「遠也、とーや」
「え?」
はっと顔を上げると、大志の心配げな顔と騒がしい教室内の音が耳に入ってくる。
自分の記憶では授業が始まったばかりだったのに。
遠也の不思議そうな眼に大志は何を思ったのか察したようで、苦笑しながら「授業終わったよ」と教えてくれた。
「昨日、あんまり寝てないんじゃない?」
珍しい遠也の姿に大志は気遣いを見せるが、首を横に振ってそれを否定する。
寝たことは寝た。寝ていないのは多分早良の方だ。一晩中パソコン相手にしていたようだったが、慣れているのか疲れた様子は見せなかったけれど。
「なんか、篠田と矢吹は険悪だし、日向と甲賀はどっか行っちゃうし……」
大志のため息交じりの言葉に教室内を見回してみると、確かに普段つるんでいる二人は眼も合わせようとしないし、翔と克己は不在だ。
何だか、不穏な空気だと思いつつも、遠也は見なかった振りをした。
今朝、早良に指定した時間より早くに叩き起こされた。低血圧だと知っているくせに、そんな事忘れたかのような態度で……慌てた様子で。
「この薬は……ああ、だから……くそ何で今頃」
慌てているというか、怒っているという表現の方が正しかったかもしれない。彼はやり場の無い怒りを机にぶつけていた。
繋がらない言葉を口にして、早良らしくない態度に遠也は寝起きの眼を擦ってから、手元の書類でその横っ面を引っ叩いてやった。落ち着け、という意味で。それでようやく我に返った早良は、軽く咳払いをしながら薬の成分表を遠也に渡す。
ざっと眼を通してみたけれど、どれもこれも聞いたことのない新薬ばかりで、一体どんな効力があるのかもわからなかった。ただ、香料として使われた薬品だけはよくある名前だった。
「新薬じゃ、ない」
「はい?」
早良は赤くなった頬を撫でながら、その痛みのおかげで冷静に説明を始めていた。
「遠也が聞いたこと無いのは、この薬がどれもこれも、危険指定を受けて表に出ていないから」
それでも早良の説明する口調が心なしか弱々しいのは、自分に話したくないからか、それとも誰相手にも話したくないからか。
「この薬は、服用すると良い気分になれる。……つまりはドラッグとしても使える。特徴的な効力の一つとしては、忘れることが出来る」
あまりにも漠然としすぎた説明に遠也は眉を顰めた。
「忘れる、とは何を?」
記憶にも種類がある、という話は聞いたことがある。けれど忘却は心理学的分野だから遠也はあまりそれに関して詳しい知識は持ち合わせていない。それは早良も同じはず、だと思っていたけれど。
早良は眼を伏せて深くため息を吐く。すべてを覚悟したかのような態度だった。
「……使いすぎると短期記憶も長期記憶も、何でも消える。何の記憶を消したいか、ってのは自分で選ぶことが出来ないけど。忘れる、というよりは消去出来ると言ったほうがいいかもしれない。元々は、反抗的な人間を懐柔させる為に作らされた薬だった。だから、依存性も高めにした。暗示にかける時の補助にも使えるようにした。主な効果は忘却・鎮痛・気分高揚。他の成分を混ぜれば色々な効果を出すことも出来る」
軍からの依頼が元だった。敵軍の捕虜から情報を得る為に強力な自白剤が欲しい、と。依存性を高くすれば更に自白率が上がるからそうして欲しい、と。拷問の後に飲ませれば痛みも和らぐから飴と鞭を使い分けるつもりだったんだろう。
ついでに、反政府の人間の考えを変えさせる暗示をかけやすくする薬も欲しい、と。
だから暗示補助の薬を作ることにした。このクソ忙しい時期に数種類もの薬作成を依頼してくるんじゃねぇよ、と先輩科学者と愚痴を言いながら、一種類で済むように。
元々早良はクローン医学を専攻していたけれど、人手不足で薬学にも多少心得があるというだけでこの薬の作成に借り出された。
暗示をかけやすくするのなら、元からあった記憶を薄れさせなければ、とか、敵軍を懐柔するのならやっぱり敵だという記憶を薄れさせるべきだ、とか、居るだけで気分が悪くなるような作成会議に出て、飲んだコーヒーは7杯。やたら不味かったのを覚えている。
結果、自分だったら絶対飲みたくないと思う物が出来てしまった。
依存性が異常に高くなってしまった上に、あまり強調したくなかった忘却性と攻撃性がメインになってしまった薬で、常用したら自分が人間であるという事も忘れてしまいそうな出来だった。いや、完全に人間の人格を破壊出来るものだった。
「これを、作ったのは俺だよ。でも、いくらか改良されてる。捨てたんだ。ROMだって割った、パソコンのハードも壊した。なのに……」
この薬を元に作られた薬だ。構造からみて。
