「いってぇー……あれ?」
 全身に走る痛みに呻きながら眼を開けると、まず蒼い空が眼に入った。こんなに空って近いところにあったっけ?と体を起こそうとすると手は宙を押し、体がぐらりと崩れた。
「うわぁッ!って……ここ、まさか」
 恐る恐る周りの様子を確かめると、緑色の葉が顔を撫でる。どうやら、自分はあの森の中に落ちて、その重なり合った枝に引っ掛かり、地面への衝突を逃れることが出来たらしい。
 落下したあの瞬間を思い出し、口元が引き攣った笑みを作る。木の無いところだったら確実に死んでいた。
「あ、あはははは……た、助かった……」
 後で緑の羽根に500円募金しよう。自分の所為で折れたらしい枝がぱらぱらと落ちていくのを見て心の中で謝罪した。
 けれど、この奇妙な体制でバランスを保つのも結構疲れるもので。降りようとここら辺で一番近い太い枝に手を伸ばそうとしたら、肩あたりでみしりという嫌な音がする。
 慌てて元の位置に手を戻すとその怖い音は聞こえなくなったのだが……本当に危うい均衡らしく、体のどの部分を僅かに移動させただけでも木が軋む。
 今、体の感触で解かる限りでは、首のところに一本の枝、肩をもう一本、体を支えているのは少し太めの木の枝一本、それを左足右足各一本ずつの枝で支えられている。どれも、大人しく体を任せていられるほど太いわけじゃない。
 どうしろと、この状況。
 途方にくれる翔を笑うように、頭上を小鳥が飛びまわり、ぴーぴー鳴いている。
「翔!どこだ!」
 絶体絶命だ、と泣きたくなった時、下の方から克己の声が聞こえてきた。
 間違いなく、彼は救世主だ。
「克己!」
 何で彼がここにいるのかは解からないが、とにかく助かった。
「翔……って、お前なんでそんなところに引っ掛かっている」
 木々の間から克己の顔が見え、その顔が少し小さいあたり、ここの高さを物語っている。1階半くらいの高さはあるか。
「俺も何だか良く解からないよ……」
 本当に解からないのだから仕方が無い。突然、面識の無い少年に喧嘩を売られ、窓の外に放り出されたのだから。
 自分が出てきた窓はもう木の葉っぱに邪魔されて確認出来ない。
「とにかく、降りて来い」
 克己の呆れたような声に、あははと乾いた笑いを返す。
「いやー……そうしたいのは山々なんですけど。身動き取れないんだよな」
 自分を支える枝の親である木の幹には、手が届かない。多分あちこちの枝に自分の体重が分散されているから自分は今ここに居られる。これが一本の枝に体重がかかったら、絶対に折れる。
 木の葉で翔の姿が見えない克己からは、彼がどういう状況に陥っているのか解からないらしく不思議そうな声が下から聞こえてくる。
「お前、木登り得意そうなのに」
「……克己、俺にどういうイメージ持ってるわけ?」
 苦手ではないが、そんなに木登りをして遊んだことは無い。
 それに、この状況は木登りが得意云々の話では無い。
「……お前、落ちて来い」
 そんな状況を察した克己はため息を吐きながら恐ろしい提案をしてきた。
「はぁ!?冗談だろ!」
 こんな体制のまま落ちたら、受身を取ることもままならない。そうしたら、多分。
「大丈夫だ、翔。これくらいの高さなら全身打撲はあっても死にはしない」
「どこら辺が大丈夫なんだよ!」
 多分骨折くらいはしそうだ、というのは翔でも予想が出来た。そんな怪我を覚悟して飛び降りるなんて出来るほどまだ自分は大人じゃない。いや、大人になっても無理そうだが。きっとそう提案してきた克己なら何の戸惑いも無く飛び降りるのだろう。彼なら難なく受身をとって無傷で生還出来そうだけど。
 本当に後一グラムでも折れてしまうというギリギリの状態の枝にはハラハラしてしまう。今叫んだ時も密かに木が軋んでいた。
「大人しく落ちて来い。受け止められたら受け止めてやるから」
「そんな微妙な!!」
 葉の間から見えた克己がほら、と腕を伸ばして促してくるが、そんな中途半端な約束を信用出来るか、いや出来ない。
