頭の中に熱源がある。
 初めは小さな熱だったのに、段々と頭の中全体を侵食し始めていた。
 不快な感覚だ。
 冷たさを求めて握った手の中にある鉄の塊は、ここに来なかったらきっと触れる事が無かっただろう武器。その性能はよく知っているつもりだ。
 人間の体は意外と脆く、この鉄から発射される小さな鉛弾でその命は容易く絶える……らしい。
 中に入っている弾は多分フルメタル。いや、ホローポイントか?殺傷力は後者の方が強くて一時期軍会議でその使用を禁止したとかなんとか……頭が熱くて考えられない。
 頭の中の熱い靄を無くそうと頭を振ってみたけれど、無駄な動作だった。
 どうすればいい。どうすることが最良の選択だ。
 頭が熱くて、解からない。
「銃を離せ」
 密かに引き金に指をかけたのに気付かれたのか、克己が低い声でそう言いながら翔の手首を強く掴む。
 容赦ないその力の強さには思わず眉を顰めてしまう。
 けれど、最後の切り札を離すわけにはいかない。
「嫌だ!」
 頭の中の熱が嫌な記憶を思い出させてくれる。
 可哀想、可哀想、とひたすら言われ続けたあの頃。
 可哀想、なんて見下された同情が欲しかったわけじゃないのに、入院した病院の看護婦や医師達、ついでに学校の教師や事件を知った同級生もそんな眼で自分を見て、自分を気遣った。
 一人だけ生き残って可哀想に、と話していた看護師。
 一緒に死ねばよかったのにと言っているのと同じ事だと思うのは自分が卑屈になっていたからだろうか。
 ……頭が熱い。この状態では考えれば考える程泥沼にはまっていっていく気がする。
「銃を離せと言っている!」
 いつまでも銃から手を離そうとしない翔に業を煮やし、克己は厳しい声を彼に浴びせた。
 今までずっとどこかぼんやりとしていた翔の眼が少し変化する。
「嫌だ……」
「翔」
「頭、熱っつ……」
 何だか凄く気持ちが悪い。
 風邪で熱がある時と似たような感覚だ。
 くらくらする。
 不意に眼に入ったのは手の中の銃。
 額に浮かび始めた汗を拭う為に銃を持っているほうの手の甲を額に当てると、ひんやりとした金属の冷たさが心地良かった。
 この中に入っている鉛玉は金属だからもっと冷たいだろう。
 それに、穴が開けば風通しも良くなってきっと頭の熱さが解消されるかもしれない。
 ぼぅっとした頭でそんな滅茶苦茶な結論に達し、それが最良だと判断して銃口を頭に向けてみた。
 もしかしたら、嫌な記憶も吹っ飛んでしまうかも知れない。そんな都合のいい予想を立てながら。
「翔!お前何をやっている!」
 一番良い方法だと思ったのに誰かが邪魔をしてきた。前にもこんなことがあったような気がする。
 けれどすでに指は引き金にかかっている。……自分の勝ちだ。
 何の勝負を始めていたのか自分でも解からないけれど、何となくそう思って口元を歪めていた。
「翔……!」
 大人の男の人の声。
 そう認識してすぐに熱い頭の奥の方から、微かな記憶が不意に顔を出して一瞬だけ脳内を駆け巡る。
 さっきまでとは違う、不快じゃない記憶に思わず引き金にかけていた指から力を抜いていたが、その隙を突かれて手首に他人の力を感じ、反射的に手に力を入れ直す。
 負けたくない、という奇妙な意地で引き金を思わず引いていた。
 バン、という大きな音にこの世界すべてが壊されたかと思う。
 手首の鈍い痛みと共に耳元で聞こえた、思っていたより大きな破裂音に反射的に眼を閉じていた。
 その鼓膜が破れるんじゃないかと思った程の大きな音のお陰で頭の中の熱は一瞬だけ冷えた。
 けれど、何があったのかよくわからない。
 またすぐに頭の中に熱が戻ってきて、事態の把握をしようとする脳の邪魔をする。
 解かるのは、どこからか漂ってくる火薬の匂いだけ。銃口は自分に向けていたはずなのに、いつの間にかその方向は全然違うところに向いていたのは、さっき誰かに強く腕を引かれた所為だ。
 床にへたり込んだ翔の頭上から、痛みを噛み締めるような声と液体が落ちるような音が段々と聞こえてきた。あの大きな音の所為で聴覚がほんの少しだけ麻痺していたのかも知れない。
視界に入ったのは床に小さな水溜りを作り始めている紅い液体。
「……血だ」
 嫌な臭いと色に頭の中の熱が恐怖に変わり、思わず眼を見開き、声を引き攣らせてしまった。体に震えと悪寒が走る。誰でもそうだろうが、この液体に関してはいい思い出は一切無い。