これでこの薬とお目にかかったのは二回目だ、と早良は苦い表情を見せた。
「……一連の事件の被害者の血液を調べることは出来ないが、もしかしたら何人かこの薬の厄介になってる人間がいるかもしれないな」
この薬は改良されたもので、暗示性を高めていたり、凶暴になるようになっていたりと散々な出来栄えだ。この薬の使用を誰かに気づかれたくなくて、さっさと死体処理をしたのではないか。考えは嫌な方向にしか進んでいかない。でも、そう考えてもおかしくないくらい生徒会の動きは迅速だった。
「それは、いささか早合点しすぎでは?」
早良の言葉を遠也は窘める。確かに死体の状態は薬をやっていた人間がメッタ刺ししたかのようなものだけれど、薬の種類なんて星の数ほど。早良が危惧する薬をやっていたか、犯人が薬をやっているのかも解からない。
ただ、その可能性が無いとも言い切れない。
「はずれならそれに越した事はないんだ。なぁ、遠也。次にもし誰か死んだら、そいつの髪の毛か血液を採取しておいてくれないか。可能な範囲でいい」
「犯人を捜せ、とは言わないんですね」
いつもの早良なら、というかこの薬が関わっていると知らなかった昨日までは彼は自分に犯人探しをしないのかと言ってきただろう。けれど、珍しく殊勝な態度に遠也は揶揄するように笑う。
それに、まず疑問なのは何故陸でそんな薬が出回ってしまったか。陸は科学科と犬猿の仲で薬の出入りは特に厳しいはず。一応、科学科から軍部がどんな薬を必要としているか、不必要な依頼はされていないか、独自に調べる為の要員が派遣されているらしい。科学科のほうでも無駄に薬を流出した人間は罰せられるはずだ。
自分も早良本人から薬を受け取ったりしているが、これは自分が佐木家の人間という理由で特別な扱いを受けているからだ。他の人間には厳しい監視の眼があり、そう簡単に科学科から薬を持ち出せるはずがない。それに、こんな特殊な薬を陸の設備で作ることはほぼ不可能だ。
だから、この事件に違反の薬が関わっているとしたら、学校側でも科学科側でも大きな問題になる。
早良は遠也の言葉に、視線を下げた。
「昨日は96%の確率で犯人は同じだと言ったが、後の4%の確率は、考えられるからあるわけで」
早良のぐしゃぐしゃと髪の毛をかき回す仕草は有名な名探偵の癖と同じだったが、彼とは違うのは、解釈を口にすればするほど、事態が闇の中に入っていくことか。
「その“H”には暗示補助の効力もあった。同じパターンの殺人法を何人ものの人間に教え、その通りに寸分違わず同じ方法で殺させるというのも、この薬でなら可能になる。離脱状態時に暗示をかければな。少し前に俺の知ってるチームでは研究段階だった。研究段階、ということは……実験が必要になるわけで」
実験、という単語に遠也の表情が少し緊張した。彼は実家で様々な惨いクローンを使った人体実験を見ている。それを思い出したのだろう。
「もしかしたら、陸を人体実験の場にしているのかもしれない。それに……」
何だか出来すぎているような気がしないでもない。
早良は密かに眉を顰め、思案を始めた。
あの日向翔の姉のクローンがここに居て、その存在を翔も知った。そして彼女は自殺をした。オリジナルと同じ死に方で。そして昔早良が作った薬が見つかる。偶然にしては、出来すぎている。
まるでどこかで誰かが組み立てたシナリオ通りに事が進んでしまっているような、そんな作為が感じられる。
誰かが挑発しているようにしか思えない。
「お前と彼を接触させるわけにはいかない。それに、今ここには……あの子がいる」
橘に使われたのは吸煙だったから症状は軽い方だったのかも知れないが、自殺の方法も暗示にかけられたからとった手段だったのか。と、いうことは暗示にかけた人間も同じく“H”の中毒者だ。普通の人間であれば、この煙を吸ったら暗示をかけているどころじゃない。
「日向の、ことですか」
あの子、というのはきっと翔のことだ。
遠也が静かに聞くと彼も頷いた。あの有馬蒼一郎の息子である彼しか、早良が心配する対象は思いつかなかったが、大当たりだったらしい。
「……こんな噂を、聞いたことがある」
早良は声を低くして遠也を真剣な眼で見つめた。それは噂程度のものでは無いらしく、少なくとも早良はそれが真実だと信じている、という眼だ。
「陸の生徒会長と科学科が裏で手を組んだ、と」
「会長が……?でも科学科と組んだところで今更……」
