「このたびはご迷惑をおかけしましたー!!」
遠也達がいなくなってしばらく、翔と克己の間には何の会話も無かった。
克己が何か文句の一つでも言ってくれれば、謝るなり何なり会話を広げられるけれど、無言なのだからそれも出来なく、ただ気まずい空気と時間だけが流れた。
克己としては、先程遠也に色々と釘を刺されたばかりだから何も言えなかったというだけだったのだけれど、そんなこと翔が知るわけが無い。
とうとう、沈黙に耐えられなかった翔が、ベッドの上で土下座するという展開になった。
いきなりの事で克己も少々面食らったが、恐る恐る顔を上げた翔の不安げな眼と視線が合い、何も言わないわけにはいかなくなる。
「ごめん、な。本当、ごめんなさい!」
「……お前、何があったのか覚えているのか?」
あまりにも気落ちしている様子なので、まさか自分に怪我をさせたのを覚えている、もしくは大志がバラしたのかと思い克己は低い声で聞いたけれど、そのトーンの低さを翔は彼が怒っていると解釈する。
「全然覚えてません、ごめんなさい!!」
覚えているなんて嘘を吐いたってすぐに見破られるに決まっている。もう怒鳴られるのを覚悟でもう一度頭を下げた。
けれど、しばしの無言の後に頭の上から降ってきたのは「そうか」という一言だけ。
頭を上げると、克己は大して気にしてない様子で普段どおり雑誌を広げて読んでいる。
「……怒ってないのか?」
一、二発は殴られる覚悟だった。嫌われてもおかしくないとも思っていたのに、克己の空気はいつもと同じだ。
「何を俺がお前に怒る必要がある?俺はただ彼女の体を科学科に運んできただけだぞ」
「でも、俺変なこと言ったりとかしたりとかしなかったのか?」
一番不安だった事を恐る恐る口にすると、克己の雑誌のページをめくる手が止まる。
「あー……」
克己の間延びした声にやっぱり何かしたらしいと察し、翔は思わず身を固めていた。
ただ、何と言おうか克己は少し思案しただけだった。そんなに身構えなくてもいいものを。その反応が不謹慎かもしれないけれど面白くて、克己は人の悪い笑みを浮かべる。
「そうだな、流石に突然抱きつかれたときは驚いたけどな」
「抱きついた!?」
「あぁ。あんな力で女抱き締めるのは止めておいた方がいいな、一晩で振られるぞ」
「ご、ごめんなさい……」
意識がなかったとしても、何て間抜けな。
そして物凄く恥ずかしい。
もう一度、改めて翔は頭を深々と下げた。
「これからは迷惑かけないように努力させていただきますので!!」
「まぁ、無茶な事はするなよ」
「解かってるってー」
明るく笑って言う翔のあまりにも軽い態度に一抹の不安が残るが、克己は深くは追求しないで開いていた雑誌に眼を落とす。
これからは翔にあまり干渉しないようにしよう、と決めた。
親しい友人なんて作ったところで何の得にもならないだろうし、遠也の言う事も一理ある。他人に迷惑をかけられるのもかけるのも基本的に嫌いだから、今まで通りのスタンスを保っていこう、と。
克己が改めてそんな決意をしたことを知らずに翔はよかった、としきりに繰り返し笑顔を振りまいていた。罪悪感を覚えないというわけではないが、その方がお互いにとって良いのだから他に選択肢はない。
いきなり無視をするというのは流石に良心が咎めるので、何か彼に嫌われるか軽蔑されるかの行動をとるのが妥当か。さて、どんな行動を取るべきかと思案しながら雑誌をぼんやり眺めていると、視界の端の方で翔が珍しく備え付けのパソコンに電源を入れている。
メール確認は小まめにしろと言われているのに、週に一度見るか見ないかの彼にしては珍しい。
「何しているんだ?」
珍しい、と思ってしまったからついつい質問が口から出てしまう。
自分の失態に密かに舌打ちする克己の様子に気付くことなく翔は慣れない手付きでマウスを動かしていた。
「このガッコの地図ってどれだっけ?」
広い敷地なので、備え付けのパソコンには地図が入っている。生徒手帳には納まりきらない広さだからだろう。青いデスクトップのアイコンを眺めて翔は自分よりはこの機械に慣れているだろう克己に聞く。
そうすると、予想通り克己はすぐに教えてくれた。
「その緑の」
「あ、これかぁ、サンキュ」
すぐに教えてもらったアイコンをクリックすると検索バーと共に大雑把な全体図が出てきた。
どう調べるべきかとしばらく考えていると、なかなか動作を進めない翔に業を煮やしたのか克己が画面を覗き込んでくる。
