いずると初めて会った日なんて覚えていないくらい昔から一緒に居た。家が隣りで、家族ぐるみで仲がよかったから、いずる達とはずっと一緒だった。
 それこそ、何故こんなに長く一緒にいるのに兄弟というくくりには入れて貰えない事が不思議なくらい。
「何でいずると諌矢兄ちゃんは兄弟なのに、俺は兄弟じゃないんだ」
 夕方になって彼らと別れないといけない時刻になると何度かそう言って二人を困らせた覚えがある。
 無理だという理由だけでは納得出来ないほど幼い頃の話だ。
 そうやってむくれる正紀の頭を諌矢はいつも優しく撫で、いずるはその様子を呆れた眼で見ていた。
「また、明日遊ぼう」
 年上だった諌矢の言葉は優しく、とても信頼出来るもので幼い自分にとっては憧れの近所のお兄さんというヤツだったのかもしれない。父の次に、きっと彼の事が好きだった。
 諌矢と明日の約束をしていると、なかなか戻ってこない自分を心配して父が正紀を迎えに顔を出す。父は小さな事務所を持つ探偵という仕事をやっていた。小説やドラマの主人公となる探偵という職についていた父は正紀にとっては自慢の父だった。滅多に家に帰って来ないいずる達の両親の代わりに二人を見ていたということもあり、正紀の父親に二人もよく懐いていた。
 今思えば、正紀は二人の両親に会ったことがあまり無い。何度か二人が別々に出かけるところをみたことがあるが、父親の方は諌矢に似ていて、母親の雰囲気はいずるが受け継いでいるように見えた。凛とした横顔は確かに良家のお嬢様だと頷かせるくらい気品があった。
 けれど、いずる達の家からその両親がケンカする声がほぼ毎晩聞こえてきた。怒声罵声と共に食器の割れるような音や、物が倒れる音も。いずる達の両親の不仲は大分昔から始まっていたのだ、と今更ながら思う。
 だから、か。
 何で俺も兄弟じゃないんだ、といつものように嘆いたある日、普段は呆れた眼で見ていたいずるが、どこか遠い眼で自分を見つめて子供らしくない、疲れたようなため息を苦笑交じりに吐いた。
「俺は、お前の兄弟になりたかったよ」
 夕方という時間も過ぎ、空が紅から紫へと変わりつつあった危うい儚さを持った僅かな光の中で、初めて幼馴染の泣きそうな顔を見た。
 今でも忘れられないくらいの衝撃で。
 その後、いずるが小学校を卒業すると共に二人の両親は離婚し、いずるは母親に、諌矢は父親に引き取られることになり、当然家を引っ越す事となった。
 そんな事全然知らなくて、中学も一緒に行けるものだと思っていた。中学だけじゃない、その後も一緒にずっと馬鹿な事をやっていけると信じていた。
 けれど、中学の入学式にいずるの顔は無く、噂ではあの矢吹という姓になり、上流階級の子供が通う中学へと入学したと。
 身分が違うのだから、もう二度と会えない、会えるわけが無い、会ってはいけない。
 連絡先も知らせずに、彼らは姿を消した。矢吹という名だけで連絡先はわかるのだが、その名が壁を作らせる。あまりにも有名すぎる家で、手が届くわけがない存在だった。
 いずるの身に何が起きたのか、その時は何も知らなかった。ただ、取り残されたという感じだけが強烈に残り、ただ茫然ともう誰も住んでいない隣家を見上げ、腹いせに固く閉じられた玄関門を殴ることしか出来なかった。
 それから、2年間の間ずっと、会うことはなかった。


 でも、ずっと待っていたんだ、本当は。


「ご愁傷様です」
 黒い服を着た見知らぬ顔の大人たちが狭い我が家に集まり、自分や母、姉に礼をしていくのを正紀はぼんやりと見ていた。鼻につく線香の香りに現実感が湧かない。中学の制服だって着慣れていない時期だ。自分を包んでいる空気すべてが、違和感の塊だった。
 父が死んだ。
 誰かに、殺された。
 額に入れられた写真の父は満面の笑顔。本当はこんな顔で笑える状況では無いはずだ。父は探偵で、ある事件を追っているところで殺されたのだ、どれほど悔しいか正紀には計り知れない。