陸だけじゃない、陸海空の士官科全てが科学科を卑下している。位置関係ならば科学科の方が今までは下だったはずだ。軍から何か指令があれば、科学科は何の文句も言わずに依頼をこなす、そんな上下関係しか今までは無かったはず。けれど、その科学科が軍部と同じ位置に立つ事になることを、軍部は許さないはずだ。科学科の方も、軍部を頭の悪い、体だけの人間の集まりだと思っている。お互いを卑下していた仲なのに今更手を組むとはどういうことだ。
「遠也は、SBS……戦闘強化人間の話を聞いたことがあるか」
眉を寄せた遠也に、早良は再び口を開く。
「軍部が研究しているヤツ、ですか?」
「ああ。頭の中にチップを入れて普通以上の力を出す人間ってヤツ。実は、俺らとそちらさんの仲が悪くなったのもコレが関係してて、な……」
「それが、何か?」
「“H”の研究者は実はほとんど死んでいる。実験中に、被験者に殺された」
「だから、それが」
「被験者は、通常では有り得ない力を発揮し、研究者を手にかけた。その時の事は勿論忘れている。つまり、自我のない状態ということだ。しかも暗示作用もあり、操れる……戦闘強化人間の条件は揃っているわけだ」
指を折って説明する早良に、遠也も流石に彼が言いたい事を察する。わざわざ危険な大手術をして脳に異物を入れ、何度もメンテナンスを行うよりも、簡単に作れる薬で操った方が楽で、大量に行えるというわけだ。だから、科学科と手を組んだ。
「んでも、そう簡単に上手くいくんなら、研究者殺されてないんですけどねぇ」
大きな欠伸をしながら、早良は手に持っていた書類を机の上に投げ出した。酷使した眠い目を軽く擦り、一度見た悪夢のような光景を思い出す。
真っ白な研究室に、真っ白な服を着せられた被験者のクローンと真っ白な白衣を着た研究者が二人、薬を投与されたクローンを囲んだ何度も見た光景をマジックミラー越しに観察していた。
暗示をかける実験だった。暗示をかけて、対象を殺させるという実験内容にすでに嫌になっていた。視界の端にはこれから殺されるという運命を知っているのか知らないのか、顔も上げずにしゃがみ込んでいる違うクローンの子どもがいる。
『あれは君の敵だ。殺せ』
暗示内容は簡潔に伝えるのが鉄則。マイク越しに聞こえた声に合わせて俯いていた顔がゆっくりと上がり、生気の無い黒い瞳がゆらりと揺れる。薬物中毒になった人間の瞳だ。
そう、ぼんやりと考えていると、隣りにいた同僚が「随分と入れられたな」と呟く。同じ事を思ったらしい彼とは学生の頃からの知り合いだ。それに眼鏡を上げる動作で同意し、視線を再び実験室へと戻した。
『あれは君の敵だ。殺せ』
もう一度くり返された暗示の言葉に、被験者の揺れていた瞳が止まる。彼の眼は、真っ直ぐこちらを捉えていた。
マジックミラーだから、自分達は見えるはずが無いのに。
男は視線を逸らさず、口元を歪めた。狂気を孕んだその笑みに思わず顔を上げてしまう。
―――ころして、いいの?
実験者にはマイクを着けていない。だが、彼の口はそう動いたように見えた。
その瞬間だった。部屋が真っ赤に染まったのは。
殺されたのは、用意していたクローンではなく、さっきまで暗示をかけていた研究者の方だった。それに驚いていたもう一人の研究者も即座に顔を潰される。用意されていたクローンも、迷わず殺した。
後に残ったのは、血にまみれて大笑いをする狂人が一人。
それは、その日のうちに処分された。
「……“H”は危険だ。アレは、狂人を作る。だがもしかしたら、陸はそれを使ってお手軽にSBSを作ろうとしているのかもしれない」
舌打ちをしながら天井を見上げた早良に遠也は眉を寄せた。
「今まで、情報は入ってこなかったんですか」
「無理言うな。俺はあの一件以来そういう情報から隔離されている一匹狼だ」
一匹狼という表現はもう少し格好いい表現だと思っていたが、今早良の口から聞くととても情けない弱々しい狼しかイメージ出来なかった。
「碓井の息子だから、馬鹿な真似はしないと思うが……」
「碓井院長と有馬博士は仲が良かったそうですからね」
けれど、この遠也の知識は早良からの伝聞だ。翔から聞いている父親像はそれこそ理性の無い怪物で、その友人となる碓井氏がまともな人間とはなかなか思えない。
「遠也も、気を付けろよ」
ゆっくりと迫ってくる恐怖に遠也は初めて悪寒を覚えた。
佐木家の手が及ばないところにいる自分は安定したところにいるとは言えない。それを望んだのは自分だから仕方ない。佐木家にいても、上にいる兄二人のおかげで安定しているとは言えないけれど。
それに、自分はもう一つ爆弾を抱えている。
そっと焦燥から早くなっていた心臓の鼓動を確かめた。毎日飲んでいる苦い薬の味が口内に蘇る。
