「ひゅーが、日向!」
 正紀の声にはっと顔を上げると目の前に新聞らしきものを突きつけられる。
 さっきから、少し前に噛んでしまった唇が痛くてあまり食が進んでいなかった。とうとう諦めて、夕食を少し残してぼんやり彼女のことを考えていた時だったから正直かなり驚いた。
「え?何?」
 その翔の少し慌てた様子にまったく話を聞いていなかったことはバレバレで、正紀がため息をつく。
「情報部が作っている校内新聞だ。例の殺人の事、載ってるぞ」
 あんまり興味の無い事だったけれど、気晴らしのつもりで新聞を受け取った。
 普通に暮らしていた時もあまり新聞は見ないほうだったから、活字の洪水に頭が一瞬ぐらりと揺れる。
「じゃー、後で見るよ……」
 空いている隣の椅子の上に置こうとすると、何故か正紀といずるが目を見開いた。
「はぁ!?何お前噂聞いてねぇの?」
「ダメだよ、日向。きちんと自己防衛しないと」
 口々に言われても、なんの事だかさっぱりわからない。
 戸惑う翔の正面に座っている克己は呆れたような目を二人に向けているだけで、何の説明もしてくれない。
 賑やかな食堂ではあちこちでその事件の話らしい会話が。しかたなくそちらに耳を傾ける。と
「暴行殺人なんてタチ悪いよな」
 周りから聞こえてくる台詞に二人が言いたい事を大体理解した。根も葉もない噂だろうに。新聞にそう書かれているかどうかは知らないが、こうした噂を信じるのはあまり良くないということは翔自身身に染みていた。自分の関わりのあった事件でも、こうした何の根拠もない噂を耳にしたことがあるからだ。
「ああ、つまり、俺も狙われる可能性があるから気をつけろって?」
「その通り!」
「ふーん、余計なお世話」
 純粋に心配してくれているのかもしれないけれど、女顔で必要以上にかまわれるのは好きじゃない。
 それに
「日向が狙われるなら、僕も気をつけないとね」
 自分以上に可愛い子がいるからそんなに恐れる事はないだろう、と本上を見て思う。
「うわ、お前なんでココに……」
 正紀がうんざりした様子で突然現れた本上を迎えた。
「今、北の夕食タイムなんだけど」
 いずるは最もな台詞で本上を責める。
 しかし二人に歓迎されなくてもいい本上は強い。
「そこに甲賀さんがいるのなら、僕はいつだって来るよ」
 克己を熱い目で見つめながらの嫌な宣言。
 そんな熱烈な視線を受けた克己は思わず動きを止めていた。
「……何やっているんですか」
 大志と一緒に姿を見せた遠也の手にはクリップでまとめられた紙が握られている。食堂に物を持ってくるなんて珍しい。
 大志は回し読みされていた新聞を覗き込み何の話題だったのか察したらしい。
「ああ、例の殺人事件の話?上がどうにかすんだろ?」
 大志のあっさりした一言に正紀は肩を竦めた。
「まぁ、そういうことだ。本上、自分の身は自分で守っとけ」
 しっしっと犬を追い払うような正紀の手に本上は眉を寄せた。
「のーみそ筋肉の不良には関係ないだろ」
 ぎゃいぎゃい始まった口喧嘩にかまわず、というよりも殆ど無視して遠也は翔を手招きした。
「日向、ちょっと」
 夕飯のデザートであるプリンを食べていた翔は首をかしげながらもスプーンを置いた。
 うるさい場所から離れて蛍光灯が一つしかない廊下に移動する。
 そこで渡されたのは遠也が持っていた紙。
「速いな、ありがと」
 遠也に調べて欲しいと頼んだのは、橘の出生だ。
 彼女がどうせクローンかアンドロイドだということは容易に予想できたから。遠也なら正確な情報を手に入れてくれるだろうと思った。
 彼女の顔写真と製造番号を確認して、確かな情報だということを確認する。
「製造日時は2年前の5月。血液型はRH+A、性別は女」
 専門的な書き方で、翔が見方に困っていると遠也が説明してくれた。
