「わーい。カケルだー」
「橘さんは?」
息を切らして翔は迎えてくれた葵に挨拶もなく問う。ヨシワラに来るのはこれで二回目。迷惑そうな受付の老婆の視線が痛い。すっかり顔を覚えられてしまったようだった。まぁ、アレだけ騒いだ上に扉を壊してしまったのだからしょうがない。
折角腕を広げて歓迎したというのに翔の態度は素っ気なく、葵はがっくりと肩を落とした。
「さっき客取ってたよーう。でも時間が終わってるからもう行っても大丈夫ですぅ」
いじけて見せても翔は動じない。
むしろ何でそんな態度を取るのかと不思議そうだった。
「そっか、ありがと」
「ちょっとまったぁ!」
すぐに橘の元へ向かおうとした翔の手を慌てて掴んだ。なんて行動が早い人なんだ。と、心の中で呟いてしまう。
引き止められた理由が解からない翔は怪訝な目で葵を見る。
その眼に見当もつかないのか、と葵は反対に呆れてしまった。
「お前、何か忘れてない?」
「え?何を?」
心当たりの無いことに翔は目を丸くした。
その様子に葵は肩を落とす。どうやらすっかり翔は忘れているようだった。
「ハムスター、飼ってなかった?」
「……ああ!」
葵のヒントに翔は声を上げる。
確か、彼とはぐれた時には葵が居た。茶色の毛並みのハムスター。
「俺の服にくっついて来てたんだよ。待ってろ、今部屋から連れてくるから」
葵は翔の肩を叩いて念を押す。
ここでチャンスを逃してはいけない。何度も何度も言おうとしたのに翔と会うと別な話をしてしまうから。
翔は翔ですっかり忘れていた自分を恥じた。
だって色々あったから、と言い訳も考えながら葵の背を見送る。
二回目のヨシワラは矢張り居心地が悪い。相手を選ぶそぶりを見せない翔にやはり老婆の視線はキツイ。きっとそのうちブラックリストに名前を追加されるだろう。いや、とっくの昔にされているかもしれない。
あちこちから甘ったるい匂いがしてくるからなんだか胸がむかむかした。
「おい、翔」
「あれ?克己?」
入り口の方から見知った顔が不機嫌な顔を隠しもしないでやってきた。
どうやら、また心配してくれたらしい。きっといずるがすぐに伝えてくれたのだろう。
や、と手を振ると彼は疲れたような顔になった。
「一人でここには来るな」
また自分の体を差し出そうとするんじゃないか、不安だと。彼の黒い目はそう言っている。
何だかとてもありがたい気分になった。
「ゴメンな、克己」
「謝るんじゃなくて礼を言え」
「うん、ありがと」
にへ、と笑って見せると克己がため息を吐く。
「で、今は何をやっているんだ」
「あ、葵がな、ハムスター預かっててくれたみたいで」
「ああ、あの蛇の餌」
「餌ってゆーな!」
予想通りの反応をする翔にいつも通りであることを確認してから克己はほっとしていた。
この前のように、思いつめている様子だったらこんな態度はとらないだろうから。
一方翔のほうは克己が何故か安堵している感じだったので、それ以上何か言うのを何となく止めていた。
この場所は、前に彼に迷惑をかけた場所だから少し心苦しいものもある。
「あの、さ……この前はホント、ごめんな」
白い漆喰の壁にもたれながらその申し訳ない気持ちを吐き出した。ずっと言おう言おうと思っていたのだが、タイミングがなかなか掴めず、ずっと気にしていた。
