大きな手に頭を撫でられた。
行為の後の彼はいつも優しい。そのふとした時に見せる彼の優しさが多分好きだ。
多分、だけれど。
「どうかしたか」
ぼうっとしている自分に彼が声をかけてくる。
その声はやはりいつもより優しい気がする。
「いや……なんでもないですけど」
「眠れないのなら薬飲め」
ベッドサイドに置いていた薬の袋を彼は渡してきてくれるけれど、飲みたくなくて毛布の中に顔を埋めた。
「嫌です。苦い」
正直に言うと彼が笑ったのが空気で伝わってきた。
きっと、子供みたいだと思われたのだろう。自分でもそう思う。
でも、本当に苦いんだ。
初めて飲んだときからずっと、心に何かが蓄積していく気がしていた。まるで小石を飲み込んでいるようで。
何もかも、嫌になる。
自分が段々自分でなくなっていくような感覚が嫌だ。
そんな事を言っても、この人には笑われるだけなんだろうけど。
「医者に飲めと言われているんだろう?ちゃんとしないと明日の授業にも支障が出るぞ」
彼の立場らしい事を言って、彼は飲めと言ってくる。
彼には、まだきっと自分の変化は気付かれていない。
「俺が俺じゃなくなったらどうしますか?」
その薬を勧めてくるということは、それなりに責任を取ってくれるということなのだろうか。
少し驚いたように目を見開いた彼が言った言葉は
「どうなってもお前はお前だ」
完璧な返事。
でもつまらない返事。
完璧すぎて、不安になる。
貴方は、俺じゃなくなった俺を抱いても満足なんでしょうけど、俺は俺を抱いてくれない貴方は嫌いです。
なんて、言えたら苦労しない。
この人はきっと、自分が変わっても気付いてくれないんだろうなぁとか。
「俺、何で貴方が好きなんでしょうか」
好き、という自覚ははっきり言って無い。
でも、彼が他の人と居るのを見るとイライラする。
一番イライラするのは、自分の事を解かってくれない彼なのだけれども。
ベッドの下に落ちているノートに眼をやり、彼に気付かれないようにそっとそれをベッドの下へと指で滑らせる。あの人はこれを見つけてどう思うだろうか、とぼんやり考えて、思考を中断した。
あの人、って……だれ、だっけ?
「ったく、いずるのヤロウどこに行ったんだ」
ブツブツ文句を言いながらも、正紀の足は弓道場に向かっていた。
暇があれば弓道場で弓をひいている彼だから、行き場は大体把握出来ている。
とりあえず今自分が居る現在地から一番近い弓道場を覗いてみると、人が一人いた。いずるかと思ったけれど、よくよく見たら違った。と、いうことはもう一つの方の弓道場か。
「マジで?こっから遠いんだよなぁー」
思わず呟いてしまうと、精神統一の邪魔になってしまったのか、今まさに矢を引こうとしていた彼が型を止めてこちらを振り返る。
その顔には見覚えがあった。
「あ、魚住……先輩」
あまり誰かに敬称をつけることが慣れていない正紀は慌てて“先輩”と付け足した。
彼は自分の名前を知っている彼に怪訝そうに眉を寄せていたが、どうやら顔を思い出してくれたらしくその顔から警戒が消える。
「君は確か、矢吹の」
「篠田、です。お邪魔してすみません」
いずるは弓をひいている時に邪魔をされると機嫌が悪くなる。
友人の性格を思い出し、きっと弓をやる人は皆そうなのだと頭を下げた。
「ああ、そんなに畏まらなくてもいいよ。別に競技中とかだったわけじゃないし」
温厚な彼の性格にほっとする。
見習え、いずる。
心の中で彼に悪態をついて頭を上げた。
しかし、いずるには何故か彼には近付くな、と警告されていたが……まぁ、いいか。
先ほどの一件で、今いずるに会うのは何となく躊躇われた。後ろめたいという気分もあり、ただ単にこの過去を共有する彼と顔を合わせるのが嫌だという気分もあった。
「先輩も休み時間だってのに一人で練習ですか?」
「……も、って矢吹ももしかして第一弓道場で練習中なのか?」
「えーと、多分……」
まさかそこに突っ込みを入れられるとは思わなかった。
言葉を多少濁しながら答えると魚住はふっと微笑む。
「俺は最近少し調子が悪くて」
勘を取り戻すのに必死なのだと説明してくれた。
スポーツの世界にもよくあるスランプというやつにはまっているのだろうか。
「そうなんですか……」
「あ、そうだ。篠田くんだっけ?矢吹と友達なら、知ってるかな?」
魚住は自分のバックに歩いていって、中から何かを取り出した。
弓道専門雑誌だ。その表紙のロゴに見覚えがあるから多分いずるも読んでいるヤツだろう。
「知ってるって、何をですか?」
弓道関係に関しての知識はさっぱりだ。魚住だってそれくらいはわかっているはず。
魚住はその雑誌をめくり、あるページを正紀の前に差し出した。
「この人。俺と同年だったんだけど、いきなり弓道界から姿を消したから気になってたんだよな。矢吹には何となく聞き辛いし」
天才とか彗星とかそんな単語に囲まれて弓をひいているその立ち姿に正紀は目を奪われる。
「あ……」
思わずこぼしてしまった声に魚住は首を横に倒した。
知っているの?と問いかけるように。
その問いにはなかなか答えることが出来ない。
「諌矢、さん……」
雑誌だけれど、久々に見る彼の姿にしばらく目が離せなかった。
だから、だろう。
擦れた声で彼の名を呼んだ正紀の様子を見ていた魚住が歪んだ笑みを浮かべていたのに気付く事が出来なかった。
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