確か、あの日は雨が降っていた。

 天気予報は午後の雨の確立は70%。当たっても外れてもどちらでもいいような数字だ。
 それでも、午前中は快晴で、その日は中学の入学式だった。
 この良き日、という言葉がぴったりな日で。
 トレードマークがランドセルから学生服に変わったその日は、自分にとっても大きな転換期となるはずだった。
 子供から大人への大きな一歩。
 卒業する時には丁度いいから、と穂高は少し大きめの制服を注文してくれた。肩幅も腕のサイズもまだぶかぶかで、それでも今後の成長を約束されたようで嬉しかった。
 父親に階段の上から突き飛ばされて、足の骨を折った日から翔は一人で穂高の家に預けられていた。
 彼は優しく迎えてくれて、気付いたらもう一年近く世話になっている。その間、足は完治し、リハビリも終えた後に穂高が武術なるものを教えてくれた。
 力を手に入れたと思う。それなりに。
 早く、姉を助けてあげたい。その一心だった。
 それが、何故こんな事になってしまうのだろう。
 目の前には姉の首吊り死体と、その足元には滅多に見なかった母親の……多分死体。彼女からはおびただしい量の血が流れ出していたから、恐らく生きてはいないだろう。
 雨と共に入ってきた風が、天井から吊り下げられている彼女の身体をゆっくり揺らしている。
 中学の入学式で自分の姓が有馬から日向に変わっていた事を知り、穂高に帰ってすぐその事を問い詰めた。
 彼の口からはただ一言だけ「お前は俺の養子になったんだ」と。
 それと一緒に姉からの手紙も渡され、そこには「幸せになって欲しい」という旨だけ書かれていた。
 そんな事を言われても。
 穂高には止められたけれど、急いで一年間近寄らなかった我が家に戻った。
 そうして迎えてくれたのは、二人の無残な姿。
 
 ……置いていかれたとしか思えなかった。
 
 母親の手元に投げ出されていた刃物を手にとって、そのまま自分もあちら側に行くつもりだった。あっちで怒られようが、こっちに一人で残されるよりはずっとマシだと思った。
 彼が、来るまでは。
「何をしているんだ!」
 死の静寂を振り払おうとしたのは、彼の声で。首にナイフを当てようとしていた翔の手を強く掴んだのも彼だった。
「翔!やめろ、やめるんだ!」
「……っ!」
 強い力で止められ、生臭い血の匂いが鼻を掠める。
「何故こんな事になるんだ……」
 悲しげな嘆き声が一体誰のものだったのかは今となっては解からない。
 けれど、恐怖と怒りに流されるままに気付いたら彼を刺していた。
 どこを刺したのか、いつ刺したのかも解からず、気付いたら彼の肩に顔を埋めている状態だった。
 耳元で聞こえる苦しげな彼の息を詰める音、自分の手がじわじわと暖かくなっていったのは彼の血に濡れたからか。
「あ……」
 刺した、と意識をして彼から離れようとした時に出た自分の声があまりにも弱々しくて、それを耳にした彼が少しだけ顔を上げる。そして、怒りの眼を向けるわけでもなく、逃げようとした翔の体を抱き寄せた。
 このまま殺されるんじゃないか。
 予想もしなかった彼の行動に大きく体を揺らして息を呑む。
 けれど、その怯えに気付いたのか、彼はそれを宥めるように翔の後頭部をゆっくり撫でる。子供をあやす優しい手付きに翔は大きく眼を見開いていた。
 そんな事をする大人は知らなかったから。
 彼は自分が傷を負っているのにもかまわず、まだ刺さっている刃物が更に自身に食い込むのにもかまわず、翔の体を強く抱き締めていた。頭を撫でる手が血に濡れていたのは、さっき翔を止める時に傷をつけようとした刃を握って制止したからだろう。
「ごめん、な……?」
 彼はようやくそれだけ言って、床に崩れていった。
 何かがおかしい。
 すべてが、おかしい。
「誰だ……アンタ」
 がくりと翔もその場に座り込んで、苦しげに息をする彼に思わず問う。
 暗い部屋の中、照らす電気は無い。けれど、彼がうっすらと眼を明けて微笑んだのだけはわかった。
 その口がわずかに動いて、彼の意識が無くなるのも。
 お前は何も知らなくていい。
 確かにそう言われたのも。
 後に残ったのは3人分の遺体と、雨の匂いと死の臭気。
 頭のどこかで自分が間違った事をしたのだと理解していたけれど、どうして間違った事だったのかは解からない。
 それと、何故彼が死んでしまった事に自分がこうやって涙を流しているのかも。
 ずっと憎んでいた相手だと思っていたのに。
 ワケが解からない。
 もう、何も考えたくない。
 そう思ったら、首に生温かくなっていた刃を当てて、迷わず前に引いていた。










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