 黒いワンピースを着た母は凛としていたが、昨晩自室で泣いていたのを正紀は知っている。学校の制服に身を包んでいる姉もまた、目尻を紅く腫らしていた。彼女達は二人共正紀の知る限り、滅多に泣いたりするような女性ではなかった。常に自分を叱咤激励し、そんな彼女達には辟易する時もあったけれど、今のように覇気のない彼女達の方が嫌だとこの時思った。
 この二人を守らないといけない。父親の代わりに。
 だから、この二人の前で自分は泣いてはいけないのだと、ひたすらに拳を握り締めていた。
 泣けない事がこんなにも苦しい事だと知ったのは、この瞬間。
 中学校に入学したばかりの少年が、大人にならざるを得なかった瞬間でもあった。
 心細さもあるが、それをどうにか奮い立たせ、どことなく視線を下に向けて今にも泣きそうな母や姉の代わりにしっかりと顔を上げて父の最期を見届ける。
 でも、小さな光も心の底に隠していた。父の死を知った幼馴染みが、連絡はしなかったが、式に顔を出してくれるのではないかとどこかで期待していたのだ。勝手にいなくなった彼等に、自分から連絡はしたくなかった。
 でも彼等なら必ず来てくれると、信じていた。信じてずっと待っていた。
 会ってはいけないと言われたが、こればかりは特例になるはず。
 多分、彼等は連絡をしなかったことを怒ってから、自分たちが勝手にいなくなったことを謝り、それに自分は少し怒ってみせて、それでまた元通り。そして彼等と父の死を一緒に悲しめる。
 そう信じていたのだ。
 けれど、式の終盤に差し掛かった時、顔を出したのはいずるでも諫矢でもなかった。


 夢なのかそれとも自分の深い思考の中のものだったのか、随分と懐かしい事を思い出した。
 自室よりはるかに広く白い天井に正紀は一瞬眉根を寄せるが、すぐに納得して寝癖のついた髪を苦い思いを晴らすつもりでぐしゃりと撫でる。
「何やってんだかねー、俺も……」
 いずるとケンカをした。あの一件以来いずるといざこざはもう二度と起こすまいと決めていたのが悪かったのだろうか。普段、いや5年くらい前だったらケンカして、5発くらい殴り合って、それで終わりだったのに。
 諌矢の事はショック以外の何ものではないが、自分も父親が死んだ時に自分の勝手な気分でいずるには何にも連絡をしなかったという前科がある。寝ると頭が冷めるもので、軽い後悔に襲われた。
 いずるが彼の死を隠そうとした理由は何となくは解かるし、最近彼の様子がどことなくおかしかった理由も何となく察せた。
 先輩とか何にも関係なく、多分彼は正紀に苛立ちを感じていたのだろう。隠し事をされてして、楽しいと思っているのかという嫌味だったのかもしれない、彼のあの態度は。
 自分もいずるには言っていないことが多々ある。多分彼にしては話して欲しいような内容だろうけれど、これだけは絶対に言えない、言わない、と誓ったことだ。そうそう口に出来るわけが無い。
 今回仲直りしても、多分また似たような事があって、それで結局いずるに嫌われることになっても、言わない。言っても嫌われるだろうから、それなら言わない方がマシだ。
 それにしても、いずるの言っていた「何度目」という単語が気になるのだが……。
「まぁ、いいか……」
 傷が残っている手で寝癖のついた頭を撫でて伸びをした。
 何だかんだいって、今彼と喧嘩をしたのは、幸運だった。いや、自分もさり気無く仕掛けたという自覚はある。
 最近、気になる事が多い。あの奇妙な視線と、覚えのある臭い。
 これから自分がやる事で、いずるに迷惑をかけるわけにはいかない。彼は曲がりなりにも名家の御曹司だ。自分とは違う立場の人間なのだから。
 ふぅ、とため息を吐き、正紀は天井を見上げた。
 ここは昨日偶然出会った魚住の部屋だ。3年になるとこんなに広い部屋に住めるのか、ときょろきょろ周りを見回す。まず、部屋が二部屋あるというのに驚いた。自分達は狭い一部屋に二人なのに。
