「4万8千円、か……」
 翔は本日配給された一か月分の給料明細を見てため息を吐いた。
 税金を引かれて元々8万くらいはあった給料がそのほぼ半額になっているのが更なるため息を誘う。
 これじゃあ、姉達の墓の維持費にも足りない。
 成績と家柄を考慮されてのその値段は一ヶ月分の成績表とも言えるが、矢張りというか、少ない。一ヶ月命の危険を感じるような授業を無事にこなしてきての結果がこれと考えると。
 それでも、僅かでも現金が手に入るのは有難かった。下級階層である北の自分達は例え一円でも多く稼げるように毎日必死に労働している。叔父の家ではあまり金に困ったような場面に出くわしたことがなかったからあまり意識していなかったけれど、同級生の中には金を稼ぐ為にココに来たという人もいる。
 ココは死ぬ可能性はあるけれど、それまでは衣食住の保障はされているし、死ななかったらそれなりの将来が約束されているから。
 一体いくら叔父の元に送れるだろうか、と一ヶ月の支出を考えながら折りたたんだ明細を胸ポケットの中に突っ込んだ。叔父も自分にはあまり金に困った風な様子は見せなかったが、実際は家計は火の車だっただろうし。
 それに、叔父は盲目だった。その所為で経営している道場になかなか入門してくる人物はいなかった。それでも、大会では圧倒的な強さを見せ付けて、手に入る賞金で何とかやっていた。
 克己には給料が出たからそんな叔父のところに電話してくると言って来たが。
 翔は足を止めて長い階段を見上げた。ここは多くの教官が控える教官棟で、この上には川辺の教官室がある。朝食が終わってすぐに向かったからか、まだ人気がない。
 一晩考えてみたけれど、やっぱり川辺に話を聞かないことには始まらないのだ。魚住が彼女に害をなすとは思えないし、翔の知る範囲で彼女に何か出来るのは川辺しかいない。それに、あのメールのこともある。
 勝手な決めつけだけれど、彼は橘の常連のようだし、他に何か有力な手がかりも手に入れることが出来るかも知れない。
 とにかく、何か行動せずにはいられなかった。
 自分だって男だし、一応何かあった時のためにナイフも持った。これできっと何とかなる、と思うのは楽天的だろうか。
 もともと川辺は苦手属性に入る相手だから、ただでさえ緊張しているのに、昨夜余計な情報も手に入れてしまっていたから心臓は早鐘のように鳴っている。
 落ち着け、と自分に言い聞かせながら翔は少し暗い廊下に足を踏み出した。
「あれ?日向?」
「魚住先輩?」
 親しげに呼んで来た相手の顔に翔は驚いた。
 もしかして、彼があのメールを送ってきたのでは、とも考えたけれど彼の口調は思いがけない出会いだと言いたげだった。
「やぁ、こんなところで会うなんて、どうしたんだ?」
 にこやかに接されて少し緊張が弛む。
「俺は、川辺教官に用事が……先輩も、ですか?」
 この先の方向には彼の教官室しかないはずだ。
 魚住は曖昧な笑顔を浮かべ、「まぁね」と答える。彼にとっては恋敵のはずの川辺に、わざわざ教官室に来てまで話をする、ということは……。
「川辺教官と、橘さんの事で何か?」
 誰かが魚住に彼女が自殺未遂をしたということを伝えたのだろうか。まだ自殺だと決まったわけではないが、翔は早口で聞いていた。もしかしたら、魚住がすでに交渉を終えているかも知れないから。
 けれど、彼は首を横に振る。
「教官が橘と関係を持っていた事は知っているけど、そんな事あの人相手に言えるわけないよ。俺は生徒、あの人は教官なんだから」
 思っていたより魚住はあっさりと割り切っているようだった。仕方の無いことなのかも知れないけれど、翔は落胆を隠せない。
「そう、ですか……」
「日向も、あまり彼女に近寄らない方が良いと思うけど。川辺にも」
「え?」
「当たり前じゃないか。だって、あの川辺教官の愛人なんだ。下手に近付いたら、なぁ?じゃあな。後20分で予鈴がなるから、また次にするっていうのも手だと思うけど?」
 片手を上げて彼は去っていく。結局、彼が何の為に川辺に会いに来たのかは聞けずじまいだったけれど、どうせ授業関係の質問あたりだろう。少なくとも彼女の事の話し合いとかそこら辺ではなさそうだった。あまりにもあっさりとした口ぶりに多少なりとも衝撃を受けた。
