弓を握る手に力がこもる。
 ぎりぎりと弓が軋むまで引いて、放す。
 びぃんと弦が振動する音が耳元で聞こえた。


「俺は、いつから変わったと思う?矢吹」


 ずっと、魚住の言葉を考えていた。
 いつから変わったか、なんてそんなことに気付けるほど自分と彼は親しい関係ではないはず。
 お互い雑誌等でお互いの名前を知っていただけで、実際に会ったのはここに入学してからの話だ。大会で何度か見かけたことはあるが、顔をまともにつき合わせたのはここに来てから。大会で見かけた時はいつも親しげな友人と一緒にいたのを覚えている。
 初めて会った時は確かに『彼』だった。
 ではいつから『彼』は『彼』で無くなった?


「それが俺からのヒントだよ。君達なら気付くと思うから」


 ヒント。
 この謎を解き明かせれば、何が解るというのだろう。
 君達なら、という複数形の言い方も気にかかる。
 けれど、どうにか答えを見つけないといけない。
 ああ言った彼の目が、助けを求めているように見えたから。
「いずる」
 聞きなれた声に振り返ると呆れたようなほっとしたような顔の正紀が立っていた。
「やっぱりココに居た」
「どうした。何か用か?なんちゃって不良」
「なんちゃって不良って何だ!」
 一応ちゃんとした不良だったんだ!
 どうでもいい事を強調して正紀は憤慨する。
 その様子を可笑しそうに眺めながらいずるは弓を置いた。正紀をからかうのは楽しい、という以前にもう習慣となってしまっていた。どんな事があっても、彼とこうした言葉を交わすと自分を取り戻す事が出来る。まさか、こうやっていずるが自分のスタンスを保っているなんて正紀は気付きもしていないだろうが。
「で、弓道場に来るなんて珍しいな。俺に何か用か?」
「別に。お前が何か最近考えているようだったから」
「心配してくれてたってわけか。そりゃアリガト」
「誠意が感じられない礼を言うな」
 正紀は一瞬心配していた自分がバカらしく思えた。
 口の減らない親友は、余計な事は沢山言うのに肝心な事は語ろうとしない。
 そんな性格だということを知っている正紀はいつものように諦めることにした。そのうち時期が来たら、自分の力が必要な時が来たら、きっと彼は話をしてくれるのだろうし。
 その時に自分は精一杯の力を貸すだけだ。
 いつもそうやって来たのだから、バランスが崩れることは無いだろう。
 いずるの高い身長によく似合う弓道着姿に軽い既視感を覚えた。その正体にもすぐ気がついて、じっと彼を見つめてしまう。
 ついつい、先ほど見たばかりの写真と頭の中で比べてしまっていた。
「……?何だ、正紀」
「あ、いや……」
 今度はいずるが怪訝な目で正紀に声をかけた。
 ぼーっとしていたところをいきなり我に返されて、何だか妙に照れ臭かった。
「似てきたよな、いずる、あの人に」
 考えていた事を正直に言うとやっぱり照れ臭いものがあって。
 その所為か普段は少しカッコつけた表情しか浮かべない正紀の少し幼い笑顔に、いずるが表情を固めた事に気付けなかった。
「……そうか?」
 何で、今更そんな話題を出してくるんだろう。いずるは密かに心の中に広がる黒い霧のようなものを感じていた。
 常々、色々と時々鈍い正紀に苛立つときがあるけれど、今ほど彼に対して理不尽な怒りを覚えた時はこの学校に来てから感じたことが無かった。
「ああ。弓道場に来た時、諌矢さんがいるのかと思った」
 普段は絶対しないような笑顔で、彼の名前を言う正紀に苛立ちを感じるのは多分かなり筋違い。
 ……でも。
「なぁ、諌矢さん元気?」
 やっぱりかなりイライラするので、何だかムカつく笑い方をする正紀に弓を差し出した。
「ほら」
 突然の事に驚いた正紀は何度もいずるの顔と弓を見比べる。
「距離は28メートル、正紀。昔のお前なら、確実に射抜ける距離だ」
「昔の話は止せよ。弓なんてもう6年は触っていない。それに……」
 正紀は左手をぶらぶら揺らしてみせる。
 彼の左手にはよく見ないとわからない程の白い傷跡が残っていた。
 いずるが、この事を忘れるはずがない。
「俺の左手は箸より重いものを持てないんでね」
 冗談半分の言葉にいずるは眉を寄せる。
「そうだな。俺の所為だったな」
 どこか不貞腐れたような言い方に、正紀の方も眉を上げた。
「……んなことは言ってないだろ」
「なら、引けよ。あの的に当たったら、俺が考えていることを教えてやる。……ついでに、アイツの事も」
「え……。つか、何だよソレ。底意地悪いな、お前」
「元々だ」
 手本、と言わんばかりにいずるは先に弓を持って的を射抜いた。勿論、ど真ん中を。
 すぱん、と気持ちのいい音に正紀は肩を竦めるしかない。
 仕方ない思いでネクタイを弛め、弓を持つ。
 何年か振りの竹の匂いと自分へのプレッシャー。
 ぎり、と弦が鳴った時、思い切り良く右手を離した。