 上からポツポツ落ちてくるそれの源を辿るためにぎこちない動作で上を見上げると、厳しい表情の友人の視線とかち合った。
 痛みを堪える顔だけれど、眼は自分をじっと見つめている。
「克、己?」
 彼の左腕部分の制服の布がどす黒く染まっていて、手の甲を伝い床に血が落ちる。右手で止血をしているようだけれど、その指の間から血が溢れていた。
 あからさまに怯える眼になった翔の様子に気付き、克己は眉を寄せる。
「怖いのか」
「え……」
「血が、怖いのか?」
何の感情も読み取れない質問だったけれど、無意識のうちに何度も頷いていた。
「怖い」
「何故?」
「だって、痛いじゃないか。痛いのは……嫌だ」
 痛い、という感覚も同時に思い出したのか翔の眉が寄り、嫌悪感を示す。
 ようやく話が通じるようになってきた様子だった。克己の名前を呼んできた辺り、夢のようだったろう感覚からも抜け出せてきているはずだ。
 けれどその返事の内容には、安堵の息を吐きながらも克己は苦笑してしまう。
 痛いのが嫌だ、血が怖いなんて、軍人が口にするようなことじゃない。まさかこの学校内でそんな言葉を聞くことになるとは思わなかった。コイツだからな、と納得出来てしまうけれど。生徒会や軍部の人間に聞かれたら、どんな罵声を浴びせられるか解かったものじゃない。
 でも血が怖いと言う彼が銃を持ち、自殺しようとしていたという事の方が受け入れがたい。
「……だったら、お前は銃なんか持つな!」
 銃を向けてきた翔の姿に僅かな失望を感じていた。何故か、何てもう考えなくてもわかってきている。
 突然の怒声に翔も驚いたらしく、びくりと身を揺らして眼を大きくする。
 まるで、親に怒られた子供のような反応。そんな素直な反応は、多分自分には出来ない。
 多分翔のそういうところが羨ましいと思う面もあった。
 だからだろうか、銃を持つ彼の姿に違和感を覚えたのは。
 彼に、銃を持って欲しくないと漠然と思ってしまったのは。
「もう解かるだろう、銃を俺に渡せ」
 傷を負っていない方の手を差し出すと、その手の平にべっとりと付いていた血に翔は一瞬だけ怯えた表情を見せたけれど、恐る恐るといった様子で銃をその手の上に乗せた。
「ごめん……」
 小さな声での謝罪も一緒に。
「ごめん…………さ」
 どこか夢見心地なその翔の呟きは大して気にも留めなかった。
 姉に対する謝罪か。
 効果が解からない薬で自我を失っていた翔はどうにか落ち着いたようで、呼吸の回数はまだ多いが大丈夫だろう。とりあえず危険物は自分の手元に戻ってきたことだし。
 けれど、もうすぐ来るだろうあの小さな天才にこの状況をどう説明すればいいのやら。怪我をしたのは自分だから怒られることは無いだろう……多分。
「……翔」
 俯いている彼に声をかけながら手を伸ばそうとしたけれど、銃を確保していない方の手は血まみれ。
 この状況で、血に濡れた手で彼に触れるのは躊躇われた。折角落ち着いたのに、これ以上刺激するわけにはいかない。
 じゃあ、反対の手はどうだと見てみたら、傷口から滴り落ちた血でこちらも真っ赤だった。
 まったく、ツイていないというか、何というか。
 ついていないといえば、彼に会ったこと自体ツイていないのかもしれない。
 翔に銃を向けられて、いつもなら迷わず殺すところだったのに何故か彼に対しては体が今までの慣れた動きを取れなかった。ついでに、彼に敵意を向けられた事に彼が正気じゃないと解かっていたのにも関わらず、思っていた以上の衝撃を受けた。
 こんな事、今まで無かったことで。
 どうせ正気に戻った時には今の出来事を忘れるんだろう。無駄だ、とか馬鹿馬鹿しいとは思いつつも、血を制服で拭きとってからその手で俯く翔の頭を少々乱暴に撫でた。
「……気にするな」
 別に自分に対しての謝罪で無い事は解かっているが、何となくそうせずにはいられなかった。
 息を吐いてここのところずっと自分の中に鎮座していた戸惑いも一緒に外に出せたらいいけれど、人間の感情というのはそう甘いものじゃないらしい。
 翔もこの学校に呼ばれた人間だ。今だって、銃器や本物のナイフを使った授業はある。そのうち他人に銃やナイフを向けざるをえない状況にだってなる。そのうち、誰かを殺すことにもなるだろう。この学校に来た以上、避けられない事だ。