「俺、なんか姉さんの事になると、ムキになるっていうか、そういう感じになるから」
自覚はある。行き過ぎているということも。だけれど、この衝動を止めることは出来なかった。止めるつもりもあまり無かった。
「……それは知っている」
今更言われなくとも、と言う彼の低い声には苦笑するしかなかった。否定も何もせずただ淡々とした空気を持つ彼の隣りは居心地が良い。
馬鹿にすることもなく、必要以上に励まそうとするわけでもなく、ただこうして隣りにいてくれる存在が今は嬉しかった。
「……姉さん、さ。好きな人がいたんだ。メル友ってヤツで遠距離恋愛」
初めて姉の恋人の話を聞かされた時、こんなに嬉しそうな姉を見るのは初めてだと思いながら彼女の笑顔を見つめていた。
その笑顔を、自分が造ってやれないことは多少なりとも残念だったけど、単純に嬉しかった。
「で、いつだったか姉さんが俺に『今度、彼に会いに行く』って嬉しそうに話してくれたんだ」
遠距離恋愛だと言っていたけれど、詳しい土地は聞いていない。
それまで笑顔で聞いていたけれど、その話を聞いた瞬間、不安が過ぎった。
だから、ついついそれを吐露してしまったのだ。
「『姉さん、帰ってこないの?』」
自分の言葉に彼女ははっとしたように目を大きくして、けれどすぐに柔らかく微笑んだ。
そんな事ないわよ。
そう答えた彼女の笑みは、さっきまでの心底嬉しそうな笑みではなかった。
「俺がそう言ったら、姉さんそれっきりその恋人の話をしなくなったんだ」
その後、見てしまった。
夜中、あの父親に犯されてから声も立てずにメールのやり取りをしていた携帯電話を握り締めている姉の背中を。その携帯電話に、電源は入っていなかった。
「なんであの時、行けって言わなかったかなぁって。そしたらさ、姉さん自殺しないで済んだかもしれないのにな。それに、メールだぞ?メールの遠距離恋愛」
何で近くで恋人を見つけなかったんだろう、彼女は。
「メールでなんか、好きな人に触れないじゃないか。姉さん、結局好きな人の腕に抱かれる事が無いまま死んじゃったんだよ。あの時その人に会ってたら、幸せになれたかもしれないのに」
何で、あの時行けばいいと言わなかったのだろう、自分は。
後悔ばかり積もっている胸は重い。
「だから、さ……せめて橘さんには幸せになって貰いたいんだよ。無駄な事だってのは解かってる。彼女は姉さん本人じゃないし、でも」
「解かった」
大体の事情を察した克己は翔の台詞を止めさせた。
「どうせ止めろって言ってもやるんだろうし、気が済むまで行動しろ。それでお前が昔の事から解放されるなら、その方がいいんだろうし」
「……俺が何をしようとしても、止めない?」
「この間みたいなのは言語道断だ」
「うーん……そっか」
「翔……お前な」
まだあの方法に未練があるのか、翔は何か考え込むような仕草をする。
これはまだまだ目を離せない。
「このままじゃお前も好きな相手の腕に抱かれることを知らないまま死ぬかも知れないぞ?」
呆れた克己のため息に翔は首を傾げてみせる。
「俺はもう知ってるよ。姉さんに小さい頃よく抱き締められたから……それと」
それと?
自分で言っていてその続きの言葉がわからなかった。
それと、って姉以外の誰かでそんな相手、いただろうか。母親か?
