朝は憂鬱だという人が多いけれど、自分は多分一日の中でこの時間が好きだと思う。
 ひんやりと引き締まった空気の中で弓を引いているときが一番心が安らぐから。
 手始めに本日一本目の矢を引き、射る。
 自分以外誰も居ない道場に、矢が的を射た歯切れのいい音が響いた。眩しい朝日に照らされている的の真ん中には、今放った矢が突き立てられている。
 いずるは昨日のことを思い出しながら二本目を手に取った。
 言い過ぎたのは自分だ。
 あれは確かに自分が悪い。正紀は何も知らないのだから。
 それでも、自分だけを加害者と思いたくない気持ちも有り、なかなか正紀に話しかける勇気が湧いてこない。こんなこと、今まであまり無かったのに。
正紀と初めて会った日なんて覚えていないくらい昔から一緒に居た。家が隣りで、家族ぐるみで仲がよかったから、正紀とはずっと一緒だった。
 彼は女兄弟しかいなかったから、男兄弟である自分と諌矢の兄弟になりたい、と何度も口にしていた。
 実際、彼が兄弟だったらどれくらい心強かったか解からない。
 いずるが小学校にあがる頃、すでに両親の仲は険悪だった。母親は名家のお嬢様だったから、平民の暮らしについていけなかったのだろう。父親も、そんな母の暮らし方についていけなかった。駆け落ちの末での結婚だと聞いていたが、身分の違いというのはやはり越えられない壁だったのだ。
 だから、いずるからみたら正紀の家の方が居心地が良かった。優しい両親に、暖かい家庭。罵声の無い家。
 いずるが中学にあがる時、とうとう決着がついた。
 小学校の卒業式を終え、正紀と中学もよろしく、と言い合って、家に帰ってくれば家の前に小さな家には不釣合いな黒光りした高級車が停まっていた。
 綺麗な服を着てしっかりと化粧をした母親が、貴方は私と行くのよ、といずるの手を強く握りしめて我が家に背を向けた。
 その意味が良く解からなくて、戸惑いながら振り返ると父が虚ろな眼で自分を見つめている。母親がそんな父を振り返ることはなかった。
 半ば強引に連れて行かれたのは、彼女の実家で、彼女は一人娘でこの家を継ぐために自分はここに連れてこられたということを知った。そこで待っていたのは厳粛な祖父と、世間体と伝統ばかり気にする祖母。
そんな彼らに父と兄にはもう二度と会うな、と何度も言われた。家にも戻るな、と。
 それでも幼かった自分は理解出来ず、ある日こっそりすでに入院していた兄の病室に顔を出すと、丁度居合わせた父親は自分を歓迎するどころか出て行け、と怒鳴った。父親に腕を取られ、病院の待合室まで連れて行かれたら突然彼は態度を変え、その場で自分に土下座をした。
 頼む、いずる。諌矢の為なんだ、頼む。
 そう何度も彼は繰り返し、床に額を擦り付ける。話によると、兄は特異な病で、その入院費を父はどうしても払えなかったらしい。そこで、母の父・・・つまりは自分の祖父が、その入院費を出す代わりに自分を矢吹家の養子にする、という条件を出してきたらしかった。
 兄は病に侵されていたから、健康体のいずるを、ということで。
 息子に対して土下座をする父の姿を見ていたくなくて、すぐその場から走り去った。それ以来、父には会っていない。母はその後、元々結婚するはずだった婚約者と再婚した。いずるは祖父の養子になり、母とは今は法律上は姉弟。
 唯一の頼りだった母は別の家に嫁に行き、矢吹家には自分だけが残された。
 祖父の厳しい教えにはどうにか耐え抜いた。弓道は祖父が唯一許してくれた過去だった。彼は幼馴染である正紀と会うことも許さなかった。北に対しては娘を奪われた過去があるからか、かなり嫌悪感を抱いているようだった。
 3年を耐えて、この学校に来てようやく祖父の監視の目からも逃れられたと思ったのに。
 正紀がここに来るということをあまり褒められない方法で情報を得て、やっぱり褒められない方法で自分の履歴を北に変えた。また、あの頃のように一緒に馬鹿やれたらいい。そんな思いだけで。
 でもやはり、お互い昔のままではいられない、ということなのだろうか。
 昔ならこんな喧嘩、寝たらお互い忘れて笑顔でおはようと言っていたのに。
 子供のままではいられないのか。
 無意識のうちに手に必要以上の力を入れてしまっていたらしく、弓の弦が突然切れていずるの頬を打つ。
 バシン、という激しい音と共に頬に鋭い痛みが走った。
「……っ」
 小さく呻いた声は、思わず取り落としてしまった弓と矢が地面の上で踊る音で消される。
 生暖かい感触に頬へ手を伸ばすと、紅い血が指を汚していた。
「うわ!大丈夫か、いずる」
 そんな声が聞こえた気がして顔を上げたけれど、そこでは窓から入る朝日が空気中の埃を浮かび上がらせているだけだった。
 昔は、いつも隣りに居たのに。
 弓道は、続けていたらいつか彼らがまた隣りに戻ってきてくれるのでは無いかと淡い期待を持っていたから手放したくなかった。
 でももう、兄は死に、正紀は手に傷を負い、そんな事が出来る手では無くなった。それは、自分の所為で。
 ここの学校の3年間が終われば、自分は矢吹家の当主にさせられる。そうなれば、もう正紀とも二度と会うことは許されないだろう。
 祖父の傀儡に、仕立て上げられてしまう。
 国とか政治とか、軍とか戦争とか。
 そんな煩わしい単語を知らずに済んで、明日の絶対を信じて笑っていられたあの頃に戻れたら。
 どんなに、幸せか。
 そう思うことはきっと、愚かなことなのだろう。
「早いな、矢吹」
 あまり聞きたくない声にいずるは頬を流れる血を拭ってから彼を振り返った。
「魚住、先輩」
「そんな嫌そうな顔するな。折角昨日は君のルームメイト君を泊めてあげたのに」
「……俺は別に頼んでいません」
 素っ気無い答えに魚住は苦笑する。
 その笑いが、やっぱり気に入らない。
「アイツにあまり干渉しないで下さい」
「……それは俺の勝手じゃないかな?」
横柄ともとれる要求に魚住は声を低くして反論してきたが、いずるはそれをあっさりと一笑に伏した。
「誤解の無い様にお願いしたいんですが、これは矢吹いずるとしてのお願いですが?」
 矢吹、を強調すると彼の眼がすっと細められる。
 北である彼が、南の権力者である矢吹の名を持つ者の言う事に逆らえるわけがない。
 あるものならば、使わないと意味が無い。3年間も耐えた。これからも耐えないといけない。でもその代わりに、自分はこの名を手に入れた。
「正紀には、近付かないで下さい」
 大切なものを守る為に、自由の代わりに手に入れたのだから。
 きつく睨みつけてくるいずるの眼を魚住はしばらく興味深そうに眺め、すぐに口元を上げていずるから眼を逸らした。
「善処、しよう」
 正直、今彼と喧嘩をしたのは幸運だった。正紀に注がれていたあの視線の意味を、気付いていない程自分は愚鈍ではない。正紀の方は、いずるがその視線に気付いていないと思っているようだけれど。
 すまない、正紀。
 心の中で謝罪をし、手の中の弓を強く握った。










Next

top