 また腰辺りの枝が呻くのに、思わず叫んでしまっていた。
 そんな悲鳴のような翔の声に、克己は上から聞こえてくるその声で彼が引っ掛かっているところの高さを目算して、ある結論に達す。
「……解かった。絶対受け止めてやるから、大丈夫だ」
 この高さなら恐らく、受け止められる。そう判断した。
 彼が言葉を変えたことに、翔のほうも少しさっきまでの恐怖が薄れた。
「え、いや……でも」
 彼の心遣いは嬉しい。けれど、この高さで本当に彼が自分をしっかり受け止められるかどうかは、実は結構奇蹟に近いことなのではないだろうか。昔、何かのテレビ番組で高いところからボールを落としてチャレンジャーがどれくらいの高さからのボールを受け止められるか争うという企画があったが、凄い結果を残した人はカメラの前で良い汗を流しながら言った。
『僕、練習してきましたから!!』
 今回は、練習無しで一発勝負。しかも自分はボールよりずっと重い人間。
 出来るか?無理だろ。
 自問自答の結果に翔は無意識のうちに首を横に振っていた。
「駄目だー!!」
「俺が絶対って言ってるんだから大丈夫だ!早く落ちて来い!」
 折角決意をして絶対という単語をつけてやったというのに、翔の返事はなんとも酷い。
 でもそんな怒りの声に翔も慌てて反論した。
「だ、だって!下手したら克己だって怪我するんだぞ!?」
 そう、飛び降り自殺をしようとして落ちてきた人間と下に居た人間がぶつかり、共に天国へ行ってしまったという話は結構耳にする。というか、遠也がそういう話に詳しい。中学時代散々そんな話を聞かされた覚えがある。
 上から落ちてくるものは何でも凶器となりうるのだ。それが人間でも。
 だから、飛び降り自殺はあまり薦められない、というオチ付きで。
「気にするな」
 けど、そんな可能性を叫んでも克己の返事は淡白だった。
「気にするっての!!」
 っていうか、お前が気にしろコラ!!
 と、続けて叫んでやりたかったけれど、腰の枝は前半部分だけが限界で、慌てて言葉を喉の奥のほうに引っ込める。
 なかなか行動を起こさない翔に、克己はため息を吐いて再び口を開いた。
「俺も怪我はしないし、お前も怪我はしない。……俺を信じろ」
 自信に満ちた彼の言葉は確かに信じるに値するほどの真剣味と説得力があった。
 そんな、下から聞こえてきた言葉は、多分聞き間違いじゃない。
 信じろと彼は口にした。
「……な、今何て」
 前、ここでは誰も信じるなと言ってきた彼が、自分からそんな事を言ったんだ、驚かない人間がいるか。
 何だかこんな状況だけど物凄く嬉しくて。
 もう一度聞きたいと思ったのが悪かったのだろうか。
 頭上をさっきから飛び回っていた鳥達が、高く鳴いたと思ったら何を思ったのか翔の体のあちこちに止まった。その数、目算8羽。
 肩に止まった鳥が「ぴぃ」と可愛らしく鳴き、鳥独特の動作で首をこりんと動かす。まるで、何でそんな恰好でこんなところにいるの、と聞きたげなその黒い瞳に、翔は口元を引き攣らせる。
「ちょ……こら……っ」
 耳元の枝がみしみしと嫌な音を立て始めた、と思った瞬間、トドメと言わんばかりに、彼らの仲間らしい、小鳥とはいえない大きな鳥が翔の腹に着地をした。その着地の効果音はドス、だった。
 次の瞬間、腰を支えていた枝がバキリという音で限界を伝える。
 一本の枝がなくなると、その分の体重を他の枝が支えないといけなくなるわけで。けれど、すでにいっぱいいっぱいだった枝が、更なる体重に堪えられるわけがなく。
「と、とりぃぃぃーッ!!」
 原因を作った彼らは、翔の体が急降下し始めたらあっさりと飛び立って行った。何て薄情なんだろう。飛び立つ彼らの羽がばし、と顔に当たり泣きたくなった。
 葉が翔の体重を受け止めようと懸命になってくれていたが、受け止められるわけもなく。
