「あの人達には随分と悩まされた」
 苦笑する彼の顔はどこか疲れていて、克己はそれに労いの言葉をかけることなくただ硝子テーブルの上に乗せられている花瓶と、それに生けられている白い花を眺めた。
 この部屋にこんな物が置かれているのは珍しい。その事に気付いてはいたが、理由を問いただす気にはならなかった。彼は昔から心根の優しい人間だった。自分とは違って。花を自室に生ける事を父や一族の人間は嫌ったが、彼の性格を考えれば、何の疑問も浮かばない。
「翁はお怒りのようですが」
「だろうな。離婚なんて、大分マスコミを押さえるのに苦労したようだから」
 くすくすと面白げに笑う彼に、克己は表情を変えることなく顔を上げた。
「父と母のこともそうだが、貴方もだ」
 どこか諌めるような声に、彼は眼を細めた。その眼の中の感情を、克己はいつも計り間違えていた。彼が何を考えているのか、きっと全てを理解出来る人間はこの世にいない。そう言えるほど、彼は難解な人間だった。
「貴方の最近の奇行は眼に余るものがある、と」
「そうか」
「このままでは、貴方は一族に消されますが」
「だろうな」
「……どうされるおつもりですか」
「今更、どうにかなるものでもないだろう。甘んじて、罰は受ける」
 元々死を恐れないように訓練されていたからか、彼は冷静だった。勿論、克己も彼にどんな処罰が決められようとも心が波立つことはない。
 そう、例えこの手で彼を殺す日が来ようとも。
「だが、心残りが一つ」
 その静かな彼の声には、思わず眼を見開いていた。
 心残り、と彼は言ったのだ。
 自分達はいつ死んでもいいようにそんなものは心に残さないようにしている。それは、誰かから命令された事でも教えられたことでもない。恐らく、どこかに僅かに残っていた精神面の防衛反応がそうさせたのだろう。
 克己にとって彼は尊敬と羨望の対象だった。誰よりも非情で誰よりも冷酷、そして誰よりも上の人間に対して忠実だった。その才覚に自分は足元にも及ばない。だからこそ、彼の後ろに立つことを選んだのだ。いや、幼い頃から彼の背中だけを見ていたから、その場にいて当然と刷り込まれていただけかも知れない。それでも、甘んじてその立場を受け入れていたのは、彼の才能と品格を誰よりも買っていたからこそ。
 だが、彼は全てを諦めたように「心残り」という単語を口にした。ある意味、自分達にとっては禁句であるその言葉を。
「頼みたい事がある。俺は、これからどうなるか解からないから。お前にしか、頼めない。俺の弟であるお前にしか」
 頼む、克己。
 彼はもう一度懇願し、俯いた。それに合わせるように白い花の花弁がテーブルの上にはらりと落ちる。まるで、残り少ない彼の命を暗示しているかのようで。
「……話だけは、聞いても良い」
 それは最初で最後の彼に対する憐れみだった。

 自然と眼が開いた。暗闇が広がる視界に、まだ目覚める時間でない事を克己は悟る。一瞬、ここがどこなのか解からなかったが、瞬時に寝付く前までの記憶を取り戻し、先ほどまでのは夢だったのだと知った。
 珍しい夢だった。
 身を起こし、ふと首を横へと動かすと、静かな寝息を立てているルームメイトの姿が目に入る。こちらを向いている顔は半分白い湿布で埋められていて痛々しい。まぁ、自分が叩いたのだけれど。
 音を立てずにベッドから降り、その顔を覗きこむと僅かに眉が寄せられている。恐らく、何か悪夢でも見ているのだ。自分と同じく。
 いや、自分のあの夢を悪夢と呼ぶのは翔に対して失礼かも知れない。彼の悪夢は、本当に悪夢だ。
「……俺は、お前の」
 小さく呟いた言葉は闇に溶けて消えていく。これを告げれば、翔と自分の関係がまた少し変わると同時、自分も覚悟をしなければいけない。
 だが、まだ自分の心は迷いを持っていた。それは単純な困惑だったり、変化への恐怖、自尊心の関係等々が集まった迷いだ。そう簡単に払拭できるものでもない。
 治ったはずの古傷が軽い痛みを訴え、克己は額を押さえていた。
「俺に、どうしろっていうんだ……」
 



「ふーん、それ、甲賀さんに叩かれたんだ〜〜」
 次の日、学校では何故か嬉しそうな本上は何かあるたびに翔の顔を眺めていた。
 けれど流石に昼食を食べている時に見つめられるのは恥ずかしい。
「あ、あのさ、本上……」
「何?」
 しかも気持ち悪いほど上機嫌な本上に。
 くりっとした目を向けられて翔はため息と共に昼ご飯のパスタを飲み込んだ。
「何でかなぁ。いつもは見ると凄くムカつく顔なのに今日は見ると凄くスカッとするよ」
 ふふふと彼は笑いながらも翔の顔から目を離さず、その熱烈な視線を向けていた。
 そんなに自分が克己に叩かれたのが嬉しいのか。
 怒る前に呆れてしまう。
 もう勝手にして下さいと頭を下げたい気分だ。
「とっととどこか行ってくれませんか?こっちはかなり不愉快なので」
 翔の隣にいた遠也は不機嫌オーラを放ちながら本上を睨む。
 何かあったらすぐにテーブルをひっくり返しそうな勢いだった。
 遠也の冷たい台詞に本上は眉を寄せつつもすぐににっこりと笑う。
「僕は君の顔の方が見ていて不愉快だよ、佐木」
 本上も負けていない。
「……だったら見ないでくれますか?減るので」
「減るって何が?身長?」
 本上は遠也の怒りを煽り、楽しんでいるようだ。
 天才と噂される遠也が誰かの口げんかに本気になるわけがない。
「いいえ。脳細胞が減りそうなんですよ。バカが伝染るっていうでしょう?」
 本気にはならないが相手を叩きのめす手札はきちんと確保している。
 バカ、と言われプライドを傷つけられた本上は今まで頬杖を付いていたのを止めて背筋を伸ばす。彼の成績は、遠也とは天と地の差だ。それは人の事は言えないから遠也のその一言には翔も少しぐさっときた。
 遠也と喧嘩をするなら肉弾戦に限る。口喧嘩は勝てる見込みがゼロだろうから。
 因みに、翔も経験済みだが美形な遠也相手に肉弾戦に持ち込む勇気はなかった。
「とーや、言い過ぎ」
 それをたしなめたのは大志だった。
 彼は基本的に万人に優しい男だ。ただし
「本当のこと本人に言っちゃ可哀想だろ?」
 天然で正直者の悪い面が相手を叩き潰している。
 しかも本人に悪意が無いから突っ込みようが無い。
 かくして天才と天然のダブル攻撃にかなりのダメージをくらった本上は、気がついたら姿を消していた。
 ちょこっとだけ、彼に同情する。
「そういやさ、篠田と矢吹と甲賀は?」
 大志がココに居ない仲間の名前を全部口にする。
 昼になった途端姿を消した面々だ。
「わかんねー。何かあったのかな?」
 放課後一応いずるとは弓道をやらせてもらうという約束はしているのだけれど。
 そういえば、と思い出したが今日は克己とあまり言葉をかわしていないような気がする。克己は元々あまりベラベラ喋る方ではないが、今日は朝交わした言葉は「おはよう」だけだったような。
 何か、あったんだろうか。
 気のせいかもしれないけれど、少し気になった。






Next




top