「ごめんな、遠也、突然こんな事頼んで」
「いえ、良いですよ」
 翔はあまり見慣れない白い世界にあたりをきょろきょろ見回しながら前を歩く遠也の背を追った。
 かつかつと歩く靴音が妙に響くのは、ここが少し特殊な設計だからだろう。同じ敷地内にこんな建物があるなんて。研究室のような、病院のような、混ざり合ったような雰囲気で正直あまり居心地は良くない。
 アルコールの臭いが鼻につき、何だか奇妙な不安感に包まれた。保健室や歯医者に行った時に感じるツンとした香りと同じで、双方ともにあまり良い思い出がない所為かこの匂いには好感が持てない。遠也のほうは実家が病院だから馴染んでいる香りなのだろう、大して気にも留めていない様子だ。
 途中、白衣を着た人に何人か出会ったが、私服を着ていたおかげかあまり気に留まらなかったようで部外者なのに声をかけられることも無かった。ここは、同じ敷地内にはあるけれど、軍の直属機関ではない科学科の建物の中。
「遠也、いっつも一人でここに来てるんだ」
 例え他人が自分に気を止めなくても内心ハラハラしてしまう。平然と歩いている遠也の姿に感心してしまった。
 そんな翔に挙動不審にしていると怪しまれる、と一言アドバイスをして遠也は一つの扉の前に立つ。
「一応許可は取っています。それに、俺は“佐木”ですから」
 手馴れた手付きで遠也は暗証番号を打ち込み、最後に指紋照合までしていた。もしかしてこのドアの先は結構重要な場所なのだろうか。
「場所が重要ではなく、この先にいる人間が隔離されているだけですよ」
 翔が少し不安げな表情を見せた理由を察した遠也がそう説明した時、扉が軽い音を立てて開いた。
 扉の向こうにあったのは、今まで歩いてきた眩しい白とは違い、少し落ち着いた空気のある場所。心なしか、消毒薬の香りが和らいだ気がした。
 一本の廊下にいくつか同じ扉があるところで、あまり人の気配がない。扉は多いけれど静まり返ったその光景はどこか物寂しい気分にさせた。
 何だか不思議な感じがする。
「日向?」
 ぼうっと中を見ていた翔に遠也が怪訝に思ったのか振り返ってきた。
「あ、ごめん」
「そんなに珍しいですか?科学科は」
 彼はくすりと笑って翔が入ってすぐに開閉ボタンを押し、扉を閉めた。
 なんと言うか、ハイテクだ。流石科学科というべきか。
「あの扉は?」
 きょろりと周りを見回して目に付いたのは、一番奥にある扉。その扉だけなんだか少し違う空気を纏っていて、翔の奇妙な感覚に拍車をかける。
「ああ、ここを使っていたグループのリーダーの個室ですよ。あの扉だけ開けることが出来ないそうです」
 遠也が早良に言われたとおりの説明をすると、翔は興味深そうにその扉を眺める。
「何で開けられないんだ?」
「あの扉だけ網膜照合に設定されているからと、ここの住人があの部屋を放っておく事にしたから、ですね」
 その住人の姿が見当たらない。いつも遠也が扉を開けると飛んでくるのに。
 まさか留守か。
 遠也は少し嫌な予感がして、初めての場所をきょろきょろ見回している翔を振り返る。時々あるのだ、研究会やらなにやらと早良は基本的に忙しい人間。この部屋に来ても留守の時が。
「すみません、日向。ちょっと部屋覗いてくるのでここで待っていてくれますか?」
「あ、うん」
 遠也は迷わず沢山並んだ扉の一つを開け、中に入って行った。その部屋の持ち主が噂の遠也の恩師なのだろうか。どんな人なのだろう。遠也からは髭面の変な30代と聞いているが。
 手持ち無沙汰にきょろりと周りを見回して自然と眼が行くのは、先程遠也に教えられた開かずの部屋。どこにでもそんな部屋があるものだと思いながら、その扉の前に立つ。向かって右側に、その網膜照合の機械が取り付けられていてご丁寧に「ここを覗いて下さい」と書かれていた。
