過去というものは“もし”の溜まり場所だと思う。
もし、あの時こうしていたら。
もし、あの時ああしていたら。
引き返せないのに、その“もし”と考える行動をとった現在の自分を思い、更に後悔する。
大体そう考える時はすべてが手遅れ。
そう解かっているのに、いつまでも過去を悔やんでいるといつまでも前には進めない。
解かっているけれど。
きっと、あの時から自分の時間は止まってしまっている。


「また自殺かい?」
 重い扉が音を立てて閉まった時、受付に居た小さな老婆がのそのそとやってきて克己に平然と問う。
 慌てる素振りも見せないという事は良くある事なのだろう。
 ガタガタと震えているこの清掃員の女性は新人なのか、慣れていない様子だが。
 老婆はその情けない姿を一瞥して小さくため息を吐いていた。
「悪いけど、その子を上にある清掃員の控え室に連れて行ってくれないかい?あたしじゃ運べないんでね」
 腰が抜けてしまっている彼女がいつまでもこの扉の前に座り込んでいては中の死体を片付けるに邪魔だと老婆の冷たい目が言っている。
「……解かった」
 翔の事が気にかかったけれど、死体なら彼に危害は加えないだろうし、すぐに驚いた顔で部屋から出てくるだろう。
 そう判断し、震えている女性の体を持ち上げて、克己は奥にある階段に向かった。
「っれ?コウガカツミ?」
 踊り場まで登った時、階段から駆け下りてきた整った顔の青年が驚いたように克己の名前を口にした。
 見覚えの無い顔だが、何故自分の名を知っているのだろう。
 珍しいものを見るような眼でジロジロと不躾に見てくる彼の態度に思わず眉を寄せていた。
「誰だ、お前」
「っつか何でアンタここにいるの?」
 質問にまず答えろ。
 礼儀というものを知らない相手に苛立ちを感じたけれど、青年の手に見覚えのあるモノが居ることに気が付いてそれも引っ込んだ。
「そのねずみ……」
 彼の手の中でもぞもぞと動いている茶色い毛玉は見覚えがある。
 ねずみ、という表現に彼はむっとした顔で何故か胸を張っていた。
「ネズミじゃない、ハムスター。アンタ、カケルと同じ部屋だろ、知ってんじゃねぇの?コイツのこと」
 少し馬鹿にしたような眼で彼は自分を見てくるが、翔の名を出されて更に驚く事になる。
「お前、翔の知り合いか?」
 克己が意外だと言いたげな口調で言うから、葵は調子に乗って更に胸を張っていた。
「えっへっへ。まぁね〜〜あーんなことやこーんなことしようと思う仲でーす」
 適当な事を言ってにやりと笑うと克己の眉が寄る。
「ふざけた事を」
「あれ?もしかして怒ってるー?成程―、噂のコウガカツミ君はカケルが好きなんだー?」
からかい口調でにやにやと笑う彼の態度にはイライラする。何故初対面の人間にそんな事を言われないといけないのだろう。
「殺されたいのか、お前」
「カケルにコレ渡すまで死ねませーん。んじゃな、俺橘姐が居る部屋に行くんでー」
 てってっと階段を下りる彼の足はさっきの部屋へと向かっている。彼の態度に呆れながら、ついでにもう二度と対面し無い事を願いながら足を進めようとしたが
「……おい、ちょっと待て」
「何?」
 克己の制止に彼は素直に足を止めてくるりと振り返ってくれたが
「橘は、どこに居るんだ」
 葵の向かうその方向は自殺者の部屋へ一直線だ。
 けれど、その間にも似たような部屋があるからその隣接した部屋に彼は向かっているのかもしれない。
 克己が何故そんなことを聞いてくるのか解からない葵は首を傾げながら「あの部屋」と一つのドアを指す。
 その指の先の部屋は。
 それを確認する前に、彼の悲鳴が響いた。
「翔!」
「え、カケル?」
 葵の言葉に答えてやる暇は無く、腕に抱えていた女性をひとまず階段に座らせてすぐその部屋に向かった。
「ちょっと、何なんだい!」
「どけ!」
 文句を言いつつも今の悲鳴に驚いたらしい老婆がドアノブに手をかけていたが、それを突き飛ばすようにして克己はドアを蹴り開ける。
 踏み込んだ瞬間、何だか鼻腔を奇妙な香りがくすぐり、思わず手で鼻と口を覆っていた。妙に甘ったるい香りで、肺に入るとわずかに胸焼けを感じる。けれどその不快感はすぐに消え、代わりに一瞬眩暈に似た浮遊感に襲われた。人によっては心地良く感じるかもしれない感覚だが、克己には不快にしか感じられなかった。
 まさか、とは思うが、この香りは。
