何だってそんな取引をしないといけないんだ。
 川辺の出した条件がぐるぐると頭の中を回り、戦闘に集中出来ない。
「おい、後5分くらいしかないぞ?」
 狭い室内でまともに身動きが取れないでいる翔をからかうよう川辺は余裕の表情だ。いっそ楽しげにも見える。袖をまくった彼の右腕には火傷痕があり、戦場で負ったのだろうと翔は解釈し、彼との戦歴の差を知る。
 あぁ、そりゃ楽しいだろうよ!!
 そう怒鳴りつけてやりたかったけれど、無駄な体力を消耗している暇は無い。
 焦って突き出した肘はあっさりと川辺に避けられた。今まで相手にしてきた街中の不良なんかとは全くレベルが違う。
 まさか、と言いたくなるような条件に怒りより動揺の方が激しく、川辺にぶつけたい疑問が戦闘に集中しなければいけないという意識を遮ってしまう。
 でも、負けられない、絶対に。
 その思いが集中へと早変わりしたのは幸運だった。
 さっきはこの国には自分が守るべきものは何一つ無いと思ったが、自分にはまだまだ無くしたくないものがあるのだと、川辺の言葉で気付かされる。そこら辺は感謝しても良いところだけれど、少し癪だった。
 川辺には自分達は柔道を習っているが、彼は他の武道もそれなりの経験を持つらしい、という話は聞く。しかも外国発祥の武芸であるフェンシングもなかなかの腕前で、それがカリキュラムに組み込まれている航空科で教えているとか。それに、彼は自分達のナイフの臨時教官でもある。
 数年武術を齧った程度の自分に勝てる相手では無いことは解かる。現に今も接近戦もそつなくこなす彼の攻撃をかわすのが精一杯だ。彼からの攻撃を避けても、後退した場所に机の角があり、腰にめり込み奥の方にあった骨に当たって悶絶してしまいそうなくらいの激痛が涙腺を刺激した。
 授業では、そんな障害物は無いのに。
「防御一方じゃ勝てないぞ?」
 笑いを含んだ川辺の指摘に、眉間に力が入り、腰に伸ばしそうになった手を拳に変えた。
 負けるという選択肢は自分には無いに等しい。
 翔が徐々に戦闘へと集中していくのを感じながら川辺は更に挑発するように「来い」と人差し指を揺らす。挑発に乗るのは正しい選択じゃない、と授業で何度も言われる為、こちらを馬鹿にするようなその態度には怒りは湧かなかった。それに、腰が痛み挑発に乗ろうとしても乗れない。
 慎重に事を進めようとする翔に川辺の方が先に足を踏み出した。彼が近付くと自分と彼の体格の違いを思い知らされ、防衛の為にあると言われる恐怖の感情が今は逆に足かせとなり反応が遅れそうになった。
「遅いな」
 単なる分析でしかないその呟きに、奥歯を噛み締めて体をずらした。
 顔面に迫った彼の拳を紙一重で避け、それに安心する間もなく足元に気配を感じ、反射的に机の上に飛び上がってから川辺が自分に足払いを仕掛けてきたことを知る。けれど、自分の反射的なその行動も相手は予測済みだったのか、着地する無防備なところを狙われ、今度は彼の硬い腕でその足を払われた。
 足首の激痛を認知するより早く机の上に物凄い音を立てて倒れ込んでしまい、そこに置かれていた書類が部屋に舞う。
「いっ……てぇ」
 机に着地し損ねて、当然面積の狭いところに自分の体が全部受け止められるはずもなく、上半身だけ机の上に倒れ込み、強かに腹部を縁に打ちつけてしまう。呻くと痛み以上に吐き気が激しい。
「後3分程度だな」
 寝てろ、という声に奇妙な感覚、恐らく今迄の経験で養われた反射神経が素早く痛む体を机の上からすべり落とした。それとほぼ同時に何かが壊れるような鈍い音が耳を突く。
 あまり見たくなかったけれど、頭を上げると机の上が凹んでいた。少しでも反応が遅れていたら、自分はもしかしたら永遠の眠りについていたかもしれない。思わず顔を引き攣らせると川辺が鼻で笑ってきた。
「負けとけ」
「嫌です!」
