「男は初めて?」
「どうでも、いいだろ」
先にベッドに座った男がどうでも良いことを聞いてくるから素っ気無く答えた。
自分で望んだ展開なのに、何故か体が細かく震える。
それを相手に気付かれないように必死だった。
実際のところは、初めてではない。多分相手も気が付いているのだろう。これから何をやられるのか知らずにあんな行動に出る事が出来るわけがない。
「電気は、全部消してくれないか」
体の傷を見られたら相手が心変わりするかもしれない。
翔の願いを相手は快く聞き入れ、部屋が真っ暗になる。嗅覚が過敏になり甘い香りが鼻を突く。
そういえば、あの男を相手にするときも暗闇だったと思い出す。
だから、相手の顔をよく覚えていない。記憶の片隅にも残っていない。
「来いよ」
暗闇から伸びてきた手が腕を掴んできた。
びくりと思わず体を揺らすと鼻で笑うような音が聞こえてくる。
「初めて、ってわけ?」
余計な台詞にもう好きに考えてくれ、と投げやりなことを思い、目を閉じた。
彼女の為。
そう思えば自分の選択が今も昔も正当化された。
それでも、怖いと思うのは昔も今も変わらない。
直接肌に触れてくる熱い手の感触が気持ち悪い。
悲鳴を上げそうになるのを必死に唇を噛み締めた。
じんわりと口の中に血の味が広がる。さっき噛んだところをまた噛んでしまった所為か、いつもより痛みが倍に感じられた。
クローンなの、と訴える彼女の声が耳にまだ残っている。
彼女にとっては、切り札だった言葉は翔にとって大きな理由で。
クローンだからだ。
死んでしまった姉のクローンだから。馬鹿みたいかもしれないけれど、こうすれば、死んでしまった彼女に償えるのでは無いかと。
こんな償い方しか出来ない自分も自分だ。
自嘲に口元を歪めた、そんな時
「せぇのッ!」
そんな掛け声が遠くから聞こえてきた。
何かあったのだろうか、と思ってすぐだった。盛大な音を立ててこの部屋のドアが吹っ飛び、直線上にある窓に突っ込んで行ったのは。
風が入り、レースのカーテンがふわりと揺れる。
「え……?」
「なんだ!?」
真っ暗だった部屋に光が割り込んだ。
呆然とする二人の耳に入ってきた声は
「今晩は〜〜」
「ドア吹っ飛んだぞ……」
「まぁ、俺とお前の力だからなぁ……それに老朽化してそうだし」
翔にはかなり聞き覚えのある二つの声で。
「誰だ!」
自分の上に覆いかぶさったまま男が叫ぶ。
事態が急変したのだから、早く上からどいて欲しい。
そう思って咄嗟に男の体を押すが、びくともしない。
こんな状態を見られたくない人が来たのに。
「何、強いて言えば通りすがりの良いオトコ?」
「篠田正紀と甲賀克己だ」
「なにあっさり答えてんだよ!甲賀!!」
私服だったら階級がわからないからお咎め無しに出来るかと思ったのに、と正紀はがなりたてるが、二人とも容姿だけでも充分目立つ存在なので今更身分を隠そうにも無理だった。
「し、のだ……かつみ……」
翔は二人の姿に茫然とするしかない。
どうしてここに。
自分が最後に話していたのは遠也のはずだった。
それに彼にだって「用事」とだけ言ってきたはず。
なのにどうして自分の居場所をこんなに早く突き止めたのだろうか。
「おお、ギリギリセーフってやつ?よかったな、甲賀」
まだ翔が衣服を身に着けている状態を見て正紀は隣の克己の肩を叩く。
「……まったくだ」
話を振られた彼はため息を吐いて同意する。そのどこか呆れたような声に何故か胸が痛んだ。
「んじゃ、センパイ。日向からどいてくれます?」
勤めて笑顔の正紀に男は眉を寄せた。
階級が下の人間が上の相手にする態度ではない。
「お前ら、誰に向かって物を言っている?俺はお前たちより階級が上なんだぞ」
「はい。だから敬語で、こんなに丁寧にお願いしているんじゃないですか」
正紀はにこやかだが後ろに立つ克己の不機嫌な顔は頼んでいる顔じゃない。
「断る」
男の返事に正紀の表情が一変した。
