初めてだ。ヨシワラに来るのは。
 一見普通の大きめのホテルに見える建物を見上げて心の中で気合を入れた。
 階級か出す金でどんな相手になるか決まるらしく、その表を見た限りでは自分は橘に会える身分でないことを知る。それと、そんな大金も持ち合わせていなかった。
 に、しても部屋のみのレンタル時間も書いてあるのは何故だろう。学校内で恋人を作ったらご利用してくださいということなのだろうけれど、翔にはそこまで理解する時間はなかった。
 受付の老婆は怪訝な表情でどこか不安げな表情の翔を眺めていた。当然だ。ココに来る人間がそんな表情で受付をうろうろしているのを見たのは初めてなのだから。
「あの、橘さんに会いたいんですけど……」
 意を決して言うと、彼女は驚いたように声を上げる。
「へぇ!橘!で、アンタ階級は?IDカードをお見せ」
 かろうじて持っていたIDカードを胸ポケットから取り出して差し出すと、鼻で笑われる。
「最下級じゃないか。無理無理。顔が似ているだけじゃあの子には会えないよ。なんなら鏡を見て右手でよろしくやったらどうだい?」
「は?右手……?」
 彼女の言っている意味がよくわからず首を傾げていると
「あっれー、カケルじゃん。なになに?本当に俺に会いに来てくれた訳??」
 どこかで聞き覚えのある陽気な声が後ろから飛びついてくる。
「葵!」
 叱るような老婆の言葉に、屋上で出会った人間だ知る。
「なにやっているんだい、次の客が待っているんだよ。そんな下級を相手にしないでさっさと行きな」
「えー、やだ。俺、カケルと約束してたんだもんな。サァビスするって。ほら、カケル行こ!」
 葵に腕を引かれ、翔はあっさりヨシワラ内に進入成功。
 後ろで老婆の怒声が聞こえてくるが、葵は平気そうだ。
 人工的な明かりの下で見る葵は少年の面影を残す美形だった。そういえば、自分の周りには容姿が整いすぎている人間が多い。まぁ、葵の場合は作り物だからしょうがないのだろうけど。
 少し長めのさらりとした色素の薄い髪が揺れるのをぼんやりみていたら、綺麗な半円を描いてその髪が流れた。彼が振り返ったのだ。
「なぁなぁ、カケルはベッドと布団、どっちが好き?」
 どこかウキウキした様子で葵が聞いてくる。その質問は何か意味があるのだろうか。
「布団かな……それより、えーと、葵くん?」
「葵でいいよ、俺、タチでいいよな!」
「太刀?それより、橘さん、どこに居る?」
 その問いに葵は足を止めた。
「橘姐……?」
「そう、俺あの人に会いたい」
「なーんだ……俺に会いに来てくれた訳じゃないんだー」
 がっくりと葵は肩を落として翔から手を離す。
 何でそこまで気を落とすのかよくわからないが、翔は気にせず質問を繰り返す。
「橘さんは?」
「今客取ってるよ。245号室」
「サンキュ!」
 情報を貰った瞬間に行動。かなり行動力は持っている。
 すぐ彼が言った部屋番号の方の廊下に足を踏み出した。
 が、その素早さに驚いたのは葵だ。
「って、客取ってるんだって!!ああもう、俺カケルに話があるのに!!」
 葵の叫びは翔の耳には届かなかった。昔陸上をやっていた足は伊達じゃない。それに、頭は彼女のことでいっぱいだったのもある。
 紅い絨毯が敷かれている廊下は走っても足音はたたず、それが幸いだった。
 245という数字が書いてあるドアはすぐに見つかる。
 一見ふつうのビジネスホテルのような造り。まぁ、ベッドさえあれば事足りることをするための施設なのだからそれで充分なのだろう。
 最初、恐る恐るノックをしたけれどなんの返答も無いので段々殴るように壁を叩いていた。
「なぁに?」
 疲れたような声と共にドアが開き、裸にバスローブ一枚だけ羽織った目的の人物が現れた。
 彼女は翔の姿に目を見開く。翔もまさか彼女のそんな姿を見ることになるとは思わず一瞬赤面してしまう。
 けれど彼女はすぐに何しに来た、というような目で見てきた。だから慌てて用件を口にした。
「話が、あるんです」
 その一言に彼女はため息をついた。
 まさか、こんな時間にこんなところまで翔が来るとは思わなかった。
「……今、客がいるの。またね」
 そっけなく彼女がドアを閉めようとするのを慌てて止める。
「待って!貴方は俺の姉さんのクローンなんだ!」
 翔が叫んだ言葉に彼女の力が一瞬弛み、そこを狙って一気にドアを開け放つ。
 淡いオレンジ色のライトに照らされている部屋の奥にあるベッドには誰かが寝転んでいるようだった。
 先程まで行われていたであろう行為が容易に想像でき、眉を寄せてしまう。
「だから、だから俺……」
「お帰り下さい」
 大体の事を察した橘は冷たく言う。
 姉と同じ声での拒否に翔は縋るように彼女を見つめた。
「嫌だ……!」
「どうして?確かに私は貴方の姉のクローンかもしれない。でも、本人じゃないのよ?」