 人二人は寝れるくらい広いベッドを昨夜は一人で使わせてもらった。客人だからとベッドを譲って貰い、魚住は隣りの部屋のソファで寝ているはずだ。
「先輩―、おはようございます。ベッド有難うござい……」
 隣りの部屋に通じるドアを開けると、ソファや勉強机やらが並んでいる部屋に行くが、そこに魚住の姿は無かった。アレ?と首を傾げると目線の先にある机の上に白いメモ用紙があった。
 そこには朝練があるから先に行くと綺麗な字で書かれている。
 そういえば、いずるも時々朝に起きたら居なくなっているが、それはこういうわけなのかと感心してしまった。
「魚住先輩!」
 そんな時、切羽詰ったような声と共にドアが開く。突然の事に正紀はその相手と眼を合わせてしばらく硬直してしまう。それは相手も同じだったらしく、ぽかんとした顔で自分を見つめていた。
 それなりに可愛い顔立ちの男だった。細めの眼と目元のほくろで少しキツめの印象を受けるが、そういうところがいいと思う人間にはいいのでは。細い体だが、多分知り合いの方が細いだろうな、と何となく翔と遠也の顔を思い浮かべる。翔はどうかは知らないが、遠也はどこか病的な細さに感じられる。
「お前、誰だ!」
 2年生である事を示す鈍い紅色のネクタイをつけた彼は鋭く正紀を睨みつける。その態度に、ピンと来た。嫉妬がまざったその眼の色は、きっと魚住のキスマークの相手だと。
 意外とあの先輩も遊んでいるんだな、と位にしか思わなかったが。
「誤解しないで下さい。俺は昨日親切な先輩に泊めてもらっただけです。別に変な関係じゃ」
 軽薄な笑みを浮かべて肩を竦める正紀に少年は眉を寄せた。
「そんなの見れば解かるよ。アンタみたいなのは先輩の好みじゃないもの。先輩は?」
 どこか刺々しい言い方にはむっとしたが、別に魚住の好みに当てはまらなかったという辺りに憤りを感じたわけじゃない。この少年の不躾な態度に引っ掛かりを感じただけだ。そんな彼の態度に習い、正紀も出来るだけ素っ気無く返事をしてやった。
「朝練だそうで」
「あっそ」
 正紀の返事に彼はつまらなさそうな表情を見せあっさりと引き下がった。せめて、お礼くらいは言って欲しいと思うのは贅沢だろうか。乱暴に閉められたドアの音がまだ耳に残っている。
 あの尊大な性格は南のお坊ちゃんだな、と勝手な想像をして肩を竦めた。
 まぁ、さっさと行ってくれたことは好都合だったけれど。
「さぁて、やりますか」
 恩を仇で返すような真似だけれど、躊躇いは無い。そういう意味を込めて自分を奮い立たせるような台詞を呟いた。
 まずは洗面所に行き、どこかに彼の髪の毛が落ちてないかと綺麗に片付けられた辺りを注意深く見たが、一本も落ちていない。警戒しているのか、それとも単なる綺麗好きなのか解からないが。
 フローリングの床の上に眼を凝らしてみると……あった。一本だけ、黒い髪が。髪質から彼のものだと判断する。まぁ、DNAとか今は簡単に調べられるらしいから、彼のものかどうかすぐに解かるはずだ。
 あっさりと目的達成して、とりあえず戦利品をティッシュの上におき、それを包んで胸ポケットの中にしまう。他にも何か無いかと男の部屋にしては綺麗に片付けられている部屋をもう一度見渡す。
「普通はこういうところに隠し場所があるんだけどなぁ」
 眼をつけたのは備え付けらしい壁掛けの額。絵は昔の英雄らしい兵士の姿を描いた茶色を基調とした油絵だ。セピア色とでもいうのだろうか。A4ほどの大きさしかないその絵を持ち上げ、裏の壁に何の仕掛けも無い事に苦笑する。そりゃそうだ、ここに穴が開いていたりしたらベタ過ぎる。
 しかし、絵の裏側を見て正紀は笑顔のまま止まった。そこには、何か白いものが貼り付けてあったから。
 ここが旅館かホテルだったら、正紀の苦手なオカルト話が盛り上がるような御札が貼り付けてあるのがお決まりだが、場所が場所だ。御札なんてあるわけが無い。
 ビンゴか?