「成長促進剤投与回数2回。2年で外見年齢20歳にしたようです」
「そんな事が出来るのか……」
 成長促進剤なんて、植物じゃあるまいし。
 思わず眉を寄せてしまう。無理矢理成長させられるその骨の軋みがどれ程の苦痛を彼女達に与えていたのか、自分には想像出来ない。
「……普通の人間に使ったら犯罪ですがね」
 遠也は目を伏せてため息を吐く。それには多少なりとも人造人間達への同情が込められている。
「で、クローンとアンドロイド、どっちだった?」
 翔が結論を急ぐと遠也も気にせず答えてくれる。
「クローンです」
 やっぱり、と翔は低く呟いた。
 それでも、きっと祖母かそこら辺の自分が知らない世代の人間。翔が生まれてすぐに父方の両親も母方の両親も死んだと聞いているから懐かしむような思い出はないけれど。
 その答えを期待して遠也の次の言葉を待った。
 遠也は真摯な視線を痛く感じながら、自分でも確かめるつもりで翔のもつ書類に目を落とす。
 そしてそこに書かれている文字をそのまま読み上げた。
「有馬梨紅、死亡年齢18歳」
 なるべく、冷静な声で。
え?と翔が息を呑むのには気がついていたが、真実を曲げることは出来ない。
 真実だと彼に伝えたい一心で、無意識のうちに彼の目をじっと見つめていた。
「それが、彼女の元の……オリジナルの人間の名前です」
 遠也の静かな声に蛍光灯が鳴く音が被る。
 聞き間違いかと思い、翔は口元を無理矢理笑みの形に歪めた。
「ごめん、有馬……なんだって?」
 よく聞こえなかった、と遠也には言い訳をして自分には聞き間違いだと言い聞かせる。多分、蛍光灯の鈍い音が彼の言葉を歪めて自分の耳に届かせたのだろうと考える。それが微かすぎる雑音だったことは翔にもわかっていたが。
 声が情けない程震えていた。
 有馬、までは覚悟していた名前だった。
 けれど
「ありまりく」
 遠也は冷静に同じ名前を繰り返す。
 無情な事実に、思わず手の中の紙を強く握っていた。心臓が重く鳴り響く。
 ぐしゃっという音と少し紙が破れた感触がしたけれど、きっとこの情報は間違っているのだから、それくらい構わない。
「嘘だ、俺だって知ってる。その人間が死んで50年経たないと、その人のクローンは作れない」
 わずかなの知識だけれど、確信を持って言える。
 遠也には悪いが、調べ間違いだ。
 目でそう訴えるが、遠也の黒い目は動揺も見せない。それどころか、絶対の自信を持っているのかじっと自分を見つめている。
「……法律上は、そうです」
 自分のカタカタ震える手は力が入り過ぎている所為なのか、それとも。
 ……そんな馬鹿な。
 嘘だ、と呟くと遠也の目が不安げに揺れる。
「だって、有馬梨紅、は姉さんの名前だ」
 縋るように言っても、遠也は「間違い」とは言ってくれない。彼はその事を知っていたのか、何故かすまなそうに目を伏せる。
 クローンに関する規制は意外と緩い。
 その事を知っている遠也は驚きもしなかった。
 けれど、自分の知らない肉親だと思っていた翔にとってはかなりの衝撃だった。
「姉さんが死んだのは3年前なんだ!」
「そう、ですね」
 矢張り冷静な遠也の態度に、突き放されたような気分になる。真実なのだと思うしかなかった。
「何で?何で、一体誰が、こんな事!!」
 パニックで手の力が弛み、ばさりと落ちた紙が廊下に広がる。
 落とした事に気がついて視線を下げると、そこに覚えのある名前があった。けれど、この名前が何故ここに記入されているのか謎だ。
 それに慌ててしゃがみこみ、床に手をついてその名を凝視する。
 この漢字には見覚えがある。でもその意味がわからない。
「製造者は、」
 紙を拾おうと震える手を伸ばすと遠也が口を開いた。
「有馬蒼一郎」