 思わず即答していたのは、きっと恐怖に負けそうになっていた自分自身を奮い立たせる為でもあった。傷つくのを恐れていたら勝てるわけが無い。ずば抜けた攻撃力を目の当たりにしたけれど、恐怖を訴える心を無視してぐっと足元に力を入れて立ち上がる。
 さっきぶつけた腹筋が鈍く痛んだが、ここで初めて翔はまともな構えを取ることが出来た。学校で習ったものではなく、叔父に習った構えが一番慣れている。教えた覚えの無い構えを見せた翔に川辺が眼を細めた。よくよく考えてみたら、教えてもらった本人の前で教えてもらった方法で戦いを挑んでも勝てるわけが無い。
 反対に、彼が知らない方法ならば勝てる見込みも充分ある。
 集中すると、意外と相手の動きが見えてくるもので、痛む体をどうにか酷使して彼からの攻撃を避けることが出来た。でも確かに彼の言うとおり、自分から仕掛けないことには賭けには勝てない。
 視界の端に壁掛け時計が移り、丁度長針が動いたところを目撃してしまう。
 長針が動くところなんて普段は滅多に見ないのに、時計まで嫌味だ、と眉根を寄せると近くで川辺が軽く笑う声が聞こえてくる。
「あきらめろ」
「……嫌だ」
 力で勝てないのであれば、スピードを頼りにするしかない。元々自分は力がそんなに強くないスピードタイプで、力が強い人間なら一発で倒せるところを何発も決めないといけないが、相手の攻撃も素早く避けられるという利点もある。己の力量を知れ、というのは自分の弱点を知り、その上で優位に立てる、自分に合った戦い方をしろ、という意味もあると叔父は言っていた。
 が、この狭い空間では少々動き難いからスピードを上手く生かせない。
 それなら。
 川辺の拳を避け、そのまま難なく彼の懐に飛び込めた。
 突然の事で彼は驚いたように目的を定めない反射的な拳が顔面に迫ってきたがそれが狙いだった。
 寸前のところでそれを軽くかわし、目の前を過ぎていく太い腕を掴み、彼の勢いを借りて思いきり引っ張った。ずぶの素人のような姿勢の悪い投げ方だっただろうけれど、型まで気にかけている余裕は無い。
 だぁん、という音と共に、足元が揺れた。
 川辺がかわすことなく床に背中を叩き付けられた音を聴いて翔は自分の足元に行っていた視線を上げた。彼を床に叩きつけた衝撃で、床に散っていた書類らしき紙が紙ふぶきのように宙を舞っている。
「や、った……」
 自分の勝利を実感無く呟き、ようやく詰めていた息を吐き出すことが出来た。その背後で、高らかに自分の勝利を讃えるようにチャイムが鳴り響く。
 勝った。
 そう思った次の瞬間に体のあちこちが痛み出す。安堵で、気を張っていた神経が弛んだ所為だろうか。
 強く打ち付けた頭を押さえる川辺の様子にちょっとやりすぎたかと思い、彼の怒りが怖くて一歩後退してしまうと、背に硝子のような冷たい感触があった。多分窓があったんだろう。
「あー、負けた……。まさか、背負い投げで来るとはなぁ……変な拳法やり始めると思ってたのに、油断した。日向、お前何やってた?」
「へ?」
 けれど、川辺はあっさりと自分の負けを認めて軽い口調で話しかけてくる。
「叔父さんが、少しだけ……武術を教えてくれて」
 何かの罠かと疑ったが、川辺は床に散らばる書類を掻き集めながら「へぇー」と何ともあっさりとした返事をくれた。
「日向穂高か……アイツ、拳法なんてものも出来たのか。俺はてっきり剣術しか出来ないと」
「え?何で、その名前……」
 戸惑いを隠せず、足を更に後退させようとしたけれど、壁がそれを邪魔し、代わりに何かを踏みつけたような不安定な感触に転びそうになる。けれどまた冷たい窓がそれを助けてくれた。
 まだ川辺の態度に安心するわけにもいかず、彼の様子をちらちら伺いながら一瞬だけ足元を確かめる。そこにあるのは小さなビニールに入った緑色の粉。
 これは、薬か?
