人影が去ってしばらくしてから、木々が風も無いのに大きな音をたてて葉を揺らす。
ぎしりと枝まで軋む音が聞こえてきたのは、木の上に人間が二人隠れていたからだ。
「……何だアレは。ここは士官学校のはずなのに俺は少女漫画のワンシーンを観た気分だぞ」
「……和泉も少女漫画なんて読むのか」
「お前……そこは要らないツッコミだろう……」
和泉はため息を吐きながら隣りにいた無感情の瞳を持つ沢村に言う。
色々と事情があってさっきまで下で話していた二人の様子を伺っていたら、何だか見たく無いものを目撃してしまった気分。
難なく地上に降り立つとそれに続いて沢村も降りてきた。手に軽い痛みを感じたのはきっと木を握った時に棘が刺さったからだろう。今日はまさかこんなところに来ると思わなかったからグローブを持ってこなかったのだ。大した怪我では無いから良いけれど。
「何故日向翔を助けた?」
さっさと授業に戻ろうとした和泉を引き止めたのは、抑揚の無い沢村の問いだった。
「助けた?何の話だ」
くるりと彼を振り返ると、沢村の真っ黒な瞳と視線がかち合う。その眼にはどこかで見覚えがあると思ってすぐにその覚えを思い出す。
鮫だ。昔どこかで見た映画の、人食い鮫の無感情な真っ黒い瞳に似ているのだ。
沢村はその無垢で純粋とも言える黒い瞳を伏せつつ、口を開く。
「……俺に川辺のところに行けと言ったのはお前だろうが。その途中で俺は日向が殺されかけているところに遭遇した」
「偶然だろう」
「前の調理実習の時もそうだ。お前、気絶している日向が榎木たちに何かされないようにわざわざ俺を使ったな。これは、偶然か?」
アンドロイドのクセに頭の回転がいい。
聡い彼の台詞に内心舌打ちをしつつも、和泉は肩を竦めて見せる。
「どうだっていいだろ?お前には関係ないことだ」
「……生徒会がお前に眼をつけることになれば、関係ある」
沢村は校内の風紀を守る風紀委員だ。早い話生徒会の右腕で、彼らの命令次第では生徒相手に粛清する場合もある。
そんな静かな牽制に、和泉は思わず笑っていた。
「生徒会が、俺に?有り得ないな」
完全に勝ち誇っているその言葉に沢村は僅かに眉を寄せたが、和泉が気付ける程度ではなかった。
「何故だ」
「生徒会は俺を敵に回せないからだ」
「……何を思い上がっているのかは知らないが、あまり思い上がるな。今の会長は馬鹿では無いからな」
「馬鹿でないなら好都合だ。尚更俺を敵に回そうとは考えないだろうよ」
さわり、と葉が風に揺れる音がする。
あまりにも堂々とした物言いで、沢村は背筋に何かが這い上がるような感覚に思わず口角を上げていた。この感じは、あの甲賀克己と初めて手合わせをした時と似ている。
本能が言っている。この男も強い、と。
「お前、一体何者だ?」
本当のところ誰でも構わない。それでも、今生まれたばかりの和泉に対する興味が彼にその台詞を言わせていた。
「それをここでバラすほど、俺も馬鹿じゃあない」
和泉の眼鏡の下にある眼が細められる。
沢村が初めて見せた“表情”と呼べる顔に和泉の方も戦慄を覚えた。それと同時に自分が軽率な行動をとってしまったことを察す。彼は生徒会の下で働く委員会のメンバーの一人。そんな相手に興味をもたれるのは少し厄介だ。
「それに、お人形遊びは趣味じゃないんだ」
人形、と言われた沢村は再び表情を綺麗に作られた仮面のような顔に戻す。
彼は遺伝子から作られたアンドロイド。必要な技術や能力だけ育てられた彼らは、普通の人間なら培うべき感情が未発達。
使い捨てに等しい彼らを倒したところで、こちらに有益にはならないし、相手側も痛くも痒くも無い。
趣味じゃない、というよりは無益な戦いはなるべくならしたくないと言った方がいいのか。
沢村は相手が強いと察したら有益無益関係なく戦いを挑むようだけれど、そんな型にはまったような行動パターンが本当に彼自身の意思なのか、疑問が残る。
「お前を殺して俺に何か利益がある時になら、いくらでも本気で相手してやるけどな」
ふ、と明らかに馬鹿にしたような笑いを浮かべてやったが、沢村は表情を歪めることなく和泉に背を向けた。
「加藤、行くぞ」
そんな彼はいつから居たのか、同じクラスで沢村にとっては風紀仲間の加藤がガサリと音を立てて木の葉の間から顔を出す。
「えー、お腹空いたのに……」
「お前が敵うような相手じゃない。それより、さっき取り逃がしたあの2年の情報を集めろ」
「沢村ひっどいなー。わかりましたー」
彼は少々残念そうにこちらをちらちら見つつも、木から下りて、去っていく沢村の後を追いかけていった。
正直なところ、あの二人が同時に飛び掛ってきたら戦況は怪しいと思って身構えていたが、沢村は単体での戦闘を好むのか、そうした考えには行き着かなかったようだ。
命拾いした。
ふぅ、とため息を吐いた時、遠くからチャイムの音が聞こえてくる。
「あぁ……俺も授業出ないとな」
面倒臭ぇ。
ふと手を見れば、先程の痛みが結構な傷になっていた。にじみ出た血が手の平を伝い、地に落ちる。