「うあー……凄いはずれだ」
「日向……それ以上何も言うな」
 放課後、昼の練習のままの状態になっていた的を見て、翔が正紀の腕を評価する。
 正紀の放った矢は隣の的の近くに刺さっていた。
 正紀としてはとっとと片付けて欲しいのに、いずるがそれを許してはくれなかったのだ。イジメだ、イジメ。
「これが本当の的ハズレって言うんだよ、日向」
 上手い事を言ういずるにがくりと肩を落とすしかなかった。
 結局いずるが何を考えていたかを聞けなかったわけで。
 ……ついでに、彼の事も。
「うるっせー。俺だってなぁ、昔は」
「過去の栄光にいつまでも囚われるな」
 克己にはフォローの邪魔をされ、元不良踏んだり蹴ったり。
 そんな正紀を見ていずるは内心安堵していた。
 弓道場に来られるようになっただけ、進歩だろうから。
 それと、どうでもいい情報を彼に与えずに済んだ。
 一番その事に安心している自分には苦笑するしかない。
「矢吹?」
 そんないずるに翔はわくわくした顔で弓と矢を構えてみせる。
 武術系に興味のある翔は弓道の道を歩んできたいずるにも興味津々。
「じゃ、とりあえずやってみなよ、日向」
 
 いずると翔が矢を放っている後ろ姿を眺めながら、正紀は昼の事を思い出す。
『挑戦料くらいは、話してやるよ』
 見事に外した自分から弓を受け取ったいずるが嬉しそうに笑う。
 そんなに自分が弓を扱ったことが嬉しいのか。
 そう思うと何だか罪悪感に駆られた。
『俺は、ある人を止めたい』
『止める?何を』
『確信がまだ持てないから詳しい事は言えない。でも、あの人の矢は何かが変わってしまった』
 矢で判断するとは、なんともいずるらしい。
 そして、その相手は弓道をたしなむ人間だということを言っている。
『あの人の矢は的を狙っていない』
人を狙っている。
 少し、苦しげな表情で親友はそう言っていた。
 今は翔相手に楽しげにしているが、彼があんな表情になるのは本当に珍しいからどうにかしてやれたら、と単純に思う。
 でも、一体何をしてやるべきなのか。
 だん。
 力強い音がして横を振り返ると、克己が矢を放った後の体制になっている。放たれた矢は的に刺さっていた。
「流石っつーか、なんつーか……そこまでされるとムカつくもんがあるよな」
 経験者の自分が外してしまった的と克己が的中させた的を見比べ、ため息をついてしまう。
「……流石に、真ん中には刺さらないな」
 ど真ん中をしめす黒く塗りつぶされたカ所より少し離れたところにその矢は刺さっている。
 克己が呟いた言葉を正紀は鼻で笑った。
「ったり前だろ。昨日今日で当てられて堪るかよ」
 いくらオールマイティな克己でも、絶対無理だ。
 正紀の言葉を無言で流し、克己はもう一本弓を持って、構え、放つ。
 しかし矢張りど真ん中を射抜くことは出来なかった。
 あの美形が微妙に悔しげになるのを見て、克己はもしやかなりの負けず嫌いなのだろうか、という憶測が浮き上がってきた。
「……駄目だ、甲賀」
「何が」
「的に当てりゃ良いってもんじゃない。これは、人を殺す訓練じゃないんだ」
 弓をひこうとしていた克己の手が止まり、視線が正紀に流れる。
「精神鍛錬、だろう?」
 ……わかってるじゃないか。
 理解出来ている彼には頷いてみせる。そして、それが何を意味するのかも多分理解しているだろうから。
「初心者相手に言う事じゃないけど、それなりの腕があるヤツが外れるのは、心に何か迷いがあるからだ」
「それは、自分の事を言っているのか?」
 克己が大きく外れた正紀の矢を顎で示すと、正紀はあからさまに嫌そうな顔をする。
 そう来るとは思わなかった。
「別に、俺は腕が良かったわけじゃないし。それに」
「手の傷がある?」
 ぎくり。
 まさか克己に気付かれているとは思わず、馬鹿みたいに体を揺らしていた。
 白く残ってはいるがあまり目立たないと思っていた傷の存在を、いずる以外に知っている人間が居たとは。
 そんな正紀の甘い考えを読んだ克己ははぁとため息をついた。
「射撃の時に変な癖があると思っていた。多分、あの天才も感づいていると思うぞ」
 さらに遠也の存在も追加され、正紀はがっくりと肩を落とす。
「そ、そぉですか……」
「それに、体術系の時も無意識のうちにその手庇ってるだろう。いい加減気付く」
 どうやら自分が思っていた以上に気付かれる要因は有ったらしい。しかも無意識下の事を指摘され、思わず自分の手を凝視していた。庇っているつもりは無かった。自分が気付けていなかった事を告げられ、思わずため息を吐いてしまった。
「……馬鹿やってた時に、ちょっと刺されてさ。完治はしてるけど時々痺れたみたいになる」
「何が命取りになるか解からないぞ」
「解かってるよ。でも、この傷は良いんだ」
 良い、という意味がよく解からず克己は眉を寄せてみせる。
 まあ、優等生には解からないだろうなぁ。
 克己の反応に正紀は苦笑する。
「良いんだよ」