 克己も言っていたけれど、魚住も彼女に飽きたのだろうか。あんなに、好きだと言っていた彼がこんなに淡白だと味方を一人失ったような気分になる。
 彼女も魚住の事が好きだったようなのに。
 それにしても、今は行かない方が良いという彼の忠告が気になった。でも、ここまで来たのだから、とため息一つ吐いてから目の前にあるドアをノックした。プレートには川辺の名前がマジックペンで少々乱暴な字で書かれている。この部屋で間違いない。
「失礼しま……」
 ドアを開きながら言った台詞を翔は思わず止めていた。
「アンタにそんな事を言う資格があるのか!」
 そんな怒声とまず煙草の煙が鼻腔をくすぐり、次の瞬間想像もしていなかった場面が視界を埋める。
 何故かカーテンが引かれていて薄暗い部屋だったが、来客用に置かれたのだろう黒いソファの上で少年が寝転んでいる川辺の上に乗っかっているところはしっかり見えた。
 茫然と立ち尽くす翔の眼とその少年の眼が合い、彼は大きく眼を見開いて背もたれにかけてあったブレザーを取ると翔の体を突き飛ばすようにして部屋から逃げていく。
 あまりにも速い展開に、一体この部屋で何が行われていたのか理解出来なかったが、魚住の忠告の意味は理解した。
「日向?一年が俺に何の用だ」
 我に返らせてくれたのは、ソファからかったるそうに身を起こした川辺の声だった。その口には煙草が咥えられている。
 部屋に充満するくらいの煙草の煙に翔は鼻と口を手で覆いそうになったが、それを堪えてどこか見下した視線を向けてくる彼を睨みつけた。
「川辺教官にお話があります」
 思いがけない事に忘れそうになっていたけれど、翔は本題を口にした。
「俺に、話?」
 訝しげというより不機嫌そうな川辺の態度に内心びくびくものだった。
 鬼教官と噂される相手だ。この学校には鬼教官は沢山居るが、黒い噂があるのは川辺くらいだと聞く。
 けれどここではっきり言わないといけない。勇気を振り絞って翔は川辺を見据えた。
「橘さんの事で」
「たち、ばな……」
 川辺はしばらく漂う紫煙を眺めていたけれど、すぐに何かを察したようで、煙を吐き出した口元を上げる。
「日向は橘に惚れているのか?同じ顔なのに」
 くすくす彼は笑いながらカーテンを開き、換気のつもりか窓を開けていた。す、と新鮮な冷たい空気が翔の元まで流れてくる。
「そんなんじゃないですけど」
「じゃあ、なんだ?惚れてるならお前がアイツに構うのは解かるがな?アイツを抱く金も身分も無いガキが考えそうな行動だ」
「彼女は、俺にとって大切な人なんです。この間、彼女は自殺を図りました。教官が何かその理由をご存知ないかと思って聞きに来ただけです」
 本当は彼女に関わるのはやめてくれと言うつもりだったけれど、魚住の言うとおり、自分は生徒で彼は教官。そんな事を理由もなしに言える立場ではなかった。
 翔の説明に彼は眉を上げて自分の顎を撫でる。
「へぇ、アイツが自殺……ねぇ」
 興味深そうに言っているけれど、慌てたり驚いたりという反応はなく、彼が彼女に対して持っている軽い感情が伺えた。それが、かちんと来る。
「……アンタあの人のことその程度」
 にしか、と続けようとした喉を何かで圧迫され、息が詰まる。
「今の相手にもそろそろ飽きてきていたところだ」
 気付けば川辺に喉元を掴み上げられ、すぐ近くに彼の獣のような瞳が狂気をはらんで黒く鈍く光っている。状況が状況なだけに、何を言われているのか理解出来なかった。
「冗、談でしょう」
 どうにか空気を確保するために身を捩りながら引き攣った笑みを彼に返すと、その目が面白そうに細められる。
「賢く生きろよ、日向。ここじゃ上司に媚を売っておいた方が楽に暮らせるんだぞ?同級生に媚売るよりはずっとな」
「え……?」
 どこか含みのある言い方に目線を上げると川辺のあの瞳と視線が合う。昔何かの本で猛獣とは視線を合わせてはいけないという文を読んだことがあるが、今になってその意味を知る。
