眼を開けると、いつもの見慣れた天井だった。
 部屋が薄暗いのはまだ朝にならないからだろうか。
 翔はほっと息を吐いていた。
 夢、だったのだ。また。
 どっちが現実だか夢だか時々わからなくなるようなくらいリアルな夢だった。姉が死ぬ夢は何度も何度も繰り返しみてきたけれど、こんなにリアルなのは初めてかもしれない。
 でも、いつもの夢とは違うところが何箇所かあり、それが現実かと疑わせたのだ。
 あの時、銃器はどこにも出てこなかったのに、今回の夢で初めて自分は銃を握っていた。最近銃を扱い始めたからだろうか。
 更に、あの時居なかったような人物が居たような気がする。それが誰かは思い出せないけれど。
 考えようとすると重い頭に痛みが走った。
「あ、日向、起きた?」
「へ?」
 部屋に入ってきて電気を点けたのは、同室の克己ではなく大志で、そのお人好しな笑顔を向けてきた。
 その手には外の自販機で買ってきたらしい見慣れたスポーツドリンクの青い缶が二本、水滴をまとっている。
「飲む?」
 買ってきた一本を大志は茫然としている翔に渡し、にっこり笑った。あまりにも日常的すぎる大志の姿に翔は自然と肩の力を抜いていた。
「あ、りがとう……って、何で三宅が俺たちの部屋に?今、朝だよな?」
 危うく彼の笑顔に流されるところだった。
 冷たい缶を受け取って、床に座った大志に問うと彼は自分の分の缶を開けながら首を振る。
「んーん?朝じゃないよ。もうすぐ夕飯の時間だよ」
 大志は事もなげに言ってくれるが、翔としては思いも寄らない返事だった。プルタブを開けようとしていた手を止めて眼を見開いてしまう。
「夕飯!?え、ちょ、何で?俺いつ寝たんだ?確か、俺……」
 確か、いずる達と弓道場に居て、それで彼女の姿を見かけてそれで。
 頭が痛まないように時間をかけて思い出し、そして段々と鮮明になっていく記憶に、翔は青ざめた。
 その後に、確かに自分は夢でも何でもなく、彼女の死体を見つけたのだ。
「橘さんは!?」
「へ?」
「橘さんはどうなった!?彼女、首吊って、それで……」
 丁度そこから記憶がぷつりと途絶えている。
 今にも消えかけそうだった夢と思っていた記憶を辿ろうとしたけれど、ほぼ無理に等しかった。頭が重い上に、本当に記憶が無いようなのだ。
 翔の焦燥した表情に、大志は困惑しつつもあの部屋の状況を思い出す。
「遠也が、彼女を引き取って、治すって。だから大丈夫だよ」
「え……遠也が?」
 どうして遠也が登場したのか解からないけれど、彼の名前に翔は少しほっとする。彼なら、きっと何とかしてくれる。そんな絶対的な信頼があったから。
 でも、遠也という名を反芻してからはっとする。
「遠也!?遠也が!?」
「え?う、うん……遠也が」
 翔が突然大志の顔を凝視してそう必死に聞いてくるので、大志も驚きつつ頷く。それを見て翔は深くため息をついた。
「あー……また迷惑かけたなぁ」
 中学の頃から遠也にはしょっちゅう助けられていた。頭が良く知識も豊富な彼のその能力にも、その性格にも。自分に無い情報を沢山持っている彼にはついつい甘えてしまう。克己もそうだ、彼も自分より頭が良いし、力もあるからついつい助けてもらってしまっていた。二人の助けを当然のように受け止めてしまっていては、自分に力がつかない。
 強くなる為にここにいるのに、このままじゃいけない。
「……ごめんな、三宅も。俺も随分と情けないところみせたよな」
 翔が苦笑しながら頭を下げてきたのに、大志は慌てて首を横に振る。
「俺が行った時は日向、気を失ってたし。あんまり何があったのかわかんないんだ、俺こそごめん。何も情報が無くて」
 大志の心底すまなそうな謝罪に翔は首を横に振った。とりあえず、彼女が無事という報告だけ聞けたらそれで充分だったから。
「いいよ、彼女が生きてるってことだけで充分」
 それに、とりあえずは、3年前と同じ状況にならなかった事に心底ほっとしていた。これで彼女が死んでいたら、自分の悪夢のレパートリーがさらに増えていた。これ以上夢見が悪くなったら、いつか自分はきっと狂ってしまう。そんな予測が簡単に出来てしまう辺り、自嘲ものだけれど。