「何を調べている?」
仕方ないという空気を漂わせながら彼はキーボードに手を伸ばしてきた。
頼もしい助っ人に翔はその場を明け渡し、自分の代わりに調べてくれるらしい克己に意気揚々と答える。
「川辺教官の教官室!」
「かわべ……って」
手馴れた動作で検索に名字まで入力してから克己は翔を振り返る。
その何故そんな事を調べるのかと言いたげなその眼に笑って見せた。
「橘さんの事で何か関係あるかもしれないから話聞いてくる」
彼と彼女は何か関係がありそうだったから、今回の一件にも何か彼が関わっているかもしれない。
翔が知る彼女の交友関係は川辺と魚住くらいだったから、まずここから始めようと思っていたのだけれど。
教官室がある棟の全体地図が出たと思った次の瞬間、ディスプレイがブツンと音をたてて真っ暗になった。
「あ!?ちょ、何、克己!?」
何があったかと思えば、隣りに立っていた克己がパソコン本体の方の電源を押して強制終了させている。
「おっ前何すんだよ!パソ壊れたらどうするんだ!!」
「強制終了程度で壊れたら不良品だ。それより、お前今何て言った」
「は?だ、だから川辺と話を」
急に克己のまとう空気がぐっと低くなり、何故そんな事になったのか解からない翔はちょっと身構える。さっきはすぐに許して貰ったのに、思いがけないところで彼の怒りを買ってしまった……のか?
克己は額を押さえて深いため息を吐いている。何だかとても疲れたような様子に思わず俯いているその顔を覗きこんだら
「お前、はー!!」
「うぉおお!?」
教官に一目置かれているだけある素早さで、克己は翔の頬を掴んで思い切り横に引っ張ってきた。
「な、ちょ、痛!!」
「教官に授業以外に会いに行くなんて何考えてるんだ」
「何って、ちょっと話しする程度だし別に」
「川辺が生徒に手出しする人間でもか?」
「俺男だし!それに普通そんなことで」
「忘れたのか?ここは普通の学校じゃない、殴られようが犯されようが殺されようが教育委員会は管轄外だ!」
「いでででででで!解かった、解かったからーッ!!」
両頬の痛みに悲鳴を上げるとようやく克己はその手を離してくれた。それでもまだ憤りが収まらないといった表情で、翔は痛む頬を擦りながらももう二度と同じ事をされないようにガードする。
翔の警戒態勢に克己はまたため息を吐いた。
「アイツは、川辺は、この学校の出身者じゃないということは知っているか?」
諭すような声色になったのと、今まで聞いたことの無い情報に翔は首を横に振る。
「え?いや……知らないけど」
克己が口を開くたびに自分の知らないことを言われ、もしかして自分は情報不足なのではないかと今更になって思い始めてきた。それにしても、遠也にしろ克己にしろ、一体どこから情報を仕入れてくるのだろう……多分自分は滅多に使わないこの箱だ。
「軍での昇格はここを卒業していることが必須だ。ここに通っていないでの昇格はまず有り得ない。それだけじゃない、給料だって雲泥の差だ。昇格も見込めない、給料も安いのに危険な仕事をやらされる、そんな人間が、将来をほぼ約束されている子供の中に放り込まれたら何を思う?」
今の軍内はここの学校に出るか出ないかでキャリアとノンキャリアに分けられているという話は聞いている。だから克己の話も初耳ではない。確かに、この学校に入ると死亡率は高いが、3年間を乗り切ればその先には輝ける未来が待っている。就職率もどん底な上に運よく月給もスズメの涙程度で毎日食べていくのに精一杯、という下流階級、つまりは北である自分達にとっては貧困から抜け出せる唯一の砦だ。
自分は命あっての物種だと思うけれど、それは翔の家がまだ北であっても余裕がある方だったからか。
「それは……」
何となく、川辺が日々自分達を厳しい眼で見ていた理由が解かった。劣等感と嫉妬からくる憎悪だったのだろうか。少しでも優越感を得るために自分に近寄ってくる相手を平伏させ、自分のものにしていたと。
そんな川辺の姿を、そうする理由を知っている生徒はきっと蔑んだ目で見ていたに違いない。克己がこの間川辺に対して強い態度に出れたのもこのことがあったからだろうか。
彼に同情はしないが、苦いものが心の中に広がった。
「とにかく、橘は死んだわけじゃない。助かったんだ。川辺だってそのうち彼女に飽きる。しばらく静観しろ」
克己が何を言いたいのかは充分理解出来るし、確かにしばらく大人しくしている方が正しい選択なのかもしれない。けれど、それで我慢出来るほど自分は大人ではないようで。