 それでも、いつか翔が誰かを殺したり殺されたりする状況になると思うと、どうにもいたたまれない気分になる。
「ったく……何だって言うんだ本当に」
 慣れない感情に、らしくないと呟いていると不意に視線を感じる。
 顔を上げると俯いていた翔が不思議そうな眼でこっちを見つめていた。と、思ったら
「おい!?」
 何を思ったのか突然首に抱きついてくる。
 克己の驚きの声にも構わず抱きつくその腕に力を込め続けてくる。驚きとかそれ以前に、苦しい。
 女にこんな力で抱きついたら振られるだろう力で、16歳男子の手加減無しの締め付けに耐えられたのはほんの数秒だった。そういえば彼は武術を習っていたとか言っていなかっただろうか。
 そんな事実を思い出し、すぐに首に巻きついていた腕を掴んだ。
「翔、苦しい」
 こっちの言葉を理解したのか、翔は嫌だというように首を振り顔を首元に擦り付けてくる。もしかしたらただじゃれ付いてきているだけの行為だったのかも知れないが。
 人に抱きつかれたのは久し振りだ。性的な意味合いを一切持たない包容は特に。
 その所為かどう対応していいのか解からず、色々と思案しているその間にも首が絞まる。早く対応策を考えない事には本気で死んでしまうかもしれない。
 男に抱きつかれて死にました、なんて末代までの笑い者だ。
 それでも、信頼する飼い主に懐いてくる小動物のような彼を無碍にする事は流石に良心が痛む。
「血で汚れるから、離れろ」
 一番もっともらしい理由を口にしたけれど、それで離れてくれるほど相手は甘くないようで。
 困った。
「翔……」
 仕方なく人懐こかった幼い弟にしてやったように、自分の首元らへんにある彼の頭を撫でてやると、嬉しかったのか更に腕に力を込められた。逆効果だったらしい。
 けれど翔の安心するようなため息が耳元で聞こえた。落ち着いてくれたのならそれにこした事はない。
 それにしても同い年にしては小さい身体だと初めて意識した。前々から小さいとは思っていたけれど、実際に自分の体と比べてみるとかなりの差で。食生活と遺伝の違いだろうか。
 そういえば、彼女もこれ位だった。
 ぼんやり一日も忘れた事が無い存在を想い、本日何度目になるのか解からないため息を吐く。今更想っても仕方ない相手を想い出すということほど無駄な事は無い。
 頭で解かっていても、死人に囚われているという点は自分と彼は似ている。だから、殺せなかったのだろうか。
 それでも彼女以来だった。武器を持って欲しくないと思う相手は。
 何故だろうと考えながらもう一度翔の頭に手をやると、それに答えるように翔は頭をこすり付けてきてそして
「……父さん」
 心底嬉しそうに、そう呟いた。
「父さん……って、お前……?」
 どういうことだ?
「日向、甲賀!何か良く解からないけど無事か!?」
 克己の問いを消したのは、開きっぱなしだった扉から駆け込んできた大志だ。
 遠也より先に到着したのは体力の差なのだろうか、彼は一歩部屋の中に足を踏み入れて、硬直していた。
 呼ばれてきたのはいいものの、いや実際呼ばれたのは遠也だけれど、知り合いの二人が抱き合っている光景に思考が停止する。
 停止した思考が鈍く動き出して思い出したのは、そういえば、ここはあんなことやこんなことをする場所なわけで。
 二人の姿を見てそれをまず思い出し、彼らが血まみれで、ついでに人が一人倒れているのにも気付かずに大志は片手で眼をふさぎ、もう片方の手は大袈裟すぎるほどに横に振っていた。
「わーッ!!ごめんなさいごめんなさい!!邪魔する気はホントに無くて!悪気はないんで許してください!ほんっと、本当ゴメン!!でもドア閉めとけよ馬鹿ぁ!!」
「……何喚いているんですか?」
 遠也と葵が受付の老婆に話を通してから現場に駆けつけると、先に行かせた大志がなにやら顔を紅くして喚いている。連れてくるんじゃなかったと思う瞬間だった。
 遠也の声にようやく話が通じるヤツが来たと、克己はため息を吐いた。
「佐木、橘はそこだ」
 克己の大志とは対照的な静かな落ち着いた声に遠也は部屋の中を覗き込み、まず眉を顰める。けれどそれは大志と同じ理由では無く。
「何ですか、この匂い……」
 僅かに残っていた香の香りに遠也は気付いて自分の鼻を覆っていた。