「甲賀の事だ。ま、賢明な判断だと思うぞ?アイツは忌々しいほどにずば抜けた能力を持つからな」
「何のことだか理解出来ませんが」
 顎をつかまれ舌を噛みそうになりながらも強い口調で返した。本当は理解出来ているけれど、侮蔑を込めて睨みつける。彼と自分の間にあるのは友情のみ。それを下世話に解釈されるのは我慢ならない。
 けれどその反抗も彼は鼻で笑い飛ばし、何を思ったのか突然片手で翔の制服のシャツを捲り上げた。ふいに腹部が外気に触れたのを感じたが、顎を押さえられていて視覚ではそれを確認出来ない。
「何、する気ですか!」
「解かっていないようだから教えてやるよ。どうせもうアイツと経験済みだろ?それに、軍に入ったんだ、これくらいの覚悟も出来ていて当然だろう?」
「何、言って……!」
 ワケが解からない。
 川辺の言っている意味を理解しようと頭を働かせるがそれを邪魔するように皮膚の上を他人の体温が這う。まさか本当にこんな展開になるとは。
 克己の言葉を信じなかったというわけではないが、信じていたというわけでもなく……つまりは、そんなに真剣に受け止めていなかった。川辺が女に困らなさそうな外見だということもあり、立場が教師であるということもあり。
 がっちり掴まれた体は身じろぎすら出来ない状況で。
「アンタはそれでも教師なのか……!」
 思わず口について出た台詞に目の前にあった川辺の眉が上がる。
さっき逃げて行った彼も川辺に脅されたのだろうか。そう考えると怒りが込み上げてくる。危険だと解かっていても、口は止まらない。
「自分の立場を盾にして、こんな事……最低だ!」
 そう吐き捨てて強く睨みつける翔の眼を川辺は覗き込み、にやりと笑った。
「お前は甘いな、日向」
「何……?」
 罵声をあびせてくるかと思ったが、彼の口調は妙に優しげで、背筋に悪寒が走る。
「俺には僅かながらも権力がある。それを俺の好きな時に使って何が悪い?」
「それが最低だって言ってるんだ!」
「それは権力の無い人間が言うことだ」
 だから、甘い。
 川辺は低く笑って翔の胸ポケットに入っていた紙を取り上げた。止める間もなくそれを開いて中を見た彼は、翔に向かって馬鹿にするような笑みを浮かべる。
「少ないな」
 それがどういうことを示すのか、教師である川辺なら解かっているはずだ。
 ぐ、と言葉を詰まらせる翔の様子は川辺に更なる笑いを誘った。
「そんなお綺麗な考え方じゃ、無理もない。そのままじゃこの世界で生きていけないぞ?」
「貴方には関係無い事でしょう」
 激情を堪えながら敬語を使い始めた翔を彼は鼻で笑い、強い力で突き飛ばす。
 突然の事に、床に倒れるかと思い体を強張らせたが以外にも体を受け止めてくれたのは弾力のあるソファで。
「そうもいかないんだよな、俺最低でも一応教師だから」
「何……」
「欲しい物があるならどんな手を使ってでもそれを手に入れる。無償で手に入るなんて甘い事考えてたら前に進まないぞ、日向。お前はそれを少し思い知った方がいい」
 川辺は呆れたように肩を竦めながら翔が倒れたソファに腰掛ける。接近してきた彼に警戒して狭いソファの上を後退ると彼は意地の悪い笑みを浮かべた顔を近付けて来た。
「お前の欲しい情報、俺の出す条件をクリア出来たら教えてやろう」
「条件……?」
 ある程度予想していた展開だが、彼の面白がっている眼を訝しげに見返した。そうすれば、彼は自分が少し驚いたと判断して、その愉快感から隙が生まれるかもしれないから。
 こちらの意向通り、川辺のその眼が満足げに細められた。
「助けたいんだろう?姉のクローンを」
 馬鹿にするようなその台詞に翔は息を呑む。
 どこから仕入れてきたのか、彼はその事を知っていたのだ。そして、あの時も多分知っていて自分を殴り飛ばした。
「なんで、それを」
「軍の情報部は有能なんだ。……お前が父親に虐待されていたらしい事も知っている」
「個人情報だだ漏れかよ……」
 ち、と舌打ちしながら翔は額を押さえる。どこまで軍が自分の過去を知っているのかは解からないが、余計な事を余計な人間に簡単に知らせるシステムには眉を寄せるしかない。
