「うー……もう何が何だか解からない」
 大志は眠る翔を前に、ため息を吐いた。
 自分にある情報は、あの翔に似た橘という女性が死に掛かり、克己が怪我をしていたという事だけだ。翔と橘の関係など知るよしも無かった。知る機会も無かったし、遠也も大志に話すわけも無く、けれど今はそんな彼を預かっている。起きた時にどうフォローして良いのか大志にはさっぱり解からなかった。
 彼女が無事だという事を伝えれば大丈夫だろうか。
 けれど正直、上手くフォロー出来る自信が大志には無かった。
 そわそわしながら翔達の部屋をうろうろうろつき、何か出来る事は無いかと必死に考える。何か考えていないと落ち着かない。
「そうだ」
 そうやってようやく考え付いたのは、自販機で何か飲み物を買いに行こうということだった。
 起きた時、喉が渇いているかもしれないし、何より気を紛らわせることも落ち着かせることも出来る。
 そうと決まれば、翔が起きる前に行ってしまわないと。
 尻ポケットに財布が入っているか軽く叩いて確認して、大志は部屋から出た。
 自販機は各階ごとにある談話室のようなところに二台ずつ設置している。中の飲み物の種類が違うときもあり、別な階にまで行くこともあるが今日はそこまではしていられない。
 値段は缶は一本150円。最近、政府が消費税率を上げたため、それに伴い自販機の商品の値段も上げられたのだ。一本120円時代を知る身としては、十円玉2枚投入の時点で手を止めたいところだが、それだと缶は落ちてこない。
 ため息を吐きながら後30円を突っ込むと、ようやくボタンが点灯した。
 適当に選んでボタンを押した時、煙草の苦い煙の香りが鼻腔をくすぐった。何故か談話室には未成年の溜まり場になるのに灰皿が置いてある。好き勝手に吸え、ということだろう。大志の周りにも何人か煙草を咥える人間がいるから、それが普通になっている。
 良いのかなぁ、と傍目で思いつつも、相手が気軽に注意出来る友人ではないから心に留めるだけ。勿論その相手とは甲賀克己と篠田正紀だ。正紀とは仲良くやって、時々煙草のことも指摘するが暖簾に腕押しとはこのことで、克己には声をかけることすら一握りどころではない勇気が必要だ。
 図体がでかいのに気は小さい。
 そんな自他共に認める大志の性格では、まさに一匹狼である克己に声をかけることは無理に等しい。
 絶対に話すことが無いだろうな、と思っていた彼と話す切っ掛けをくれたのは恐らく、大志のルームメイトである遠也と克己のルームメイトである翔の存在だ。この二人が間に入らなかったら恐らくクラスで一番色々な意味で一目置かれている彼と話すことは本当に無かっただろう。
 遠也もきっと翔が居なかったら、彼と話す機会は無かっただろうと思う。遠也は大志よりきっと克己の事を警戒しているから。
 翔の存在が、多分一番大きい。
 不思議な子だと漠然と思う。何故、普通の人が取っ付き難いと思う人と自然に接する事が出来るのだろう。克己を筆頭に、遠也もそうだ。
 何だか羨ましいことこの上ない。
 自分も、そうだったらいいのに。
 自分もそうだったら、もう少し遠也に自分という存在を意識して貰えるのだろうか。
 そんな事を考えて重いため息一つ。
「馬鹿らし」
 ガコン、と音をたてて落ちてきた二本目の缶を自販機から取り出し、出口の方へ振り返った。
 途端に強くなるさっきの煙草の香りに顔を上げて、進もうと出した足を思わず後ろに引いてしまう。
 壁に寄りかかって煙草をふかしていた相手もこちらに気付き、何だと言いたげに眼を細め、かったるい感じに煙を口から吐き出していた。
「い、和泉……」
 何故南側の彼が、北寮にいるんだと思いつつも思わず自販機に背をつけてしまう。
 名前を呼ばれた彼は眼鏡の奥の眼を細め、手に持っていた吸いかけの煙草を指で弾くようにして少し離れたところにあった灰皿に投げた。当然、投げるだけだった煙草からは細い煙が昇り続けている。
「三宅……だったな。今日は天才は一緒じゃないのか」
 シニカルな笑いを浮かべるその顔を大志は思わず凝視してしまっていた。何をされるか、わかったものじゃない。
 ここは、無視に限る。そう判断してただ黙って首を横に振ると、そんな姿が滑稽に見えたのか何も話さない大志に和泉は肩を竦めた。
「お前はアレか、あの天才のパシリか?」
 二本ある缶ジュースを目の端に捕らえ、和泉は鼻で笑う。それに思わず口を開いていた。
「違う!これは日向の」
「日向?」
 さっと和泉の空気が変わる。温度の低くなったことと翔の名前を出してしまったことを大志は後悔する。彼は何故か翔を毛嫌いしている風だった。
「……お、お前が何で日向を嫌ってるのは知らないけど」
「あぁ?」
「殺すとか、そういう事するの止めろよ。確かに俺たちは北で、南のお前達より国に税金払えてないし、とるに足りない存在かも知れないけど、俺たちだって一生懸命なんだ。お前らの鬱憤払いの為に生きてるんじゃない」
 ちょっと気に入らない存在だから傷つけよう、そんな軽い気持ちで和泉が翔にちょっかいを出しているのだと思った。実際、南側の人間にはそんな考え方を持つ者が多い。
「それに、クラスメイトじゃないか」
「お説教か。あぁ……そういえばお前は牧師の息子だったな」
 和泉の反応は思ったより落ち着いていて、そのことは大志を安堵させた。殴られるかと少し身構えていたところだったから。