 そう思って逸る心を抑えながらそれを額から剥がす。剥がす、というよりは取るだ。絵の裏にそれをはめ込めるように簡単に細工してあった。
 それは、どこにでもある普通のノートだった。何故こんな風に隠しているのかは解からないが、とりあえず表紙と裏表紙を交互に見てからぱらりとページをめくって、正紀は口元を引き締める。
 元は真っ白かっただろうノート一面に、角ばった乱暴な字がびっしりと書かれていた。人それぞれ字体は違うと言うが、普通の人間が書くような字ではない。何かに取り憑かれ、殴るように書かれている字はしばらくじっと見つめないと何が書いてあるのか解からなかった。
『怖いんだ。目を閉じたら二度と光を見れない気がして。
 怖いんだ。目を閉じたら誰かに殺されてしまう気がして。
 誰か助けて誰か助けて、このままじゃ俺は。
 あの人は俺を助けてくれる?
 今落ち着くことが出来る場所は、あの人の、腕の、中……?』
 ようやく読めたのは、何ページ目かのこの文章。多分、それなりに気分が落ち着いていた時にこれを書いたのだろう、字体は前のページと違って落ち着いているものだった。
 その後のページをめくっていくとまた同じ読めない字に変わり、そうしてノートをめくっていくと最後のページにたどり着く。
 助けて。
 その一文だけ書かれて、後はすべて白紙だった。
「んだ、これ……」
 背筋に悪寒のようなものが駆け巡る。こんな字を書く人間は今まで見たことが無い。奇怪で乱暴なナイフのようなその角ばった字体には恐怖さえ覚える。
 まともな人間が書くような字では無い。
 見るに堪えない気分になり、正紀はそのノートを閉じ、素早く元の場所に戻して絵を掛け直した。
 とりあえず、彼の髪の毛さえ手に入れればそれでいい。
 魚住の残したメモ用紙に礼だけ走り書きして、正紀は部屋から出た。
 この恐怖はきっと、他人の闇を見てしまっただけでつくられたわけじゃない。
 く、と口端から漏れた自分の声に歩調を速めていた。
 こんな時思い出すのは、昨日喧嘩別れした幼馴染の顔。想像の彼の眼はまるで汚いものを見るような眼で自分を見つめる。それは上流階級の人間が下流の自分達を見る眼と似ていた。いや、それよりももっと冷たい眼かもしれない。
 昨日、いずるが自分に向けていた眼には憤りの下に心配の色がチラついていた。
 あの眼が軽蔑に変化するのであれば、普通に嫌われた方がよっぽどマシだ。
 そっと探った胸ポケットの中の乾いた感触に後頭部を壁に軽くぶつけた。
「ちくしょう……」
 
 戻れるものなら戻りたい、あの頃に。

 そう願うことは、愚かな事なのだろうか。










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