 彼女を助けてくれただろう、克己と遠也には本当に感謝の言葉がつきない。
 肩の力を抜いたら、頭の奥がズキリと痛む。思わず顔を顰めると、座っていた大志が身を乗り出してきた。
「大丈夫?」
「あぁ……悪ぃ」
「顔白いよ。もっかい寝たほうがいい」
「いや……遠也達が戻って来るまでは」
 本当は奇妙な頭の痛みと眠気にぐらぐら意識が揺れていたけれど、首を振ってそれを払拭する。
 何があったのか、と、彼女の容態を聞かないことには安心出来ないから。
 翔の険しい表情に大志も無理に勧めることはしなかった。
 大志の買ってきてくれた缶飲料は気を紛らわせるのに最適で、熱い体を中から冷ましてくれる。その冷たさが心地良くて、段々眠くなってきた。
「日向……って彼女のこと好き、なのか?」
「え?」
 ぼんやりしかけていた思考をはっきりさせてくれたのは、大志のそんな質問だった。彼女という代名詞に首を傾げると、彼は視線を彷徨わせながら口を開く。
「ほら、あの……橘って人」
「あぁ……彼女、俺の姉さんのクローンなんだよ」
「え?」
 初めて聞く、と言いたげな大志の態度に遠也が彼に話していなかったことを知る。まぁ、話すようなないようでもないし、遠也は口が堅いほうだ。それでなくとも世間話にもこんな会話は選ばないだろう。
「色々あって、姉さんは数年前に亡くなったんだけど」
「お姉さんのクローンを作って欲しいって、日向が依頼したのか?」
 クローン作成の依頼をするのは大方身内の人間だ。大志の自然な問いに翔は笑って肩を竦めてみせた。
「まっさかぁ。そんな事、考えもつかなかった」
 依頼をするにしても、馬鹿高い値段だ。子供の自分に払えるような金額ではない。
 彼女が死んだ時は、生き返らせようとかそんなことを考える余地もなく、ただ絶望の色に自分の頭の中は塗りつぶされていた。
 正直なところ、姉のクローンである橘に会った時は、その手があったか、と思ってしまったけれど。
「そんな行動を取って救われちゃあ、俺はきっと姉さんに更に嫌われる」
 これ以上嫌われたくないし。
 そう言って笑う翔を大志は怪訝な眼で見た。きっと、兄弟仲が悪かったのか、とか的外れな事を考えているに違いない。
「言っとくけど、俺と姉さん別に仲悪くなかったよ?」
「……じゃあ、辛くないのか?」
「辛い、って?」
 どういう意味での問いだろう。仲の良かった姉が死んで辛くないのか?だろうか。
「俺にも、妹いるけどさ、もし仮にアイツが死んで、自分の知らないところでクローンが造られてて、それが体売る為に造られたっていう事実を知ったら……俺、もうきっとどうすればいいか解かんないな、正直なところ……」
 大志はいったんそこで台詞を切り、ため息と共に次の言葉を吐き出した。
「クローンとかの製造は、反対なんだよな。そりゃ、臓器移植とかには画期的な医療手段なのかも知れないけどさ」
 心なしか声のトーンが低めだったのは、彼の同室者である遠也への気遣いだろうか。遠也の家は国内一の人工人間の製造病院。かたや、大志はいるのか解からない神を絶対とする宗教の家生まれ。よりによってこの気の合わなさそうな二人が寮で同じ部屋になったのには運命的なものを感じる。
「でも、やっぱり、一度死んだと思った相手が目の前にいたら、嬉しいもんだよな、きっと」
 大志に肩を軽く叩かれ、翔はじっと見つめていた缶から視線を上げた。
「俺も、何だかんだ言ってやっぱり嬉しくなるかもなぁ」
 彼は缶に口を付けながら自嘲する。現金な人間だと言いながら。
 それを見とどけてから翔は再び自分が握っている缶に視線を戻した。自分は、クローンとかアンドロイドなんて世界は絶対関わる事がないと思っていたから、賛成とか反対とか世論で時々討論されるようなことは考えたことはない。でも、それでも彼女に似ている人間が居るという事実は手放しに喜べることじゃなかった。
「俺、嬉しいかどうかは解からないんだ」