 この香りの元を辿ろうと口を覆ったまま顔を動かすと、部屋の隅にある小さな机の上に中華風の彫が施された香炉から白い煙がうっすらと空中を流れていた。
 換気の為に誰かが開けたのだろう窓のおかげで暗かった部屋は昼間の太陽に明るく照らされ、自殺者の顔も鮮明に見える。その顔は、橘で。
 死体ならば彼に攻撃しないと思っていたが、読み違いだった。
 ち、と思わず舌打ちをして翔の姿を探した。
「橘姐!!嘘だろ!?」
 背中の方から彼女に懐いていたらしい葵の悲痛な叫びが聞こえるが、かまってはいられない。
 宙に浮いている彼女の細い足元で、しゃがみこんで頭を抱えている翔がいたから。
「翔!」
 克己の声に可哀想なほど彼の体が震え、恐る恐る俯いていた顔を上げる。
「おい、しっかりしろ!」
 肩を掴んで軽く揺すってみたけれど、体は痙攣しているように震えているし、顔も蒼白だ。
 この香りも彼の恐怖を増幅させるのに一役買ってしまっているのだろうか。
「ねぇ、さん」
 予想通りの呟きに自分に苛立ちを感じる。
 何故、一人で行かせてしまったのだろう、と。
「あれは彼女じゃない!いいから早くこの部屋から出るぞ!」
 こちらの声が聞こえていないのか、翔はこっちに視線を寄こさずただひたすら彼女を見上げている。立たせようとしても、彼は動こうとしなかった。
 憔悴しきった翔の表情に、状況が深刻である事を察せざるを得ない。
 こちらの状況を嘲笑うかのように視界の隅にある香炉から煙は出続けている。
 換気はしているが、根源を絶たない事にはあの煙を吸ってしまう。しかし、何の防御も無しでアレに近付くのは危険だ。まず、何の薬物を燃やした煙なのか解からない。毒性がどの程度なのかも。
 ただ一つ、解かるのは麻薬かそこら辺の類だということ。
「……おい、お前」
 橘の体を下して必死に彼女に呼びかけている葵を振り返り、脳裏に過ぎった人物の助けを借りる事にした。自分では手が追えない。
 彼女の体を揺らしていた葵は涙目になりつつあった視線を克己にやり、「息してねぇ……」とか細い声で訴えてくる。その状況説明に克己は眉を寄せた。
「佐木遠也、今教室にいると思うから呼んで来い」
「は……?」
 いきなり命令された葵は涙目を不快げに細めたが、克己は声を荒げてもう一度叫んだ。
「佐木遠也だ。翔や俺を知っているなら知っているんじゃないのか?彼女を助けたかったら、呼んで来い!」
 今、彼女を死なせるわけにはいかない。
 葵のように彼女の存命を純粋に望むわけではないが、翔の状態を見たらそう直感的に思った。
 自分に医学の知識は無いし、彼なら翔に何かフォローが出来るかもしれない。
 自分が肝心な時に役に立たないという事を認めるのは腹ただしいが、実際のところそうなのだからどうしようもない。
 走り出した葵の背を見送ってから、重くなりつつある体を持ち上げた。
「ねえさんが……」
 擦れた声で何度も呟く彼の表情からは絶望と困惑が伺える。
 多分、過去もこんな状況だったのだろう。
「落ち着け、翔」
 二三回頬を軽く叩いてみたが、一向に正気に戻る気配が無い。
 それどころか段々とその表情が恐怖に染まっていった。
「アイツに殺される……!」
 恐怖で引き攣った声と同時、翔は渾身の力で克己の手を振り払っていた。この不快な香りで体が不調を訴え始めていた所為か、あっさりと振りほどかれてしまい、慌てて手を伸ばした。
「翔!」
「俺に触るな!」
 護身用に、とほんの数分前に翔に渡した武器を彼は構え、その銃口は克己の胸に向けられていた。
 かたかたと震えるそれは標的に命中するか怪しいレベルだが、翔の眼は本気だ。
「翔……」
 落ち着け、なんて言ったところで効力は無いだろう。
 すでに翔の眼は克己ではないものを映している可能性がある。下手に刺激をするのは危険だが、いつまでもここの部屋にいるのも危険だ。彼も自分も。
 克己は自分に向けられている銃口を捕らえ、すっと眼を細めた。
 仕方ない、か。
 諦めの言葉を心の中で呟いて、袖に隠してあった、というより仕込んでおいたというべきだろう小型のナイフの存在をそっと指で確かめる。
 これも正当防衛で済むだろうか、と思った時前のルームメイトの顔を久々に思い出した。
 恐らく、自分が一歩踏み出した時に彼は発砲するだろう。
 でも翔の射撃の腕はたかが知れている。その実力も技量も近くで見ていて、癖も把握出来ていた。100パーセント避けられる自信はある。