 少し嗅いだ程度ではアロマセラピーのお香程度にしか思えないけれど、吸い込んですぐに脳が痺れたような感覚に陥る。僅かに漂っている程度でこのダメージだ。焚いていた時の効力は考えたくも無い。
 鼻の奥に残る化学薬品の刺激臭にはその危険度に舌打ちするしかなく。
「興奮作用と幻覚作用、辺りだろうな」
 克己の嘆息しながらの言葉に、遠也は翔の今の状況の原因を悟る。
 薬に中てられ、ついでに姉の死と同じ場面を再び見せられて、薬の効力にあっさり嵌ってしまったのだろう。
「ここではこんな薬を常用しているんですか?」
 膝を付いて橘を診ながら遠也は後ろにいた葵に厳しい声で問う。
 彼女の状態は良くも悪くも無いという状況で、きちんとしたところでの治療が必要だ。頭に浮かんだクローン技術の先駆者のところに送れば多分助かるだろうが。それでも、多分克己がしたのだろう応急処置のお陰で大分状態はいい。
 葵は遠也の少し安堵した様子に彼女が助かると察したのかほっと肩の力を抜いていた。
「……薬は個人の判断だよ。客が持って来たら使うし、店側から支給される時もあるけど、俺は使わなきゃいけないほどテク無しじゃないね!」
 無駄に胸を張る葵の言葉に遠也は厳しい表情のまま橘の白い顔に視線を移した。
 と、いうことは誰がこの薬を使ったのかは特定が難しいということだ。彼女が眼を覚ませば万事解決なのだろうが、それは当分無理だろう。
「お客さん、困るよ。勝手な事をされちゃあ」
 適当にあしらって来た老婆が、こちらの様子に気付いたらしくのそのそとやってきた。
 その後ろには科学科とプリントされた作業着を着ている業者風の男が3人立っている。老婆に連絡されて橘の処理をしに来たのだろう。
 彼らは遠也達を一瞥し、その視線を彼女に移す。
「あぁ、コレですね」
 彼らは床に寝かせられていた橘を物のように指し、慣れた動作でその体を担ぎ上げようとした。
 けれど、その太い腕に遠也が手を伸ばして動作を止めさせる。帽子の下に隠れた彼らの怪訝な眼と視線を合わせ、遠也は口を開いた。
「……彼女は俺が引き取ります」
 静かなため息混じりのその言葉に驚いたのは老婆だ。
「引き取る……?引き取ってどうするんだい」
 片眉を上げながら遠也を品定めするように眺めるが、その居心地の悪いはずの視線にも遠也は屈しない。
「治療します。治療費はこちらが持ちます。蘇生に失敗したら、クローン一体分の金額を支払います。悪い条件では無いでしょう。勿論、彼女が蘇生したらお返しします」
 淡々と言う遠也の条件に彼女はしばらく首を傾げて思案する。悪い条件ではないはずだ。本当のところ、クローン一体分の料金を払えるほどの金を遠也は持ち合わせていない。絶対に蘇生できるだろうという自信がなかったら言えない条件だった。
 それでもすぐに頷けない理由はもしや。
 ちらりと床に倒れている香炉を見てから、遠也は眼を細めた。
「これで了承して頂けないのなら、それなりの対処をさせていただきますが」
 遠也の不穏な台詞にあからさまに彼女の表情が凍った。
 カマをかけたのに近かったけれど、この香りが彼女の戸惑いの理由なら体勢はこちらに有利。
「……この薬は生徒会から許可されていないもののはずだ」
 それに気付いたのは遠也だけではなかったらしく、克己も目線で倒れている香炉を指しながらぼそっと呟いた。その指摘に老婆は頬をひくりと動かしたが、すぐにそっぽを向いて反論する。
「知らないよ、そんな薬。客が持ってきたものだろう?あたしには関係な」
「いや。関係はあるはずだ。この薬が持ち込まれたにしろ、ここで使用させたのはお前の監督不行き届きと判断されるだろうな。今の生徒会は相当薬に関しては厳しいから」
 科学科と仲が悪い為か、士官科で出入りする薬に関しては相当厳しい態度を生徒会はとっている。それは確かに事実で、きちんと対処をしなかった人間が処罰されていることも事実。
 それが決定打となったらしく、老婆は舌打ちをしながら彼らに背を向けた。
「好きにしな。でもダメだったら金はちゃんと払ってもらうからね」
 流石に生徒会にこの事を報告されては不味いと思ったのだろう。彼女の一言に遠也は気付かれない程度に肩の力を抜き、大志は表情を輝かせていた。一番進言をしていた克己は無表情だったけれど。
 老婆は今のやり取りを見ていただろうと言いたげに業者を顎で出口へと指示した。が
「あぁ、すみません、彼女を早良博士の研究室の方に運んで下さい」
