を殺さないといけないという強迫観念に囚われたり、人殺しの味を知ったり……だから、帰って来て犯罪者になる可能性もある」
 人殺しのプロが犯罪者になるのは最悪のパターンだ。
 でも、それも、戦場では人を殺せと命令をされたのに、帰ってきたら殺すなと言われる切り替えについていけなかったからか。
「最近ではその苦しみを薬で抑えることを軍も奨励しています。恐らく、今回戦地に赴いた彼らも薬漬けの毎日だったんでしょう。けれど、薬によりじわじわ気が狂っていくのに耐えられたかどうか……危険な存在になりつつあったことは確かです」
 薬の種類によっては体力が落ち、禁断症状に苦しむ羽目になるものもあったはず。
 遠也の言いたい事が何となく解かってきたが、それは克己には当てはまらない。
「でも、克己は普通じゃないか。薬も飲んでないし、それに」
「そうですね、彼は残りの2%の人間なのかも知れません」
 遠也もそれはあっさりと認め、頷いた。それにほっとしたけれど、彼は眉を寄せて口を開く。
「でも、考えてもみて下さい。人を殺しても何も感じない、仲間が死んでも何も感じない、自分に死が迫っていると知っているのにストレスを感じない。そういうことなんですよ?」
「遠也……」
「性質が、悪すぎる。あまり彼の近くにいない方が良い」
 遠也は精一杯、警告をしたつもりだった。
 真摯な黒い眼を見つめる翔も言いたい事をきっとすべて理解したはずだ。
 付き合いの長い友人の訴えに、翔は視線を床へと落とした。



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