 まだ重みのある缶を手首を使って一回りさせると、中で液体も特有の音を出しながら波立った。どこか不安定な感触が手の平に残り、それがどことなく今の自分の感情と似ている気がする。まだきちんとした形はないけれど、確かにここにある、彼女に対するこの感情に。
「嬉しいわけでも無くて、かといって悲しいわけでもないんだ。確かに、彼女があんな目的で作られたのは嫌だけど、でも結局は……あの人は姉さんじゃないから」
 顔は似ている。声も同じ。けれど、どこか違和感を覚えて、彼女が姉本人ではないことを伝えてくる。
 でも、顔が似ている。声も同じ。姉と同じ遺伝子が、彼女を姉だと錯覚させる。
彼女の事は助けたい、助けるとは決めた。自分に出来るのであれば何でもしようとも。でも、彼女を助けても、得られるのはきっと自己満足と虚無感だけだ。その虚しさがまた自己嫌悪に繋がって、事態は悪い方向にしか進まないのかもしれない。でもそれは覚悟の上。
「あの人の事をどう思えばいいのか解からないけど、でもやっぱり、あの顔じゃあ放っておく事も出来なくてさ」
 残った缶の中身を一気に飲み干すと、生温い液体の科学的な甘さが口の中に残る。あまり美味しいとは思えない味でも、慣れれば平気だった。
「今度こそ助けたい、って決めた矢先だったのに、自殺未遂されるとはなぁ……」
 しかもまったく同じ手口で。
 今回は流石に姉本人ではないからそれほどショックは受けていない。彼女が死ななかったから、というのもあるけれど。
「何で、橘さん自殺なんてしたと思う?」
 姉の時は大方の心当たりはあったけれど、最近出会った彼女の動機はすぐには解からない。
 大志はその翔からの質問を受けて、少し思案してから
「うーん……自分のおかれた状況が嫌になった、とか?後は失恋とか」
「まぁ、そんなもんだよなぁ」
「俺も女の人の考えることは良く解からないけどね、一般的にはそこら辺じゃね?」
 体を売る事が仕事である彼女なら、多分前者の方が優勢だろう。失恋、と言われてまず魚住を思い浮かべたけれど、彼が彼女を振るとは到底考えられない。
「あ、後クローンなら寿命とか」
 思いついたように大志は指を一本立てる。
「寿命?」
「クローンって、何かやっぱり劣化コピーになるらしくて、遺伝子に異常があるのか解からないけど製造してから18年くらいしか生きられないんだって。体の内部から異常が始まって、その痛みが相当辛いらしい。だから、痛みに堪えられなくなって自殺、とか狂死、とか珍しくないって話」
 有名な話だよ、と付け加えられて翔は苦笑を返した。勿論、まったく知らない話だったから。
 あの父親が科学者だったからか、叔父は極力翔から父親を連想させるものを遠ざけていた。それは病院のカウンセラーの指示でもあったらしい。その所為でクローンやアンドロイド等の話には一切触れずにこの学校に来た。おかげで新しい発見が多い。
「でも、それは無い。だって彼女作られて3年くらいだし」
 まだまだ新品同様だから、異常もなにもないだろう。
 寿命説に少し自信があったのか、大志はがっくりと肩を落とした。
「じゃあやっぱり、自分の境遇を嘆いて、じゃないか?」
「んー……でもそんな風にも見えなかったんだけどなぁ」
 彼女はそこら辺は割り切っているようにみえた。数回しか会ってないけれど、雰囲気的にもう慣れたという感じで。でもそれは表面上だけだったと考えれば合点がいく。
「失恋……くらいで死ぬかなぁ?」
 別な可能性も考えてみたけれど、どうも自分には失恋程度で命を投げ出そうとは思えない。そんな女心が理解出来ず、再び大志に助けを求めると彼は眼を閉じて翔の肩に手を置いた。
「女はカオスだ」
「……三宅くん、良く解からないでーす」
 何があったんだ、お前。
 思わずそう言いたくなるくらい、大志の背負う空気は重い。
「いや……女相手にするって疲れるんだよ。女の友達が失恋した時とか何度か呼び出されて深夜のファミレスで涙ながらに愚痴聞かされたりしたし」
「……三宅、イイヤツだから言いやすいんだよ、愚痴とか」
 確かに大志は話しやすい雰囲気を持っている。誰とでも分け隔てなく付き合うことが出来る彼は友人は男女共に多かったに違いない。