 こんな事を書かれたら覗いてみたくなるじゃないか。
 暇なのが後押ししてついついその黒いカバーを上げて、網膜照合の青い光を眼に映していた。正常に起動しているのかも解からないと思ったけれど、光が見えるというのはまだ動いているということか。
『しばらくそのままお待ち下さい』
 機械的な女性の声が流れ、ぎくりと肩を揺らしていた。あまり大きな音量ではなかったが、遠也達にこの些細な悪戯を気付かれるのは困る。ちょっとやばいかも、と思い眼を離そうとした時だった。
 ピー。
 そんな機械音が聞こえた次の瞬間、扉があっさり開いた。
「……へ!?」
 暗い部屋の前にただ立ち尽くすしか術が無く、次に考えた事はどうやれば扉が閉まるんだろう、だった。
「嘘だろ、何で開くんだよ……」
 明らかに扉の開閉は電動で、手で閉められない。こういうときハイテクは困る。停電の時は一体どうするんだか。
 少なくとも部屋の中には閉めるボタンがあるだろう、と部屋の中に一歩入ってすぐ、翔の願いを聞き届けたかのように扉が閉まった。
 いやでも閉じ込められても困るんですが。
 後ろを振り返って自分の状況が更に悪くなっている事に思わず引き攣った笑みを浮かべてしまう。
「うっそ、え……と、遠也―っ!!」
 こんな真っ暗な部屋に閉じ込められるなんて最悪だ。怒られるのを覚悟で扉を叩いて助けを求めようと拳を握る。
 けれど、周りでなにやら小さい起動音のようなものがあちこちから聞こえ始め、後ろを振り返ったその時、眼を刺すような眩しい光に反射的に眼を腕で覆っていた。
 機械の光とはどこか違う、柔らかい暖かさを持つ光。
 徐々に目が慣れ、戸惑いながら腕のガードを外し、信じられない光景に息を呑む。
 どこまでも続く青い空と、柔らかな風に身を任せている草原が辺り一面に広がっていた。心なしか、体に入ってくる空気も清々しい。
「何だ、これ……すげぇ」
 自分の足元を覆い隠している草は歩くとわさわさと音を立てる。まるで本物だが、草を掻き分けているというような感触は無い。それでも、本物の草原に立っているようだった。
 こんな風景を見たのは生まれて初めてだ。
 とりあえず、最近異常気象やら開発で忙しい自国の土地ではないだろうことは解かる。どこか自分の知らない遠い国の光景か、それとも誰かが作り出した幻想の世界か。
 ただ茫然と足を踏み出し、誰もいない草原を歩いていた。が
「痛って!」
 5歩くらい歩いたところでガンッと顔に何かが当たった瞬間映像が乱れ、普通の部屋の光景に瞬時に戻ってしまった。暗い部屋ではなく明かりのついた部屋だったけれど。思い切りぶつけてしまった鼻を押さえながら目の前に視線をやると、白い壁が立ちはだかっていた。どうやらふらふらと歩いていたら部屋の壁にぶつかってしまったらしい。壁の隅には何台かのカメラがあり、恐らくそれで今の草原を映し出していたのだろう。
 開放的な風景に思わず歩いていたが、所詮は部屋の中というわけか。
 部屋の中は意外と綺麗に整えられていた。パソコンが一台、仮眠用か簡易ベッドが一つ。目に付くのはその程度。
 足元を見ると、旧型のホログラフィーカメラが落ちていた。踏まなくて良かった、と内心ほっとしながら手にとって眺めてみれば、映像を立体で撮れるという一昔前のタイプだった。今では再生と撮影録画を一台でこなせるが、これは再生専用の機器だ。チップも入っているようなのに、電源を入れても再生出来ない。
壊れているのだろうか。
 何となく振ってみるとカラカラとするはずのない音がする。何かの部品が取れているのだろう。けれど、その程度ならもしかしたら自分でも直せるかもしれない。でも勝手に持ち出すわけにもいかないので、それを机の上に置いて、明るくなって見つけることの出来た扉の開閉ボタンを押した。
 


 探していた人間は自室のソファで夢の中に沈んでいる。