殺気まで感じる、人を簡単に殺せそうな目に部屋の中の空気まで変わった。
「いいね、久し振りの喧嘩か」
「……おい、篠田」
克己の諌める声にも彼は耳を貸さず、ベッドに歩み寄った。
「センパイ……確か、奨学生ですよね?家がすっごい金持ちで、それでその階級がもらえてる。ってことは、センパイはそんなに喧嘩慣れもしてないってことですよね?」
「!?お前なんで俺の階級を」
「俺も後ろのヤツも結構喧嘩慣れしてるんですよ。でなくとも、2対1じゃセンパイのが不利ですし」
「それは……」
男の動揺を素早く読み取る技は、不良時代に勝ち得たものだ。そこを突けば相手が大人しくなることも経験済み。もう二度と脳みそ筋肉だなんて言わせない。
「つぅか、あれぇ?これ、何ですかー?」
ベッドサイドにおいてあった白い小さな袋を取り上げ、正紀は片眉を上げる。それに、男はぎくりと肩を揺らした。
「もしかして、コレ、生徒会で承認されてない薬ってヤツですか?媚薬の類でしょう、コレ」
「返せ!わかった、どけるから」
さすがにこの薬の事をバラされるのは不味いと思ったのか、彼はあっさり翔の上からどいた。
まぶしい蛍光灯が翔の体を照らし、男は初めて光の下で見た彼の体に顔を歪める。
その表情を目の当たりにした翔は反射的に服を整えるが後の祭り。
「綺麗なのは顔だけか」
悔し紛れに男が吐き捨てた言葉に体がさっと冷えるのがわかった。
体の傷のことを言っているのだ。蛍光灯の下、はっきりと確認できる沢山の傷跡。
「うるさ」
翔が叫ぶ前に男の短い呻き声が聞こえた。
何があったのか見ようと顔を上げるが、正紀の長身が邪魔でわからない。
「早く出て行け」
克己の低い声しか聞こえなかった。
「甲賀……アレは痛いだろ……」
さっきは殺すと脅していた男が呆れ顔で克己をたしなめる。
けれど克己はそ知らぬ顔。
「何で、ここに……?」
翔の擦れた声に答えたのは正紀。
「ん?やー、何かあの天才の持ってた紙に書いてあった事に甲賀が」
「……お前の行き先はここしか考えられなかったしな」
不機嫌そうな克己が渋々理由を話す。
遠也の調べたことを知った翔が行くところは橘の居るここしかない、と。
「だから?」
翔は悔しさにベッドのシーツを握り締めていた。
「だからって、何で来るんだ……ほっといてくれればいいのに」
翔の低い怒りを含んだ声に正紀が表情を驚愕に変える。
「日向?お前」
翔が怒るなんて初めて見る。しかも、どちらかといえば感謝されてもいい場面で、だ。
正紀が驚いているのにも構わず、翔は予定が狂った事に悔しげに表情を歪めている。
「これしか俺はあの人にしてやれる事が無いのに。俺はこうしないとあの人に謝れないのに」
「あの人って、橘のことかよ?」
事情が良くわからない正紀は首を捻るばかりだ。だから、克己のほうを振り返ってみれば、彼は今まで見た中で一番険しい表情になっている。
きっと、克己は翔の事情を知っているのだ。だから、普段は無表情に近い顔を歪めている。
「クローンでも何でも、あの人が苦しむのを黙ってみている事は出来ない……あの人が笑ってくれるなら」
そういえば、今彼女の笑顔を思い出そうとしても全然思い出せない。
その事に気がついて、思わず目を強く閉じていた。
何が一番嫌だったか。
彼らが助けに来た事でも知らない男に体を触られた事でもない。
自分で決意したのに、彼らが助けに来てほっとしていた自分だ。
あんなに、彼女の為なら何でもしようと思っていたのに、結局自分は我が身が大切なのか。
「俺なんてどうなったって良いんだ」
自棄や自暴自棄からの台詞でない。
これが彼の信念なのだと。事情は知らないが正紀にもそれだけはわかった。
正紀を見つめる翔の目には強い何かを感じる。
それを否定できる人間はきっと数少ないのだろうと。
固まっている正紀を強く睨んでいると、頬に強い衝撃と乾いた音が聞こえる。
「ふざけるな」
克己の低い声に、叩かれた翔はすぐに相手を睨んだ。