 でも、きっと好きな相手には良い人で終わらせられるタイプだろう。
 中学時代しっかり青春してきたらしい大志の経験談をフォローすると、彼は盛大なため息を吐いた。
「それでも、後で彼女に怒られるんだよ。他の女と深夜二人きりだった!って」
「……え?」
 勝手な予想を立てていた翔にしてはかなりの衝撃的な一言だった。
「三宅……って彼女いたのか?」
「あれ?意外?」
 えぇ、相当。
 と答えそうになったけれど、必死にそれを堪えてただ曖昧な笑顔だけを返した。
 それでも、その笑顔だけで大志は翔が何を堪えたのか見抜いたようで。
「これでも俺、経験豊富だよ?なんたって今まで付き合ってきた相手みんな年上だったからな。一番歳離れてたのはー、確か10歳上?」
「じゅう!?」
「うん。14の時に新任の音楽の先生とね。今だから言えるネタだけど」
 それでも大きな声では言えないので、秘密だ。知っている友人は知っているが、今身近にいる友人で、この事を話したのは翔相手が初めてで。
 そんな告白をされた翔は、すさまじい交際歴をネタという大志の器のだだっ広さにもう驚愕するしかない。お人好しな彼は禁断のシチュエーションもクリアしているまさかの英雄だった。
「って、教師ってお前ぇ!!」
「でも日向も体育の男の先生とかに無理矢理色々されてそうじゃん、体育倉庫とかで」
「三宅君、変な本の読みすぎです!!」
 そんな使い古されたネタをさらっと言わないで欲しい。思わず耳を塞ぎながら教育的指導をしてしまった。ついでに中学の時の体育教師のビジュアルも思い出し、心の中で呻いてしまう。あんなヒゲ面筋肉にそんな事をされるなんて考えたくも無い。
「まーまー、どんなシチュエーションでも愛さえあればオッケでしょ?」
 どんどんと大志のイメージが粉砕されていく。
 大志のその笑顔には一体どんな意味が含まれているのか解からないが、翔は力ない笑顔を返す。大志は牧師の息子だとか。彼の言う愛は博愛なのか、それとも欲情的な愛なのか。
 因みに言えば、自分はあんな体育教師に愛なんてない。
 純朴そうな顔して彼女持ちとは、人は見かけに寄らないというのはこのことだ。
 あの克己にさえ恋人がいないというのに、世界というのは不思議に満ち溢れている。
 そこまでぼんやり考えて、翔は思考を止めた。
 そういえば、克己には彼女が居ないのか?
 勝手に恋人がいないと思っていたけれど、そんな話自分達の間で会話として出てきた事が無いし、彼の口から有無を聞いたことも無い。
 居るか居ないかと考えたら、居る確率の方が高いだろう。彼程の男を女性が放っておくわけがないし。
 考えるだけ、無駄か。
「そういや、甲賀って彼女いるのか?」
 一体どこから彼の名前を引っ張り出してきたのか、大志も丁度良いタイミングで克己の名前を言う。
「さぁ?俺は知らないけど」
 居ないとも言い切れないから曖昧な返事しか翔は出来ない。きっぱりとした答えを貰えなかった大志は首を捻る。
「居そうだけど……反対に居ないかもな、一人に決めないで色んな女と関係持ってそう」
「……お前克己にどんなイメージ持ってるんだ?」
 流石にそこまでは考えなかった翔は思わず大志のあんまりな想像に突っ込みを入れてしまう。ここはフォロー出来てこそ克己の友人、どんな返答を貰っても彼を庇えるように色んな言葉を用意しておこうと身構えたが。
「スーツ着用で黒い革の一人掛けソファにワイングラス片手に持って、右手に金髪美女左手に黒髪美女、後ろにボディコン美女、膝に頭を乗せてるのは大人しめ美少女?」
「事細かに言うな、リアルに想像するだろうが!」
「あ、スーツの色は白かな!ワインは赤で!」
「だーかーらー!!」
 リアルに想像出来て、しかも似合ってしまうから一気にフォローの為に用意していた言葉達が吹き飛んだ。そんな自分は彼の友人失格だろうか。
 とにかく、頭の中に根付きつつある克己と女性たちの変な構図を消さないことには。
「か、克己だって一応俺たちと同い年なんだぞ!高校生なんだぞ!せめて、せめてワイングラスの中身は牛乳に!!」