 折角来てくれたのだから、彼らを使わない手は無いだろうと遠也がそれを止めた。
 その依頼に彼らは帰ろうとした足を止めて「早良博士?」と首を傾げた。誰だか解からないのではなくて、有名すぎてきっと聞き返したのだろう。何故こんな士官科の子供が彼の名を上げるのか、と。
 そんな彼らの訝しげな視線も気にせず、遠也は頷いてみせる。
「はい。佐木遠也と言えばあっちも解かってくれるかと」
 でも、多分彼女の顔を見たら何かを察してくれるに違いない。馬鹿っぽそうなオヤジに見えて意外と彼は頭の回転が速い上、なにより、彼女のことを調べてくれたのは彼自身。
 本当だろうな、と言いたげに彼らは彼女の体を抱き上げながらちらちらと遠也の方を見る。けれど、そのうちの一人が何かに気付いたらしく、仲間に何かを耳打ちしていた。言われた方はそれを聞いてちょっと慌てた風に遠也に向かって頭を下げる。
 彼らのあからさまな態度の変化に近くに居た友人達からも訝しげな視線を遠也は貰ったが、何かを説明しようとする気にはならなかった。多分、遠也が佐木家の人間だと気付いただけだ。この時ばかりは、自分が佐木という姓で良かったと思う。
 彼らは律儀に帽子を取って頭を下げてから去ってゆく。
 取り合えず、一難は去ったらしい。
「日向は?」
 ため息を吐きながら遠也が翔達の方を振り返ると、克己が肩を竦めながら「寝てる」と簡潔に答える。
 寝ているというか、気を失ったという方が正しいだろう。薬に中てられすぎて。
 あの「父さん」と呟いてすぐに彼は意識を失った。
「取り合えず……彼女は科学科に運んで知人に診せます。応急処置はして置いたから多分助かるかと。日向の方は……大志」
「え、何?」
 今までずっとただこの状況を眺めているだけだった大志はまさか自分が呼ばれるとは思わなかったらしく、必要以上に驚いた声を出した。それでも、構われたのが嬉しかったのか少し期待の混じった声だ。
「……日向を彼の部屋に運んでおいてください」
 それに呆れつつ頼むと、大志は更に驚いたように眼を大きくする。
「え、だって、日向は甲賀の方が……」
 戸惑いの意見を遠也は首を振って却下した。
「お前は怪我人に労働させる気か?」
「け、怪我?」
 授業中にも滅多に怪我をしない克己には無縁の言葉だと思っていたのに、翔の体を自分の体の上に乗せている克己の腕からは確かにかなりの出血が。
 血だまりも出来ていたりして、それを確認してから大志の顔が青くなる。どうして今まで気付かなかったのだろう。
「うわ、大丈夫か!?甲賀、何で……!」
「うるさい、黙れ。翔が起きる」
 克己は手負いでも目線で人を殺せそうなのは変わっていない。むしろ手負いで威力が増しているようだ。
 その視線をモロに食らった大志はガチッと硬直して開かれたままの口からはようやく消え入りそうな声で「ごめんなさい……」と出て閉じた。
 折角心配したのにその扱いは酷いな、と遠也は思いながらもフォローをする気にはならなかった。
「甲賀の手当ては俺たちの部屋でやりますか……。大志は俺たちが戻るまで日向を見ていて下さい」
「翔に俺の傷の事は言うなよ」
 翔の体を渡しながら大志に克己は釘を刺しておく。
 それに大志が怪訝そうな表情をしたから、もう一度睨んでやると彼はこくこくと必死に頷いていた。……面白い。
 けれど面白がっている暇はあまり無く、大志に翔を預けて、自分の血がどこかについていないかざっと確認する。服は大丈夫のようだけれど、さっき彼の頭を撫でた拍子に付いたのだろうか、彼の青白い首に少しだけ紅いものがついているのを見つけ、指で拭き取っておいた。
 その下に白い傷跡のようなものが見えたが、多分気のせいだろう。
「あんまり虐めないでやって下さい」
 慌てて去っていく大志の背を見送りながら遠也は克己に言う。遠也は初めて克己と大志のやりとりをまともに見たが、大志が克己を怯える理由が解かった気がする。彼と克己の性格が合わないのだろう。別に自分と克己の相性も良いとは思わないが。
 遠也の言葉を克己は心外と言いたげに肩を竦めた。
「あんなヤツ虐めたところで何が楽しい?」
「……じゃあ誰なら虐めて楽しいんですか?先に言っておきますが日向なんて答えたら傷口に塩擦り込みますよ」
「……」
 ただでさえそれなりに痛いのに、塩なんて塗られたらきっといっそ死んでしまいたいほどの激痛だろう。