「ふざけてなんかいない」
口を動かすと頬が鈍く痛んだけれど気にかけなかった。
「克己に、何が解かるんだ!親に死ぬほど殴られた事も無いくせに、男にヤられたことも無いくせに、完璧なお前だったら、自分が無力だって思い知らされたことだってないだろ!」
これじゃあ、完璧な八つ当たりじゃないか。
頭の隅のほうは何故か冷静で、今の自分の行動を嘲笑う。
克己の表情は、あまり変化していない。呆れられたか、嫌われたか、どちらかは解からないけれど、どちらかは思われたはず。
克己はイイヤツなのに、何でこんな事を言ってしまっているんだ。
そうは思うけれど、口が止まらない。
「俺は、ずっと見てることしか出来なくて、でもずっと、あの人を助けたくて、それがどんな方法でも構わなかった、なのに……」
彼女は、死んだ。自殺をした。
目に焼きついて離れない、初めに見た宙に浮いて少し横に揺れていた白くて細い足。爪の色まで真っ白だった。
守れなかったんだ、と漠然と思った。
「だから、今回こそって、思っちゃいけないのかよ!」
ぼろっと涙が落ちたのは気付いていた。
それでも、それを拭く気にはならなくて、涙を流す目で強く克己を睨みつける。
とても痛々しい表情だったという事にきっと翔は気がついていない。
「おい、篠田」
「……へっ?」
思わず翔の表情に魅入ってしまっていた正紀は突然克己の低い声に我に返らされ、変な声を出してしまう。
それを気に止めるつもりはなかったらしく、克己は親指で壊したばかりの入り口の方を指した。
つまりは
「出てけ」
という意味だったらしい。
そう言った克己の表情はいつもどおりで、これから彼が何をするのかは見当がつかない。
克己の指示に翔も疑問に思ったらしく、眉を寄せていた。
「え、えーと……」
泣いている翔に、色々不穏な噂を聞く克己。
この取り合わせだと、変な方向に考えてしまうのだが。
「良いから、行け」
教官の命令以上に何だか恐ろしい響きを持った克己の一言には従うしかなかった。
「うー……じゃ、じゃあ……」
気まずい空気から逃れられるのは嬉しいけれど、不安だ。
成るべくこの空気を壊さないようにコソコソと正紀は部屋から出て行った。
「……何で?」
翔が正紀への退去命令を弱々しい声で聞くと、克己は目を細める。
「事情を知らない人間がいたところで、どうにもならないだろうしな」
「まぁ、そりゃそうだけど……」
さっき怒鳴った所為か少し気分が落ち着いてきている。
それでも不快な脱力感が残り、ベッドに座り込んでいた。
「ごめん……克己。ちょっと、色々あって気ぃ立ってた」
一番の原因はきっとあの父親の名前が出てきたことだ。だから、自分でもおかしいと思うほど焦っていた。彼はもう死んでいるというのに。
俯いてごめん、と繰り返す翔の頭に克己が手を置いた。
突然の重みに顔を上げかけたけれど、妙に今の体勢が苛立った心に心地良かったから、止めた。
頭を撫でられるって、結構気分がいいものなんだな。
克己が撫でてくるのを甘んじて受けることにして目を閉じると溜まっていた涙が雫になって零れ落ち、カーペットにシミを作る。
「あの人、俺の姉さんのクローンなんだよね」
「……そうか」
「何でさぁ、クローンになってまで、こんな、こと、酷すぎるよな」
クローンの彼女も好きじゃない相手に抱かれて、諦めて、死んでしまうのだろうか。
何かの本で、遺伝子で運命も決められているという論があったけれど、アレは本当だったのか。読んだ時は有り得ないと一笑したのに。
「また、俺は何も出来ないのかな」
しつこいほど溢れてくる涙を拭きながら、まさに泣き言を言っていた。
「俺、ほんとに……なんで、こんなに力無くて……俺」
悔しい。
また見ていることしか出来ない自分が、力の無い自分が悔しいし、嫌いだ。
あの頃と全然変わっていない。
長袖のシャツが腕だけ涙で変色してきて、腕に張り付いて気持ち悪い。
「俺だって、無力さにうんざりする時だってある」