 努力をしてみたけれど、ワイングラスの中身が赤から真っ白に変わっただけだった。
 軽くグラスを回した時に、後に必ずグラスに残るだろう白色が格好悪い。牛乳に多量に含まれている脂肪分の所為だ。やはりここは高校生であろうと未成年であろうと紅いワインでお願いしよう。そうすればグラスも透明。
 ……何だか克己に土下座して謝らないと気が済まない気分になってきた。
「甲賀はもうあれだけ育ってるから牛乳要らないだろ」
 しかも大志も大志で全然違う観点で見ているし。
 何だかどっと疲れが押し寄せてきた。と、同時に眠くなる。遠也達が来るまでは、と思っていたけれどそれが無理そうな程の眠気だ。
 大志に言って、少し眠らせてもらおうか、なんて考え始めたその時
「ってー!ちょっと待てー!!日向は誤魔化せても俺は誤魔化せねぇぞ!!」
 翔の眠気を吹き飛ばす程の大きな音をたてて扉を開けて登場したのは、隣の部屋の正紀だった。その背後にはいずるもいる。
 今の話を聞いていたらしい。壁は防音設備が整っていると聞いているが、扉は結構薄い。でも、そう簡単に音が漏れるような造りでもない気がするのだが……。薄いように見えて扉は頑丈のはずだ。
「どうしたんだよ、篠田……」
 随分と丁度いいタイミングで現れた、と思ったら彼は驚く翔を眼だけで振り返り、眉を寄せる。
「橘になんか有ったって言うから、いずるにも声かけて、話を聞こうと思ってドア開けかけたら、だ」
 談話室で大志と会って、一通りの話を聞いた正紀はいずるも呼んできた方がいいと判断し、一度弓道場に戻った。それで戻ってきて、ドアを開けようとした時にその大志の衝撃的な台詞を聞いて、しばらくドアの前に茫然と立ち尽くしていたらしい。その光景を考えてみるとちょっと笑えるなんて、今の正紀には間違っても言えない。
「み・や・けくーん?今、俺ものすっごい初耳なこと聞いた気がするんだけど気のせいかなぁ?彼女ってなんのことだ?」
 正紀の怒りの笑顔に大志も満面の笑みで
「言ってなかったからなー」
 わざわざいうことでもない、と大志は最もな事を言うが、それで納得出来る正紀じゃない。
「っていうか意外すぎるんだよ!甲賀に彼女がいるっつーならまだ、甲賀だったら解かる!!お前は、お前は無い!!」
 ビシッっと大志の鼻先に指先を突きつけながら正紀は主張した。何が無いのか解からないが、とにかく言いたい事は解かる。
 正紀の散々な言い草に流石の大志もむっとしていた。
「ひっどいなぁ……俺これでも今まで3人と付き合ってきたんだけど」
 しかも、全員年上だった。別に年上好みというわけではないが、流れでそうなってしまった。おかげさまでまだ知らなくてもいいような大人の世界にどっぷりとつかってしまったが、今から思えば良い経験だ。
「3人!?3人だってー!?しかも内一人は教師だろ!?」
 さらなる大志の衝撃告白に正紀は悲鳴のような声を上げて頭を抱えるが、その後ろに居たいずるがひょいっと顔を出して笑う。
「勝ったー。俺4人」
「いずるお前は黙ってろ!!」
「ごめんなぁ、三宅。正紀君ってばチェリー君だからさぁ」
「だから黙ってろっての!!」
 幼馴染だから余計な事ばかりお互い知っている。利点も多いが、マイナス面も多々あるわけで。
「へぇー、篠田チェリーなんだ」
 そっちの方が俺としては意外だなぁ、と大志はにこにこ笑った。その笑顔が何だか憎い。
「三宅も黙れー!!」
 追求しなきゃよかった、と後悔しても後の祭りだ。黙れと言われた二人はあっさり沈黙し、その対応にも正紀はがっくりと肩を落とす。
「何を騒いでいるんですか?」
 この時ほど遠也の声が救いの声に聞こえた事は無い正紀だったが、遠也のほうは予想していなかったメンバーの姿にあからさまに嫌そうな表情になった。
 静かなはずの部屋が賑やかなことに遠也は眉を寄せる。後ろには克己も居て、彼は予想外の部屋の状況に一瞬呆れたような表情をみせた。
 ようやく待ちかねていた人物の登場に翔は思わず身を乗り出す。
「遠也!」
 彼の嬉しそうな声に遠也は不快な表情を消し、軽く微笑んだ。
「ああ、日向、起きていたんですか。体調は大丈夫ですか?」