 そんな拷問方法もあったな、と授業を思い出しながら克己は首を横に振った。塩もみが嫌なのではなく。
「アイツはそんな対象じゃない」
「じゃあ、貴方にとって日向はどんな対象なんですか?」
 どんな事を言っても遠也は克己を追い詰める。遠也の台詞の節々に敵意を感じるのはきっと気のせいじゃない。
「お前、俺にどんな返答を求めているんだ」
「……その傷、日向にやられたのならどうして貴方は日向を殺そうとしなかったのか、と思いまして」
 部屋に向かって歩きながら遠也は鋭いところを突いて来た。
「……それは俺にも解からないが、少なくとも殺そうとはした」
 正直に答えると遠也の空気が微妙に不快なものに変化する。
 やはり、という落胆と克己に対する軽蔑だろうか。遠也にはいっそそんな眼で見られていた方がいいのだが。恐らく、彼から貰う視線が、自分が他人から貰うべき感情で最も標準的なものだろうから。
「でも、殺せなかった」
 だからこそ、こんなことを正直に告白するのはある意味癪だが。
「……は?」
 予想通り、遠也は間抜けな声で聞き返してくる。まさかそんな台詞がくっ付いてくるとは思わなかったのだろう。克己もそんな言葉を付け足すことになるとは思っていなかったのだから、遠也の驚き方は少々物足りないものがあった。
「殺さなかったんじゃなくて、殺せなかった。むしろ俺が聞きたい」
 彼は自分にとってどんな存在?
 今まで誰かと接していてそんなことを考えた事は一度も無いのに。……いや、一度は考えた事は有るが、あれ以来、彼女以外にそんな事を考える事は無いと思っていた。それは思い込みだったのだろうか。
 はぁ、と深いため息を添付すると、遠也の表情にわずかな困惑が見えた。
「知りませんよ。自分で考えてください」
 質問を質問で返された遠也は彼の問いをバッサリ切り捨てる。
 解かっていたけれど、天才と称される彼にもさじを投げられると。
「日向に聞いてみたらどうですか?」
 空気で克己が落胆したのを察し、遠也は適当なアドバイスをした。
そんな行動をとってから、遠也はおかしい、と心の中で呟く。彼と自分はアドバイスなんてする間柄ではなかったはずだ。この微妙な変化を作り出した翔を恨むしかない。遠也も大志と同じく克己となるべくなら関わりたくないと思っていた一人だったのに。
遠也がそんな事を考えているとは露知らずに、克己はずきずき痛む患部を止血の為に強く握る。すると血を吸収していた服からじわりと液体が滲み出してくる。更に紅くなる自分の手に、無意識のうちに眉を寄せた。
「十中八九、友達と言われるだろうな」
「友達という答えは不服ですか?」
「肯定も否定もしにくい問いだな」
 不服じゃない、と言えば自分が彼を友人と認めてしまうことになるし、不服だと言えばそれ以上の関係を欲しがっている、もしくはそれ以下の関係であるべきだと考えていると言ってしまうことになる。今更他人と友情ごっこをする自分はとてもじゃないが想像出来ないし、かといってそれ以下の人間に対して銃を持って欲しくないとか人を殺して欲しくないとか思うわけが無い。それ以上の関係を求めているという事も考えたくない。
「……俺は、ですね甲賀。正直なところ貴方を日向の側に置いておきたくないんです」
 遠也は自室の鍵を開けながらため息を吐いた。
 この部屋に翔は何回か入れたことがあるが、克己を入れるのは今回が初めて。遠也と克己との付き合いはその程度ということだ。
「俺も新聞に書かれている程度しか知らないんですが、長い間続けられた虐待に耐え切れなくなった母娘が自殺をし、それを発見した父親が一家心中を計り、先に母と姉の死体を発見した息子に刃を向けた。息子はそれに抵抗し、父親を刺した。でもその後、息子も自殺を計ったが叔父叔母に見つかり、九死に一生を得る。これが俺が知る限りの情報」
 知る限りの情報で、他人に譲渡しても大丈夫な範囲の情報でもある。
 細かく知っていると思うところは、その姉が首吊りという手段で自殺したということのみ。
 全国ニュースにはなったものの犯人がいるわけでもなし、多少ワイドショーを賑わした程度で終わった事件だ。
「日向の首の右側の方に傷跡があるのは、気付いていましたか?」
 それを言われて、克己はさっき見たものは気のせいじゃなかったと知る。それでも、何故出来たのか知らないから否定しておいた。