記憶を探ってもそんな相手は見つからず、ただ首を傾げるしかなかった。
「……翔」
「あ、何?」
「お前、よく解かってないみたいだから言うけどな。梨紅さんだってお前の事が大事だった。そのお前の幸せを彼女が願わないわけが無いだろう?」
「それは……」
正直、彼女に好かれていたという自信は、無い。
きっとずっと自分の存在を疎ましく思っていたんじゃないかと思う。自分さえいなければ、彼女はさっさとあの家から抜け出す選択をして、今頃幸せに暮らしていたはずだ。彼女の迷いとなってしまった自分が悔しい。
それに一度、彼女に拒否された出来事がずっと心の中でわだかまっている。
「……俺は、今は梨紅さんよりお前との交流が長くなったから、梨紅さんよりお前にとっとと落ち着いてもらいたい」
「え……」
思わず、黙ってしまった。
「……何で無言だ」
「いや、あんまりそういう事言われた事無いから、さ」
「……俺だってこんなこと普通は言わない」
克己のバツの悪そうな顔に、じんわり胸あたりが暖かくなる感覚が広がる。この感じはあまり悪くない。
手で胸をさすっていると口元が段々弛んできた。
「ありがと、克己」
「気にするな。“親友”なんだろう?」
「うん!」
「お客さん、廊下でいちゃつかれちゃ困るよ。部屋空いてるよ。2時間3000円」
受付の老婆が要らない突っ込みをして二人のほのぼのした空気を壊してくれた。
このままここで葵を待っていたいところだけれど、彼女の視線にいたたまれない気分になる。
「……少し奥に行くか」
それは克己も同じだったようで、ため息を吐きながら壁から背をはがしていた。
「そ、だな」
彼の後に続いて廊下を歩き始めてからふとした疑問が過ぎる。
さっきの克己の話振りだと、彼は自分の姉を知っているような雰囲気だった。
ありえない、と思いつつも克己の服を引っ張ってみる。
「な、な、克己」
「何だ?」
「克己、何で姉さんの名前知ってるんだ?俺、教えたっけ?」
本当に何気なく聞いたつもりだったけれど、克己が突然歩くのを止めた。
廊下に立ち止まったまま、少し彼は逡巡して自分の黒い髪を適当な動作で掻き回す。
普段あまり見る事のない彼の困惑するような悩むような様子は新鮮だったけれど、軽々しく聞くことじゃなかったのかもしれない。
「翔」
くるりと振り返った彼の眼と声には決意のようなものが伺えた。
「俺は、お前の」
きゃあああああ。
克己の決意を邪魔するように廊下の奥のほうから衣を裂くような悲鳴が響いた。
ホラー映画か何かで聴けるようなその声に思わず翔は身を竦め、克己は視線を上げた。その手が反射的に銃に伸びているのはコレが何かのテストだったら100点満点の反応。
何だ。
声がした方向を振り返ると清掃員らしい女性が大慌てで一端入った部屋から転がるように飛び出して、その場に腰を抜かして震えていた。
「どうした」
先に反応したのは克己で、素早く彼女の方へ走っていくのに翔もついていく。
彼女はがくがくと震えながら、音を立てて勝手に閉まったドアを指差した。声も出せないくらいの怯えように克己は眉を寄せる。
この重いドアの向こうに何かがあるらしい。
ドアノブに翔が手を伸ばすと、克己に呼び止められた。
何かと思えば彼愛用のデザートイーグルを投げ渡される。
「克己、コレ……」
まさかコレを渡されるとは。克己は驚く翔に顎でドアを示す。
警戒しろということだ。
それにゆっくり頷いてみせて息を呑む。授業以外でこんな状況になったのは実は初めてのことだから、緊張に体が少し堅くなった。
銃の重みを右手に感じながら、左手でノブをゆっくり回す。
少しドアを開けて中の様子を確認する。物音一つしない、暗闇だった。
人の気配を感じない空間に、授業で習った事を生かして少し開けた扉を蹴り飛ばした。
先手必勝。殺気を感じたら勘でも良いからそこを撃て。
生死に関わる勘は、動物的であるほど強いと習っていた。
習ったとおりの銃の構え方と警戒の仕方を頭の中で復習していたが、部屋に踏み込んだ瞬間それは無駄に終わる。
部屋の中に殺気なんて無かった。
それどころか、人の気配も感じられない。ある程度覚悟していた血の臭いもしなかった。
「克己、何か、誰も居ないけど……」
人の気配を感じ取ることは出来る。
安全、と判断して構えていた銃を下した。
明るいところから暗い部屋に入った所為か、まだ眼が闇に慣れていない。
その時窓にかかっていた重いカーテンがふわりと揺れて昼の光を部屋に入れた。窓までの距離感を掴めたから、どこにあるか解からない電気のスイッチを探すよりカーテンを開けたほうが速そうだ。
固定しておかないと勝手に閉まるドアに背をもたれていたが、窓に向かって一歩踏み出すとストッパーが無くなったドアはあっさりと大きな音を立てて閉まった。
再び部屋の中は明かりを失い真っ暗になる。
まぁ、オートロックでは無さそうだからすぐに克己が来るだろう。
兎に角カーテンを開けよう、と記憶した場所に向かって足を進めたが、何かが体にぶつかった。
何だ?