 がさがさ、という葉を体全体で掻き分ける激しい音がふいに消え、すぐ地面に叩き付けられる。
 と、思ったが。
 聞こえた音は、地面にぶつかる酷い音ではなく、とさりという案外軽い音だった。けれど、その後にどだん、というちょっと間の抜けた効果音は聞こえてくる。それでも、自分の体は痛まなかったのは多分
「お前、頭に鳥の羽ついてるぞ……」
 痛みを堪えつつ、といった感じの声にはっと眼を開けて顔を上げると正面に克己の顔があった。
「か、克己……」
「少し見ないうちに随分とボロボロになったな」
 本当に受け止めてくれたらしく、それでも体重の事と何の予告も無しだったという事もあるのか、堪えきれずに倒れてしまったらしい。こっちは特に痛みらしい痛みは無いが、背中を強く地面に叩きつけることになった克己は少し辛そうだ。何だかとても申し訳ない。
「大丈夫か!?ごめん、俺……うぉ、いってぇ!」
 木に支えられていた時は神経を集中していた所為か気付かなかったが、体を起こそうとしたら窓を突き破った背中にビシリと引き攣ったような痛みが走る。
 すぐに克己の上から退けようとしたのに、思わず彼の胸に顔を埋めて痛みの波に堪えていた。
「……お前こそ大丈夫か?」
 ふるふると僅かに体を震わせて痛みを堪えている姿に、克己の方が心配してしまう。それはあまりにもあんまりだと思ってすぐに翔は首を横に振った。
「大ッ丈、夫、だ!」
 単語を区切りながら言っても全くもって説得力は無いのだが。
「……一体何があった?」
 とりあえず、翔の痛みが取れるまではこの体制でいることに甘んじた克己は目の前にある彼の頭にくっ付いていた羽毛を手持ち無沙汰に取りながら、こういう状況になった大本の原因を問う。
 こんな状態に巻き込んでしまった以上、説明は義務だろう。そう察した翔も素直に口を開いた。
「それが、実は俺にもよく解かんなくて……」
 廊下を歩いていたら見知らぬ生徒に首を絞められ、落とされた。こっちは抵抗する暇も無かった。
 そう痛みを堪えながらポツポツと話すと視界の端に入った克己の顔は怪訝な表情。
「本当に知らない相手なのか?」
「うん」
 それは、確かだ。違う学年だった上に見覚え自体全く無い。
「でも、沢村が、助けてくれようとしてくれた」
「沢村って、あの?」
「ああ。アイツ風紀なんだってな。おかげで助かった……のか?」
 首を傾げてしまった理由は簡単。厳密には助かっていないから。下手をしたら死ぬところだったのを助けてくれたのは、むしろ大量に植えられていた木々と、それと、今自分が下敷きにしてしまっている彼。
 本当に彼が言ったとおり、助けてくれた。
「克己」
「何だ?」
「助けてくれて、ありがとな」
 また彼に助けられてしまったけれど、今回は反省するより嬉しいという気持ちの方が大きかった。
 あの克己が、信じるなんて言葉を使うなんて思いも寄らなかった。何だか本当に友達になれたと再確認出来た気がする。
 何だか、照れる。
「っつーか、すっげぇ森だなぁ……ここ」
 照れ隠しに痛みの取れてきた体を起こして周りを見回すと、奥のほうは暗くなっていて先がどうなっているのか分からない。多分森だろうけど。恐らく何かの演習に使われるのだろう。でも、今はどこのクラスも使用していないのか、静かなものだった。
 むしろ、その静けさが不気味なのだが。
 例えてみると、狼が現われる童話に出てきそうな森だ。今にもどこからか狼の遠吠えが聞こえてきそうで。さっきは近いと思った空は、今は木の葉で隠れてしまっている。
「何か、狼が出てきそうだな」
 不意に、例の調理実習の一件を思い出し身震いしていた。あんな思いは二度とごめんだ。
「……出てくるかも知れない」
「え?克己にしては冗談キッツイなー」
 あっはっは、と笑い飛ばしたけれど、克己の表情は思いの外真剣だ。
「……狼、と言っても獣の姿をしているとも限らないからな」
「んー?人の姿してる狼もいる、って事か?」
 何だソレ、狼男か?