「……いや」
「頚動脈を切るつもりだったんでしょうね。目算ですが3cm傷跡がずれていたら、俺も貴方もきっと日向に出会っていない」
 遠也は自分の指を首に当ててその傷の位置を示した。
 そこは確かに危険な箇所で。多少の知識を持っていれば、すぐに自分の命を終わらせる事が出来る場所だ。手首なんて斬るよりずっと的確に。
「……貴方は日向にとっては危険な人間だ。彼は人の死を嫌うというより怯えています。簡単に他人を殺すことの出来る貴方がいつどんな形で彼を傷つけるか、その時彼がどれくらいショックを受けるか俺には想像出来ない」
「……なかなかな警戒振りだな」
「当然です……どうしてあの薬、貴方は平気だったんですか?」
 翔が錯乱し気を失うほどに毒素が強かったあの香りの中で、克己はただ一人平然としていた。まずそこが疑惑の原点。
 その指摘に、克己は遠也から視線を逸らした。
「……ある程度の毒には慣らされているからな」
 遠也の問いに素直に答えると、彼の手当てをしようとしていた手が止まる。
 この一言で遠也がどこまで気付けるか。
 彼を試すつもりの言葉だった。そうしたら予想通り遠也の黒い瞳が淡く敵意をまとった。
 克己はそんな眼を向けられても表情も変えずに自分の傷の状態を確かめている。そんな、どこか余裕も見られる態度に更に遠也は眉間を寄せた。
「お前、軍属の家の出か」
 敬語の消えた言葉での問いに克己は面倒臭そうに視線を上げる。
 その克己の普通に学校生活を送ってきたとは思えない程の行動力、判断力、手馴れた武器の扱い方、すべてにおいて完璧と言っても良いほどの技術はそうでないと説明出来ない。
 克己は、軍閥ないし軍属、もしくは代々軍人という家の人間ということで。そこに生まれた男は幼い頃から戦闘手段や軍学を叩き込まれて、将来的にはこの国の軍のトップに立つことになっていると聞く。
 それ故に、簡単に暗殺に倒れないよう、幼い頃から毒を飲まされ毒の効かない体にする、というのも。これは単なる誇張した噂かと思ったが、どうやら真実だったようだ。
 途端に警戒を強めた遠也に克己がもう彼に手当てはしてもらえそうに無い事を悟り、彼が用意してくれた薬品と包帯を確保して自分で治療し始めた。片腕が使えないのに、とても手際よく器用に包帯を巻いてゆく。それも、幼い頃から仕込まれた方法なのか。
「……言っとくけどな、元だぞ、元」
 片手が使えない為、口で包帯を引っ張りながら巻いていたら力が入りすぎて傷にキリッとした痛みが走る。そのわずかな痛みをやり過ごす為に口を開くと、まだ警戒はしているものの、遠也が少し驚いたような声をあげた。
「元?」
「親が離婚した。俺は母方に引き取られた。だから、軍属である父方の家とは関係ない。じゃなかったら、北になんて配属されていないだろう?」
「それは……」
 確かに、甲賀という名の軍属の家は無い。本来軍属の家に生まれこの学校に来たら、もっと待遇はいい。
 でも、釈然としないものが遠也の中で奇妙な感じのわだかまりを作っていた。
 前々から感じていた克己に対する不信感がこの事実で更に募る。遠也が知る限り、軍属という種類の人間にはロクな人格が居ない。自分の利益の為なら平気で他人を殺せる人種だ。最も軽蔑する人間と近しい間柄だから、という個人的な理由もあるけれど。
 元、何て言われても“元”になるまでの環境が彼の中からその瞬間に払拭されたわけではないだろう。
 クラスメイトを平然と撃ち殺した姿は、まだ記憶の中で鮮明に彼への警報をけたたましく鳴らしている。
 底の方には、自分も何かをしたら彼に殺されるのではないかという恐怖があることにも、大分前から気付いていた。だから、成るべくなら関わりたくない相手だ。
「俺は貴方を信用出来ません」
 殺されるかも知れないと意識している相手に挑戦的な言葉を言うのは賢くない選択だろうけれど、彼のどこか威圧的な空気に反発する為に遠也はきっぱりとそう告げた。ここまで来ると、負けず嫌いは遠也の性格だ。
 遠也の強い眼に克己はその意思を悟ったのか、自嘲的な笑みを浮かべる。
「その方がいい。軍属を信用すると後で泣きを見る」