「そんな事はわかってる。でも俺は嫌なんだ!姉さんが、あんなに酷い目にあわされたのに、またクローンになってまで、好きでもない相手とそんな事をするなんて!」
「だからって、貴方に何が出来るの?」
 激情する翔をどうにか落ち着かせようと橘の方は必死だった。
 ここで何か騒ぎを起こせば、自分も彼もいい結果にはならない。
 今、かなり取り乱している翔はその事に気が付いていないのだろう。
「私が造られたのはコレの為なのよ」
 これ、と彼女は少し体をずらして翔に後ろにある情景を見せた。ベッドに座ってこちらの様子を眺めていた男が、翔に向かって馴れ馴れしい仕草で手を振ってくる。
 それに苛立ちを感じた時、彼女は再び自分の体でそれを隠した。
 翔の前に立ちはだかる彼女の、何かを悟っている澄んだ目は姉の目そのものだった。
 いつも綺麗で、真っ白な人。
 そんなイメージをずっと持っていた。
 彼女は見事そんな姉をコピーしている。本当に彼女が目の前にいるようだった。
「仕方ないの」
 仕方ない。
 それは、姉の口癖でもあった。
 何かを悟り、諦めて、日々父の暴力に屈していた姉の。
「……違う、俺の所為だ」
 本当は、仕方なくなんかない。彼女がこんな目に遭うのは自分の所為なのだ。
 それを、どうやって彼女に伝えれば良いのかわからない。
「アレ。お前もしかしてひゅうがかけるってヤツ?」
 その時、ベッドに座ってずっとこちらを眺めていた男が何かに気がついてこちらにやって来た。
服を着ていないからどの階級の人間かわからないが、橘を指名できるという事はそれなりの地位を持つはずだ。
「へぇ、本当に橘にそっくりだな」
 翔を面白そうにじろじろ見る彼に橘はしまった、と思う。
「ベッドに戻っていてください。すぐに帰ってもらいますから」
「ん?そうか?」
 なにやら残念そうにして男は戻りかけるが、まだ翔を見つめている。
 その舐めるような視線に覚えのある翔は拳を握った。気持ちが悪い。
 男の興味が翔に向きつつあるのを察した橘はため息を吐く。
「とにかく、これが私の仕事。私の仕事を辞めさせたいのなら、身請けして?中古のクローンだったら200万くらいでどうにかなるわ」
「200万……?そんな金」
 一応軍に属しているのだから、一ヶ月に給料は入る。でもその量はスズメの涙。ここに3年間いても200万なんて貯まりっこない。入る分、出て行くものもある。
 ぐっと言葉につまる翔にほっとして彼女はドアを閉めようとする。
 けれど、翔の手から力は抜けない。
「……それなら、俺が代わりになる」
 信じられない一言に、手の力を抜いてしまったのは橘の方だった。
 相変わらず解決策はこれしか考え付かない。自分が成長できていない証拠だ。
 でも、いつも綺麗で真っ白な人を助ける為には、守る為にはこれしかない。
 か細いけれどはっきりした翔の声に橘は顔を蒼白にした。
「な、何言ってるのよ!貴方、男じゃない!」
「男でも出来る。葵だっているじゃないか」
 可愛い顔して一体どこからそんな知識をつけてきているんだ、という橘の嘆きにも翔は気付いていない。
「俺は別に良いけど」
 二人の言い合いを止めたのは、後ろで会話を傍聴していた男だった。
 それに橘は目を見開き、翔は安心したように息を吐く。
「なら」
「ちょ……っ!正気!?」
 橘は憔悴しながら部屋に入ろうとする翔の腕を掴む。が
「俺、男だし。女の人より肉体的ダメージ少ないだろ?勿論、精神的にも」
 翔は笑ってその腕を外させた。その台詞は彼女ではなく自分に言い聞かせていたいつもの言葉。
「ごめんな、橘。君ともう一回したし、今日はこれまででいいよ」
 男は妙に上機嫌で橘を部屋の外へと追いやる。どうやら噂の人物を見られた事がかなり嬉しいようだ。
「ダメよ!貴方、頭大丈夫!?私はクローンなの!馬鹿みたいなことは止めて!」
 必死に橘は訴えるが、結局部屋の扉は彼女を廊下に出してすぐ閉められてしまった。
 信じられない出来事に呆然としてしまう。
「橘姐?」
 そこに様子を見に来た葵がやってくる。
 何故彼女一人が廊下にへたり込んでいるのか疑問に思い、翔の姿を探していたが
「葵……どうしよう!」
 気丈な彼女が涙を浮かべているのに、何か翔に起こっているのだと知る。
 まさか、この扉の向こうで。
「ちょ……コラ、カケルは俺が先に目ぇつけてたんだぞ!」
「アンタもアンタで馬鹿な事言ってんじゃないわよ!!」
 扉をドンドンと叩く葵の後頭部を思わず橘は引っ叩いていた。
「何を騒いでいる。二人共次の客が来ているんだぞ」
 そこに責任者が偶然通りかかってしまい、二人は彼に強制連行されてしまった。
「でも、あの……!」
 翔の事を言おうとした葵の目に、廊下の向こうからきょろきょろと誰かを探している人物の姿を見つけ、心の底からほっとした。





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