 通常装備の髭が無いということは、最近学会での発表が終わったという証拠だ。昔は学会なんて面倒だと最低限の回数しかしていなかったのに、近頃は頻繁に研究発表をしているらしい。壁掛けのカレンダーにはその予定がびっしりと書き込まれていた。赤文字で「〆切!」と書かれているのが目立つ。そして、一週間後からはしばらく学会の為に留守にするという線が引かれてあった。
 まるで自分の存在を学会に知らしめているような行動。
 いや、自分だけではない。
 過去にこの国でもっとも優秀だと言われた研究チームの仲間達の存在を風化させない為に、一人残った彼がまさに孤軍奮闘中。無理をしていると言っても良いほどに。
 そこまで一人で気を張る必要はないだろう、と少し前に言った事がある。けれど早良は笑って髭を撫でながら言った。
「アイツらを抹消されたくない」
 それに一人じゃないさ。遠也がいるだろ。
 笑顔で言われたその言葉を思い出し遠也は眼を細める。
「……俺がいなくなったらどうすんだ」
 馬鹿面を晒して寝こけている早良の頭を集めた書類で軽く叩き、ため息を吐く。叩かれたのに彼は起きる気配を見せない。
 よっぽど疲れているのだろう。
 出来るなら寝かせていてやりたいけれど。
 本日の日付に眼を滑らせると、「蒼龍様」と書かれてあるのみ。
「蒼龍様……?っ」
 聞きなれない名前に訝しんだその時、僅かに痛んだ心臓に奥歯を噛み締め、遠也はその苦痛に耐えた。気の所為かとも思ったが、その痛みは段々鮮明になってゆき、胸部分のシャツを強く掴む。
 自分を苦しめる痛みにもう何年も堪えてきているが、いつまで経っても慣れない。痛みに息苦しさも感じ、遠也は眼を強く閉じ、床に膝をつく。
 く。
 漏らした苦痛の声に叩いた時は開かなかった目蓋が上がり、はっとしたように早良が顔を上げる。
「遠也!お前、薬!」
「切れかけなんですよ、騒がないで下さい」
 ポケットを探りながら壁掛け時計に眼をやるともうすぐ6時間。薬の効き目が切れる頃。
 痛みを堪えながら探り当てたカプセルを包装から出し、飲み込んだ。心臓は鼓動するたびに痛みを訴えていたけれど、しばらくしたら痛みはようやく和らいでいく。
「驚かせるな……」
 散々な寝起きに早良は安堵のため息を吐きながら水の入ったコップを手渡してくる。
 それを一気に飲み、遠也も一息ついた。
「日向を、連れてきました。橘に会いたいそうです」
「え?」
 そして唐突の言葉に早良は眼を大きくした。いつかは来ると思っていたが、まさか彼とこんなに早く対面するとは思ってもみなかったから。
「そう、か」
 早良はソファで寝たおかげで少し痛みを訴えていた肩を回しながら扉へ向かう。それに遠也も付いて行く。ぱしゅ、という気の抜けた音を立てて開いた扉の先に、彼がいた。
 年齢にしては細い肩と背は、例の一件の後遺症とも言えるが、色素の薄い髪と共にどこか儚げな印象を持たせる。普通の男なら持ち合わせない魅力だ。くるりとこちらを振り返ったその顔と、緊張の混じった笑みに早良は動けなくなっていた。
「あ、初めまして。俺、日向っていいます。日向、翔で、す……」
 声も、被って聞こえてしまうくらいそっくりで。驚きに変わったその表情にも見覚えがあり、早良は息を呑む。
「……せ、んぱい」
 今は亡き翔の実父である有馬蒼一郎が、そこに立っているように早良には見えた。
 思えば、彼と初めて出会ったのが丁度翔と同じ歳の時。翔が中学の時はまだ彼が成長をしていなかったから似ていると思わなかったが、3年ぶりの彼の姿はまるで本人。
「貴方は……」
 早良の擦れた声に翔は薄い茶色の眼で男を見上げた。その眼の色に彼との相違点を見つけ、ようやく早良は呪縛から解き放たれる。