 そこら辺は、克己自身も自覚済みだった。経験もある。実際のところ、軍の内部も上司には絶対的な忠誠を誓うが、同じ階級の相手には相当な警戒が必要だった。昇進の為にライバルを、味方なのにも構わず戦場で撃ち殺したとか見捨てたとか、そんな話は珍しくない。軍属に生まれてきたお陰で小さい頃から権力闘争というものを近くでまざまざと見せ付けられて、他人は信用するなと本能に教え込まれてきたのだ。例え、兄弟でも、親子でも。
 何かあったら、すぐ殺せるように、と。
 一体何人の血に染めたのか解からない手は、今日は自分の血で汚れた。一歩間違ったら翔の血で汚れてしまっていたかも知れない。
 どこから来るのか解からない安堵と、一歩間違ったら、という表現に、後から“何故”という単語がくっ付いてきた。
 何故安心しているんだ、とか何故彼を殺す事が間違いなんだ、とか、一番大きな疑問は何故殺せなかった、なのだが。
「日向にもあまり関わらないで下さい」
 随分と丁度いいタイミングで遠也が釘を刺してきた。もしかしたら、彼は克己が何を考えていたのか察せて居たのかもしれない。他人にそんなことを見破られるのも初めてなのだが。
 遠也は壁にかけてあった大志のシャツを克己に投げる。
 翔に傷の存在を隠すつもりなら、血に染まっている上破けてしまっている制服を着続けるわけにはいかない。遠也のサイズでは無理だから、丁度いい体格を持つ大志のものを勝手に使わせてもらった。
 そんな気遣いも恐らく克己ではなく翔の為なのだろうが、拒否をする理由は無い。大志もきっとそれを指示したのが遠也で、指示を受けたのが克己なら文句も言えないだろうし。
「彼を軍に関わらせることは成るべくなら避けたい事なんです。彼自身の問題もあり、彼の周囲の問題もありますから」
「周囲?」
「……彼の父親の死は、きっと多かれ少なかれ、軍が関わっている。日向も父親が自然死ではなく殺された事を知っています。彼がここに呼ばれたのは、もしかしたら軍は彼の身柄を確保したかったのかもしれない。軍が始末した男の息子なんて、普通に考えたら危険な存在ですしね。それに」
 遠也は顔を上げ、シャツを着終えた克己を見据えた。
「一度軍属を離れ他の世界に触れた人間が、軍に恨みを持つ人間と接触し、友人という関係を円満に作り上げていったりしたら危険以外の何物でもない。場合によっては国の脅威と成りかねない。そう判断されたら貴方はともかく日向の身が危険です」
 その眼はいつもと変わらず冷ややかで、言葉はそれ以上に冷たかった。
「貴方に日向は救えない」
 牽制だ。深くは関わるなと彼は克己に警告していた。遠也は克己自身がまだ気付いていない彼の心の中に生まれた何かに勘付いていた。それは、昔似たような経験をした遠也だからこそ気付けたことだった。出来るなら、克己が自分の心の中に生まれつつある何かに気付かないうちに彼等の間に壁を作ってしまいたかった。翔は幸いまだ克己の事をただの友人と捉えている。
 けれど。
 遠也はふっと唐突に俯き、表情に影を落とす。
「貴方だけじゃない、誰もあの人を救う事は出来ません。俺にも、あの人の義父である日向さんでも無理でした。あの人を救える人がいるのならそれは恐らく……」
 もうこの世にいない彼女だけ。
 彼女に許されない限り彼が自分を許す日は来ないだろう、と遠也は続けた。それほど翔の傷は深いことは一番近くにいてそれを観ていた遠也は知っている。
「……じゃあ、どうしてお前はあいつの側にいる」
 つまらない問いをしてきた克己に遠也は眉を寄せつつ、怪我の手当の後片づけを始めた。きちんと元の場所に戻しながら、遠也は口を開く。
「傷を治す事が出来なくても、一緒に傷口を押さえてやる事は出来ます」
 それでいつか、流れる血を止めることが出来ればいい。彼の隣にいて虚しさを感じた事は一度もない。むしろ、与えられるものの方が多くて戸惑った事さえある。
「……随分と、大事にしているんだな」
 遠也が他人を気遣うところを見たのは翔相手が初めてだった。あまり付き合いは長くないが、彼も他人には無関心な人間だということは薄々気付いてはいた。それなのに、翔にはよく世話をやいているように見受けられる。
 克己の不躾な質問に遠也はちらりと彼と今手当てしたばかりの傷を一瞥した。
 どこか、心外だと言いたげなその眼で。
「貴方ほどじゃないですよ」












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