 こんなところに何故薬が。
 書類を拾う川辺の眼を盗み、素早くそれを拾い上げて手の中に強く握った。
 何だか極めて重要な手がかりが自分の手の中にあるような気がして翔はあわててその握った拳を彼の目に付かないようにして扉に向かう。
「そっくりだな」
 けれどその時、川辺がどこか懐かしげに呟いたから、翔は思わず足を止めて彼を振り返っていた。
 そっくり、と言われたけれど、誰が自分に似ているというのだろう。彼が、自分と似ていると言える人物で、知っているのは橘だけだろうから多分彼女に似ていると言ったのか。
「お前は、父親似だな、日向」
 けれど、予想を裏切った川辺のその言葉に戦慄が走る。
 今彼は何と言った。
 自分が父親似だと。
 と、いうことは彼は自分のあの父親を知っているのだろうか。
 けれどそんなことは、一瞬頭の中を駆け巡っただけで、激しい情動にかき消される。
 首の一部分に痛みが走った。
「似てなんかいない!」
 一体川辺は何を見てそう思ったのか、それとも単なる嫌がらせのつもりなのか。彼は自分があの父親に暴力を振るわれていた事を知っているから。
 翔の厳しい声に川辺ははっとしたように自分の口元を押さえる。うっかり口が滑ったというような態度に更に苛立ちが募った。
 嫌がらせだったらまだしも、うっかり言われたとなれば、本当に自分は彼に似ているということになってしまうから。
 じくじくともう治ったはずの首の傷が痛む。
「……あんな、あんなヤツに、似ていてたまるか!」
 時々突きつけられる現実は、自分とあの男が同じ血が流れる親子だという事。さっさと忘れてしまいたいのに、自分の中に流れる血が彼の存在が現実にあったものだと主張する。
 どうしても乗り越えられることの出来ない現実に、ただ逃避するしか術がなかった。
「俺は俺だ!あんなヤツ、あんな……っ」
 名前を出されるだけで、恐怖で体が硬直してしまうというのに。
「おい、日向……?」
 片手で頭を押さえる翔の様子に川辺もおかしいと思ったのか、手を伸ばしてきたけれど、その手が妙に恐ろしくて逃げるように後ろにあったドアノブを後手で掴み、回す。
「失礼します」
 頭が痛いのは、多分この部屋が煙草臭いからだ。
 逃げ出すように部屋から出て、しばらくその階をうろついていたらようやく窓が連なる明るい廊下に出た。
「あー、くそ……」
 窓を開けて外を見ると、下一面森だった。気の所為か空気が美味しい。3階のこの階より木は低いけれど、多分下から見上げたら高い木が多いんだろうな、と緑色を眺めながら思う。
 首の痛みは治まっていたが、何となくそこの部位を手で撫でる。
「……川辺に聞くの忘れた」
 折角彼に勝ったというのに、目的を達成することなく出て来てしまった。でも、今更戻る気にもならない。勝利感はすっかり消え失せ、苦い敗北感が広がり始めていた。
すべては、彼の思いがけない言葉が原因だ。やはり川辺の事は好きになれないな、と彼が出してきた条件を思い出す。
 それと、最後に言われたあの言葉も。
 あんな一言だけで取り乱してしまうなんて、自分の弱さを思い知らされる。
 僅かに窓ガラスに映る自分の顔を眺めて、この顔のどこのパーツがあの父親に似ているのだろうと考えると、硝子の中の自分の表情が険しくなる。そういえば、自分は父親の顔を覚えていない。ついでに言えば、母親の顔も、だ。
 父親に次いで、母親に関しても良い記憶がない。彼女達の顔を思い出そうとすると、いつも曇硝子のようなものに阻まれる。
 冷たい態度をとられた、とか殴られた、とかそういう事は一切無かった。けれど、敵でもなければ味方でもない、母親はそんな存在だった。自分や姉が殴られている時、いつも彼女は家に居なかった。
 一体、自分は誰似なのか……少なくともあの姉の顔と瓜二つだという自覚はあるが。
「ねぇ、ちょっと」
 ぼーっと青空を眺めている翔の背後から、突然声がかかり思わず肩を揺らしてしまう。気配が全く感じられなかったからだ。
「え、俺?」
 くるっと振り返ると、見覚えの無い少年が厳しい視線を自分に向けている。目元のほくろが印象的なその顔に、翔は首を傾げて見せた。