「何だよ、克己、俺にやりたいようにやれって言ったじゃないか」
「状況が変わったからな」
「何がどう変わったと?」
納得出来る説明をしないことには、きっと翔は行動を諦めないだろう。けんか腰になっているあたり
正直なところあまり渡したくない情報ではあったけれど、克己は仕方なく口を開いた。
「彼女の部屋には生徒会に許可されていないクスリがあった」
「クスリ……って?」
思いもかけない単語に翔が少したじろいだ。そこに畳み掛けるように克己は続ける。
「お前が気絶したのもそのクスリの所為だ。ウチの学科は科学科と仲が悪いおかげでクスリの管理も相当厳しい。許可されていないクスリを持ち込んだ奴はどんな立場に居ようとも厳罰を受ける。生徒会が動いているかも知れないのに、彼女やそれに関わる人間の間をうろちょろしてみろ、誤解されても文句言えないぞ」
正論に正論を更に積み重ねられ、もう翔に打つ手は無かった。
「……一応、聞いておくけど」
肝心なところがすっとばされている気もするが、これはもしかしたら聞かずとも理解しておくべきことなのかもしれない。それでも、ストップをかけて聞かずにはいられなかった。
「そのクスリ、ってどういった種類の?」
「麻薬系等に決まっているだろうが」
何を今更、と言いたげに克己は事も無げに言う。
翔にとっては今まで麻薬なんて代物はテレビの中の物でしかなかった。後は時々夏休み前になると警察署から麻薬に関する注意をする人が来て話をしてくれる程度で。
まさか、こんな身近な存在になるとは思ってもみなかった。
今まで住んでいたところとは全く違う場所にきてしまったのだと、改めて思うことになる。
それに、恐ろしいものだと今まで言い聞かされていた麻薬というものが出てきてしまい。
更に、どんな活動をしているのかさっぱり解からない生徒会なんてものも付いてきて。
「わかりました……」
もう、頷くしかなかった。
はぁ、とため息を吐く翔の様子にまだ未練を感じ取った克己は持っていた雑誌で軽くその頭を叩く。
「いてッ!何すんだよ!」
「お前がまだ諦めきれてなさそうだったからつい」
「つい、ってお前なぁ……」
そんな直感的なことで殴られていたら脳細胞が持たない。
大して痛くもなかったけれど、突然の事に大きな声を上げてしまった翔に悪いと思ったのか克己は殴ったところを撫でてきた。
なんと言うか、変なところで優しいというか。
ぐしゃぐしゃと頭を大きな頭で撫でられるとどこか懐かしい気分になるのは何故だろう。
「本当に……放っとくつもりだったのに」
そんな呟きが上から降ってきて、何のことだと首を傾げて見せれば何でもないと首を横に振り返された。
「お前と会ってから、心が休まる時が無いってことだ」
「そ、そうなのか?」
「そうなんだ」
心なしか、頭を撫でてくるその手に力が加わった気がするのは彼なりの報復か。
「本当、困ったもんだ」
はぁ。
心底疲れたと言いたげに克己はため息を吐き、そんな珍しい彼の姿に翔はとりあえず黙っていた。ここで変なことを言ったらまた怒られそうな雰囲気だったから。
「とりあえず、彼女は生きているんだ。それだけでも良しとしておけ」
「そうだな……」
克己の言うとおり、彼女が生きている、とりあえずそれだけでも良かったと思う。
これで、もしまた彼女を死なせるようなことになっていたら、今頃自分がここに居たかどうか解からない。3年前のあの時のように、自殺を図っていたかもしれないから。いや、しれない、じゃなくて、していた、だ。
何となく3年前に自分で傷つけた唯一の傷痕を右手で撫でて、今回ここを切り裂くような事態にならなかったことにほっとしていた。そんなに簡単に死んだら本物の姉に怒られる。
「……よかった、かな」
自殺をしようとした彼女にしたらよかったと言える結果ではなかったかもしれないけど。
そう考えた時に覚えのある痛みが胸に小さく走る。
叔父の家に行く事になる数日前、姉に初めて叩かれた。
アンタが私を助けるのは単なる自己満足で、私はアンタに助けてもらおうなんて考えていない、私が助けて欲しいのはただ一人。
そんな事を言いながら泣き喚く姉の姿に、ただ謝るしかなかった。
彼女にも同じような事を言われるのだろうか。
そう、思うと彼女が眼を覚ますのが少しだけ怖かった。
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