 けれど、翔の表情は段々険しくなっていく。そんな彼の反応に遠也の視線が早良の背に突き刺さった。翔のほうは自分を覚えていたらしい。遠也からはいいフォローをしろというような視線を貰う。自分よりずっと年下で弟のような存在であるが、早良は遠也に怒られるのは苦手だった。それにしてはしょっちゅう怒られているような気もしなくもないが。
 とりあえず、警戒されないように、笑顔を作ろう。
 そう瞬時に判断して、早良はにっこりと笑った。
「こんにちは、初めまして。俺は早良です。遠也が友達連れてくるなんて珍しいな」
 普通のテンションに切り替えた早良の背を見て遠也はほっと息を吐く。人好きのする笑みを浮かべた白衣の男に「初めまして」と返された翔は少しほっとしたような笑みを浮かべた。
「……橘さんのことは、有難うございました。感謝しています」
 他人行儀にぺこりと軽く礼をする翔に彼は少し慌てたように手を横に振る。
「気にしなくていい。まだ彼女眼を覚まさないけど、それでも良かったらまたいつでもおいで」
 そう言って翔が通された部屋にはカーテンで隠されたベッドが一つ。早良がその白いカーテンを引くと、彼女の体を助けている機械と彼女が現れた。その痛々しい姿に翔は思わず奥歯を噛み締める。
 助けてあげられなかった彼女の体は白くて細くて弱々しい。細い腕にいくつものチューブが繋がれた姿は痛々しいとしか言い様が無い。
 翔の表情が強張ったのを見てみぬ振りをしながら、早良は彼女の状態を確かめる。状態は極めて良好、翔が思いつめるほど深刻な状況では無い。
「ヨシワラのお友達も良く来るから。葵くんって言ったっけ?」
「葵が?」
 早良の言葉に翔は少し驚いた。まさか彼が自分より先にここに来ていたとは思わなかったから。それほど、彼と彼女の仲がいいということなのだろうか。
「ああ、開いている時間によく来るよ。彼らの多くはこの科学科が故郷だからな。陸の生徒ほど彼らの出入りは厳しくないから」
 というか、彼らが廊下を歩いているのが普通の光景だ。
 早良の説明に翔は納得したかのように頷き、視線を眠る彼女へと移す。真っ白い女性の顔にその眼の色が悲愴な色になる。そんな彼の様子を見て早良は遠也を振り返った。
「遠也、悪いけど俺の部屋から彼女の資料持ってきてくれないか。俺、彼女の容態説明しておくから」
「あ、はい」
 早良の頼みに遠也は足早に部屋から出て行った。翔の哀しげな眼を共に見ていた遠也もきっと早く翔を安心させたいと思ったのだろう。彼の背をよろしく、と笑顔で見送ってから早良は自分の白衣のポケットの中に入っていた数枚の紙を取り出す。四つ折りにしていたその紙は広げるとなかなかの大きさになり、癖のある外国文字が書き込まれていた。医療用によく使われるその文字は、彼女の容態を克明に記していた。
 自分の思惑に気付かずに、翔への気遣いですぐに出て行った遠也には悪いが、早良は橘のカルテを手に視線を翔に向ける。
 翔は扉の開閉音を聞き終えてから肺に溜まっていた空気を吐き出した。虚ろな視線の先には、彼女が静かに眠っている。白いカーテンに守られている姿はまるで昔誰かに読んで貰った絵本のお姫様のようだった。過去にあった事を何も知らず、ただ眠り続けたお姫様。彼女が100年間観ていた夢は一体どんな内容だったのだろう。
「日向くん」
 気遣うように自分を呼んできた彼の顔には見覚えがあった。間違いなく、あの時自分にこの学校に入るように伝えてきたあの人物だ。父の知り合いとも言っていた、あの。
 あまり思い出したくない過去を知る人物が、まさか遠也と知り合いだとは思わなかった。
「まさか貴方が遠也の知り合いな……」
「ひっさしぶりだなー!!ちょっとおっきくなってるー!!」
「へ!?」
 がばっと白衣をはためかして彼は翔にいきなり抱きついてきた。突然の彼の行動に翔が眼を白黒させているのを良い事に、彼は少し髭の生えた頬をぞりぞりと押し付けてくる。