「それとも、ここで断わって情報を逃すか?」
 勝ち誇る川辺の笑いが癇に障る。
「先に条件を言って頂きたいのですが?」
「それは駄目だ」
「どうして!く……っ!」
 あまりにも不利すぎる自分の立場に思わず身を起こして抗議したが、川辺は口答えは許さないと言わんばかりに翔の肩を踏みつけて再びソファの上に戻らせた。重い軍靴でシャツ一枚しか着ていない肩を踏まれて鈍い痛みに思わず呻く。
「言ったろ?欲しい物があったらどんな手を使ってでも手に入れろ。どんな条件でも呑めるようにならないと。俺が条件を言ったらお前は選ぶ。だから今聞いているんだ」
川辺が足に力を入れると、ぎり、と布と肩の骨が同時に軋み、翔は奥歯を噛み締めて痛みに堪えた。
「でも、ま、今まで姉を助ける為に自分の体父親に預けていたらしいな?どれくらい犯されたのかは知らないが、お前の体、もう男に抱かれないと我慢出来ないようになってんじゃないのか。悦ばしちゃあいい条件にはならないなぁ」
 お前を抱いたところで、あの女と対して変わりなさそうだし。
 どうでもいいような呟きを落としながら彼はじろじろと翔を眺めてなにやら思案をしている。
「そうだな……日向……“日向”ね」
 彼はちらりと壁にかけられた時計を見て、何か思いついたかのように手を叩いた。
「HRが始まるまで後10分ある。この間に、俺から一本取れたらお前の望みを聞いてやる。ただし、それまでに取れなかったら……」
 そうだなぁ。
 川辺はまた内容を考えるのが楽しいらしく終始口角を上げていたが、こちらは一体何を言われるか心穏やかではいられない。表情には出さないようにしたけれど、心の動揺を完全に押し殺す程の技量は無く必要以上に瞬きをしていた。
 何だか物凄く嫌な予感がする。ここで初めて今自分がここに来たことを後悔し始めていた。それが更にこの学校に来たこと自体への後悔へと繋がる。
 考えてみれば、今更国を守るという名目の軍の養成学校に入ったところで、守りたい対象は自分の周りにはいない。確かに政府の命令でここに来たけれど、そんな命令無視をしてどこかに姿をくらませる方法もあったはず。結構国の存在は自分にとってはどうでもいいもののはずだ。
 何だか気付いてはいけないことに気付いてしまったような。
 翔の後悔と緊張を察したのか、川辺は条件の内容を決めてもしばらく口を開かずその様子を意地悪い笑みを浮かべて見ていた。川辺自身、自分がどちらかといえば他人を苛めて楽しむ性癖だと自覚をしているから始末が悪い。けれど、川辺もこの時初めて気がついた趣向があった。どうやら自分は気が強い相手を屈服させる事に酷く快感を覚えるようだと。戦闘で、でも、ベッドの中ででも。
「言っておくが日向、お前に拒否権は無いからな」
 



「あれ?甲賀、日向は?」
 教室を見回しても見つからない顔に大志が自分の席に座って窓の外を眺めている克己に声をかける。
 今日はまだ正紀もいずるも更に遠也も顔を見せていない。
「給料が出たから叔父に電話しに」
 克己のその答えに納得しつつ、教室の壁掛け時計に眼をやってみれば、五分でHRが始まるという予鈴が鳴った。
「……それにしたって遅くね?後五分で始まるぞ」
 そう大志が言った時に遠也が教室に顔を出し、その後に続くように見知った顔がやってきた。
 けれど、翔は来ない。
「何かあったのかな?」
 そう呟く大志の言葉を遮るように克己は立ち上がる。
「甲賀?」
「探してくる」
「え?だって教官そろそろ来るのに?」
 困惑する大志の表情を目の端でとらえてから克己は人の流れに逆らい、廊下に出た。
 確かに、欠席はなるべくなら避けたい事だけれど、黙認されている人間は黙認されている。沢村や加藤なんていい例だ。彼らは生徒会の仕事をしているから、授業の欠席も咎められない。
 まぁ、自分が彼らと同じ立場なのかと言われれば首を横に振るしかないけれど。
 遠也辺りが良い言い訳をしてくれるだろう、と他力本願な事を考えつつ、足を進めた。





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