「うん、大丈」
「大丈夫なわけがないですよね。今日はひとまず休んでください。明日になっても頭痛が治らないようでしたら、俺に言って下さい」
 遠也には勝てない。優しげな顔をしてあっさりと否定されてしまった。
 先手を取られてぐ、と言葉を詰まらせた翔に遠也は持ってきた痛み止めを渡す。
「それと、何病人の前で騒いでいるんですか?」
 遠也は大志と正紀に冷たい視線をやり、彼らの態度を諌めるとそんなつもりはなかった大志は苦笑し、翔が病人だと知らなかった正紀は視線を宙に彷徨わせていた。
 言い訳もごまかしもしない二人の態度に遠也はため息一つ吐き、扉の方へ向かった。
「それでは、俺達は失礼します。日向、無茶はしないように」
「ま、日向が具合悪いってなら長居は無用だな。お前には色々と聞きたいことあるから別室で、だけど」
「いててて、篠田、いってぇ!」
 まだ怒りの収まらない正紀に肩を抱かれ、その掴んできた手に物凄い力を加えられたものだから大志は思わず悲鳴を上げていた。どうやら今夜は逃げられないらしい。
 そんな二人のやりとりを見守る立場にあるいずるの視線はひたすら生温かく、遠也の視線は零下に達していた。
「じゃーな、日向、お大事に。あぁ、具合良くなったら体育教師と体育倉庫での話聞かせろよ〜〜」
 普段のテンションで正紀はそのまま大志を連行しながら出て行った。が
「って、お前その話は聞き流せよ!!」
 自分で言ったわけじゃないネタをマジネタだと誤解されている。
「……体育教師と体育倉庫……?」
 不穏な組み合わせに遠也が眉を寄せながら、何の事だと翔の顔に視線をやるが、翔はため息しか出てこなかった。後で正紀に誤解だと言っても、そのネタでからかわれるんだろうと思うと。
「あの男、やっぱり日向に気があったんですか……」
「……へ?遠也?」
 遠也は同じ中学で3年間同じクラスだったから、授業の担当講師も一緒で、勿論体育も一緒だった。その彼がなにやら納得しているのは何故だ。
「日向も全然気付かないで平気で足出したりしてましたし……日向、ああいうタイプには気を付けないと。女に毛嫌いされるタイプでしたから、ストレスが溜まってその発散先に男を選ぶ場合もあるんですよ?しかも貴方の外見じゃあ恰好の相手ですし」
 身に覚えの無いことを注意され、さらに今更警戒をしろと言われても。
「はぁ……ごめんなさい」
 でも一応謝っておこう。
「あぁ、でも一年の時は谷崎先輩がいたから大分周りは落ち着いていましたよね」
「へ?あー、うん、まぁ谷崎先輩にはお世話になったけど」
 懐かしい名前に頷くと遠也は意味ありげに笑う。何か含みがありそうだとは思うが、その真意はわからなかった。
「彼は部活の先輩で、日向の事は大分眼にかけてくれていたようですね。人柄もどこかの誰かと違って良かったですし?場を盛り上げるのが上手い人でしたしね」
 遠也の棘のある言葉が克己に向けられていると気付いたのは棘の先を向けられた本人だけだろう。
 微妙に説明臭いあたりがまさにあてつけだ。
「……何が言いたい」
 思わず口に出して克己が問うと、遠也はそれを鼻で笑い、翔は突然克己が声を出したのに驚いていた。
「昔話をしていただけですよ」
 嘘くさい笑みを浮かべて遠也は肩を竦める。その態度がどうにも克己は鼻について仕方が無かった。
「では、俺はそろそろ」
「あぁ、遠也!」
 話が済んですぐに出て行こうと半開きになっていたドアに手をかけた遠也を翔が慌てて止めた。
 呼び止められて不思議そうに遠也は首だけで振り返る。
「ありがと、な?それと、ごめん……」
 遠也は涼しげな表情だけれど、毎回毎回迷惑をかけてしまっていることは自覚している。
心底すまなそうに恐縮している翔に遠也は口角を上げる。普段あまり見せない優しげな笑い方だった。
「甲賀、日向を頼みます」
 まぁ、いいか。
 遠也としては、そんな軽い気持ちで言った台詞だったけれど、克己は少し驚いた風だった。散々さっき色々言ったから当然と言えば当然か。