 いきなりの事に翔は戸惑うばかりだ。
「うわ、ちょ……あの!?」
「肌年齢若いなー可愛いなー。超久し振り、元気そうでオジサンマジ嬉しいよー!」
「うぇ?あ、あのちょっと離っ!」
「いいじゃない。感動の再会ってヤツでしょ?遠也が居たらこんなこと出来なかったしなぁ。上手く育てたつもりだったけど、どうもあの子は気が短くて。しかも怒らせるとすっごい怖い。穂高の育て方は大成功だな、日向くん可愛い」
 まるでぬいぐるみか何かを抱き締めているように彼は腕に力を入れてくる。そりゃあ、こんな接し方をされたら遠也みたいな性格が出来上がってしまうんじゃないかと、翔は密かに今いない友人に同情した。
 何となくは気付いていたけど、苦労していたんだね、遠也。と。
「あー、ほんっと元気そうで何より何より。学校には慣れた?穂高も元気?」
 満足したらしい早良は翔からぱっと離れてにこっと笑う。出会った瞬間に思い切り警戒してしまった自分が馬鹿に思えるほど、彼の態度は明るい。
「はぁ、まぁ……穂高さんも元気です」
 髭が当たって少し痛かった頬を撫でながら翔も答えた。
 この人も穂高の知り合いなのかと伺うような目で見上げると彼はにこりと幼い笑みを浮かべる。それが当然というような笑みに、それ以上聞く隙が無かった。
「さて、日向君、俺に何か聞きたい事があるんじゃないかな?」
「え?」
「例えば……何で入院中だったはずの君のお父さんが君のお姉さんのクローンを造れたのか、とか?」
 その言葉に翔は表情を強張らせた。
 翔が一番に疑問に思っていた事を良い当てた彼なら、その答えをくれるだろう。思いがけない存在に翔は逸る心を押さえていた。
「そうです、何でなんですか?何で、こんな事に?あの人はもう死んだのに……なのにどうしてまだ」
 すっと表情に影を落とした翔の頭を早良が撫でる。その唇を噛み締めて正体の解からない恐怖を堪える姿は歳相応に見えた。前に出会った時は、可哀想なくらい大人びた顔をしていたのに。
 穂高や遠也、他の友人達と接して少しは良い方向に向かっていたのだろうか。そんな時にこの学校に召集された、というのは早良にとっても胸が痛いことではあったが、久々に心に引っかかっていた人物に会えて、しかも結構元気そうな姿だったのは嬉しい事だった。
「うーん、ごめん。実は俺もまだ良く解からん」
 てへ、と誤魔化すような笑みを浮かべた早良に、翔は思いっきり冷たい視線を投げていた。この温度には早良も覚えが有る。遠也にそっくりだ。
「そんな眼で見ないでくれよ、今調べ中なんです。何か解かったら、随時教えてあげるから。遠也経由で」
 ね?それで許して。
 よしよしと頭を撫でられ、子ども扱いされているような気もしないでもないが、翔はそこを突っ込む気力も無く、ため息をついてからベッドで眠っている彼女に眼をやった。
 彼女がこんな目にあっているのも、彼女を作った彼の所為なんだろうか。
「それと、あまり深く思いつめない方がいいよ。彼女はただのクローンなんだから」
 じっと彼女を見つめる翔の横顔を見て早良は思わず口を出していた。翔が自分の姉を誰よりも大切に思っていた事は知っていたから。
 その言葉に翔は少し驚いたように眼を大きくし、すぐに淋しげに眼を伏せる。
「それでも、良いんです」
「良くないよ」
「良いんです。橘さんが笑うと、姉さんが笑ってくれてるようで嬉しいから。俺はこの人を何があっても守ってみせます、絶対に」
 向けられた目は強い光を秘めていて、早良は部外者である自分にはどうすることも出来ないと察した。その眼は、彼に似ていると思ったけれど口には出さない。
「君の気の済むようにしたらいい。でも、ほどほどに、な?」
「……はい」
 揺れる心電図が彼女の生を教えてくれている。規則正しい機械音にほっと息を吐く。
何があっても、護るってみせる。絶対に、今度こそ。