「何か用……」
 その時、無意識のうちでも首を傾げて良かったと思う暇も無く血の気が下がった。
 ひゅ、と冷たい風が首を掠め、何かと思えば顔のすぐ横に鈍い銀色を持つナイフが窓硝子にぶつかりガキンと鈍い音を立てていた。相当強い力だったらしく、僅かに硝子に食い込んだ刃から細いヒビが表面を走る。
「ちょ……っ!い、いきなり何だ!!」
 慌ててナイフを持つその手首を掴み、それ以上自分を攻撃しないようにしたが、一見細身に見えるその体からは考えられない位の力で簡単に手を振りほどかれた。その反動で先程の一戦で痛めた体のあちこちが鈍く痛む。
「あぁあぁ!」
 人気の無い廊下に獣のような彼の威嚇の声が響く。普段、授業等で戦闘中に思わず口から漏れるような喊声や鬨の声、鯨波ではなく、まるで誰かに操られているような正常な感情を伺えない狂気の声だ。
 その声にあわせてナイフを振り回す彼の攻撃をおろおろと避けつつ、自分の腰元を探るが、なかなかあるはずのナイフに手がたどり着かない。体も痛い。
「どうしてあの人の部屋から出てきた……!」
 憎々しげに言う彼の胸元のネクタイは臙脂色。彼が自分より上の人間だと今ようやく知る。
「は……?あの人って、か、川辺……?くっあ!」
 ちょこまかと逃げる翔に苛立ちを感じたのか、彼はナイフを床に叩きつけ、空いた手を翔の首に伸ばし、両手で物凄い力で締め上げてきた。会話に気を取られてしまっていた翔は避けることも出来ない。
「何、すんだ……っ!」
 首を締め上げてくるその手を剥がそうと彼の細い手首を掴み、爪を立ててみるがまったく効果が無いらしく自分を見上げる冷たい眼は色を変えない。
 見上げる、という状況に疑問を持つより早く、足が宙に浮いたことを朦朧とする意識の中でどうにか解かった。彼はこの細腕で自分の首を締め上げながら、体を持ち上げたのだ。
「う、く……っ」
 助けを呼ぼうにも、声を出す気管を掴まれてはどうしようもない。どんなに頑張っても無様な呻きしか溢れてこない。しかも、相手はまだ声が出せるのかと言わんばかりに呻くたびに手に力を入れる。
 こんな状況、下手なアクション映画でしか見たことが無い。まさか自分があの苦しむ人間の役をやらされるとは思いもしなかった。最初は少しは呼吸が出来たのに、段々彼の手に力が加わっている所為で気道が段々狭まっていくのをリアルに感じる。一緒に狭くなっているだろう血管の鼓動も。
「殺してやる……!」
 怒りに震える彼の声に、何のことだと叫んでやりたかったが、空気が無い所為でどうにも声が出ない。
 もう駄目か?
 薄れ行く意識を再び形にしたのは、思いもかけない介入者の声だった。
「何をしている」
 廊下の向こうから聞こえてきた声に彼ははっとそちらの方を向いたが遅かった。
 素早く彼の背後に付き、彼を羽交い絞めにした顔は、翔にも見覚えがあるものだった。
「風紀の沢村だ。大人しくその手を離せ。5秒以内に解放しないのであれば、発砲する。1」
 落ち着いたトーンの声に彼は眼を見開き、翔からは見えなかったが多分その背には銃口が突きつけられているのだろう。流石風紀委員。自分より上の学年の人間にも容赦が無い。
 いや、5秒……って、俺持たないかもしれないんですが。
 沢村の数える5秒が妙に長く感じられて、翔はもどかしい苦しさに意識を失いそうだった。
「4……」
 後一秒、といったところで彼の表情が翔の目の前でにやりと歪んだ。口元が耳まで届きそうなその笑みに、背中に悪寒が走る。
 その瞬間、体が宙に浮き、背中が何かに強くぶつかった。
 一体、彼の体のどこにそんな力があったのか、自分の体は窓の方に無造作に投げられたのだ。
 ガシャーンというガラスの割れるような音と奇妙な浮遊感が自分の体を包み込む。
 視線の先には、感情を見せないと思っていた沢村の驚いたような顔と、自分を投げた張本人の歪んだ笑みが少し遠いところにあった。無残に突き破られた窓ガラスが額のようだ。それを飾るのはキラキラと太陽光に輝く硝子の破片。
 ようやく肺に入ってきた空気は、すがすがしい森の香りがした。
 まさか、自分の体は飛んでいるのか?