その事を踏まえると、馬鹿な行動はしない方が得策だ。けれど……。
「もう少し、その“H”の情報をいただけますか?」
それは、覚悟の上のだったはず。
遠也の重い決意も早良は知っているはずだ。
「悪い」と呟きながら、彼は一冊のノートを遠也に手渡した。
遠也はそれを受け取り、無言で部屋から出て行った。それを見送り、小さな背に随分と重い荷物を背負い込ませてしまったと早良は後悔をしていた。本当は自分が始末をしないといけないことだ。
今回調べた事件の被害者の資料を適当に手に取り読み返しながら、徹夜明けの眼を擦る。
「……心臓を2ヶ所、腹部を3ヶ所刺し、その後適当にメッタ刺し……どの遺体も正面から、この5ヶ所は寸分違わない場所に……どれも皆同じ場所に傷を負っている、か」
同じ人物だとしても、全く同じ場所にナイフを刺すなんてするわけがない。もし、そうだとしたら、一体どんな趣向を持つ人間なのか……考えたくも無い。
けれど、一人だけまったく違う傷を持つ被害者が居た。だからなのか、生徒会が公表しなかったのは。彼はこの一連の事件とは関係ないと処理をされた。けれど、そう容易に判断したが果たして正しかったのか……。
「にしても、“心臓2ヶ所に腹部3ヶ所”……」
どこかで聞いたような覚えのある文章、いや、言葉だ。自分はこれをどこかで文で読んだのではなく言葉で聞いたことがある。最近ではない、かなり昔のことだ。
検死等にはあまり関わってこなかったはずだから、そうそう耳にする言葉ではないはず。一体いつの事で、どんな場面だったのか、思い出すことは出来なかった。
それに、しても。
「……あの人、何してんだろうなぁ……」
遠也が渡されたノートを開いてみれば、彼が薬を作る経過のメモが乱雑に走り書きされていて、読みにくいがその経過が何となく解かった。
効力を聞けば、当初は大して特異な力を持っているわけではない薬の予定だった。特異なのは多分早良が言った、記憶を消すことが出来るという事くらいだろう。脳の一部の働きが弱まる痴呆に似ている。依存性も暗示をかけやすくするのも、案外普通のドラックでも容易いことだ。種類にもよるが。この薬の場合、摂取した十数分間は興奮状態でいられるが、薬が抜けかけた状態の数十分の間、意識が朦朧とする時間がある。この催眠状態が暗示をかけるのに適した時間だ。
SBS云々の話は研究を重ねた時に露わとなった真実で、偶然の副産物だったのだ。戦闘能力が一時的に上がり、凶暴性を秘めていると。
そして、最後の方のページには何枚か新聞の切抜きがベタベタと貼られていた。見出しから見て、すべて薬物関連の犯罪の記事だった。
まさかこれがすべて自分が作った薬の所為で起きたなんて馬鹿な事考えていないだろうな、と冷静に思うが、彼の取り乱した姿を思い出すと有り得無い事ではない。
そのいくつかの記事の中で一番小さなものが目に留まった。紙切れと言った方が良いその大きさに、早良がどれくらい注意深く新聞を見ていたのか伺える。
『薬物中毒者か?通り魔事件新たな被害者が。一人死亡』
曖昧な表現だというのに、こんなものもスクラップしておいたのか。
その過敏さには呆れるを通り越して感心してしまう。
内容はいたって平凡なもので、その町に出没していた通り魔が男性一人を殺害したというものだ。いつの時代にもありそうな事件内容で、特に眼に留めるようなことは何も無かった。薬物中毒者と判断されたのは、発見される死体が誰か判別出来ないほどメッタ刺しされていることと、現場に残されていた犯人と思われる血液に薬物反応があったから、らしい。
無差別連続殺人事件じゃないか。
記事の小ささに驚かされたが、更に驚いたのがその被害者の名前だ。
『篠田鷹紀(38)さんは午後8時に自宅を出て―――』
出血多量で死亡。刃物で全身38ヶ所刺されて。道路には30メートル血の跡が。
思わず振り返ってしまった先では、あまり仲の良くない友人がクラスメイト達と談笑していた。
まさか、とは思うが。
いや、考えすぎだ。
早良の剣幕に自分も冷静さを失っているのでは無いか。
それと、早良には言わなかったけれど、気にかかることが一つ。あからさまに危険なその薬が効かなかった、まぁ多少気分が悪そうにしていたから効かなかったというのは語弊があるが、あまり被害を受けずに終わった人物がいる。
彼はまさかこの薬を服用しているのか。いやそんな風には見えないからそれはないだろうが。
ノートを閉じると丁度授業の始まりのチャイムが鳴り響いた。
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