 もし自分のその考えが当たっているとしたら、克己も随分と幻想的なことを口にする。遠也が居たら失笑していただろう。
「人が誰も来ない上に、どんなに声を上げても誰かの耳に届く事は無い。絶好の狩場だ」
 克己の淡々とした見解に少しぞっとする。
「まぁ、そうかもな……」
 と、いう事はもしかしたら克己が来なかったら自分はなかなかに最悪な状態だったというわけだ。あの高さから普通に落ちていたら、骨折はしなくても身動きがとれないくらいの怪我はしていただろうし。
 きょろきょろと周りを見回して野生動物が出て来ないか不安になっていたら不意に頬に何か触れた。
 何だと思えば、克己の手だ。
「え、何……?」
 まだ頭に鳥の羽がついているのだろうか。いやでも、手が触れてるのは頬だ。そこに刺さっていたらいくらなんでも痛い。
「言ったはずだ。狼には人間の皮を被ったヤツもいるから、気をつけろ」
 ……もしかして怒られてるんだろうか。
 今日出会った川辺と例の見知らぬ少年の事を思い出し、確かに彼らは人間の皮を被った狼かもしれない……と思い、克己に馬鹿をやるなと遠まわしに怒られているのだと解釈した。
 なら
「でも、今は克己が一緒にいるから大丈夫だろ」
 そう、今なら克己が側にいるからどんな敵が現われてもどうにか出来る気がする。
 自信満々にそう言い切ったら克己の表情が怪訝なものへと変わった。
「……は?」
「そりゃ、まー……少し自分の力見極めないで馬鹿やった自覚はあるけど、今っつーか、いつでも?あ、別に克己の力頼りきってるわけじゃないからな!俺だって、やる時はやる!俺たち二人で力を合わせれば、狼の一匹や二匹!いや、三匹いけるか?」
「……翔……」
 意気揚々と指を三本立てて見せた翔に彼は疲れたような、呆れたようなため息を吐いた。
「……え?あれ?……な、何か違ったか?」
 どうやら自分は何か思い違いをしているらしい。それとも、3匹は無理だというようなため息だろうか。
 けれど、克己は答えを教えてはくれずただ一言
「翔」
「はいッ?」
「退けろ」
 と、言いつつ自分の手を使って翔を自分の体の上から除けていた。
「え……何克己、怒ってる?俺重かった?」
「いや、軽かった」
「軽……それはそれで何か傷つくな……体重増やそう、つか筋肉つけよう」
 この学校に来て何度目の決意か解からないけれど、ぐっと拳を握って宣言すると克己はそれを目の端でとらえてから、すたすたと先に歩き始めた。
「克己?」
 何か様子がおかしい。
 少し前なら気がつかなかっただろうけれど、今は何となく克己の感情の変化を察せるようになっていた。普段から感情の起伏があまり激しくない彼だから、多分まだ気付けていないところもあるだろうけれど、今は解かる。
「な、どうしたんだよ。もしかしてどっか怪我したのか?痛いか?」
 自分で聞いておいて馬鹿な質問だった。あんな高いところから落ちてきたそれなりに重さのあるものを受け止めたのだ、痛くて当然なのに。
「克己」
 前を行くその背に手を伸ばそうとしたら、気配で察した克己の手に叩き落とされた。
 ぱしん、という音と予想外の痛みと音に頭の中が真っ白になってしまう。
 そういえば、前にも似たようなことがあった。あの時はあまり気に留めなかったけれど、克己の胸にぶら下がる細いクロスに触ろうとしたら彼は今のように強く拒絶してきた。
 今もアレに自分が触れようとしてしまったのだろうか、と思い返したけれど、背中にソレがあるわけもなく。となると、今拒絶された理由が解からない。
「……悪い。ちょっと驚いた。行くぞ、授業が始まってる」
 茫然としたこちらの様子に気がついたのか、彼もバツが悪そうに謝り、先を急ぐように促してくる。
「そうだな……」
 平静を装おうとして返事をしたけれど、自分の声は微かに震えていた。多分、前を歩く克己には知られなかったと思うが。
 大したことじゃない。今のはただの弾みだ。
 そう自分に言い聞かせても、手の痛みは増すばかりで。
 克己が人の気配に敏感で、防御も完璧な人だということは知っている。ちょっと驚いたと言われた。それを信じるべきなのに。
 前だったら、こんなことくらいでこんな苦しい思いはしなかったのに。
 一体どうしたというのだろう。
 姉の為に強くなろうと決めたのは体力面だけじゃない。精神面もだ。何があっても傷つく事がない心が欲しかった。……手に入れたとも、思っていたのに。
 こんなに、心が痛いのは初めてだ。





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