 良いのかよ。
 聞こえてきた克己と正紀の会話にいずるは密かに突っ込みを入れていた。
 あの傷が出来た状況をいずるは知っている。だからこそ、言えることなのだが。
「矢吹?」
 正紀の方を見ていたら翔が不思議そうに声をかけてきた。
「どうかしたのか?」
「いや、別に……」
「そういや、篠田も弓道やってたんだってな。二人はその時からの付き合いなんだ?」
 いわゆる、幼馴染というヤツなのだろう、正紀といずるは。
 そう呼べる相手が居ない翔としては羨ましい限りで。人懐こい笑みで聞いてくる彼にはいずるも自然と微笑んでいた。
「まぁ、ね」
 二人じゃなくて三人だったけれど。
 自分と、正紀と、もう一人。
 今まで思い出すことがあまりなかった彼の顔を久々に記憶の中から引っ張り出していずるは表情を曇らせた。何で今になって正紀が彼の名前を出してきたのか解からない。
 どうせ、また変なところで変な知識をつけてきたのだろう。
「……矢吹?」
 視線で射殺さんばかりに正紀の背中を見ているいずるに翔は恐る恐る声をかけた。何だか、いずるのオーラが怖いのだが気のせいだろうか。
「ん?どうかしたか?日向」
 けれどこっちを振り返ったいずるは輝いた笑顔だったので、気のせいだという事にしておこう。
「あ、そうだ。なぁ、矢吹」
「ん?」
「もしかして、篠田ってさ」
 いずるにこそこそと小声で少し前から思っていたことを聞いてみると、彼は肩を竦めながら頷いた。
「そうだよ。日向、知ってたのか」
「知ってたっていうか……ちょっと噂で」
 何ヶ月か前に街で耳にした噂だった。本人に聞いていいものか躊躇っていたのでいずるに聞いてみたら見事ビンゴ。本人に聞かなくて良かった。
 前から思っていた疑問だったので、答えがどうであれすっきりした。
 再び的に視線をやり、弓を引こうとして手を止めた。
「あれ……?」
 入り口のところに一瞬見えた白い服。
 まさか、橘が来たのだろうか。
「ああ、あの人また来たのか」
 苦笑するいずるを振り返り、また?と首を傾げてみせる。
 一度翔もここの近くで彼女に会ったのだから、あまり不思議ではなかったけれど。
「そ。決まってあの人これくらいの時間に来るんだ。この間も同じ時間だったろう?」
 多分普段はあの人がいるんじゃないのか、といずるは続けた。この時間帯、あまり人はここの道場には来ない。少なくとも、自分は来ない。人が少ないということは精神統一しやすいという面がある。だからいずるは朝を鍛錬の時間としているが、魚住は放課後もここを訪れる事があるようだ。偶に、だが。その偶にを狙って彼女は顔を出しているのだろう、といずるは解釈をした。時々放課後フラリとここへ来ると、彼女の姿を見かけたことがある。
 いずるの説明に翔は眉間を寄せた。
 あの人とは、魚住の事。
 クローンとか人間とか。
 想いあっていればいいのではないか。
 そんな考え方はきっと甘いのだろう。
 きっと、自分が考えている以上にクローンと人間の間に立ちはだかる壁は厚く、高い。それを築きあげたのは人間だ。
「俺、ちょっと行ってくる」
「日向?」
 弓を置いて行こうとする翔の肩をいずるが咎めるように掴んだ。
 前の一件を、多分正紀辺りから聞いているのだろう。
「大丈夫だって。克己にも言っといて」
 遠くで弓をひいている克己に目をやって、翔は笑う。
「でも、日向……」
 心配げな友人の目に、平気、と言って弓道場から一人、飛び出した。






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