ぐしゃぐしゃっと少し乱暴に頭を撫でられたのと克己の台詞が意外なものだったのとあって、思わず顔を上げた。
「嘘だ……だって、何でも出来るじゃん……料理以外」
「お前、ちょっとソレしつこいぞ」
最後に付け足された言葉に克己は気に入らなかったらしく、涙で濡れた翔の頬をぐにぃと伸ばした。
「いたぃ……」
叩かれた後につねられたから、克己としては力をまったく入れていなかったのだろうけれどそれなりに痛かった。でも、克己は自業自得と言いたげな視線を向けてくる。
「今度、俺が腕を振るって夕食作ってやろうか?翔君?」
「それはいいけど……死ぬなよ?」
翔の指摘にそれもそうだと思ったのか、克己は諦めたようにため息を吐いた。
「ま、後日考えるとして」
それでも考えるのか。
友として彼を止めるべきかどうか悩みながら翔は痛む両頬をさすっていた。
出来ることなら、諦めて欲しいけど。
「克己は、それ以外は何でも出来るんだから無力とかじゃ無いと…・…」
「友人が悩んでいるのを助けられないのに、無力じゃないと?」
「……え?」
翔は両手を振って否定しようとしていた動きを思わず止めてしまっていた。
克己は疲れたようにため息を吐きながら、また翔の頭を少し乱暴にかき混ぜる。
「お前が、どういう環境で育ってきたのかは、理解しているつもりだ」
「うん……」
「でも、自分がどうなっても良いなんて言うな。お前自身のこと大事に思っている人間だって居るんだ。そういう相手に、失礼だとは思わないか?」
子供を窘める大人のような克己の口調になんだか頬が熱くなってきた。
「な、それって、克己―……も俺のことそれなりに大事に思ってるってことか、な?」
「別に、俺だけじゃない。佐木や篠田達……お前、友達は多い方だろ?」
「多いけど……」
多いし、友達として最低限の友情は彼らには持っている。
けれど、何でだろう。
この無愛想なルームメイトに言われると、何だか特別嬉しい気がする。多分、出会った当時はまったく相手にされてなかったからだ。
「……正直な話、俺も不思議だ」
克己も苦笑しながら翔の頭から手を離す。
「ずっと他人なんてどうでも良かった。いつもだったらほっといているが……何だか、お前はほうっておけない」
流石に克己も照れくさかったのか、視線を翔からそらしている。
その様子を見ると、慰める為に言っているわけではなく、本心だろう。
あぁ、もう駄目かもしれない。
そう思った瞬間におさまってきた涙がまたぼろぼろ落ちてきた。
「か、翔?」
「……友情っていいな!!いや、マジで!」
外見に似合わない男らしい仕草で涙を拭いて、いわゆる男泣きだった。
「俺、すっげぇ嬉しい」
泣きながら笑うというのは、初めてかもしれない。
と、いうことは嬉し涙も初めてなのか。色々初体験させてくれた克己には感謝。
「嬉しい……ってなぁ……」
素直に自分の気持ちを伝えてくる翔に克己の方は戸惑いを感じていた。今まで、そんな友人はいなかったからだ。……本上は置いておいて。
「嬉しいなら泣き止め」
「しばらくは無理だな!」
「威張るな」
「だってー……マジ嬉しいんだよ」
自分が笑みを深くした意味を克己はきっと気付いていない。
まさか、誰かに大事なんて言われる日が来るなんて、思いも寄らなかったから。
さっきまで何も出来ない自分が嫌いだと思っていたけれど、誰かに自分の存在を認めてもらってこんなに嬉しいとは。
「ありがと、な」
自分を造った親にはあんなに存在否定されていたのに。
何だか、不思議な気分だけど悪くない。
「日向、……甲賀!!」
克己の名前だけ怒気をはらんだ叫びに顔を上げると、息を切らした遠也が居た。運動はあまり得意ではない彼にとって、食堂からここまでの道のりは相当キツイものだったに違いない。
「あ、とーや……」
「何泣かせているんですか!?」
やっほーと手を振ろうとした翔を目の端でとらえてから、彼は克己を鋭く睨みつけた。