自分の上半身だけにぶつかった、ということは宙に浮いている、もしくは上から吊るされている、か。
そっと触れると布の感触と、覚えのある生温かさが指に残る。
「何だ、これ……」
その呟きに答えるように、強い風がカーテンを外から押し開いた。
ばさり、という重い布がはためく音と共に強い日差しが網膜を貫く。闇に慣れかけていた眼を反射的に閉じて、眩んだそこを目蓋の上から指で撫でた。
「眩しいな……」
自然に向かって文句を言ってもどうしようも無いけれど、そっと目を開けるとこの間とは少し違う部屋の風景が広がる。
それと、さっきぶつかった物体も。
その正体を確認して、思わず引き攣った悲鳴を上げそうになった。
光に照らされて浮かび上がったのは、空中に浮いている人の白い足。
キシリ、と木が軋む音にそってその足は振り子のように揺れている。多分、さっき自分がぶつかった所為だ。
「っつみ!人が死んでる!」
これじゃあ、誰だって悲鳴を上げて逃げ出したくなる。
頑丈に見えたあのドアの向こうに自分の声が届いているかは謎だけれど、見たくないものを見てしまった眼を閉じて叫んだ。
体が、震える。
足が宙に浮いている、という自殺方法は一つしか考えられない。
その方法は、姉が用いたものと同じ。
心臓が嫌なリズムで重く鳴り始めたのを落ち着かせようと、奥歯を噛み締める。
彼女じゃない、彼女じゃない。彼女はあの時死んだんだ。
そう言い聞かせながら息苦しくなってきた胸元を強く掴んだ。体の奥の方からせり上がってくる何かを感じ、思わず口元を押さえる。気持ちが悪い。
ミシリ、と彼女の体を支えている木が軋み、それを聴いて恐る恐る眼を開けた。
それと一緒に、深呼吸をする。
「下して、あげないと……」
自分にそう言い聞かせるように呟いて、吸った息を吐き出した。
確か、遠也が首吊りは決行後10数分以内ならまだ助けられると言っていたから。
正直なところこの空間から今すぐに逃げ出したいところだったが、第一、いや第二発見者としては放っておけない。
こうやってぐずぐずしている間にも、彼女の生存率は下がっていくのだから。
意を決して、ゆっくり顔を上げていくと、真っ青な人の顔が目に入る。
閉じられた目、ほんの少し開いた口。
その容姿に、目を見開いた。
思わず細く吸い込んだ息が、今の体には妙に冷たい。
さっきまで堪えていた何かが壊れたように、体がガタガタと震え出す。恐怖で口元が引き攣った。
違う、と思ったのに。
いや、思ったんじゃない、願っていたのだ。
「ね……ぇさ……?」
もう二度と光を宿さない眼、動く事は無い口、どこか恨めしげなその表情、全て記憶の中に残っていた姉の死に顔そのもの。
二度と見たくないと。
二度と見ることは無いと思っていたその顔が、また現実のものになった。
「あ……」
がくりと足の力が抜けて、手に持っていた銃が床に叩きつけられる。
膝を付いても、彼女の顔から眼が離せなかった。
頭が混乱し始めたのか、今まで忘れようとしていた記憶が鮮明に蘇る。人間の脳の記憶力をこれほど恨めしいと思った瞬間は無い。
生々しく思い出せる雨の音。本当は聞こえるはずがないのに、思わず耳を塞いでいた。
ここには無いはずの血の臭いまで感じ始めるから、呼吸をするのが嫌になる。
薄くなったはずの首元の傷が、痛むはずがないのに熱を持つ。
どくりと傷が出来た当時のようにその血管が脈動した瞬間が限界だった。
喉が壊れるくらいの絶叫を上げても、その光景は自分に同情することはなく。
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