 けれど真っ白い肌は蝋人形のようで、彼女が本当に生きているのか不意に不安になった。泣きたくなった。
 それでもその感情をどうにか堪え、カーテンを閉じる。
 白は彼女によく似合った色。
 そして、ベッドの向こう側の窓には真っ青な空がその一角だけ映されている。
「彼女は、誰かに殺されたかけたのかも知れない」
 早良の言葉を翔はただ黙って聞いていた。驚きはあまり無かった。
「それなら、俺は彼女を殺しかけた犯人を見つけます」
 見つけて、そして。
 その後はその時にならないと解からない辺りが自分でも恐ろしいと思う。
 少年のものとは思えないほど厳しい表情の翔の横顔に、早良は肩の力を抜いた。事態はあまり好転していないようだ。
「まだ、どうして自分が生き残ったと思う時がある?」
 あの時の翔の呟きは早良の耳にまだ残っていた。その問いに翔は少し驚いたように彼を振り返り、困ったように眼を伏せる。
「……時々」
 答えは、正直なものだった。
 けれど、言い難そうにしている彼の空気から、少しは彼も変わってきたのだと察し、早良は少しほっとした。
「あの時は君の周りは敵ばかりだっただろうけど、今は違うよな?」
「……まさか、遠也と会ったのは貴方が」
「そこまで俺は底意地が悪くないよ。君と遠也の出会いは偶然。俺の方が、君と遠也が友達だと知って驚いた。でもおかげで、俺はまた君と会えた」
 不思議な縁だな、と彼は笑い、翔の頭を撫でる。初めて出会ったときとは全然違う柔らかな空気に翔は少し安堵し始めていた。
「これでようやく俺は君の味方になれる」
「早良さん……」
「何かあったら俺を頼って。俺も全力を尽くすから」
「じゃあ、橘さんを助けてもらえますか?」
「まぁ、それは任せなさい」
 苦笑する早良にほっとした笑みを返して、翔は彼女のほうへと視線を移した。
「部屋が汚くて書類が全然見つからないんですけど」
 遠也の憤慨する声とともに扉が開いても翔はまだ彼女を見つめていた。そんな彼の様子に嘆息してから早良は頭を掻きながら遠也に頭を下げる。
「あ、ごっめん遠也。俺の白衣に書類入ってた」
「馬鹿の極みですね!」
 探すのに苦労したらしい遠也は殺意の混じった視線を早良に向ける。一体自分のいなかったこの部屋で何があったのか解からないけれど、翔と早良を2人きりにしてしまったことは何故か後悔していた。
 遠也がちらりと翔の様子を伺うと、彼はそんな心配げな視線に気付いてにっこり笑う。
「ありがとう、遠也。そろそろ帰ろっか。早良さん、ありがとうございました」
「あれ。もう帰るのか。折角お茶でも出そうと……炭酸飲料作ってたのに」
「帰りましょうか、日向」
 早良の恐ろしい一言に遠也は翔の背を押して部屋から出る。ビーカーに入れられた怪しげな飲み物など、翔に飲ませられない。早良は心底残念そうに肩を落とすが、同情の余地はないだろう。
「そっか。じゃ、コレあげる」
「何ですか、これ」
 廊下に出て早良が翔に差し出したのは一枚のカードキー。蒼い色をしたそれを手にとってしげしげと見ていると彼はそれの説明を始めた。
「ここのカードキー。指紋照合もしないで済むから、いつでもおいで」
「それは俺にはくれないんですか……」
 便利な道具を目の前に見せられ、今までパスワードと面倒臭い照合をやってきた遠也がボソリと不平を口にする。けれど、早良は一笑した。
「もう一枚作るの面倒臭い」
 そう、早良はこういう人間だ。
 遠也が呆れて何も言えなくなっている間、翔は手の中の蒼いカードを眺め続けた。あの部屋で見た草原の空の色に良く似た色だ。
「日向君……の眼はやっぱり茶色なんだ」
 そんな翔を見つめながら早良は思わず呟いていた。それを拾った翔は顔を上げ、不安げに彼を見上げる。
「早良さん……は、俺の父をご存知なんですよね?」