多分、彼は何か誤解をしている気がする。
にしても、遠也と克己では大人と子供の身長差なのに、遠也は怖気づく事なく克己に噛み付いている。それはきっと感心すべきところだろう。
「安易なことを言った事は謝ります。軽薄でした」
彼はぐしゃっと自分のくせッ毛を撫でて、翔に向かってぺこりと頭を下げる。
姉がクローンだという報告をしたことと、適当な推測を口にした事に対しての謝罪だった。
「え、や、遠也は悪くないよ。俺が調べてって言ったんだし」
「いえ。貴方がどう行動するかは予測出来たことでした。なのに……」
彼は悔しげに眉を寄せるが、こちらとしては行動が全て読まれているということに多少なりともショックを受けるのだが。
そんなに、単純なのだろうか自分は。
「と言うわけで日向、今後はこの件に関して動く時は必ず甲賀か俺に一言言う事にしてください」
「え」
口元を引きつらせた翔の表情を遠也は見咎め、更に一押しする。
「この条件が呑めないというのなら、俺は今後一切貴方に何も協力しませんよ?」
それは困る。
遠也の頭脳と技術には翔も今まで結構頼ってきた。今回の事は科学科にツテがある遠也の協力が必要不可欠になるだろう。まだまだ、謎は多いわけだから遠也に何か調べて欲しいと頼むことも多いだろうし。
返事に戸惑っていると、克己が肩を叩いてきた。
「自分が無力だと思うなら、他から力を借りるのも手なんじゃないか?」
彼の言葉に同意するように遠也も肩を竦めて翔を見つめる。
……そうか。
あの時は、誰も助けてくれる人が居なかったけれど、今自分にはそういう相手が居るのだ。
「迷惑とかじゃ、ない?」
それでも甘えすぎるのはどうか、と恐る恐る二人に問うと遠也はちょっと驚いたように目を大きくしていた。
「迷惑だなんて思いませんよ。俺にとって貴方は大切な友人ですから」
初めて会ってから4年目になるというのに、翔がまだ自分に対して気を遣っていたことに遠也は多少なりとも驚きを感じていた。
「気を遣わなくていいんですよ、別に」
眼鏡の奥の目が優しげに細められ、翔はほっと息をついた。
「とぉや……」
「奇遇だな、佐木。俺も同意見だ」
克己は翔の背を優しく叩きながら、普段は馬が合わない相手と視線を交える。
「それは珍しいですね、甲賀……じゃあ何で泣かせているんです?」
彼と視線が合って、遠也はそれを鼻で笑った。
「泣かせるつもりは無かった」
「よく見れば日向の頬が紅いじゃないですか。貴方が殴ったんですか?」
「……叩くつもりも無かったが」
「あ、あの、泣いたのも叩かれたのも俺の所為で……」
二人の間で口論が始まりそうになったのを止めようと翔が申し訳なさそうな声で物申したが、二人の睨み合いは終わらない。
「第一、翔がこんな行動に出たのはお前の安易な調査が原因だろう」
「安易?確かな情報ですよ。貴方にも少し説明したでしょう」
「でも、どれが正しい情報かまだ調べていないじゃないか」
「そんなのすぐに調べられるわけが無いでしょう。科学科のセキュリティシステムがどれほどのものか知っていて言っているんですか?」
「だったら調べてから報告すれば良いだろう。大体セキュリティ程度で戸惑っているようじゃ」
「パスワードだって何十もあるのにそれを見つけるのがどれほど大変か」
叫んだり単語に力が入ることはないけれど、二人のやり取りはナイフのような鋭さと切れ味があった。
これが、冷戦というものなのだろうか。
「お、俺……取りあえず二人にも仲良くなって欲しいな……」
翔の呟きは二人の舌戦の中に吸い込まれてしまい、効力はまったく無かった。
でも、まぁいいか。何となくこれが彼らのコミュニケーションだと思えてきたから。
「喧嘩するほど仲が良いって言うし……」
自分に言い聞かせるように呟いた台詞は二人の耳に届いていたらしく、その瞬間二人の喧嘩は終わった。
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