 彼は大志のハラハラした視線を感じながら二本目の煙草を咥え、愛用らしいジッポで火をつける。
 そして
「不愉快だな」
「え?」
 低い和泉の一言を聞き取る事が出来ず、聞き返す大志の顔を鋭い風が叩く。
 一瞬にして視界を埋め尽くしたものが何なのか理解してから大きく眼を見開く事になる。
 骨ばった和泉の拳が大志の鼻先で寸止めされていた。今からでも和泉がその手を進めたら、大志の鼻は折れてしまうかも知れない。
 大志の眼が驚きと恐怖に揺れたのを見て、和泉は満足げに笑った。
「これを避けられるくらいになってから意見してこいよ」
「いでッ!」
 拳を解いて中指で思い切り大志の鼻を弾いてやると、相当痛かったらしくすぐに彼は両手で鼻を庇う。
 そんな彼の態度を和泉は鼻で笑い、口から紫煙を吐き出した。
「それに、お前は自分のオトモダチの事をどれくらい知っているんだ?日向にしろ佐木にしろ、自分が庇う価値のある相手か、良く見極めてからモノを言うんだな。後で後悔するのはお前だぞ」
「後悔なんてしないし、そんな事お前に言われる筋合いないね」
 大志の即答に和泉は眼を細め、つまらなさそうに舌打ちをした。これだけ威嚇しているというのに、大志はケンカを売り続けてくる。
「お前、早死にするタイプだな」
「そんな事ないってー。ストレス溜まらないタイプだからむしろ長生き出来るよ?俺」
「じゃあ、他人を早死にさせるタイプだ」
 寸止めしないで殴っておけば良かったなんて和泉が後悔しているのにも気付かず、大志は痛む鼻を擦っていた。
 南側の人間とこんなに親しげに話す日が来るとは思わなかった。親しげと感じているのは大志だけかも知れないが。和泉はもう少し全身から威嚇してくる相手だと思っていた。
 友人が彼に殺されかけたという事もあるから、あまり気を許す事の出来ない相手だと思っていたけれど。
 まぁ、確かに右ストレートを顔面に喰らいそうになったけれど、彼の中の良心が働いたのか寸止めだった。
「和泉、お前思ってたより意外と普通なヤツだな!」
 大志の感激の言葉に和泉は口元を引き攣らせていた。
「お前は思っていた以上に馬鹿なヤツだな」
「アレ、三宅―?」
 人声を聞いて談話室を覗き込んだ正紀が大志の背を見つけて、声をかけてきた。聞き覚えのあるその声に大志はすぐに振り返る。
「篠田」
 振り返った先にあった見慣れた正紀の表情は訝しげで。
「お前、誰と話してたんだ?」
「え?何言ってんだ、和泉が……」
 再び、和泉の方に視線を戻すとそこにはただの白い壁と窓しかない。入ってくる風にカーテンがバタバタと揺れているその光景に大志は大きく眼を見開いた。
「あれ!?和泉は!?」
「しらねぇよ、俺に聞くな。っつーか、南のアイツが北寮に来るわけねえだろ」
「でも居たんだって……現に鼻もまだ痛いし」
 おかしいなぁ。
 人差し指で鼻を撫でる仕草をする大志の態度に正紀の表情が凍りつく。大志が嘘を吐くような人間で無い事は一応正紀も知っている。
「お前、まさかそれ……ゆゆゆゆゆゆゆう」
 青い顔でパクパクと金魚のように口を動かす正紀に大志は首を傾げる。
「ユーレイ?」
「言うなよ馬鹿―ッ!!コワイだろうが!!」
「言おうとしたのは篠田だろー!」
 そんな何とものん気な会話が遠ざかり、完全に消えてしまってから和泉はため息を吐く。
 正紀が来た気配を感じてすぐに自分の後ろにあった窓の外に出て、わずかにあった足場に座り、彼らが去るのを待っていたのだ。正紀は大志より他人に対する警戒心が強いから、彼が自分の姿を見たら厄介な事になるのは予想がついていた。
 逃げるなんてらしくない行動だけれど、こんな狭い場所で他人と悶着を起こすのは正しい選択じゃない。
 それにしても、前回の一件は早まった行動だった。
 反省をしながら口から苦い煙を吐き出す。
 日向翔はまだここに入ったばかりの人間で、多少武道の経験があってもすぐに殺せる相手だと思った。けれど、いくつかの誤算が生じ、彼を仕留めることが出来なかった。
 一番の誤算は、あの甲賀克己が彼の近くにいることだ。
 和泉は眉間を寄せながらあの男のことを思い出す。入学当初からその才覚を遺憾なく発揮していて、和泉も少々意識するはめになった相手だ。あの沢村や加藤でさえも彼には適わない。自分が彼に劣るとは考えたくないが、注意は必要だ。
 面倒な事になってきた。
 それにしても、あの甲賀克己という人間はどういう人間なんだろう。
 見たところ、特別な教育を受けてきた人間。と、いうことは軍属の出の人間か。
 それが何故北に?という疑問はあったが、あの日向翔と甲賀克己を引き離す良いネタにはなるだろう。
 見たところ甲賀克己に対して良い感情を持っていない佐木遠也も、良い材料になるのではないだろうか。
 そこまで画策してから、和泉はもう一度深いため息を吐いた。
「生き難い時代に生まれたもんだな、俺も……」
 お前もな。
 この建物のどこかに居るだろう相手に小さく呟いてから和泉は足を一歩前に踏み出した。
 そこに歩ける道はないけれど、顔色も変えずに、ただ口に咥えていた煙草が風で飛ばされないようにきつく噛みしめる。
 そのまま和泉の姿は木々の中に消え、ただガサリという木が揺れた音だけが残った。










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