 あの父は、科学庁で働いていたとしか聞いていないがここはその科学庁の施設。風の噂ではそれなりに地位があったという父を知る人間がいてもおかしくない。そして、早良はあの父の知り合いだと言っていた。
 翔が父親に酷い目にあってきた事を知る早良はか細い声での質問に慌てた。
「い、いや……うん、まぁ知り合いというか友達だったんだけど」
 正直に言ってしまった早良に遠也が密かに彼の後ろでため息を付く。誤魔化しが下手な人間なのだ、早良は。
「早良さんの知る父は、どんな人でしたか」
 けれど、翔はそれを気にする風も無く、更に問う。
 初めて他人に聞く、他人の知る父の姿。特に知りたいと思ったわけじゃない。叔父の穂高は自分が父に虐待されていると知り、一瞬信じられないというような顔をした。
 そんなものだ、と思っていた。
 外面は良くて、家に帰ると獣のよう。そんなものだ、と。
「うーんと、蒼い眼が、印象的な人だった」
 蒼い眼。
 彼の言葉を反芻して、翔は違和感を覚える。
「蒼い眼?」
「有馬博士は母親が外国人だったんだって、俺は聞いてるけど」
「そろそろ、行きましょう日向」
 翔が眉を寄せたのを見て遠也が口を開いた。早良もそうだなと言うように体を壁に寄せ、道を作る。
 けれど、何だろう、この後ろ髪を引かれる様な感覚は。
 またおいでと手を振る早良の後ろには、さっき入ってしまった扉。それを見てから、翔は遠也に導かれるがままに足を踏み出した。
 その時思い出したのは、夢に見る父の獣じみた瞳は蒼ではなく、真っ黒だったこと。翔が思い出せるかぎりの父親の色彩に、蒼という色は無かった。


 二つの小さな背を見送り、早良はため息を吐く。
 遠也も翔も変なところで純粋なのが偶に傷だ。可愛いといってしまえばそこで終わるが、誰かにそこを付け込まれはしないかというのが目下一番の不安。
 橘の部屋に戻り、消毒薬臭い空気を肺まで吸い込んだ。
「何で、起きている事秘密にしたいんだ」
 その声を合図に彼女は閉じていた目蓋をゆっくりと上げ、黒い瞳を露わにする。彼ら姉弟は誰も父の目の色を受け継がなかったようだが、今はそんなこと関係ない。
「嫌いなの、ああいう子」
 白い天井を見つめたまま、表情も変えずに口からは辛辣な言葉。
「君と違って純粋だから?」
 早良の揶揄に橘は眼を細め、そのまま目蓋を閉じる。
「そうね、そうかもしれない。私のオリジナルの気持ちが何となく解かるわ」
 くすりと皮肉めいた笑みを浮かべた口元を見て、早良は開いていたカーテンを引いた。
「君も少し眠るといい。次に彼に会う時は、笑ってあげてくれよ」
「何で私が、あんな子の為に」
「普通なら君は廃棄だったんだ。でも俺は助けてやった。そのお礼くらいしてくれたっていいだろう」
「……別に、私は死んでも良かったのに」
 ポツリと小さく呟いて、橘は手を握る。
「ねぇ、貴方、クローンとか造ったことあるんでしょう?」
 部屋から出ようとしたところでの呼びかけに早良は足を止めた。そこですかさず彼女は言葉を続ける。
「貴方は、自分で作った子たちを心から愛した事がある?」
 呟くような問いに、早良はため息を吐いた。
 何て馬鹿らしいことを聞いてくるのだろう。そんな音で。
「実験用のモルモットを愛したところで何の得があるんだ?」
 早良の影がカーテンから遠ざかり、部屋から出て行く音がした。
 それを聞き終えて橘は再び眼を開け、真っ白い天井を見上げる。先ほど薄く眼を開けて見た翔の顔は可哀想な程苦痛に満ちた表情だった。自分を見て、誰かがそんな顔をするなんて思いも寄らない事で。
「困るわ……」
 思わず呟いていたその言葉の真意を知るものは、彼女だけだった。





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