そういえば、自分も人間だったんだなと漠然と思う瞬間だ。一応、さっきまで対峙していた彼等よりは人間らしいとは自覚しているが、結局は自分も似たようなもの。彼らを嫌悪し蔑視する資格はない。
でも似たようなものだからこそ、自分の判断で動けない彼等がおぞましかった。
「……俺は、帰って来たぞ」
自分の判断で。
ここの空の下に。
憎しみを込めた眼で能天気なほどに蒼い空を見上げた。今頃、彼は自分が死んだと思ってのんびりと手の内にある獲物をどう料理しようか笑みを浮かべつつ思案しているに違いない。自分が神になったような気分で。
お前は神じゃない。ナイフを突き立てれば血を流して死ぬただの人間だ。
それを教えてやる為に、わざわざ恩人に頼み込んでここに戻ってきた。ここに戻ってきたのは、その恩人の為でもあるのだけれど、彼はそんな自分の行動を心から喜んではくれなかった。優しい彼は、人が死ぬのを嫌う。
適当につけたこの和泉興という偽名も、彼は聞いた瞬間にしかめっ面になってしまった。何ともセンスの無い名前だと。本名の方がずっと良い名前だと。
その時のことを思い出すと、普段人を寄せ付けない和泉からは考えられないほど柔らかい笑みが漏れる。
彼をむざむざ死なせるわけにはいかない。
あの男の血を流す姿は見たいが、彼が流す血は見たくない。病気がちな彼の口からこれと同じ紅い血が吐き出されるたび、言いようの無い恐怖に襲われていた。
全ては、彼の為。彼の為は、自分の為。
その為ならいくらでもこの手を血で汚そう。たとえ、血を分けた兄弟相手でも殺せる自信がある。
漠然と忠誠心を植えつけられた人形共とは、格が違う。
「蒼龍、様」
彼の僕だという証のタトゥーが入っている肩を押さえるとそこに自分の血が付いた。生徒会がこの証を眼にした時どんな反応を見せるのか、考えただけで面白いが、きっとそんな日は来ないだろう。
なぜなら、彼らに自分の身分がばれるほど、自分は無能ではないから。
血が止まった傷口を見て、小さく笑うとどこからか少し強い風が吹き木々がざわめく。その風がおさまる頃にはもう和泉の姿はそこには無かった。
再び、辺りには静寂が戻り、軍施設の一角とは思えない程の長閑な光景を太陽の仄かな光が照らした。
校舎よりは少し小さい委員会館に足を踏み入れ、いつもの長い廊下を歩く。沢村はいくつかの扉の前を素通りし、一人生徒が立っている扉の前に立った。
「夏野委員長、沢村が帰ってきました」
その蒼いネクタイをつけた生徒が、姿を現した沢村を見て、扉をノックしてからノブを回す。その部屋の中に吸い込まれるように沢村が中に入れば、何かの書類整理をしているらしい青年が机の上でペンを走らせていた。一歩足を踏み出すと、部屋の主の気に入りらしい香の香りが微かに鼻腔に触れる。この学校には珍しい、高級な香りだ。
「ああ、ご苦労。報告を」
こちらを見上げることなく淡々と言われたが、それに何かを思うことなく沢村は口を開いた。
「生徒会の推察通りかと」
風紀委員の仕事は校内風紀の秩序を保つ事、と漠然と定められている故にその幅は広い。主な仕事は生徒や教師の見張り役だ。何か不審な行動をする人間がいれば、生徒会か委員長に報告し指示を得る。
だが今回のように、生徒会から命令されて動く事もそう珍しいことではない。
「なら、君はそのまま生徒会の命を聞いてくれ」
大して興味なさそうに書類を投げて、彼はまた違う書類を手に取る。それを目で追いつつ、沢村は再び口を開いた。
「一つ、気になることが」
「何だ」
「和泉興という人物の事です」
「和泉興?」
夏野は頭の中に入っている注意人物の名を思い出してみたが、初めて聞いた名だった。二年までの生徒の名前は全て覚えているはずだから、恐らくは一年生の名前なのだろう。
「一年E組の和泉興です」
淡々と続ける沢村の報告に夏野は右手側にあるパソコンに手を伸ばした。この中には在学生徒全員のデータが入っている。要注意人物リスト作成も風紀と情報部の協同の仕事ではあるが、まだ一年生のリストは作りかけだった。
キーを軽く叩き、和泉興なる人物のデータを表示する。そして顔写真を確認し、肩の力を抜いた。
「……分かった、こちらの方で調べておこう」
「この調査は自分が」
けれど、夏野は沢村の申し出に首を横に振った。
「君は今生徒会の方に貸し出し中だからな。途中で返せなどと言ったら千宮路に嫌味を言われる」
現在、多忙で留守がちな生徒会長の代わりに副会長である千宮路が生徒会を取り仕切っている。その千宮路になぜか気に入られている沢村は夏野の言葉に表情を動かすことなく一礼した。了解したという意味だろう。
「失礼します」
そのまま出て行く部下を見送り、夏野は奇妙な緊張感からようやく解き放たれ、ほっと息を吐いた。そして再びパソコンの画面へと眼をやる。
「和泉興、か……」
眼鏡・帽子着用不可とされている顔写真の中でどこか不機嫌そうにこちらを睨みつけている一年生の顔をもう一度見てから、画面を切り替えた。
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