 一瞬そう錯覚しかけたが、ひゅっと耳に風がかすめた時それはただの思い込みだと重力が教えてくれた。
 自分は、見知らぬ彼に投げ飛ばされ、窓ガラスを突き破り、外へと放り出されたのだ。
「嘘だろ……」
 そんな呟きは、風の音で掻き消されてしまった。



 HRが始まったおかげで人通りが少なく、人探しには最適だった。
 けれど、目的の人物がなかなか見つからず、克己は少し焦っていた。まさか昨日の今日で変な行動はとらないだろうが。いや、でも昨日川辺がどうと言っていたから釘は刺しておいたけれど……・。
 窓から覗く木々と青空を見上げて克己はため息を吐いた。ここはまさかと思ってやってきた教員棟の二階だ。川辺の部屋があるのは三階。
 放っとけばいいものを。気にかけなければいいものを、何故。
 自分の性格は自分が一番良く知っているつもりだった。自分に利益が無い相手とは付き合わないし、むやみに他人に干渉はしない。周りは全てが敵だと教え込まれてきたのだから。例え結婚相手でも気を許すなとも。親兄弟は最も身近な敵だ。
 その教えに従ってきたわけではないけれど、恐ろしいかな教育の力。自分に軍事能力を叩き込んだ父の思うがままの人間に育て上げられた。冷徹で残酷で、権力に貪欲な人間に。
 そんな自分に転機が訪れたのは、もう何年前だったか。
 何となく胸に手をやると十字の形をした硬さに触れる。
 遥。
 これの本来の持ち主である女性の名を口の中で呟き、太陽で少し熱くなった窓ガラスにもう片方の手で触れた。
 彼女と会えなくなってもう何年だろう。数えるのも嫌になる位長い気がするのは多分気のせいじゃない。
 いつになったら会えるのか、それは自分次第だから待っているだけでは彼女に触れることは出来ないことくらい充分理解している。
 本当は今すぐにでも迎えに行きたいけれど、そう出来る能力がまだ自分には無い。
 愛している、なんて言葉は一番信用出来ないと思っていた。そして、自分には最も縁遠い言葉だとも。しかし彼女に対して言える言葉はそれしかない。
 彼女が自分の唯一だ。
 そう、思っていた。
 今まで自分は彼女の事しか考えていなかった。彼女以外の人間なんてどうでも良かった。今でも充分すぎるほど彼女に恋焦がれている……はずだ。
 なのに、だ。
 友達というくくりで分類出来る人間は今まで作ろうとも思わなかった。仲間、ならば何人かいたが。あの山川くらいだろうか、友だと思おうとすれば思える相手は。それでも、結局は互いを利用するだけの間柄だったから、親しみを込めて友と呼べる相手かと言われればそうでもない。
 なら、日向翔はどうだろう。
 彼が、いわゆる友という位置にあるのだろうか。良く解からない。
 ただ、ほっとけない。それだけ。
 いっそ佐木遠也くらいの警戒をしてくれればいいのに、世の中すべてのものを信用していますというような無防備さで自分に接してくれる。今まで、血なまぐさい世界にしかいなかったからどうにも調子が狂う。
 そんなところが、彼女に、良く似ている。
 だから、多分放っておけない。
 ……どうしろって言うんだ。
 戦場でも敗北感を味わった事は無かったのに、今回ばかりはお手上げだった。
 ガシャーン。
 そんな時、どこか遠く、いやこの音量ならそれなりに近いところのはず。硝子の割れる音が聞こえてきて克己は嫌な予感がした。
 窓を開けて音の方に視線をやると見覚えのある体が森の中に何の抵抗もなく墜ちていく。
「あいつ……!」

 だから何故自分は窓枠に足を掛けている。

 そんな疑問の答えを今考えている暇は無く、克己はそのまま窓の外に飛び出した。






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