 彼の言った名前は、今自分が凝視している文字。
 思わず手を止めて拳を握る。
 それこそ、嘘だ。
 縋るように顔を上げても遠也は嘘だとも冗談だとも言わず、ただ自分を真っ直ぐ見つめている。
「貴方の、父親の名前です」
 その一瞬、息を吸うのも忘れてしまっていた。
 嘘だ、と心の中で呟いたけれど、口に出さないと遠也には伝わらない。
 計算が、合わない。
 姉が死んだのは3年前。
 クローンが作られたのは2年前。
 父親は、3年間意識が無かったはず。
 いや、無かったのだ。病院で人工呼吸器をつけて、いろいろなチューブをつけて、ようやく息をしていた父親の姿を自分はこの目で見ている。
「そんなこと、あるわけない」
 声が震えそうになるのをどうにか押さえたのに、それでも気弱な否定になってしまう。
「日向……」
「アイツ、3年間、寝てたんだぞ?」
 確かに、父は政府の下で働いていた科学者だったと聞いている。
 けれど、ベッドの上で昏睡状態で、何が出来るというのだ。意識不明で3年間、だった。そんな状態でクローンなんて作成出来るわけがない。
「なのに、クローンなんて、作れるはず」
「製造者の名前はいくらでも偽造出来ます」
 遠也が精一杯のフォローをくれるけれど、それでも腑に落ちない事は多い。
「それに、こんな仮説はあまり言いたくないんですが、クローンの製造年月日も偽造出来るので……もしかしたら、昏睡状態になる前に作ったという可能性も」
 言いにくそうに遠也はもう一つの可能性を教えてくれた。
 それだったら、いくつかの疑問は解消される。けれど、何故わざわざ姉のクローンを作成したのだろう。
 その答えはすぐに見つかり、酷い結論に怒りを通り越して笑みが浮かぶ。
 もし、姉が死んだとしても、クローンで欲求不満を解消出来るようにしていた、ということか。
 その仮説は確信になり、彼の名前を見下して奥歯を噛み締めた。
「もっと早く殺してれば良かった!」
 さっきは、人を殺して平然と生きている自分に嫌悪感を覚えたけれど、今はこんな男の血が自分の中に流れていることに吐き気を感じる。
 矢張り、あの男はロクな人間ではなかった。
「日向……でも、俺は製造月日が偽造されたとは思えないんです」
 俯く翔に遠也は自分の意見を伝える。
 多分、遠也は自分に気を遣ってそんな事を言うのだろう。
 そう解釈した翔はあまり遠也の言葉を重要視しなかった。彼が作ったと考えた方がずっとつじつまがあうから。
「じゃあ、誰がアイツの名前語ってんだよ」
「それはわかりませんが……」
「何だよ、もう……わけわかんねー……」
 頭を抱えると遠也が戸惑いがちに散らばった紙を集め始めた。
 家族で生き残ったのは自分だけ。
 あの男に真相を聞こうにも、もう死んでしまっている。
 彼が死んで、すべてが終わったと思ったのに。
 ……でも、あの橘という女性が本当に姉のクローンなら。
 書類を拾いかけていた手を強く握り、立ち上がる。
「……兎に角、ありがと、遠也。調べてくれて」
 こんな最悪の結果なのに、礼を言われるとは思わなかった遠也は驚いて顔を上げる。
 目が合うと翔はにへらっと笑った。
「俺、用事思い出したからもう行くわ、じゃなっ」
「日向?コレ……」
 調べた結果の紙を残して翔は止める間もなく走って行ってしまう。
「あ、いたいた、遠也」
 そこに大志がやってきて「日向は?」と首を傾げてきた。
「用事、あるらしくて」
「用事?」
 大志ではない声に振り返ると翔を探しに来たらしい克己の姿も。
 ようやく本上から逃げてきたらしく、その台詞はどこか不機嫌で。
 しまった、と心の中で思わず呟いてしまう。
 こちらの様子に構わず彼は遠也の手にあるものを目ざとく見つけ、目を細めた。
「佐木、それは?」






Next




top