 克己が翔に対してどんな感情を持っているのかはまだ解からないが、翔は友達だと明るく言い切るだろうし、その隣りに彼がいるのなら多分克己も無言の肯定をするはず。自分と違ってこの二人の関係は良好のようだ。
 だから、“まぁ、いいか”。
 そう自分を納得させて、遠也は部屋から出た。


 
「いいのか、あんな事焚き付け方をして」
 部屋を出るといずるがすぐ目の前で意味深な笑みで迎えてくれる。
 もう廊下の数メートル先にいる大志と正紀は聞こえなかったようだけれど、いずるには聞こえていたらしい。
 ここでは翔と遠也しか知らない親しい人物の名前を上げて話をしたのは、まぁ確かにいずるの言うとおり焚き付けたということになるのか。
「……友情だろうが恋愛だろうが、日向のプラスになるのであればそれで良いかと」
「打算的だな」
「建設的と言ってください」
 大してどちらも変わらないじゃないか、といずるは笑うけれど、遠也はそれを一瞥してから視線を落とした。まだ、自分の判断が正しかったのか判定しかねる状況だからか、不安だ。
「ところで、三宅は今晩は俺たちの部屋に引き取る事になりそうだけど、よろしいかな?」
 いずるの視線の先にはいまだに大志に絡んでいる元不良が居た。遠也もそれを確認してため息一つ。
「いいですよ。一晩といわず一週間くらいでも。俺も今晩は部屋に帰らないつもりでしたし」
「科学科の彼のところにお泊り?」
 少し茶化したような言い方に遠也はあからさまに嫌そうな表情になるが、それでもハズレでは無いようで、渋々頷いていた。
「まぁ、そうですが」
 そろそろ早良のところに行って色々と情報を集めてこようと思っていたのだ。今回の一連の事も、ついでに橘の事も。
「お疲れ」
 いずるから形式的な労いを貰っても、全然疲れはとれないが。むしろ、反対に疲れが増すのは何故だろう。
 それでも一応気を使われたようなので、「どうも」と素っ気無く返事はしておいた。
「それと、魚住先輩のことは俺が引き受けるから」
 関連性があるのかは解からないが、彼が好きだと言っていた女性が首を吊った。それを伝えるのを含めて引き受けるといずるは言う。まぁ、自殺の件を伝えるかどうかはまかせて欲しいという事だろうが。
「あぁ、あのクローンに恋したとかいうふざけた男ですか。日向から話は聞いてますよ」
 興味なしといった感じの遠也はあっさりといずるに任せることにした。本当にまったく興味を示さない遠也の態度にいずるはほっとしつつも肩を竦める。
「まぁ、ソレ。佐木も名前くらいは覚えといてあげてくれよ。それと、これはお願いなんだけど」
「お願い?」
 珍しい、と言いたげな遠也の声にいずるは視線を上げた。その先にはまだ大志で遊んでいる幼馴染の横顔がある。
「正紀が、何かお前に頼み事をするような事があったら、なるべく聞いてやって欲しいんだ」
「篠田が、俺に?」
 遠也と正紀の関係がそんなに良好でないことを知らないわけがないだろうに。なのにどうして彼が自分に頼み事をすると予測しているのだろう。
「何か、心当たりでも?」
「さぁ?俺は何も知らないし、解からないけどな」
 適当にいずるが誤魔化しているのは解かるが、どうせこれ以上追求したところで彼が口を割るわけもない。そういう人間だということは重々承知している。克己にしてもいずるにしても、どうしてこんな一癖ある人間ばかりが揃っているのだろう。類は友を呼ぶとは言うが、認めたくないけれど認めざるを得ないのか。
 それに、お互い、お互いが触れられたくない事にはノータッチ、というのが遠也といずるの間の友情には必須の暗黙の了解だ。お互い世間に名の通る家に生まれているから、浅くも無く深くも無い付き合いが一番丁度いい。
「……良いですよ。あの矢吹家の御曹司のお願いごとなら、俺の名字が佐木である限り聞かないわけにはいきませんからね」
 素直に友達という単語を使わない遠也に、いずるも思わず苦笑いをしていた。
「やっぱり打算的じゃないか」
「……建設的と言ってください」









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