 間合いに一歩踏み込んで、その後は。
 ……一応死なない程度の攻撃を心がけるが、相手の息の根を止めることに慣れた体をどこまで加減出来るだろう。
 翔の首の位置とナイフの堅さをもう一度確かめて、利き足に体重を乗せた。
 が
「……翔?」
 銃を構えてこちらを強く睨みつけてくるその眼から静かに涙が頬を伝っていくのを見てしまい、思わず翔を呼んでいた。
 こっちの驚きの混じった声に翔もその時初めて自分が泣いていると気付いたらしく、頬に触れて涙がついた指をしばらく見てから自嘲する。
「……駄目だよなぁ、泣かないって、約束したのに」
 誰に、という質問は不要だった。翔は自分の後ろに倒れている彼女を振り返り、更にその笑みを深めていたから。
「こんなんだから、いつまでたっても俺は強くなれないんだ」
 薄ら笑いを浮かべつつ、濡れた頬に張り付いた長めの髪をかき上げる。
 久し振りに流れる涙はなかなか止まらなかった。それでも眼を押さえたりしゃくり上げたりすることはなく、自分の意思に関係なくただ涙が落ちているという感じだ。
「でもさぁ、俺だって頑張ったんだ。穂高さんところで武術やったし、軍にだって入った。少しは、強くなったと……思ってたのに」
 その評価はコレか。
 床に横たわる彼女を眺めて疲れたようなため息を吐いていた。
「また、死なせちゃったな……」
 ぽつりと落ちた涙が彼女の服に小さな染みを作る。
 これを見るのももう何度目だろう。
 ……考えるだけで虚しくなった。
「何で、いつも助けられないんだろ……」
 ぼんやり宙を眺めながら翔は途方にくれていた。これで姉の死を見たのはもう数え切れ無い程だ。ここで途方にくれるのも。
 この手の夢はいつもこの場面から始まる。夢なのかどうかその時は区別がついてないが。
「……俺、どれくらい強くなれば良い?なぁ」
 話しかけても彼女から返事を貰えた事は一度も無い。
 無駄だとわかっているけれど、聞かずにはいられなかった。
「姉さん、答えてくれよ」
 抱き上げた彼女の体はまだ暖かかった。
 記憶の中ではすっかり冷たくなっていたから、些細な違いに思わず縋ってしまう。
「姉さん」
「……翔、もう止めろ」
 見ていられない。
 克己は袖のナイフに触れるのを止め、彼女の体に縋る翔の肩を掴んで彼女から引き剥がした。
 瞬間、自分を振り返った翔の眼が克己を責めた。
 邪魔をするなと言いたげに再び睨みつけられる。
「触るなって、言ったはずだ」
「……誰に触ろうが俺の勝手だ」
 少し厳しい声で返答すると翔の表情が少し悲しげに顰められた。
 彼の腕にはもう力は入ってない。銃を向ける気はもう無いようだった。
「……少なくとも、お前が一番触れられたくない人間はもう死んでいる。それだけは、安心しておけ」
 殺される、と怯えていた表情を思い出し、翔を少しでも落ち着かせる為になるべくゆっくりと告げた。
 翔はそれに一瞬だけ眼を大きく見開いたけれど、すぐに落胆したように目蓋を落とす。
「死んでねぇよ……じゃあ、毎晩毎晩俺を犯しているのは誰なんだ」
 犯す、なんて言葉を覚えたのはつい最近だった。当時の自分の知識から考えてその言葉は不適当に思えたけれど、その単語があの状況に一番当てはまる。
 夜になると必ず彼に暴力を受けている夢を見る。あまりのリアルさに現実なのではないかと思ってしまう。本当は、軍学校に通っているというこちら側の方が夢なのでは無いか、と。こちらもこちらで酷い状況といえば酷い状況だけれど、少なくとも父親は居ないことになっているから心が軽い。それに、色々と自分を庇ってくれる友人もいる。
 それが自分を保つ為に夢を現実だと思っているだけだったとしたら。
「……全部終わったことだ。いい加減、忘れた方が良い」
 生々しい言葉を突きつけられたからか、克己は多少動揺していたが翔がほぼ毎晩うなされていることは知っていた。とりあえず冷静を保ち一般論を口にしてみたけれど、彼に効力があるとは思えなかった。
 翔は何となく自分の首元を撫でてから小さく笑んだ。
「……終わって、ない」
 まだ手の中にあった銃を強く握って、小さく呟く。
「だって、俺がまだ生きてる」







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